第2章 年〜年

神戸製鋼所:灘浜1号高炉による銑鋼一貫と加古川製鉄所の稼働

尼崎製鉄の取り込みから加古川製鉄所への資本投下

1945年〜全員解雇と二社分離による再出発

7万人を解雇し、9,000人で平炉を焚き直す

各工場は1941年から事実上軍の管理下にあり、陸軍か海軍の指定工場として軍需を優先する生産体制を取り、空襲も数次にわたって受けた。終戦の直後には生産活動が全面的に止まった。会社は7万人の従業員を一度全員解雇し、再開に備えて希望者約9,000名を改めて採用し直した。工場数は最盛期に二十三あったが、終戦時の16工場を12工場へ絞り込んで再建に取りかかった。戦時に酷使された設備が残るなか、動かせるものから動かすしかなく、民需転換を早々に決めて1945年11月に平炉を業界で最も早く再開した。同じ月には線材の生産も業界の先頭を切って再開している。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [1]昭和16年から第2次大戦が始まり実質的に軍の管理下に置かれ、各工場は陸軍あるいは海軍の指定工場として軍需優先の生産体制となり、数次の空襲も受けた
    • [2]終戦直後はすべての生産活動が止まった
    • [3]終戦直後に7万人の従業員を全員解雇し、あらためて約9,000名の希望者を再採用して再開に備えた
    • [5]戦後はまず戦時中に酷使した設備の整備と近代化に取り組んだ
    • [6]いち早く民需転換に踏み切り、昭和20年11月に業界のトップを切って平炉を再開
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
    • [4]最盛時には23工場を持ち、終戦時の16工場を12工場に縮小して再建に着手
    • [7]昭和20年11月 業界のトップを切って線材生産を再開
集中排除の指定が解けた後に、自ら二部門を切り出す

占領軍は財閥解体の方針を打ち出し、1947年7月に独占禁止法、12月に過度経済力集中排除法が成立すると、分割再編成の要請を受けた。指定は1948年2月に解除されている。そこで元の姿へ戻さず、自ら合理化計画を立てて、1949年に軽合金伸銅部門を神鋼金属工業、電機部門を神鋼電機として分離独立させた。同年8月の再建整備計画に基づく措置で、1954年には神鋼鋼線鋼索と神鋼ファウドラーも分けている。再出発時の資本金は4億1,827万円だった。神鋼金属は1957年に再び合併して軽合金伸銅事業部へ戻り、神鋼電機は重電の中堅メーカーとして外に残った。分けた部門を呼び戻すかどうかは、その後の需要が決めた。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [8]占領軍の財閥解体方針により昭和22年7月に独占禁止法、12月に過度経済力集中排除法が成立し、神戸製鋼所も分割再編成の要請を受けた
    • [9]昭和23年2月に過度経済力集中排除法の指定を解除された
    • [10]指定解除後も自主的に合理化計画を立て、昭和24年に軽合金伸銅部門を神鋼金属工業、電機部門を神鋼電機として分離独立させた
    • [12]再スタート時の資本金は4億1,827万円であった
    • [13]神鋼金属は昭和32年に再び合併して軽合金伸銅事業部となり、神鋼電機は重電の中堅メーカーとして存続
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
    • [11]昭和24年8月の再建整備計画に基づき神鋼金属・神鋼電機の2社を分離、昭和29年には神鋼鋼線鋼索・神鋼ファウドラーの両社を分離
平炉を重油に替え、払下げ地を機械の本拠にする

戦後の投資は、まず酷使した設備の整備と近代化に向かった。平炉の燃料を石炭から重油へ替え、酸素製鋼法を採用したのがその例である。酸素製鋼法は生産性を上げる効果が大きく、折から起こった朝鮮戦争の需要増に間に合った。用いる酸素分離装置は機械部門が自社で作っており、この分野では国内最高の技術を持っていた。鋼板の自給に向けては1951年6月に長門工場、1953年には旧陸軍大阪造兵廠播磨製造所の一部およそ20万坪の払下げを受けて、機械設備へ大幅な近代化投資を施し高砂工場として発足させた。高砂はその後も数次の合理化投資を重ねて機械事業部の中心工場となる。1955年3月期の売上高は113億円に達した。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [14]戦後はまず戦時中に酷使した設備の整備と近代化に取り組んだ
    • [15]平炉の燃料を石炭から重油へ転換し、酸素製鋼法を採用した
    • [16]酸素製鋼法は生産性向上に非常に効果があり、朝鮮戦争による需要の増大に対処して生産量が急増した
    • [17]酸素分離装置について機械事業部は日本最高の技術を持ち、設備はもとより自社製であった
    • [18]鋼板の自給態勢確立のため昭和26年6月に長門工場、昭和28年に旧陸軍大阪造兵廠播磨製造所の一部約20万坪の払下げを受け、大幅な近代化投資を行って高砂工場として発足
    • [19]高砂工場はその後も数次にわたり巨額の合理化投資を実施し、機械事業部の中心工場となった
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
    • [20]昭和30年3月期の売上高は113億円に達した
参考文献[1]-[20]
  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [1]昭和16年から第2次大戦が始まり実質的に軍の管理下に置かれ、各工場は陸軍あるいは海軍の指定工場として軍需優先の生産体制となり、数次の空襲も受けた
    • [2]終戦直後はすべての生産活動が止まった
    • [3]終戦直後に7万人の従業員を全員解雇し、あらためて約9,000名の希望者を再採用して再開に備えた
    • [5]戦後はまず戦時中に酷使した設備の整備と近代化に取り組んだ
    • [6]いち早く民需転換に踏み切り、昭和20年11月に業界のトップを切って平炉を再開
    • [8]占領軍の財閥解体方針により昭和22年7月に独占禁止法、12月に過度経済力集中排除法が成立し、神戸製鋼所も分割再編成の要請を受けた
    • [9]昭和23年2月に過度経済力集中排除法の指定を解除された
    • [10]指定解除後も自主的に合理化計画を立て、昭和24年に軽合金伸銅部門を神鋼金属工業、電機部門を神鋼電機として分離独立させた
    • [12]再スタート時の資本金は4億1,827万円であった
    • [13]神鋼金属は昭和32年に再び合併して軽合金伸銅事業部となり、神鋼電機は重電の中堅メーカーとして存続
    • [14]戦後はまず戦時中に酷使した設備の整備と近代化に取り組んだ
    • [15]平炉の燃料を石炭から重油へ転換し、酸素製鋼法を採用した
    • [16]酸素製鋼法は生産性向上に非常に効果があり、朝鮮戦争による需要の増大に対処して生産量が急増した
    • [17]酸素分離装置について機械事業部は日本最高の技術を持ち、設備はもとより自社製であった
    • [18]鋼板の自給態勢確立のため昭和26年6月に長門工場、昭和28年に旧陸軍大阪造兵廠播磨製造所の一部約20万坪の払下げを受け、大幅な近代化投資を行って高砂工場として発足
    • [19]高砂工場はその後も数次にわたり巨額の合理化投資を実施し、機械事業部の中心工場となった
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
    • [4]最盛時には23工場を持ち、終戦時の16工場を12工場に縮小して再建に着手
    • [7]昭和20年11月 業界のトップを切って線材生産を再開
    • [11]昭和24年8月の再建整備計画に基づき神鋼金属・神鋼電機の2社を分離、昭和29年には神鋼鋼線鋼索・神鋼ファウドラーの両社を分離
    • [20]昭和30年3月期の売上高は113億円に達した

1953年〜尼崎製鉄と灘浜高炉による銑鉄の内製化

銑鉄の供給元を自社へ取り込む

1953年ごろから鉄鋼業界に設備の増強と近代化の機運が高まると、従来の平炉メーカーを脱して鉄鋼一貫メーカーへ進むことを決めた。第一歩は1954年の尼崎製鉄への経営参加である。転炉法の登場で銑鋼一貫メーカーが有利に立つのに対し、自社の高炉を持たず、銑鉄は尼崎製鉄からの供給に頼っていた。大手六社のうち熱間圧延設備を持たないのも一社だけだった。銑鉄の出どころを他社に握られたままでは、線材と棒鋼の原価を自ら決められない。1965年4月には高炉二基を持つ尼崎製鉄を吸収合併し、供給元そのものを社内へ移した。買収と合併の間に11年を置いたのは、その間に自社の高炉を立ち上げる工程が挟まっていたためである。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [21]昭和28年ごろから鉄鋼業界で設備の増強と近代化の機運が高まり、従来の平炉メーカーを脱却して鉄鋼一貫メーカーへ進むこととなった
    • [22]昭和29年、鉄鋼一貫化の第1ステップとして尼崎製鉄の経営に参加
    • [26]昭和32年に灘浜の埋立造成へ着手し、昭和34年1月に第一高炉が完成した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [23]転炉法の登場で銑鋼一貫メーカーが有利となったのに対し、神戸製鋼所は自社高炉を持たず銑鉄を尼崎製鉄からの供給に頼っていた
    • [24]1964年時点で大手6社のうち熱間圧延設備を持たないのは神戸製鋼所だけであった
  • 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1965年4月 高炉2基を持つ尼崎製鉄を吸収合併
370億円を灘浜へ入れ、線材専門の一貫工場を建設する

灘浜の製鉄所は線材と棒鋼に特化した一貫製鉄所で、面積は60万坪に満たない小ぶりな規模ながら、業界では異色の存在と見られた。その埋立造成が始まったのは1957年で、1959年1月に第一号高炉へ火が入り、第二号炉・転炉・分塊が続いて完成し、のちに第三号高炉も加わった。1962年までの投資総額は370億円に上り、公称能力六百噸の第一号高炉、同じく千噸の第二号高炉と付帯する新鋭設備によって、銑鉄から鋼まで一貫して造る体制が整った。汎用の鋼板を追わず、得意な品種へ高炉を接ぐ形を採ったことになる。1963年の特殊鋼生産は国内第一位で、特殊鋼熱延鋼材は全国の14%以上、機械構造用高炭素鋼は25%以上を占めた。粗鋼では全国の5%を占め、業界第六位だった。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [27]灘浜は面積60万坪足らずの小規模ながら、線材・棒鋼専門の一貫製鉄所として業界で異色ある存在と評価された
    • [28]昭和32年 灘浜の埋め立て造成に着手し、鉄鋼一貫工場の建設に踏み切った
    • [29]昭和34年1月に灘浜の1号炉が完成し、続いて2号炉・転炉・分塊など一連の近代的製鉄所を完成、その後3号炉も完成
  • 湊静男「神戸製鋼所の概況について」(証券アナリストジャーナル 1964年7月号)
    • [30]昭和32年から37年にかけて神戸市灘浜地区に総額370億円を投下し、公称能力600トンの第1号高炉と1,000トンの第2号高炉および付随する新鋭設備を建設して銑鋼一貫メーカーの装備を整えた
    • [31]昭和38年の特殊鋼生産は国内第1位で、特殊鋼熱延鋼材は全国生産高の14%以上、機械構造用高炭素鋼は25%以上を占めた
    • [32]粗鋼ベースでは全国生産高の5%を占め業界第6位であった
播磨の埋立地に鋼板を生産できる製鉄所を建てる

1960年代に日本の粗鋼生産が年5,000万噸を上回り、鉄鋼業が世界規模へ進むなかで、加古川に大型の新鋭製鉄所を建てる決断が下された。1967年からは研究と開発を掲げ、真岡でアルミ圧延工場を建てる計画も動いていた。加古川の埋立は1968年に始まり、1970年8月の一号高炉火入れを経て、転炉・分塊・厚板・ホットストリップミル・コールドストリップミルの一連の設備が相次いで完成した。ペレタイジングプラント、線材の圧延機、連続鋳造設備には自社機械部門の製品が多く採用され、複合経営が強みとして生きた。1973年には二号高炉が稼働し、年産600万噸の体制に届いた。これで線材と棒鋼の会社が、播磨に鋼板を造れる製鉄所を持つことになった。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [33]昭和40年代に入ると日本鉄鋼業の粗鋼生産量は年産5,000万トンを超え、世界の鉄鋼業へと発展した
    • [34]加古川に大型新鋭製鉄所を建設することへ踏み切った
    • [36]昭和43年から埋め立て工事を開始し、昭和45年8月に1号高炉の火入れを行い、転炉・分塊・厚板・ホットストリップミル・コールドストリップミルなど一連の設備を次々に完成
    • [37]加古川製鉄所の建設ではペレタイジングプラント、線材の圧延機、連続鋳造設備など機械事業部の製品が多く使われ、複合経営の利点が生かされた
    • [38]昭和48年には加古川2号高炉も建設し、年産600万トン体制を整えた
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「神戸製鋼所」(経済春秋社, 1968年)
    • [35]昭和42年からR&Dをスローガンに積極体制を敷き、栃木県真岡にアルミニウム圧延工場の建設計画を進めた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [39]線材・棒鋼中心の加工メーカーから、鋼板を含む総合鉄鋼メーカーへ姿を変えた
参考文献[21]-[39]
  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [21]昭和28年ごろから鉄鋼業界で設備の増強と近代化の機運が高まり、従来の平炉メーカーを脱却して鉄鋼一貫メーカーへ進むこととなった
    • [22]昭和29年、鉄鋼一貫化の第1ステップとして尼崎製鉄の経営に参加
    • [26]昭和32年に灘浜の埋立造成へ着手し、昭和34年1月に第一高炉が完成した
    • [27]灘浜は面積60万坪足らずの小規模ながら、線材・棒鋼専門の一貫製鉄所として業界で異色ある存在と評価された
    • [28]昭和32年 灘浜の埋め立て造成に着手し、鉄鋼一貫工場の建設に踏み切った
    • [29]昭和34年1月に灘浜の1号炉が完成し、続いて2号炉・転炉・分塊など一連の近代的製鉄所を完成、その後3号炉も完成
    • [33]昭和40年代に入ると日本鉄鋼業の粗鋼生産量は年産5,000万トンを超え、世界の鉄鋼業へと発展した
    • [34]加古川に大型新鋭製鉄所を建設することへ踏み切った
    • [36]昭和43年から埋め立て工事を開始し、昭和45年8月に1号高炉の火入れを行い、転炉・分塊・厚板・ホットストリップミル・コールドストリップミルなど一連の設備を次々に完成
    • [37]加古川製鉄所の建設ではペレタイジングプラント、線材の圧延機、連続鋳造設備など機械事業部の製品が多く使われ、複合経営の利点が生かされた
    • [38]昭和48年には加古川2号高炉も建設し、年産600万トン体制を整えた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [23]転炉法の登場で銑鋼一貫メーカーが有利となったのに対し、神戸製鋼所は自社高炉を持たず銑鉄を尼崎製鉄からの供給に頼っていた
    • [24]1964年時点で大手6社のうち熱間圧延設備を持たないのは神戸製鋼所だけであった
    • [39]線材・棒鋼中心の加工メーカーから、鋼板を含む総合鉄鋼メーカーへ姿を変えた
  • 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1965年4月 高炉2基を持つ尼崎製鉄を吸収合併
  • 湊静男「神戸製鋼所の概況について」(証券アナリストジャーナル 1964年7月号)
    • [30]昭和32年から37年にかけて神戸市灘浜地区に総額370億円を投下し、公称能力600トンの第1号高炉と1,000トンの第2号高炉および付随する新鋭設備を建設して銑鋼一貫メーカーの装備を整えた
    • [31]昭和38年の特殊鋼生産は国内第1位で、特殊鋼熱延鋼材は全国生産高の14%以上、機械構造用高炭素鋼は25%以上を占めた
    • [32]粗鋼ベースでは全国生産高の5%を占め業界第6位であった
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「神戸製鋼所」(経済春秋社, 1968年)
    • [35]昭和42年からR&Dをスローガンに積極体制を敷き、栃木県真岡にアルミニウム圧延工場の建設計画を進めた

1973年〜加古川三期と石油危機下の複合経営

石油危機で利益が半減する

1973年秋の中東戦争を機にアラブ諸国が石油の禁輸措置を採ると、世界経済は瞬時にして大混乱へ陥った。総需要抑制策と金融引締めが浸透するにつれて不況の色は濃くなり、倒産と失業が続発する一方、物価の上昇も止まらなかった。1973年度の売上高は6,125億円、経常利益は310億円で、製造業のなかでは第十二位にあった。ところが1974年8月期には売上高3,934億円、経常利益134億円まで落ちている。同年9月期の事業別構成は鉄鋼が58.7%、機械が20.7%、軽合金伸銅が14.2%、溶接棒が6.4%。粗鋼生産は1973年度で812万六千噸、業界第五位のシェア6.8%だった。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [40]昭和48年秋の中東戦争を契機にアラブ諸国が石油禁輸措置を採り、世界経済は瞬時にして大混乱に陥った
    • [41]総需要抑制策と金融引締措置の浸透により不況色が濃くなって倒産と失業が続発し、物価上昇も止まらなかった
    • [42]昭和48年度の売上高は6,125億円、経常利益は310億円で、日本の製造業のなかでは第12位であった
    • [43]昭和49年8月期の売上高は3,934億円、経常利益は134億円
    • [44]昭和49年9月期の事業部別売上高は鉄鋼58.7%、機械20.7%、軽合金伸銅14.2%、溶接棒6.4%
    • [45]昭和48年度の粗鋼生産量は812万6,000トンで、鉄鋼業界の生産シェアは6.8%、第5位
需要が縮むなかで三期工事と海外合弁を決める

需要が縮んだその年に、加古川三期工事の推進を決めた。1973年から1978年までの中期計画では、実質経済成長率を年七%と置いたうえ、最終年度の売上規模を1兆7,768億円と目標に据えている。三期工事は三千数百億円の予算で四千五百立方米の第三号高炉を新設し、加古川の粗鋼能力を600万噸から900万噸へ引き上げる計画だった。海外にも出た。ベネズエラ政府とのアルミ製錬合弁は、同国の資源ナショナリズムへの方針転換によって出資比率が同国八割・日本側二割へ変更を余儀なくされ、年産28万噸のうち16万噸を日本側各社が国際価格より安く引き取る形で合意した。カタール政府との条鋼工場は、鉄鋼部門の技術と機械部門のエンジニアリングを組み合わせて建設を受注し、経営委託契約で社長を送っている。

  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [46]昭和53年までの中期計画において加古川3期工事の推進を中心とする合理化投資を行うこととした
    • [47]中期計画(昭和48年から53年)は実質経済成長率を年率7%と想定し、最終年次の売上規模を1兆7,768億円と目標に置いた
    • [48]加古川3期工事は3千数百億円の予算で4,500立方米の第3号高炉を新設し、加古川製鉄所の粗鋼生産能力を600万トンから900万トン体制とする計画
    • [49]ベネズエラ政府とのアルミ製錬合弁は同国の資源ナショナリズムへの方針転換により出資比率が同国80%・日本側20%へ変更され、年産28万トンのうち16万トンを日本側各社が国際価格より安い値段で引き取ることで合意
    • [50]カタール政府との合弁による条鋼工場建設は、鉄鋼事業部のノウハウと機械事業部のエンジニアリングの協働により建設を受注し、経営委託契約により神戸製鋼所が社長を送って経営する
拡大の先頭に立った技術者が、会議の組み替えから入る

1976年9月、鈴木博章社長の死去に伴って杉沢英男氏が社長に就いた。高度成長期に神戸・加古川両製鉄所の建設の先頭に立った技術者で、1975年8月からは体質強化委員会の委員長を務めていた。就任時の従業員は3万5,000人である。就任の時点で、鉄鋼業界はすでに青年期を終えていた『40年代に青年期は終わった。今では壮年というより初老にさしかかっていますよ』。そこで経営の軸は、市場占有率の追求から業界のなかでの独自の存在価値の確立へ移された。高度成長で肥大した大企業の悩みはホワイトカラーの生産性の低さにあるとして、連絡だけの会議を改め、専門の外にいる者どうしが自由に発言して互いの足りない点を補う形へ会議を組み替えた。設備の拡大で伸びる時期が終わった以上、次に削れるのは自らの組織だけだった。

  • 「新社長登場 杉沢英男氏(神戸製鋼所)」(日経ビジネス 1977年3月14日号)
    • [51]昭和51年9月 鈴木博章社長の死去に伴い杉沢英男が社長に就任
    • [52]杉沢英男は昭和13年に京都大学工学部冶金学科を卒業して入社、高度成長期に神戸・加古川両製鉄所建設の先頭に立った技術者で、昭和50年8月から体質強化委員会委員長を務めた
    • [53]社長就任時の従業員は3万5000人であった
    • [54]杉沢英男は市場占有率の追求よりも業界の中で独自の存在価値を見つけ出していくほかはないと分析した
    • [55]高度成長で肥大した大企業の悩みはホワイトカラーの生産性の低さにあるとして、連絡のためだけの会議を改め、門外漢同士が自由に発言して互いの足りない点をカバーし合う形とした
参考文献[40]-[55]
  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
    • [40]昭和48年秋の中東戦争を契機にアラブ諸国が石油禁輸措置を採り、世界経済は瞬時にして大混乱に陥った
    • [41]総需要抑制策と金融引締措置の浸透により不況色が濃くなって倒産と失業が続発し、物価上昇も止まらなかった
    • [42]昭和48年度の売上高は6,125億円、経常利益は310億円で、日本の製造業のなかでは第12位であった
    • [43]昭和49年8月期の売上高は3,934億円、経常利益は134億円
    • [44]昭和49年9月期の事業部別売上高は鉄鋼58.7%、機械20.7%、軽合金伸銅14.2%、溶接棒6.4%
    • [45]昭和48年度の粗鋼生産量は812万6,000トンで、鉄鋼業界の生産シェアは6.8%、第5位
    • [46]昭和53年までの中期計画において加古川3期工事の推進を中心とする合理化投資を行うこととした
    • [47]中期計画(昭和48年から53年)は実質経済成長率を年率7%と想定し、最終年次の売上規模を1兆7,768億円と目標に置いた
    • [48]加古川3期工事は3千数百億円の予算で4,500立方米の第3号高炉を新設し、加古川製鉄所の粗鋼生産能力を600万トンから900万トン体制とする計画
    • [49]ベネズエラ政府とのアルミ製錬合弁は同国の資源ナショナリズムへの方針転換により出資比率が同国80%・日本側20%へ変更され、年産28万トンのうち16万トンを日本側各社が国際価格より安い値段で引き取ることで合意
    • [50]カタール政府との合弁による条鋼工場建設は、鉄鋼事業部のノウハウと機械事業部のエンジニアリングの協働により建設を受注し、経営委託契約により神戸製鋼所が社長を送って経営する
  • 「新社長登場 杉沢英男氏(神戸製鋼所)」(日経ビジネス 1977年3月14日号)
    • [51]昭和51年9月 鈴木博章社長の死去に伴い杉沢英男が社長に就任
    • [52]杉沢英男は昭和13年に京都大学工学部冶金学科を卒業して入社、高度成長期に神戸・加古川両製鉄所建設の先頭に立った技術者で、昭和50年8月から体質強化委員会委員長を務めた
    • [53]社長就任時の従業員は3万5000人であった
    • [54]杉沢英男は市場占有率の追求よりも業界の中で独自の存在価値を見つけ出していくほかはないと分析した
    • [55]高度成長で肥大した大企業の悩みはホワイトカラーの生産性の低さにあるとして、連絡のためだけの会議を改め、門外漢同士が自由に発言して互いの足りない点をカバーし合う形とした

筆者考察

加古川製鉄所は、神戸製鋼所が身軽さを手放した買い物だった。線材と棒鋼と溶接棒と機械で稼ぐ会社にとって、高炉を持たないことは弱点であると同時に、資本を寝かせずに済む強みでもある。実際に1964年の時点で、大手六社のうち熱間圧延設備を持たないのはこの一社だけだった。それでも銑鉄を尼崎製鉄から買う限り、線材の原価は他社の手にある。1954年の経営参加から1965年の吸収合併まで11年をかけて供給元を社内へ取り込み、灘浜には370億円を投じて高炉を二基持った。ここまでは得意な品種へ高炉を接ぐ工事にすぎない。

加古川で性格が変わる。1968年の埋立から1973年の二号高炉まで巨額を注ぎ、三期工事にはさらに三千数百億円の予算が置かれた。しかも完成は石油危機と重なり、1974年8月期の経常利益は前年度の310億円から134億円へ落ちる。それでも三期の投資は止めなかった。杉沢英男氏が経営の軸を市場占有率の追求から独自の存在価値の確立へ移したのは、鋼板まで作れる製鉄所を持った直後のことである。設備で伸びる時期が終わったところに最大の設備が立ち上がったこの捻れが、その後の神戸製鋼所を長く縛った。

売上高の推移 1955年3月期〜1973年度(億円)

113 1955/3期 2,600 1968 6,125 1973年度
  • 1955年3月期は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)、1968年は企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)、1973年度は証券アナリストジャーナル1974年12月号による。
  • 決算期の変更をまたぐため、期間の長さは一律ではない。

1946年〜1982年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 221 n/a n/a n/a n/a n/a ファウドラー社と共同出資で神鋼ファウドラー(現神鋼環境ソリューション)を設立(1954/06)
1956年03月期 単体 246 +11.3% n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 399 +62.2% n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 426 +6.8% n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 384 ▲9.9% n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 566 +47.4% n/a n/a 10 1.8% n/a
1961年03月期 単体 745 +31.6% n/a n/a 27 3.6% ニューヨーク事務所を開設(1960/09)藤沢工場(現藤沢事業所)を新設(1961/03)
1962年03月期 単体 942 +26.4% n/a n/a 37 3.9% 茨木工場を新設(1961/10)
1963年03月期 単体 851 ▲9.7% n/a n/a 39 4.6% n/a
1964年03月期 単体 1,055 +24.0% n/a n/a 35 3.3% n/a
1965年03月期 単体 1,250 +18.5% n/a n/a 38 3.0% n/a
1966年03月期 単体 1,671 +33.7% n/a n/a 35 2.1% n/a
1967年03月期 単体 1,971 +18.0% n/a n/a 45 2.3% n/a
1968年03月期 単体 2,386 +21.1% n/a n/a 53 2.2% 秦野工場(現コベルコ マテリアル銅管秦野工場)を新設(1967/04)タイに製造拠点を開設(1968)
1969年03月期 単体 2,823 +18.3% n/a n/a 56 2.0% n/a
1970年03月期 単体 3,337 +18.2% n/a n/a 102 3.1% n/a
1971年03月期 単体 3,925 +17.6% n/a 172 90 2.3% 西条工場を新設(1970/07)
1972年03月期 単体 3,721 ▲5.2% n/a 40 39 1.0% n/a
1973年03月期 単体 4,148 +11.5% n/a 139 64 1.5% n/a
1974年03月期 単体 6,124 +47.6% n/a 309 103 1.7% n/a
1975年03月期 単体 7,687 +25.5% n/a 215 103 1.3% n/a
1976年03月期 単体 7,362 ▲4.2% n/a n/a 32 0.4% 福知山工場を新設(1975/09)
1977年03月期 単体 8,967 +21.8% n/a n/a 113 1.3% n/a
1978年03月期 単体 8,332 ▲7.1% 554 59 70 0.8% n/a
1979年03月期 単体 8,840 +6.1% n/a n/a 136 1.5% n/a
1980年03月期 単体 10,247 +15.9% n/a n/a 256 2.5% n/a
1981年03月期 単体 11,400 +11.3% 1,097 459 262 2.3% n/a
1982年03月期 単体 11,827 +3.7% n/a n/a 136 1.1% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「神戸製鋼所」(経済春秋社, 1968年)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 湊静男「神戸製鋼所の概況について」(証券アナリストジャーナル 1964年7月号)
  • 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
  • 「新社長登場 杉沢英男氏(神戸製鋼所)」(日経ビジネス 1977年3月14日号)

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