神戸製鋼所:鈴木商店からの創業と機械・伸銅・アルミへの多角化
海軍指定工場から線材・セメント機械への需要分散
1905年〜小林製鋼所の挫折を引き取った鈴木商店の資本
小林清一郎氏は、出版業で得た利を投じて資本金約100万円の小林製鋼所を神戸に起こし、1904年に工場を構えた。技術の中心に据えたのは、呉工廠に勤める海軍少技監の小杉辰三氏である。小杉氏は、製鋼は学術の研究だけでは成らず直接その局に当たる職工の訓練が要るとして官を退き、呉工廠から職工八名を選んで英国のヴィッカース製鋼会社へ一年余り預けた。小林氏自身も逓信省から欧米の製鉄製鋼事業を調査する嘱託を受けて渡航している。ところが操業を始めると、規格に合う鋳鋼品が出てこなかった。呉海軍工廠長の山内万寿治氏が工場の成功を望んで艦艇用鋳鋼品を原価の五、六倍の指値で発注したにもかかわらず、一個の注文に五回の作り直しを重ねてなお損失が出た。小林氏は、製鋼が巨額の資金と多年の訓練を経なければ目的を貫けない事業だと悟り、1905年9月に鈴木商店へ譲り渡した。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [1]元経営者 小林清一郎は出版業で得た資金から資本金約100万円を投じ、明治37年に神戸へ小林製鋼所を創設
- [2]小林製鋼所の所長かつ創設者は小杉辰三(元海軍少技監・呉工廠勤務)で、製鋼技術に精通した海軍出身者であった
- [3]小杉辰三は製鋼には職工の訓練が必要として退官し、呉工廠の優秀な職工8名を英国ヴィッカース製鋼会社へ約1年余り託して訓練させた
- [4]小林清一郎は明治38年、逓信省より欧米諸国製鉄製鋼事業調査の嘱託を受けて渡航
- [5]事業を開始すると小杉辰三の言のとおり容易に完全な製品を得ることができなかった
- [6]呉海軍工廠長 山内万寿治が艦艇用鋳鋼品を原価の5〜6倍の指値で発注したが、規格に合致せず1個の注文に5回の作り直しを要し損失が生じた
- [7]小林清一郎は製鋼事業が巨額の資金と多年の訓練を経なければ目的を貫徹できないと悟り、明治38年9月に鈴木商店へ譲渡した
買収した合名会社鈴木商店は、神戸市東端の一寒村にすぎなかった脇浜の工場を神戸製鋼所と改め、鋳鋼・鍛鋼品とその他諸機械の製作販売を始めた。経営に当たったのは、門司の大里製糖所にいた田宮嘉右衛門氏である。番頭の金子直吉氏から融資先の製鋼所を引き受けるかもしれないと告げられ、1905年10月1日に工場へ出勤した。従業員は300名足らず、平炉は五噸炉一基で溶解量は月に百噸内外にとどまり、経営は成り立たなかった。製品らしい製品が出るまでに三ヵ月で21回の失敗を重ね、取引銀行の苦情から幾度も工場閉鎖の危機に立った。田宮氏が金子氏へ閉鎖を進言したのも一度や二度ではない。それでも鈴木商店は現場の熱意を買って経営を続け、十年ほど巨額の投資を重ねながら実益を見たのは欧州大戦を迎えてからだった。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [8]明治38年9月 鈴木商店は神戸市東端の一寒村であった脇浜の小林製鋼所を買収して神戸製鋼所と改称し、鋳鋼・鍛鋼品その他諸機械の製作販売を開始
- [9]神戸製鋼所の経営に当たった田宮嘉右衛門は、当時 門司の大里製糖所に在勤していた
- [10]田宮嘉右衛門は金子直吉から小林製鋼所引受の可能性を告げられ、明治38年10月1日に工場へ出勤した
- [11]創業当時は従業員300名足らず、平炉は5噸炉1基で溶解量は月100噸内外にとどまった
- [13]田宮嘉右衛門が金子直吉へ工場閉鎖を進言したのは一再に止まらなかった
- [15]鈴木商店は約10年にわたり巨額の投資を重ねたが実益を見ず、欧州大戦の当時に至って初めて巨利を挙げた
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
- [12]創業時は相当の製品ができるまで3ヵ月間に21回の失敗を繰り返し、取引銀行からの苦情により幾度か工場閉鎖の危機に直面した
- [14]鈴木商店は現場の熱意を買って経営を続行した
1909年に設備を拡張し、吉井幸蔵伯や依岡省輔氏らの尽力で海軍の御用工場となって、技術の指導を受けられるようになった。当時の海相が艦船の建造と兵器の製造を国産で賄う方針を立て、海軍当局が民間の重工業を奨励していた時期にあたる。受注が増えると鈴木商店の一部門であることの不利と不便が目立ち、1911年6月28日、神戸市栄町通三丁目の鈴木商店で創立総会を開いて、資本金140万円の株式会社として分離独立した。取締役には黒川勇熊氏・依岡省輔氏・田宮氏が就いている。独立の直後に着手したのが工具である。鈴木商店から継承していたオーストリア・ボーレル会社製工具の一手販売権を、材料と技術の輸入を条件に自社製造へ組み替え、代わりにボ社は日本内地での販売から手を引いた。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [16]明治42年に設備を拡張し、吉井幸蔵・依岡省輔らの尽力により海軍の御用工場となって技術指導を受けた
- [17]明治40年頃、海相が将来の艦船建造および兵器製造を国産品で充てる方針を確立し、海軍当局は民間重工業を奨励・保護した
- [18]業務繁忙により鈴木商店の一部門としての経営は不利と不便が少なくないとして、明治44年6月28日 神戸市栄町通三丁目の鈴木商店で創立総会を開き、資本金140万円の株式会社神戸製鋼所として分離独立、7月1日に設立登記
- [19]創立時の取締役は黒川勇熊・依岡省輔・田宮嘉右衛門、監査役は吉井幸蔵・鈴木岩治郎
- [21]鈴木商店から継承したオーストリア・ボーレル会社製工具の日本一手販売権を自社製造へ切り替え、材料と技術を同社から輸入する代償にボ社は日本内地での販売を行わないと申し合わせた
- 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [20]独立後わが国最初の工具製造に着手した
参考文献[1]-[21]
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [1]元経営者 小林清一郎は出版業で得た資金から資本金約100万円を投じ、明治37年に神戸へ小林製鋼所を創設
- [2]小林製鋼所の所長かつ創設者は小杉辰三(元海軍少技監・呉工廠勤務)で、製鋼技術に精通した海軍出身者であった
- [3]小杉辰三は製鋼には職工の訓練が必要として退官し、呉工廠の優秀な職工8名を英国ヴィッカース製鋼会社へ約1年余り託して訓練させた
- [4]小林清一郎は明治38年、逓信省より欧米諸国製鉄製鋼事業調査の嘱託を受けて渡航
- [5]事業を開始すると小杉辰三の言のとおり容易に完全な製品を得ることができなかった
- [6]呉海軍工廠長 山内万寿治が艦艇用鋳鋼品を原価の5〜6倍の指値で発注したが、規格に合致せず1個の注文に5回の作り直しを要し損失が生じた
- [7]小林清一郎は製鋼事業が巨額の資金と多年の訓練を経なければ目的を貫徹できないと悟り、明治38年9月に鈴木商店へ譲渡した
- [8]明治38年9月 鈴木商店は神戸市東端の一寒村であった脇浜の小林製鋼所を買収して神戸製鋼所と改称し、鋳鋼・鍛鋼品その他諸機械の製作販売を開始
- [9]神戸製鋼所の経営に当たった田宮嘉右衛門は、当時 門司の大里製糖所に在勤していた
- [10]田宮嘉右衛門は金子直吉から小林製鋼所引受の可能性を告げられ、明治38年10月1日に工場へ出勤した
- [11]創業当時は従業員300名足らず、平炉は5噸炉1基で溶解量は月100噸内外にとどまった
- [13]田宮嘉右衛門が金子直吉へ工場閉鎖を進言したのは一再に止まらなかった
- [15]鈴木商店は約10年にわたり巨額の投資を重ねたが実益を見ず、欧州大戦の当時に至って初めて巨利を挙げた
- [16]明治42年に設備を拡張し、吉井幸蔵・依岡省輔らの尽力により海軍の御用工場となって技術指導を受けた
- [17]明治40年頃、海相が将来の艦船建造および兵器製造を国産品で充てる方針を確立し、海軍当局は民間重工業を奨励・保護した
- [18]業務繁忙により鈴木商店の一部門としての経営は不利と不便が少なくないとして、明治44年6月28日 神戸市栄町通三丁目の鈴木商店で創立総会を開き、資本金140万円の株式会社神戸製鋼所として分離独立、7月1日に設立登記
- [19]創立時の取締役は黒川勇熊・依岡省輔・田宮嘉右衛門、監査役は吉井幸蔵・鈴木岩治郎
- [21]鈴木商店から継承したオーストリア・ボーレル会社製工具の日本一手販売権を自社製造へ切り替え、材料と技術を同社から輸入する代償にボ社は日本内地での販売を行わないと申し合わせた
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
- [12]創業時は相当の製品ができるまで3ヵ月間に21回の失敗を繰り返し、取引銀行からの苦情により幾度か工場閉鎖の危機に直面した
- [14]鈴木商店は現場の熱意を買って経営を続行した
- 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- [20]独立後わが国最初の工具製造に着手した
1913年〜欧州大戦の造船需要と脇浜四万坪の埋立
1913年、田宮氏は金子氏の命で欧州視察に発ち、主に英国で製鋼業を調査したうえ、設備に改めるべき点があるとみて必要な機械を英独から買い入れた。同じ年、英国シェフィールドのダービーブラザース会社から機械を購めてプレス工場を新築し、千二百噸の水圧プレスを据え付けている。据付の翌1914年に欧州大戦が起こると、鉄鋼と機械材料の輸入は極めて困難になった。艦船と軍需品が挙げて連合国側へ回された結果、海運と造船は未曾有の繁忙を極め、同年下半期には海軍艦政本部と海軍工廠からフランス国駆逐艦数隻を急造する材料の製作を直接下命された。民間からの注文も重なり、クランク軸をはじめとするシャフト類と錨類が大戦の終熄まで途切れなかった。視察の土産だった一台のプレスが、そのまま大型鍛造品の受注を受け止める設備になった。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [22]大正2年 田宮嘉右衛門は金子直吉の命で欧州視察に赴き、主に英国で製鋼業を調査、設備の充実改善すべき点を認めて必要な機械を英・独で購入
- [23]大正2年 英国シェフィールドのダービーブラザース会社より機械を購入してプレス工場を新築し、1200噸水圧プレスと汽罐を据え付けた
- [24]大正3年の欧州大戦勃発により本邦への鉄鋼・機械材料品の輸入が極めて困難となった
- [25]艦船および軍需品が挙げて連合国側へ供給された結果、海運界は活況を呈し造船界も未曾有の繁忙を極めた
- [26]大正3年下半期 海軍艦政本部および海軍工廠よりフランス国駆逐艦数隻急造のための材料製作を直接下命された
- [27]大正7年末の欧州大戦終熄まで、クランク軸をはじめシャフト類・錨類の注文が特に多かった
受注の増加に対して、既設の汽鎚数基と千二百噸水圧鍛造機一基では注文を消化しきれなくなり、汽鎚三基と五百噸水圧鍛造機一基、工作機械多数を増設して当座をしのいだ。それでも山手工場は狭く、臨海の脇浜に公有水面約四万坪を埋め立てて新工場を建てる方針を決め、1914年9月22日に許可を得て翌月に起工した。建設と設備の資金を賄うため、1917年3月に資本金を500万円へ、1918年7月にはさらに1,000万円へ増やしている。この資金で、門司市小森江に一万余坪を求めた伸銅工場と、銑鉄を自給するための広島・石見の両工場を1918年に完成させた。門司工場は海軍省と鉄道省の指定工場として銅・真鍮の管、棒、板を作り、同じ年にはスイスのズルツァ社から二衝程ディーゼル機関の製作権を得ている。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [28]受注増加に伴い既設の汽鎚数基と1200噸水圧鍛造機1基では注文を消化しきれず、汽鎚3基・500噸水圧鍛造機1基および工作機械多数を増設
- [29]山手工場の狭隘により臨海の脇浜の公有水面約4万坪を埋め立てて新工場を建設する方針を決定、大正3年9月22日に許可を得て10月に起工式
- [30]大正6年3月 資本金を500万円に増資、大正7年7月 さらに1000万円に増資
- [31]門司市小森江に敷地1万余坪を求めて建設した門司工場(伸銅部)は、広島工場・石見工場とともに大正7年に完成
- [32]門司工場は海軍省および鉄道省の指定工場として銅・真鍮の管、棒、板を製造、広島・石見の両工場では銑鉄を製造
- [33]大正7年 スイスのズルツァ社より二衝程ディーゼル機関の製作権を獲得して製作を開始
1918年11月、休戦の報は突如として伝わり、市場は恐怖状態に陥った。年末までに金属工業界の受けた打撃は甚大だったが、手持在庫の評価が安く、材料購入契約の残量も僅少だったため、この苦境は無事に切り抜けられた。損失が表れたのは銑鉄の自給に向けた設備で、広島・石見の両工場は合わせて月額五百噸内外を出銑していたものの、大戦の終熄で採算が合わなくなり、石見工場は1919年1月に閉鎖し、広島工場の設備は翌年に海岸工場へ移した。1920年10月には脇浜の埋立と工場が竣工して海岸工場となり、山手から千二百噸と五百噸のプレスを移したうえ、二千噸プレスを新設している。八八艦隊の整備に応じるため、機械工場と仕上工場も併せて整えた。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [34]大正7年11月 突如伝わった休戦の報により市場は恐怖状態に陥り、年末までに金属工業界をはじめ商工業界の打撃は甚大であった
- [35]手持在庫の評価が安価であり材料購入契約の残量も僅少であったため、苦境を無事に切り抜けることができた
- [36]銑鉄自給のため設置した広島・石見両工場は合計月額500噸内外の出銑があったが、大戦終熄で採算不利となり石見工場は大正8年1月に閉鎖、広島工場の設備は大正9年に海岸工場へ移転
- [37]大正9年10月 脇浜海面埋立と工場設置が竣成して海岸工場と称し、山手工場より1200噸・500噸プレスを移転、水圧鍛造工場に2000噸プレス1基を新設
- [38]八八艦隊の整備中であったため、その用命に応じて機械工場一棟・仕上工場一棟を整備
参考文献[22]-[38]
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [22]大正2年 田宮嘉右衛門は金子直吉の命で欧州視察に赴き、主に英国で製鋼業を調査、設備の充実改善すべき点を認めて必要な機械を英・独で購入
- [23]大正2年 英国シェフィールドのダービーブラザース会社より機械を購入してプレス工場を新築し、1200噸水圧プレスと汽罐を据え付けた
- [24]大正3年の欧州大戦勃発により本邦への鉄鋼・機械材料品の輸入が極めて困難となった
- [25]艦船および軍需品が挙げて連合国側へ供給された結果、海運界は活況を呈し造船界も未曾有の繁忙を極めた
- [26]大正3年下半期 海軍艦政本部および海軍工廠よりフランス国駆逐艦数隻急造のための材料製作を直接下命された
- [27]大正7年末の欧州大戦終熄まで、クランク軸をはじめシャフト類・錨類の注文が特に多かった
- [28]受注増加に伴い既設の汽鎚数基と1200噸水圧鍛造機1基では注文を消化しきれず、汽鎚3基・500噸水圧鍛造機1基および工作機械多数を増設
- [29]山手工場の狭隘により臨海の脇浜の公有水面約4万坪を埋め立てて新工場を建設する方針を決定、大正3年9月22日に許可を得て10月に起工式
- [30]大正6年3月 資本金を500万円に増資、大正7年7月 さらに1000万円に増資
- [31]門司市小森江に敷地1万余坪を求めて建設した門司工場(伸銅部)は、広島工場・石見工場とともに大正7年に完成
- [32]門司工場は海軍省および鉄道省の指定工場として銅・真鍮の管、棒、板を製造、広島・石見の両工場では銑鉄を製造
- [33]大正7年 スイスのズルツァ社より二衝程ディーゼル機関の製作権を獲得して製作を開始
- [34]大正7年11月 突如伝わった休戦の報により市場は恐怖状態に陥り、年末までに金属工業界をはじめ商工業界の打撃は甚大であった
- [35]手持在庫の評価が安価であり材料購入契約の残量も僅少であったため、苦境を無事に切り抜けることができた
- [36]銑鉄自給のため設置した広島・石見両工場は合計月額500噸内外の出銑があったが、大戦終熄で採算不利となり石見工場は大正8年1月に閉鎖、広島工場の設備は大正9年に海岸工場へ移転
- [37]大正9年10月 脇浜海面埋立と工場設置が竣成して海岸工場と称し、山手工場より1200噸・500噸プレスを移転、水圧鍛造工場に2000噸プレス1基を新設
- [38]八八艦隊の整備中であったため、その用命に応じて機械工場一棟・仕上工場一棟を整備
1921年〜軍縮と鈴木商店破綻に対する圧延部門への転換
1921年のワシントン海軍軍縮会議は、八八艦隊を前提に組んだ設備の計画を無効にした。船台の建造計画を取り止め、海軍の用命に応じるため脇浜の埋立地へ新設していた船舶用汽罐工場は、設備を変更して第一棒鋼工場に充てた。翌1922年には山手工場のローリング・ミルを近代化して電気化し、同工場へ移したうえ棒鋼と型鋼の製造を始めている。1924年に海岸工場のロール工場が竣工して丸鋼の製造に入ると、関東大震災の後で耐震耐火建築が求められ、鉄筋の需要が旺んになっていた時期にあたり、注文が激増した。艦船用品の建造から、鉄道・土木・浚渫・セメント関係の機械と型鋼・丸棒へ、主力の置き場が移った。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [39]大正10年 華府海軍軍縮会議の成立により船台計画を取り止めた
- [40]八八艦隊計画の用命に応じるため脇浜埋立地に新設した船舶用汽罐工場は、軍縮により設備を変更して第一棒鋼工場を設置
- [41]大正11年 山手工場のローリング・ミルを近代化・電気化して移設し、棒鋼・型鋼の製造を開始
- [42]大正12年上期から海岸工場に建設していたロール工場は大正13年に竣工して丸鋼の製造を開始、関東大震災後の耐震耐火建築により鉄筋需要が旺盛で注文が激増
- [43]平和の到来とともに艦船用品建造から転じ、鉄道・土木・浚渫・セメント関係の各機械および型鋼・丸棒、新製品の冷凍機・製氷機の製造に主力を傾注
線材への進出は、輸入品を駆逐するという国家的見地から決めた計画だった。線材はほとんど輸入に頼る状態にあり、国内でこの種の事業は到底困難だろうとみられていた。1926年に海岸工場へ第一線材工場を新設して三十噸平炉一基を増設し、1927年に運転を始めると非常な好成績を収めた。1933年には当時の最新鋭とされた半連続式圧延機を備える第二線材工場が完成し、月産一万八千噸を圧延して、輸入に待つほかなかった硬鋼線を本格的に生産した。機械の側でも置き換えは進み、1922年に浅野セメント株式会社へ納めたセメント製造用ミルの成績が良く、以後は各セメント会社から相次いで受注している。それまで一切を外国品に仰いでいた機械だった。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [44]大正13年に樹立した線材製造計画は、輸入品を駆逐するという国家的見地から出発したものであった
- [45]線材は従来ほとんど輸入品に俟つ状態であり、我国ではこの種事業は到底困難であろうとされていた
- [46]大正15年 海岸工場に第一線材工場を新設して30噸平炉1基を増設、昭和2年に運転を開始して非常な好成績を収めた
- [48]大正11年ころ受注し浅野セメント株式会社へ納入したセメント製造用ミルの成績が良好で、以後各セメント会社から相次いで受注
- [49]セメント製造用機械は当時まで一切外国品に供給を仰いでいた
- 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
- [47]昭和8年 当時の最新鋭とされた半連続式圧延機を備える第二線材工場が完成し、月産1万8,000トンの線材を圧延、輸入に依存していた特殊線材(硬鋼線)を本格生産
1927年4月の合名会社鈴木商店の整理と、続く金融界の逼迫は、容易ならぬ打撃となった。鳥羽造船工場を閉鎖して電機工場だけを残したが営業成績は下がり、同年下期には創立以来初めての欠損を計上した。1929年11月には播磨造船工場を分離して資本金500万円の株式会社播磨造船所を設立し、投じていた1,200万円のうち500万円を現物出資に充てて全株式を保有した。分離の理由書が挙げたのは、事業の性質を異にし規模も大きい工場を一部門として経営することの不適と、本社に対する倚頼心を剪除して人心の転換を図る必要だった。残った圧延と機械へ資源を寄せた結果、1928年には南満洲鉄道撫順炭礦の命で五〇B電気ショベルを試作して国産の第一号を作り、以後は満鉄と鉱山から用命を受ける唯一の電気ショベル・メーカーとなった。母体を失った会社が倒れずに済んだのは、需要先を海軍の外へ割っておいたからだった。
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [50]昭和2年4月 合名会社鈴木商店の整理と引き続く金融界の逼迫により容易ならぬ打撃を受けた
- [51]鳥羽造船工場を閉鎖し電機工場のみを存続としたが営業成績は著しく低下し、昭和2年下期に創立以来初めての欠損を計上
- [52]昭和4年11月 播磨造船工場を分離して資本金500万円の株式会社播磨造船所を設立、投下資金1200万円のうち500万円を現物出資として全株式を保有
- [53]播磨造船工場分離独立理由書は、事業の性質を異にし規模が大きいため一部門として経営するに適さないとし、本社に対する倚頼心を剪除して人心の転換を図ると述べた
- [54]昭和3年 南満洲鉄道撫順炭礦より50B電気ショベルの試作を命ぜられ、完成後は日本唯一の電気ショベル・メーカーとして満鉄その他鉱山方面から多数の用命を受けた
参考文献[39]-[54]
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- [39]大正10年 華府海軍軍縮会議の成立により船台計画を取り止めた
- [40]八八艦隊計画の用命に応じるため脇浜埋立地に新設した船舶用汽罐工場は、軍縮により設備を変更して第一棒鋼工場を設置
- [41]大正11年 山手工場のローリング・ミルを近代化・電気化して移設し、棒鋼・型鋼の製造を開始
- [42]大正12年上期から海岸工場に建設していたロール工場は大正13年に竣工して丸鋼の製造を開始、関東大震災後の耐震耐火建築により鉄筋需要が旺盛で注文が激増
- [43]平和の到来とともに艦船用品建造から転じ、鉄道・土木・浚渫・セメント関係の各機械および型鋼・丸棒、新製品の冷凍機・製氷機の製造に主力を傾注
- [44]大正13年に樹立した線材製造計画は、輸入品を駆逐するという国家的見地から出発したものであった
- [45]線材は従来ほとんど輸入品に俟つ状態であり、我国ではこの種事業は到底困難であろうとされていた
- [46]大正15年 海岸工場に第一線材工場を新設して30噸平炉1基を増設、昭和2年に運転を開始して非常な好成績を収めた
- [48]大正11年ころ受注し浅野セメント株式会社へ納入したセメント製造用ミルの成績が良好で、以後各セメント会社から相次いで受注
- [49]セメント製造用機械は当時まで一切外国品に供給を仰いでいた
- [50]昭和2年4月 合名会社鈴木商店の整理と引き続く金融界の逼迫により容易ならぬ打撃を受けた
- [51]鳥羽造船工場を閉鎖し電機工場のみを存続としたが営業成績は著しく低下し、昭和2年下期に創立以来初めての欠損を計上
- [52]昭和4年11月 播磨造船工場を分離して資本金500万円の株式会社播磨造船所を設立、投下資金1200万円のうち500万円を現物出資として全株式を保有
- [53]播磨造船工場分離独立理由書は、事業の性質を異にし規模が大きいため一部門として経営するに適さないとし、本社に対する倚頼心を剪除して人心の転換を図ると述べた
- [54]昭和3年 南満洲鉄道撫順炭礦より50B電気ショベルの試作を命ぜられ、完成後は日本唯一の電気ショベル・メーカーとして満鉄その他鉱山方面から多数の用命を受けた
- 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)
- [47]昭和8年 当時の最新鋭とされた半連続式圧延機を備える第二線材工場が完成し、月産1万8,000トンの線材を圧延、輸入に依存していた特殊線材(硬鋼線)を本格生産
筆者考察
神戸製鋼所の最初の30年は、買い手を一つに絞らないことで生き延びた歴史である。小林清一郎氏が資本金約100万円と呉工廠仕込みの職工八名を注ぎ込んで失敗した事業を、鈴木商店は十年近く赤字のまま抱え続けた。五噸平炉一基で月百噸しか溶けない工場に資本を置き続けられたのは、金子直吉氏が商社の利益で損を埋められたからにほかならない。ところが海軍の御用工場になって注文が安定すると、今度は鈴木商店の一部門であることが足枷になり、1911年に資本金140万円で独立する。助けてくれた資本から離れる判断が、母体の破綻を生き延びる最初の条件になった。
二つ目の条件は、儲かる注文ほど早く捨てたことにある。欧州大戦の造船需要で千二百噸プレスが回り出しても、休戦の報が来ると在庫の薄さで損を免れ、採算の崩れた広島・石見の銑鉄工場はすぐ閉じた。1921年の軍縮で八八艦隊の汽罐工場が用途を失えば、その設備を第一棒鋼工場に振り替える。鈴木商店が倒れた1927年に初めての欠損を出しながら、二年後には播磨造船所を切り離し、圧延と機械の二本へ資源を寄せた。軍需に寄りかかった会社は戦後に残らなかったが、線材とセメント機械と電気ショベルを同時に持っていた会社は、母体が消えても注文の出どころを替えるだけで済んだのである。
- 1911年は分離独立時の資本金、1943年3月は数次の増資を経た額。
- 出所は神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所、1938年)および会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)。
出典・参考
4件
- 神戸製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- 神鋼三十年史(株式会社神戸製鋼所, 1938年)
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史「神戸製鋼所」(東洋経済新報社, 1955年)
- 井上浩三郎「神戸製鋼所 鉄鋼・重機械・非鉄の複合経営」(証券アナリストジャーナル 1974年12月号)