ニチレキグループ:池田英一氏の日本瀝青化学工業所創業と舗装工事への着手
1943年〜田島応用化工から独立した池田英一氏の工業所と、硫酸ピッチで造った代用アスファルト3千トン
池田英一氏は1943年、勤めていた田島応用化工から独立し、日本瀝青化学工業所を創立した。池田英一氏は1911年に埼玉県蕨の生まれで、1929年に田島応用化工へ入社している。アスファルトとの関わりはこの入社に始まり、独立までの14年間を同じ会社で過ごした。池田英一氏がアスファルトに携わった最初の15年間は、建築向けの製品と防水工事が仕事の中心だった。日本瀝青化学工業所の創業期も、建築防水の工事と製品の製造から事業を起こした。戦時下の独立は、14年で身につけた防水の技術で自前の事業が立つと見込んだものだろう。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [1]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [2]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [3]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [4]1929年からの最初の15年間は建築関係のアスファルト・製品・防水工事に従事
- [5]1929年からの最初の15年間は建築関係のアスファルト・製品・防水工事に従事
終戦後にアスファルトが不足すると、日本瀝青化学工業所は秋田で硫酸ピッチを原料に代用アスファルトを造った。最初に建てた工場は、秋田県土崎町の代用アスファルト工場である。硫酸ピッチを脱酸して造った代用アスファルトは約3千トンに達し、建物の防水と道路の両方に使った。1950年に国内で石油アスファルトの製造が再開されて出回り始めると、代用品の製造は停止した。脱酸の工程では硫酸ピッチの一部が乳化して流れ出し、この経験はのちの乳剤開発の手がかりになった。原料の途絶を手近な代替原料で埋めた判断が、建築防水の工業所を道路の材料へ近づけたと考えられる。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [6]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [7]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [8]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [9]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [10]終戦後のアスファルト不足時に秋田で硫酸ピッチを脱酸して代用アスファルトを製造。その際一部が乳化して流れ出た経験がカチオン系乳剤開発の端緒
1946年以降、池田英一氏の仕事は土木と道路に関わるアスファルト製品と舗装を主な仕事にした。秋田の代用アスファルトを道路にも使ったことで、舗装の現場との接点はすでにできていた。池田英一氏は、製品を自ら造り始めた動機として、当時は『道路工事に使われていた製品が粗雑な製品でありすぎた』と記した。業界では1947年に戦後の道路の荒廃を早く回復させる目的で団体が生まれ、1949年5月に社団法人の日本アスファルト同業会となった。池田英一氏は1949年に同業会の理事となり、業界団体の運営にも加わった。新築の乏しい建築よりも、補修の続く道路に仕事の場を求めたと思われる。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [11]1946年から主として土木・道路関連のアスファルト製品・舗装に従事。1948年当時道路工事に使われた製品が粗雑だったことが製品工場の切っかけ
- [12]秋田の代用アスファルトを防水と道路に使用
- [13]1946年から主として土木・道路関連のアスファルト製品・舗装に従事。1948年当時道路工事に使われた製品が粗雑だったことが製品工場の切っかけ
- [14]1947年に戦後の道路荒廃の早期回復を目的に団体発足、1949年5月社団法人日本アスファルト同業会
- [15]1949年 池田英一が日本アスファルト同業会理事
参考文献[1]-[15]
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [1]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [2]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [3]池田英一は1911年埼玉県蕨生まれ、1929年田島応用化工入社、1943年独立し日本瀝青化学工業所を創立
- [4]1929年からの最初の15年間は建築関係のアスファルト・製品・防水工事に従事
- [5]1929年からの最初の15年間は建築関係のアスファルト・製品・防水工事に従事
- [6]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [7]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [8]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [9]最初の工場は秋田県土崎町の代用アスファルト工場。硫酸ピッチから約3千トンを造り防水・道路に使用。1950年の石油アスファルト製造再開で停止
- [10]終戦後のアスファルト不足時に秋田で硫酸ピッチを脱酸して代用アスファルトを製造。その際一部が乳化して流れ出た経験がカチオン系乳剤開発の端緒
- [11]1946年から主として土木・道路関連のアスファルト製品・舗装に従事。1948年当時道路工事に使われた製品が粗雑だったことが製品工場の切っかけ
- [12]秋田の代用アスファルトを防水と道路に使用
- [13]1946年から主として土木・道路関連のアスファルト製品・舗装に従事。1948年当時道路工事に使われた製品が粗雑だったことが製品工場の切っかけ
- [14]1947年に戦後の道路荒廃の早期回復を目的に団体発足、1949年5月社団法人日本アスファルト同業会
- [15]1949年 池田英一が日本アスファルト同業会理事
1950年〜規格48%に満たない外注乳剤を見て建てた東京尾久の乳剤工場と、大阪・小山の2工場
日本瀝青化学工業所は1948年、東京・浅草田中町の倉庫の敷地の一角でアスファルト乳剤と目地材の製造を始めた。それまでは乳剤を外部に造らせ、アスファルト分55%に当たる原料を渡していた。ところが試験すると、アスファルト分は38%程度しかないことがたびたびあった。当時の乳剤の規格は48%であり、結合材のアスファルトが足りなければ良い舗装はできない。都内の舗装は加熱用の燃料が無く乳剤に依存していたため、1950年に東京尾久町へ製品工場を建て、乳剤の製造を本格的に始めた。東京工場には1957年11月に研究室と営業所を併設した。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [16]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [17]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [18]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [19]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [20]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [21]1957年11月 東京工場に研究室および営業所を併設(1966年1月東京支店に改組)
1954年、池田英一氏による日瀝化学工業株式会社の設立。同じ1954年6月には大阪工場を建設し、出張所も設けた。東京の工場に続く最初の製造拠点が、この関西の工場である。大阪の出張所は1966年1月に大阪支店へ改組され、関西の営業を担う拠点になった。乳剤は水を含んで重く、需要地の近くで造るほうが運ぶ負担を抑えられると判断したと推察される。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [22]1954年 日瀝化学工業(株)設立
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [23]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
- [24]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
- [25]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
1958年1月、日瀝化学工業は栃木県に小山工場を建設し、コンクリート目地材料と建築防水材の製造に着手。目地材の製造は1953年に始めており、手流しで作る市販品は中央部が20%ほど収縮して薄くなる欠点を抱えていた。日瀝化学工業は低温で機械製造する設備を考案し、この欠点を改めた。1957年には建設省の道路技術者から、膨張ではみ出す目地が車に衝撃を与えるとの相談を受けた。日瀝化学工業は繊維板のセロタイトと密封材のセロシールを開発し、在来品の2倍の値段でも従来の目地材に置き換わった。防水では陸屋根の防水層の老化を受け、アルミ箔を基材としたルーフィングを開発した。
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [26]1958年1月 小山工場を建設し、コンクリート目地材料および建築防水材の製造を開始
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [27]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [28]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [29]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [30]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [31]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
参考文献[16]-[31]
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [16]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [17]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [18]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [19]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [20]1948年浅草田中町で乳剤・目地材の製造開始。55%分のアスファルトを出して乳剤を造らせたが試験で38%程度。規格は48%。市内舗装は加熱燃料がなく乳剤を使用。1950年東京尾久町に製品工場を建て乳剤製造を本格開始
- [22]1954年 日瀝化学工業(株)設立
- [27]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [28]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [29]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [30]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- [31]1953年目地材製造開始。市販品は手流しで中央部が約20%収縮、低温機械製造の設備を考案。1957年建設省技術者の相談でセロタイト・セロシールを開発、価格は在来品の2倍で従来品に代わる。防水層の老化対策でアルミ箔ルーフィングを開発
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [21]1957年11月 東京工場に研究室および営業所を併設(1966年1月東京支店に改組)
- [23]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
- [24]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
- [25]1954年6月 大阪工場を建設し出張所を併設(1966年1月大阪支店に改組)
- [26]1958年1月 小山工場を建設し、コンクリート目地材料および建築防水材の製造を開始
1959年〜1年余で仕上げた日本初のカチオン系アスファルト乳剤と、簡易舗装
日瀝化学工業は1959年、日本で初めてのカチオン系アスファルト乳剤を開発した。発端は、乳剤の原料だったアスファルト基原油の輸入がアメリカの都合で削減されたことである。中東産原油から採るパラフィン系アスファルトは、従来と同じ方法で乳剤にするとすぐ分解した。乳剤は売上金額の60%を占め、製品化できなければ会社の閉鎖か事業の縮小しか残らなかった。従来のアルカリ性の乳剤では酸が禁物で、酸性で乳化させる処方には秋田で硫酸ピッチが乳化した経験が生きた。研究は1年余で完成し、前年の1958年12月には研究室を中央研究所に改称していた。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [32]アスファルト基原油が輸入されなくなり、乳剤は売上金額の60%、製品化しなければ会社閉鎖か事業縮小。1年余で研究を完成し日本初のカチオン系乳剤を開発
- [33]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- [34]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- [35]アスファルト基原油が輸入されなくなり、乳剤は売上金額の60%、製品化しなければ会社閉鎖か事業縮小。1年余で研究を完成し日本初のカチオン系乳剤を開発
- [36]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [37]1958年12月 研究室を中央研究所と改称
カチオン系乳剤は簡易舗装に最も適した舗装材料と認められ、需要が大幅に増えて全国の市町村に普及した。その後は東亜道路工業がアメリカの特許を導入し、2社でカチオン系乳剤を国内に広めた。池田英一氏によれば、この乳剤は『売れに売れて』、のちに池田二十世紀美術館を創る原動力になった。販売の広がりに合わせ、1959年3月に名古屋、1961年1月に福岡、1963年に広島と高松へ出張所を開設。1962年4月には仙台工場を建設し、東北にも製造拠点を置いた。全国に置いた工場と出張所が、舗装と防水の工事を自ら請ける次の段階の足場になったとみられる。
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [38]カチオン系乳剤は簡易舗装に最適な舗装材料と認められ、需要が大幅に増大して全国の市町村に普及
- [39]その後東亜道路工業がアメリカ特許を導入し、二社でカチオン系乳剤を国内に広めた
- [40]カチオン系乳剤は売れに売れて池田二十世紀美術館を創る原動力となった
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [41]1959年3月名古屋出張所、1961年1月福岡出張所、1962年4月仙台工場、1963年6月広島出張所、1963年7月高松出張所
- [42]1959年3月名古屋出張所、1961年1月福岡出張所、1962年4月仙台工場、1963年6月広島出張所、1963年7月高松出張所
参考文献[32]-[42]
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)
- [32]アスファルト基原油が輸入されなくなり、乳剤は売上金額の60%、製品化しなければ会社閉鎖か事業縮小。1年余で研究を完成し日本初のカチオン系乳剤を開発
- [33]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- [34]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- [35]アスファルト基原油が輸入されなくなり、乳剤は売上金額の60%、製品化しなければ会社閉鎖か事業縮小。1年余で研究を完成し日本初のカチオン系乳剤を開発
- [36]アスファルト基原油が米国の都合で削減。中東原油からのアスファルトは同一方法で乳剤にすると直ぐ分解。アニオン系はアルカリ性で酸類はタブー。1959年日瀝化学工業がパラフィン系を使いカチオン系を開発、秋田の硫酸ピッチ乳化の経験が端緒
- [38]カチオン系乳剤は簡易舗装に最適な舗装材料と認められ、需要が大幅に増大して全国の市町村に普及
- [39]その後東亜道路工業がアメリカ特許を導入し、二社でカチオン系乳剤を国内に広めた
- [40]カチオン系乳剤は売れに売れて池田二十世紀美術館を創る原動力となった
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [37]1958年12月 研究室を中央研究所と改称
- [41]1959年3月名古屋出張所、1961年1月福岡出張所、1962年4月仙台工場、1963年6月広島出張所、1963年7月高松出張所
- [42]1959年3月名古屋出張所、1961年1月福岡出張所、1962年4月仙台工場、1963年6月広島出張所、1963年7月高松出張所
出典・参考
2件
- ニチレキグループ 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- 池田英一『日本アスファルト物語』(日瀝化学工業 創立三十五周年記念出版・1981年)