決断
原料が途絶えるたびに、自前の製法で穴を埋めてきた会社である。終戦後にアスファルトが不足すると、日本瀝青化学工業所は秋田で硫酸ピッチを脱酸し、代用アスファルト約3千トンを造った。1948年には外部に造らせた乳剤のアスファルト分が規格の48%に満たなかったため、乳剤を自ら造り始め、1950年に東京尾久町へ工場を建設した。その後アスファルト基原油の輸入が削減されると、日瀝化学工業は秋田で硫酸ピッチが乳化した経験を生かし、1959年に日本初のカチオン系乳剤を1年余で開発した。乳剤は売上金額の60%を占めており、製品化できなければ会社の閉鎖か事業の縮小に追い込まれた。