栄研化学:興亜化学工業の設立と田辺製薬の資本参加
1939年〜黒住剛氏が道修町を辞して興した興亜化学工業と、統制の外にあった家畜臓器の医薬品
栄研化学の前身となる興亜化学工業は、1939年2月に資本金5万円で東京都葛飾区に設立された。創業者の黒住剛氏は、大阪・道修町の製薬会社を辞め、知人とともに薬品メーカーを興した。当時は日華事変の最中で、一般の薬品原料は統制の対象になっていた。一方で、動物の臓器を原料とする製剤は統制の対象外。黒住剛氏はこの隙間に目をつけ、家畜の臓器を原料にした栄養食料品の製造販売から事業を始めた。原料の確保が経営の前提になる戦時下で、統制の及ばない原料を選んだことが、創業後の事業の方向を決めたとみられる。
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年2月、興亜化学工業を東京都葛飾区本田町で資本金5万円で創立し、家畜臓器を原料とする栄養食品の製造販売を開始
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- [2]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- [3]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- [4]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [5]1939年2月、黒住剛氏ほか2名が家畜臓器を原料とする栄養食料品の製造販売を目的に東京都葛飾区で興亜化学工業を設立
1940年8月、興亜化学工業は商号を興亜栄養化学研究所に改め、家畜臓器を主原料とする医薬品原料の製造販売を始めた。1941年4月には医薬品製造業者と薬種商の免許を取得した。免許の取得によって、臓器系医薬品を自社の製品として製造し、販売できるようになった。臓器製剤のなかで大型商品に育ったのが、牛のすい臓から採るインシュリン。インシュリンは糖尿病の治療に加え、精神病のショック療法にも使われた。臓器製剤を開発する過程では、胆汁酸の研究にも力を注いだ。同じ臓器原料のまま、栄養食料品から医薬品原料、医薬品へと付加価値の高い製品へ移っていったと推察される。
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [6]1940年に商号を興亜栄養化学研究所に変更し家畜臓器主原料の医薬品原料を製造販売、1941年に医薬品製造業者の免許を得て臓器系医薬品の製造販売を開始
- [8]1940年に商号を興亜栄養化学研究所に変更し家畜臓器主原料の医薬品原料を製造販売、1941年に医薬品製造業者の免許を得て臓器系医薬品の製造販売を開始
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [7]1940年8月に興亜栄養化学研究所へ社名変更、1941年4月に臓器系医薬品の製造販売を目的に医薬品製造業者・薬種商の免許を取得
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- [9]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
- [10]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
- [11]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
参考文献[1]-[11]
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年2月、興亜化学工業を東京都葛飾区本田町で資本金5万円で創立し、家畜臓器を原料とする栄養食品の製造販売を開始
- [7]1940年8月に興亜栄養化学研究所へ社名変更、1941年4月に臓器系医薬品の製造販売を目的に医薬品製造業者・薬種商の免許を取得
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- [2]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- [3]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- [4]昭和14年に黒住剛氏が大阪・道修町の製薬会社を辞めて知人と薬品メーカーを創業。日華事変で一般の薬品原料は統制下にあり、統制外の動物臓器製剤から着手
- [9]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
- [10]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
- [11]牛のすい臓から採るインシュリンの開発に成功し、糖尿病や精神病のショック療法に使う臓器製剤の大型商品に育つ。臓器製剤の開発を通じて胆汁酸の研究に注力
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [5]1939年2月、黒住剛氏ほか2名が家畜臓器を原料とする栄養食料品の製造販売を目的に東京都葛飾区で興亜化学工業を設立
- [6]1940年に商号を興亜栄養化学研究所に変更し家畜臓器主原料の医薬品原料を製造販売、1941年に医薬品製造業者の免許を得て臓器系医薬品の製造販売を開始
- [8]1940年に商号を興亜栄養化学研究所に変更し家畜臓器主原料の医薬品原料を製造販売、1941年に医薬品製造業者の免許を得て臓器系医薬品の製造販売を開始
1943年〜田辺製薬の流通網に乗せた臓器系医薬品と、カスリン台風で止まった工場
1943年2月、興亜栄養化学研究所は臓器系医薬品について田辺製薬と販売契約を結んだ。相手の田辺製薬は、それまでの医薬品原料の主要な販売先。契約の狙いは、臓器系医薬品を全国で売るために、田辺製薬の販売力と卸問屋の流通網を使うことにあった。自前の販路を全国に築く代わりに、既存の取引先の営業網に製品を載せる方法を選んだ。販売を田辺製薬に委ねる分担は戦後も続き、1990年の上場時点でも田辺製薬向けの販売が売上高の72.1%を占めていた。3か月後の1943年5月には、両社の関係は資本の結びつきへと進んだ。
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [12]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [13]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [14]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [15]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [16]国内販売は昭和18年から田辺製薬と販売提携し主に同社の販売網を利用。1990年の上場時点で田辺製薬向け販売が売上高の72.1%
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [17]1943年5月、第三者割当により田辺製薬が資本参加
1943年5月、興亜栄養化学研究所は第三者割当増資を実施し、田辺製薬の資本参加を受けた。目的は、2月の販売契約で始まった取引関係を強めることである。出資によって、田辺製薬は製品の販売先であると同時に株主となった。この資本関係は戦後の一時期を除いて続き、栄研化学は1990年の株式上場の時点でも田辺製薬の子会社だった。1990年時点では、製品は田辺製薬から系列の卸問屋を通じて大病院などに届く仕組みである。医療機関への製品説明や価格交渉は、主に栄研化学の営業担当者が担った。全国の卸問屋を押さえる大手と資本でつながったことが、小さな臓器製剤メーカーの存続を支えたと思われる。
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [18]1943年5月、第三者割当によって田辺製薬が資本参加
- [20]1943年5月、第三者割当によって田辺製薬が資本参加
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [19]1943年5月、取引関係の強化を目的に第三者割当増資で田辺製薬の資本参加を受け、戦後の一時期を除き田辺製薬の子会社として1990年に至る
- [21]1943年5月、取引関係の強化を目的に第三者割当増資で田辺製薬の資本参加を受け、戦後の一時期を除き田辺製薬の子会社として1990年に至る
- [22]1990年時点、製品は田辺製薬から系列卸問屋を通じて大病院等へ。医療機関への製品説明・注文獲得・価格交渉は主に自社の医薬情報担当者が担当
- [23]1990年時点、製品は田辺製薬から系列卸問屋を通じて大病院等へ。医療機関への製品説明・注文獲得・価格交渉は主に自社の医薬情報担当者が担当
戦後の1946年4月、興亜栄養化学研究所は商号を日本栄養化学に改めた。工場は戦禍を免れたものの、1947年のカスリン台風で完全に操業不能に陥った。黒住剛氏はこの時期を、再びゼロからの出発と位置づけた。当時の資金繰りについて、黒住剛氏は『資本金が5万円の時に、1600万円もの借金を抱え、食うや食わずの状態だった』と振り返った。残った手がかりは、臓器製剤の開発を通じて積み上げた胆汁酸の研究である。1949年には、赤痢や疫痢が流行するなかで、輸入品に依存していた細菌検索用の培地の国産化に成功した。工場を失ったことが、臓器製剤とは別の収益源を探す契機になったのだろう。
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [24]1946年4月、日本栄養化学株式会社へ社名変更
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- [25]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [26]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [27]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [28]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [29]1946年4月に日本栄養化学へ商号変更。赤痢・疫痢流行のなか1949年に輸入品に依存していた細菌検索用培地の国産化に成功
参考文献[12]-[29]
- 証券 42(3)(492) 1990年
- [12]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [13]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [14]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [15]1943年2月、臓器系医薬品の全国販売にあたり、医薬品原料の主要販売先だった田辺製薬と販売契約を結び、同社の販売力と卸問屋の流通網を利用
- [16]国内販売は昭和18年から田辺製薬と販売提携し主に同社の販売網を利用。1990年の上場時点で田辺製薬向け販売が売上高の72.1%
- [19]1943年5月、取引関係の強化を目的に第三者割当増資で田辺製薬の資本参加を受け、戦後の一時期を除き田辺製薬の子会社として1990年に至る
- [21]1943年5月、取引関係の強化を目的に第三者割当増資で田辺製薬の資本参加を受け、戦後の一時期を除き田辺製薬の子会社として1990年に至る
- [22]1990年時点、製品は田辺製薬から系列卸問屋を通じて大病院等へ。医療機関への製品説明・注文獲得・価格交渉は主に自社の医薬情報担当者が担当
- [23]1990年時点、製品は田辺製薬から系列卸問屋を通じて大病院等へ。医療機関への製品説明・注文獲得・価格交渉は主に自社の医薬情報担当者が担当
- [29]1946年4月に日本栄養化学へ商号変更。赤痢・疫痢流行のなか1949年に輸入品に依存していた細菌検索用培地の国産化に成功
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- [17]1943年5月、第三者割当により田辺製薬が資本参加
- [18]1943年5月、第三者割当によって田辺製薬が資本参加
- [20]1943年5月、第三者割当によって田辺製薬が資本参加
- [24]1946年4月、日本栄養化学株式会社へ社名変更
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- [25]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [26]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [27]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
- [28]戦禍は免れたが昭和22年のカスリン台風で工場が完全に操業不能、再びゼロからの出発。資本金5万円で1600万円の借金を抱えた(黒住剛氏)。臓器製剤開発で力を入れた胆汁酸研究が戦後の経営基盤確立に貢献
出典・参考
3件
- 栄研化学 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1979年1月15日号
- 証券 42(3)(492) 1990年