三共:三共商店の設立とタカヂアスターゼの輸入販売
1899年〜横浜の塩原又策氏ら3人が資本金3000円で興した三共商店と、高峰譲吉氏のタカヂアスターゼ
1899年、塩原又策氏は西村庄太郎氏・福井源次郎氏と資本金3000円の匿名組織を作り、3人の共同にちなむ三共商店の名で消化薬の試売を始めた。塩原又策氏は横浜刺繍の支配人として羽二重を外国商館へ販売しており、羽二重の価格暴落を受けて新しい事業を探していた。友人の西村庄太郎氏は渡米先のシカゴで高峰譲吉氏が発見したタカヂアスターゼを知り、ニューヨークの高峰譲吉氏を訪ねて日本での販売を懇請した。在米の化学者である高峰譲吉氏は試売を塩原又策氏に委ね、1898年12月に委託販売契約を締結。西村庄太郎氏と福井源次郎氏は翌1900年に経営を一任し、三共商店は塩原又策氏の単独経営に移った。事業の起点は薬の知識ではなく、輸出商の人脈がつないだ1品の販売権だったとみられる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [1]1899年、高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱された塩原又策が西村庄太郎・福井源次郎と資本金3000円の匿名組織を作り、3人共同にちなむ三共商店として輸入発売を開始
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [2]塩原は横浜刺繍の支配人として羽二重を外人商館向けに販売し、羽二重価格の暴落で新事業を模索
- [3]1898年4月、渡米した緑茶輸出業者の西村庄太郎がシカゴでタカヂアスターゼを知り、ニューヨークの高峰譲吉に日本での販売を懇請
- [4]高峰譲吉が塩原に試売を許し、1898年12月に委託販売契約を締結
- [5]1900年、西村・福井の一任により三共商店は塩原名義の単独経営となった
1902年初め、塩原又策氏は日本橋南茅場町に新店舗を開設し、三共商店薬品部と称する。タカヂアスターゼの利益は2年半で5.5倍に増えていた。同年5月には、高峰譲吉氏が1900年に結晶を得たアドレナリンの日本での一手販売契約を結び、アドリナリンの名で発売した。同時にタカヂアスターゼも委託販売から一手販売の契約に改め、高峰譲吉氏の仲介で米アーサー・コルトン社の錠剤機も一手に扱った。高峰譲吉氏の斡旋で米パーク・デービス社の日本代理店にもなり、取扱品は1品から広がる。売り先では、小売店を自ら回った経験から有力な問屋の助力が要ると判断し、関東は鳥居徳兵衛商店、関西は武田長兵衛商店を総代理店とした。
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [6]1902年初め、日本橋南茅場町の今村銀行の持家を賃借して新店舗を開設し三共商店薬品部と称した
- [7]タカヂアスターゼの業績は2年半で5.5倍の利益成長
- [8]高峰が1900年にアドレナリン結晶の抽出に成功し、1902年5月にアドリナリンの一手販売契約を締結
- [9]1902年5月の契約と同時にタカヂアスターゼの委託販売契約を一手販売契約に改め、高峰の仲介で米アーサー・コルトン社の錠剤機の一手販売業者となった
- [11]岡山の三宅薬店で大問屋に頼むよう教えられた塩原が有力問屋の助力の必要を痛感して代理店制を採用し、1902年の日本橋新店舗開設を機に関東は鳥居徳兵衛商店、関西は武田長兵衛商店を総代理店とした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [10]1902年に店舗を日本橋南茅場町に移し、高峰の斡旋で米国パークデイビス社の日本代理店となった
参考文献[1]-[11]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [1]1899年、高峰譲吉からタカヂアスターゼの試売を委嘱された塩原又策が西村庄太郎・福井源次郎と資本金3000円の匿名組織を作り、3人共同にちなむ三共商店として輸入発売を開始
- [10]1902年に店舗を日本橋南茅場町に移し、高峰の斡旋で米国パークデイビス社の日本代理店となった
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [2]塩原は横浜刺繍の支配人として羽二重を外人商館向けに販売し、羽二重価格の暴落で新事業を模索
- [3]1898年4月、渡米した緑茶輸出業者の西村庄太郎がシカゴでタカヂアスターゼを知り、ニューヨークの高峰譲吉に日本での販売を懇請
- [4]高峰譲吉が塩原に試売を許し、1898年12月に委託販売契約を締結
- [5]1900年、西村・福井の一任により三共商店は塩原名義の単独経営となった
- [6]1902年初め、日本橋南茅場町の今村銀行の持家を賃借して新店舗を開設し三共商店薬品部と称した
- [7]タカヂアスターゼの業績は2年半で5.5倍の利益成長
- [8]高峰が1900年にアドレナリン結晶の抽出に成功し、1902年5月にアドリナリンの一手販売契約を締結
- [9]1902年5月の契約と同時にタカヂアスターゼの委託販売契約を一手販売契約に改め、高峰の仲介で米アーサー・コルトン社の錠剤機の一手販売業者となった
- [11]岡山の三宅薬店で大問屋に頼むよう教えられた塩原が有力問屋の助力の必要を痛感して代理店制を採用し、1902年の日本橋新店舗開設を機に関東は鳥居徳兵衛商店、関西は武田長兵衛商店を総代理店とした
1905年〜日本橋箱崎町の自家工場と、資本金50万円の三共薬品合資会社
1905年、塩原又策氏は日本橋箱崎町の土佐藩屋敷跡に約660平方メートルの箱崎工場を開設した。前年の1904年に渡米してパーク・デービス社を訪ね、帰途に欧州を視察したうえで、販売にとどまらず製薬へ進むと決めた。南茅場町の店舗は輸入薬の小分けに狭く、アドリナリンの調整を帝国ホテルの一室で済ませた時期もあった。輸入品の販売から始めた三共商店にとって、これが自前の工場による初めての自家生産である。箱崎工場では医学博士佐伯矩氏の研究によるグリコナールや、北里研究所の肥田音一氏の研究による乳酸菌製剤ラクトスターゼを製造した。国内の研究者の成果を自社の工場で製品にする方式は、箱崎工場を起点としたと推察される。
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [12]1905年、日本橋箱崎町の土佐藩屋敷跡に約660平方メートルの箱崎工場を開設
- [13]1904年の渡米でパーク・デービス社を訪問し、帰途に欧州を回った塩原が製薬事業への進出を決意
- [16]箱崎工場で佐伯矩の研究によるグリコーゲン・グリコナール、肥田音一の研究による乳酸菌製剤ラクトスターゼなどを製造
- ポケット社史『純良製品で信頼される(三共)』(1966年)
- [14]南茅場町の店舗は輸入薬品の小分けに手狭で、一時は帝国ホテルの一室でアドリナリンの調整小分けをした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [15]1905年に日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、初めて自家生産に着手
1907年4月、三共商店は塩原又策氏と妻の千代氏の出資により、資本金50万円の三共薬品合資会社に改組した。三共商店はそれまで塩原又策氏の個人名義の経営で、改組後の代表社員は塩原又策氏である。1909年3月には日本橋室町に木造洋風2階建ての店舗を新築して移り、1階に薬局を設けて処方調剤を始めた。同年8月に医科器械部を新設し、社名から薬品の2字を外して三共合資会社へ改称。1911年上期には資本金を100万円とし、出資金のうち20万円を高峰譲吉氏に贈与して出資者に加えた。外部の株主を迎える前に、新薬の発見者である高峰譲吉氏を出資者に加えて関係を固めたと思われる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [17]1907年、塩原氏夫妻の出資により資本金50万円の合資会社に改組
- ポケット社史『純良製品で信頼される(三共)』(1966年)
- [18]三共商店は発足以来塩原又策の個人名義で、1907年4月の三共薬品合資会社への改組で塩原が代表社員となった
- [21]1911年上期から資本金100万円とし、出資金のうち20万円を高峰譲吉に贈与して出資者とした
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [19]1909年3月、日本橋室町の買収地に木造洋風2階建ての新店舗を建築・移転し、1階に薬局を設け処方調剤を開始
- [20]1909年8月、医科器械部を新設し社名を三共合資会社に改称
1907年ごろから、三共は独スパイヤー・フォン・カルゲル社やベーリンガー社、クノール社の製品を日本で一手に販売した。1908年には高峰譲吉氏の斡旋でジョンソン・エンド・ジョンソン社の代理店となり、絆創膏の輸入販売を始めた。薬品以外では、同じ1908年に米フォード社の総代理店を引き受け、自動車の輸入販売に参入する。1911年には高峰譲吉氏の斡旋で、合成樹脂ベークライトの日本での特許専用権を取得した。寒天や薄荷の米国向け輸出を含む取引の拡大は、塩原又策氏の初めての欧米渡航で得た取引関係から生まれた。羽二重の輸出で培った貿易への関心と高峰譲吉氏の人脈が、薬に限らない品ぞろえを後押ししたと考えられる。
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [22]1907年ごろからスパイヤーフォンカルゲル社製薬品の一手販売業者となり、ベーリンガー社とクノール社の日本における一手販売業者にもなった
- [23]1908年、高峰の斡旋でジョンソン・エンド・ジョンソン社の代理店として絆創膏の輸入販売を開始
- [24]1908年、米フォード社の総代理店となった
- [26]輸入販売業務の拡大は塩原の初めての欧米渡航の成果で、寒天や薄荷のアメリカ向け輸出も行った
- ポケット社史『純良製品で信頼される(三共)』(1966年)
- [25]1911年、高峰の斡旋でベークライトの日本特許専用権を得て工業化を開始
参考文献[12]-[26]
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [12]1905年、日本橋箱崎町の土佐藩屋敷跡に約660平方メートルの箱崎工場を開設
- [13]1904年の渡米でパーク・デービス社を訪問し、帰途に欧州を回った塩原が製薬事業への進出を決意
- [16]箱崎工場で佐伯矩の研究によるグリコーゲン・グリコナール、肥田音一の研究による乳酸菌製剤ラクトスターゼなどを製造
- [19]1909年3月、日本橋室町の買収地に木造洋風2階建ての新店舗を建築・移転し、1階に薬局を設け処方調剤を開始
- [20]1909年8月、医科器械部を新設し社名を三共合資会社に改称
- [22]1907年ごろからスパイヤーフォンカルゲル社製薬品の一手販売業者となり、ベーリンガー社とクノール社の日本における一手販売業者にもなった
- [23]1908年、高峰の斡旋でジョンソン・エンド・ジョンソン社の代理店として絆創膏の輸入販売を開始
- [24]1908年、米フォード社の総代理店となった
- [26]輸入販売業務の拡大は塩原の初めての欧米渡航の成果で、寒天や薄荷のアメリカ向け輸出も行った
- ポケット社史『純良製品で信頼される(三共)』(1966年)
- [14]南茅場町の店舗は輸入薬品の小分けに手狭で、一時は帝国ホテルの一室でアドリナリンの調整小分けをした
- [18]三共商店は発足以来塩原又策の個人名義で、1907年4月の三共薬品合資会社への改組で塩原が代表社員となった
- [21]1911年上期から資本金100万円とし、出資金のうち20万円を高峰譲吉に贈与して出資者とした
- [25]1911年、高峰の斡旋でベークライトの日本特許専用権を得て工業化を開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [15]1905年に日本橋箱崎町に製薬工場を開設し、初めて自家生産に着手
- [17]1907年、塩原氏夫妻の出資により資本金50万円の合資会社に改組
1908年〜品川工場で工業化したオリザニンと、高峰譲吉氏を社長に迎えた株式会社三共
1908年1月、三共は北品川御殿山にあった元官営硝子製造所の建物と約6700平方メートルの敷地を買収し、品川工場を開設した。事業の拡大で箱崎工場が手狭になり、生産の一部は品川工場へ移る。敷地は塩原又策氏が当初に意図した規模の数倍にあたり、箱崎工場はその後ガレヌス剤の生産に役割を移した。1909年には塩原又策氏が工場内の住居に移り住み、数十人の従業員を自ら指揮。1908年から学術顧問となった東京帝国大学教授の下山順一郎氏は、品川工場で結核治療薬ファゴールや皮膚薬チオノールを開発した。品川工場は、60年後の1968年時点でも三共の主力工場に数えられた。
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [27]品川町北品川御殿山の元官営硝子製造所(敷地約6700平方メートル・赤煉瓦平屋)を買収し、1908年1月に品川工場を開設
- [29]品川工場は当初意図した数倍規模の空き工場で、箱崎工場は品川工場建設後にガレヌス剤の生産に転じた
- [30]1909年、塩原が工場内の改造住居に移り住み数十人の従業員を直接指揮
- [31]1908年から学術顧問の東京帝国大学教授下山順一郎が品川工場で結核治療薬ファゴール、皮膚薬チオノールを開発
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [28]事業の発展で箱崎工場が狭隘となり、北品川に品川工場を開設
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三共」
- [32]1968年時点で品川工場は三共の主力工場
1911年、三共は東京帝国大学教授の鈴木梅太郎氏が米糠から得たオリザニンを品川工場で工業化し、脚気の薬として発売した。鈴木梅太郎氏は三共の学術顧問を務め、製造は鈴木梅太郎氏の製法特許に基づき農学博士の大嶽了氏らが担った。発売当初のオリザニンは医学界に受け入れられず、売れ行きは振るわなかった。脚気の研究が進んで効果が立証され、普及したのは1918年ごろからである。1913年には、薬学博士の田原良純氏がフグから分離した鎮痙剤テトロドトキシンを、東京衛生試験所から山本正己氏を迎えて製造・発売する。オリザニンとテトロドトキシンは、アドレナリンとともにのちに学士院賞の授与を受けた品目に数えられた。
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [33]1911年、鈴木梅太郎が米糠から発見したオリザニンを品川工場で工業化し脚気特効薬オリザニン液を製造・発売
- [34]鈴木梅太郎は三共の学術顧問を務め、オリザニンは鈴木の製法特許に基づき大嶽了・鎌田勝らが製造
- [35]オリザニンは容易に医学界に受け入れられず売行きはよくなかった
- [36]1918年ごろから脚気の研究が進み、オリザニンの効果が立証されて普及
- [37]1913年、東京衛生試験所から山本正己を迎え、田原良純が分離した河豚毒素テトロドトキシン(鎮痙剤)を製造・発売
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [38]アドレナリン、オリザニン、テトロドトキシンはいずれも学士院賞を授与された品目
1913年3月1日、塩原又策氏・高峰譲吉氏・鳥居徳兵衛氏ら6人の発起人は創立総会を開催し、資本金10万円の三共株式会社を設立した。社長には在米の高峰譲吉氏、専務には塩原又策氏が就任し、社業の全体を指揮したのは塩原又策氏である。同月21日には三共合資会社の資本を85万円と評価して新会社に併合し、資本金は95万円となった。塩原又策氏は設立趣意書に『有力ナル株主ヲ以テ鞏固ナル基礎ヲ組織シ』と記し、薬業界・財界・学界の支持者を株主に求めた。6月12日には105万円を増資し、資本金を200万円とした。発見者を社長に据えて医界と薬業界を株主に迎えた体制は、翌1914年の輸入途絶後に国産化を急ぐ土台になったのだろう。
- 三共九十年史(1990)第一部 第二章「近代企業を目指して」
- [39]塩原・高峰・鳥居徳兵衛ら6名が発起人となり、1913年3月1日に創立総会を開き資本金10万円の三共株式会社を設立
- [41]1913年3月21日の臨時株主総会で三共合資会社の資本を85万円と評価して併合し、資本金は95万円
- [42]設立趣意書で有力な株主による鞏固な基礎の組織を掲げ、学界・薬業界・財界の有力者の賛同を得た
- [43]1913年6月12日の臨時株主総会で105万円を増資し資本金200万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [40]1913年3月に株式会社として発足し、初代社長に在米の高峰博士、塩原は専務として一切の社業を掌握指揮
参考文献[27]-[43]
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- [27]品川町北品川御殿山の元官営硝子製造所(敷地約6700平方メートル・赤煉瓦平屋)を買収し、1908年1月に品川工場を開設
- [29]品川工場は当初意図した数倍規模の空き工場で、箱崎工場は品川工場建設後にガレヌス剤の生産に転じた
- [30]1909年、塩原が工場内の改造住居に移り住み数十人の従業員を直接指揮
- [31]1908年から学術顧問の東京帝国大学教授下山順一郎が品川工場で結核治療薬ファゴール、皮膚薬チオノールを開発
- [33]1911年、鈴木梅太郎が米糠から発見したオリザニンを品川工場で工業化し脚気特効薬オリザニン液を製造・発売
- [34]鈴木梅太郎は三共の学術顧問を務め、オリザニンは鈴木の製法特許に基づき大嶽了・鎌田勝らが製造
- [35]オリザニンは容易に医学界に受け入れられず売行きはよくなかった
- [36]1918年ごろから脚気の研究が進み、オリザニンの効果が立証されて普及
- [37]1913年、東京衛生試験所から山本正己を迎え、田原良純が分離した河豚毒素テトロドトキシン(鎮痙剤)を製造・発売
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- [28]事業の発展で箱崎工場が狭隘となり、北品川に品川工場を開設
- [38]アドレナリン、オリザニン、テトロドトキシンはいずれも学士院賞を授与された品目
- [40]1913年3月に株式会社として発足し、初代社長に在米の高峰博士、塩原は専務として一切の社業を掌握指揮
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三共」
- [32]1968年時点で品川工場は三共の主力工場
- 三共九十年史(1990)第一部 第二章「近代企業を目指して」
- [39]塩原・高峰・鳥居徳兵衛ら6名が発起人となり、1913年3月1日に創立総会を開き資本金10万円の三共株式会社を設立
- [41]1913年3月21日の臨時株主総会で三共合資会社の資本を85万円と評価して併合し、資本金は95万円
- [42]設立趣意書で有力な株主による鞏固な基礎の組織を掲げ、学界・薬業界・財界の有力者の賛同を得た
- [43]1913年6月12日の臨時株主総会で105万円を増資し資本金200万円
出典・参考
5件
- 三共九十年史(1990)第一部 第一章「新薬時代を開く」
- 三共九十年史(1990)第一部 第二章「近代企業を目指して」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医藥品 三共」
- ポケット社史『純良製品で信頼される(三共)』(1966年)
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三共」