塩原又策
三共・元三共合資会社 代表社員(社名変更)
社長就任1899年3月
生年月日—
学歴—
出自—
経歴1899〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1899年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | 三共商店(三共薬品合資会社・三共合資会社) | 1899 | 創業 | ||
| 1900 | 三共商店 単独経営(西村庄太郎氏・福井源次郎氏から社業を一任) | ||||
| 1907 | 三共薬品合資会社 代表社員 | ||||
| 1909 | 三共合資会社 代表社員(社名変更) | ||||
| 1913 | 退任 | ||||
| 三共 | 1913 | 専務 | |||
| 1929 | 社長 | ||||
| 1940 | 会長 | ||||
| 1940 | 退任 | ||||
社長就任までの出自
出自
1877年、横浜で船舶への飲料水の供給を営んで財をなした塩原又市氏の長男として生まれた。20代の初めには横浜市弁天通の横浜刺繍株式会社で支配人を務め、羽二重を外国の商館へ売り込む業務を担当していた。生糸の相場が動いて羽二重の値が下がると、本業に代わる新しい事業を探し始めた。医薬の道に入ったのは、薬業の知識を持たないまま、輸出の商いで得た人脈を通じてであった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
三共商店は1899年3月の発足時から塩原又策氏が店主で、翌1900年に共同出資者の2人から社業を任されて単独の経営となった。1913年3月に株式会社へ改めた際は、タカヂアスターゼの発見者である在米の高峰譲吉氏を社長に迎え、自らは専務取締役として実務を担った。高峰譲吉氏が1922年7月に死去すると、三共は功績に報いるため社長の席を空けたままとした。約7年の空席を経た1929年7月、専務の塩原又策氏が第2代の社長に就任した。
創業ストーリー
創業ストーリー
在任中の主な施策
塩原又策氏:在任中の施策
社長に就任した1929年以後、塩原又策氏は医薬の外にあった事業を別会社へ切り出した。1932年1月には合成樹脂の部門を分け、資本金60万円の日本ベークライト株式会社を設けて自ら社長を兼ねた。農薬では1938年3月に三共農薬株式会社を設立し、医薬と農薬の分業体制を敷いた。米ハーレーダビッドソン社の二輪車の販売会社は旧品川工場を譲り受けて国産化に取り組み、1935年に陸王号を完成させた。1940年4月に会長へ退き、長男の塩原禎三氏が第3代社長に就任した。
参考文献4件
参考文献
- 三共九十年史(三共、1990年)第一章第一節「創業(明治三十二年~大正元年)」
- 三共九十年史(三共、1990年)「当社のあゆみ」(年表)
- 三共九十年史(三共、1990年)「経営と組織 旧役員(三共株式会社設立時より)」
- 国立国会図書館 典拠(著者標目「塩原, 又策, 1877-1955」読み シオバラ, マタサク)
事実根拠:出所(三共)