第1章 年〜年

日本化薬:日本火薬製造の創業と導火線・雷管3社の合併

1916年〜山本条太郎氏が資本金100万円で興した日本火薬製造と、厚狭で上げた民間初のダイナマイト

第1次世界大戦の好況で鉱業の火薬需要が急増し、陸軍岩鼻火薬製造所の年間1000トン程度の生産は、必要量の半分にとどまる水準である。価格が数倍に上がって鉱山や土木工事の中止が相次ぎ、岩鼻の工場を建てた工学博士の石藤豊太氏がダイナマイトの民営論を唱えた。1915年秋、石藤豊太氏は元三井物産名古屋支店長の岡野悌二氏と、三井物産出身の山本条太郎氏の事務所を訪ねた。石藤豊太氏は100万円で日産2000キロの爆薬工場を興せると説明した。英国のグラスゴーノーベル社からは低利の全額出資の打診があったが、製品にノーベルの刻印を押すのが条件。山本条太郎氏は陸軍が刻印を認めないとみて、外資に依存しない国産を選んだ。鈴木商店と茂木惣兵衛氏の競願を株の持ち合いでまとめ、1916年6月5日に資本金100万円で日本火薬製造を設立した。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「ダイナマイト民営論の抬頭」
    • [1]大戦景気で火薬需要が急増し、岩鼻火薬製造所のダイナマイトは年約1000トンで需要はその倍とされた
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬製造(株)の設立」
    • [2]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [3]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [4]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [5]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [6]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [7]茂木惣兵衛・鈴木商店との競願を三系統共同でまとめ、1916年6月5日に資本金100万円で日本火薬製造を設立(有報沿革も1916年6月発足)

設立時の工場予定地は、大阪府三島郡千里村と豊能郡豊津村にまたがる6万坪である。この土地は将来の拡張に適さず、淀川を使う原料輸送の距離も長すぎたため、山本条太郎氏は予定地を断念して山口県の厚狭を選んだ。厚狭の石鞘地区は爆薬の納入先である炭礦に近く、山陽本線厚狭駅まで2キロメートルの距離である。厚狭川の船便でグリセリン、硝酸ソーダ、硝酸カリの主原料を海から運び込め、工業用水と労働力にも余裕があった。用地買収は地主の値上げ要求で一度止まり、村の誘致派が会社を追って設置を求めた結果、会社の提示条件での決着。厚狭工場は1917年4月に製造と営業の認可を受けた。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬製造(株)の設立」
    • [8]設立時の工場敷地は大阪府三島郡千里村・豊能郡豊津村の6万坪を予定
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「民間爆薬の生まれ故郷・厚狭」
    • [9]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [10]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [11]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [12]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [13]1917年4月、山口県厚狭工場が製造及び営業の認可を受ける

厚狭工場の建設は1916年9月に始まり、ダイナマイトの製造機械の据え付けは1917年5月中旬に終わった。陸軍大臣の許可が4月1日、内務大臣の許可が4月5日に下り、民間による産業用爆薬の製造が初めて認められた。厚狭工場は1917年4月に製造と営業の認可を得た。5月19日の山桜ダイナマイトの第1回試験で爆力は合格したものの、薬餅がもろく商品にならないと検査官に指摘された。井田国治氏らの分析で判明した薬餅の硬さの決め手は、綿薬と木粉の性状と、配合比率の0.1〜0.2%の誤差である。配合と原料規格を標準化して試製し直した製品は、6月18日に水中での爆発試験に合格した。試験の合格と前後して、原安三郎氏と飯森梅男氏が経営陣に加わった。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「厚狭工場の建設と操業開始」
    • [14]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
    • [15]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
    • [17]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [16]1917年4月、山口県厚狭工場が製造及び営業の認可を受ける
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「一次大戦後の反動不況」
    • [18]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加
    • [19]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加
    • [20]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加
参考文献[1]-[20]
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「ダイナマイト民営論の抬頭」
    • [1]大戦景気で火薬需要が急増し、岩鼻火薬製造所のダイナマイトは年約1000トンで需要はその倍とされた
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬製造(株)の設立」
    • [2]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [3]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [4]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [5]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [6]火薬不足で価格が数倍となり、石藤豊太が民営論を主唱。1915年秋に山本条太郎・岡野悌二・石藤が100万円・日産2000kgの計画を協議し、ノーベル社は刻印条件付き出資を打診
    • [8]設立時の工場敷地は大阪府三島郡千里村・豊能郡豊津村の6万坪を予定
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [7]茂木惣兵衛・鈴木商店との競願を三系統共同でまとめ、1916年6月5日に資本金100万円で日本火薬製造を設立(有報沿革も1916年6月発足)
    • [13]1917年4月、山口県厚狭工場が製造及び営業の認可を受ける
    • [16]1917年4月、山口県厚狭工場が製造及び営業の認可を受ける
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「民間爆薬の生まれ故郷・厚狭」
    • [9]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [10]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [11]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
    • [12]拡張余地と淀川輸送の距離から千里村を断念し厚狭の石鞘を選定。炭礦に近く厚狭駅まで2km、厚狭川の海上輸送が利き、用地買収は難航の末に会社条件で決着
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「厚狭工場の建設と操業開始」
    • [14]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
    • [15]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
    • [17]1916年9月着工、1917年5月中旬に機械据付完了。4月1日陸軍大臣・4月5日内務大臣の製造許可。5月19日の第1回試験は爆力合格も薬餅がもろいと指摘
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「一次大戦後の反動不況」
    • [18]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加
    • [19]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加
    • [20]配合比率0.1〜0.2%の誤差が薬餅の硬軟を左右すると判明し、標準化した再試製品が6月18日に水中爆発試験に合格。原安三郎・飯森梅男が経営陣に参加

1918年〜反動不況下の爆薬の販売競争と、乱立した導火線業界を統合した日本導火線

日本火薬製造は山桜、山梅、山椿、山菊と爆力や寸法の違う品種を出し、官製品と輸入品を割り当てで使っていた鉱山や炭礦に取引を広げた。1919年のパリ講和会議の頃から需要が沈み、厚狭作業所は日産3000キログラムから1200キログラムに生産を縮めた。経営陣は内務省や軍部に働きかけ、官製ダイナマイトの払い下げの振り替えと輸入爆薬の制限を実現させた。それでも在庫は火薬庫を埋め、1920年8月に作業休止を届け出て、保安要員35人を残して275人を解雇した。陸軍省の督励で政府はダイナマイトの値下げと土木事業の促進を打ち出し、厚狭作業所は休止から1カ月で操業を再開。その後の輸入品の投げ売りに対し、専務の原安三郎氏が1929年3月に軍・帝国火薬工業・外国商社との販売協定をまとめた。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「一次大戦後の反動不況」
    • [21]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
    • [22]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
    • [23]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「販売競争の回顧」
    • [24]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印
    • [25]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印
    • [26]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印

陸軍目黒火薬製造所の黒色火薬は日産8トン程度で大半が軍用に回り、民間の猟用火薬の供給元は輸入品である。1921年頃に猟用黒色火薬の需要が急に高まった。綜合火薬メーカーを目指す日本火薬製造は同年8月、兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立した。火薬工業の姫路作業所の生産品目は、導火線用粉火薬、黒色鉱山火薬、猟用黒色火薬の3つである。猟用火薬の光沢が輸入品に劣ったため、原安三郎氏は小室文夫氏を姫路に送り、国内で造れる品は国内で造るよう求めた。小室文夫氏の提案で製法に特殊な樹脂を加えると輸入品並みの光沢が出て、姫路の猟用火薬は輸入品に代わって市場を独占した。爆薬の単品に黒色火薬を加えたことが、のちの火工品一式の品ぞろえの起点になったとみられる。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
    • [27]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [28]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [29]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [30]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [31]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [32]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占

導火線は儲かる事業とされ、東京の東京火工品製造所と帝国火工品、小倉の帝国火工品の分工場と大小の工場が各地に並んだ。各社が競った結果、生産が需要を上回って値下げが続き、どの会社も経営が行き詰まった。山本条太郎氏と原安三郎氏は各社の合同による合理化を唱え、その調整役がグラスゴーノーベル社の日本代表格だった小室文夫氏である。1923年6月に日本導火線が設立されて日本火薬製造の直系となり、残る関東導火線と三田商店盛岡工場は生産量が小さかった。炭礦の爆発災害が増え、業界は導火線から電気発破への転換を進めていた。日本導火線はこの転換に合わせ、1926年10月に北海道の岩見沢に電気雷管の工場を建設した。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
    • [33]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [34]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [35]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [36]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [37]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [38]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
参考文献[21]-[38]
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「一次大戦後の反動不況」
    • [21]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
    • [22]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
    • [23]山桜・山梅・山椿・山菊などの品種を上市。反動不況で日産3000kgから1200kgへ縮小し、官製品払い下げの振替と輸入爆薬の制限を実現
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「販売競争の回顧」
    • [24]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印
    • [25]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印
    • [26]1920年8月に作業休止届、保安要員35人を残し275人を解雇。陸軍省の督励で値下げ・土木促進策が出て1カ月で再開。原安三郎専務が1929年3月に販売協定を調印
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
    • [27]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [28]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [29]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [30]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [31]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [32]目黒火薬製造所の黒色火薬は大半が軍用で猟用は輸入品。1921年8月に兵庫県飾磨郡四郷村に資本金100万円の火薬工業を設立し、小室文夫の樹脂添加で光沢を改善して市場を独占
    • [33]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [34]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [35]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [36]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [37]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設
    • [38]導火線各社の競争で生産過剰・値下げとなり、山本条太郎と原安三郎が合同を提唱、小室文夫の尽力で1923年6月に日本導火線を設立し日本火薬直系に。1926年10月に岩見沢で電気雷管工場を建設

1927年〜金融恐慌で行き詰まった帝国染料製造の引き受けと、導火線・雷管3社の合併

帝国染料製造(帝染)は1924年から減資を重ね、1926年1月時点の資本金は55万5千円である。後ろ盾の鈴木商店が1927年の金融恐慌で破産すると、社長の長久伊勢吉氏は山本条太郎氏を通じて三井に買収を打診し、三井は応じなかった。原安三郎氏は以前から帝染の工場担保の借入15万円を日本火薬製造で引き受けており、三菱への売却は望まない立場である。1928年夏、原安三郎氏は福山工場を視察し、三池染料工業所の立体式の設備と比べて改善の余地を確かめた。原安三郎氏は同年8月23日に17万5千円で帝染を取得した。日本火薬製造は不況下でも再建資金を融通し、1930年5月の火災を機に福山の設備を立体式に改めた。帝染は1943年8月に日本火薬製造へ合併された。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬の傘下へ」
    • [39]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [40]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [41]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [42]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [43]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「再建工作はじまる」
    • [44]原安三郎は不況下でも再建資金を融通。1930年5月の火災を機に設備を鉄骨・三段の立体式に改めた
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [45]1943年8月、帝国染料製造株式会社・山川製薬株式会社を合併

日本火薬製造は1934年6月に火薬工業を合併して姫路作業所とし、100万円を増資した。同年11月には日本導火線、日本雷管、中外雷管の3社を吸収合併し、125万円の増資で資本金は475万円になった。金融恐慌の後に業績が悪化した日本雷管からは、生産も販売もまとめて引き受けてほしいとの求めがあり、日本火薬製造は遠藤素三氏を支配人として送り込んで同社を運営していた。日本導火線が1929年6月に福岡県の穂波村に設けた飯塚作業所は、岩見沢と並ぶ南北の炭田への電気雷管の供給拠点である。合併で日本火薬製造は爆薬、黒色火薬、導火線、工業雷管、電気雷管を1社で手がける綜合メーカーとなった。創立20周年の1936年11月には資本金1000万円で東京株式市場に上場した。別会社で育てた火工品を本体に合わせたことで、爆薬の納入先へ火工品まで一括で供給できる体制が整ったと推察される。

  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
    • [46]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [48]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [49]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [50]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [51]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [47]1934年11月、日本導火線・日本雷管・中外雷管を合併(社史では125万円増資で資本金475万円)
参考文献[39]-[51]
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬の傘下へ」
    • [39]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [40]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [41]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [42]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
    • [43]帝染は1926年1月に資本金55万5千円へ減資。鈴木商店破産後に長久社長が三井に打診も不成立。原安三郎は借入15万円を肩代わり済み、1928年夏に福山を視察し8月23日に17万5千円で買収
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「再建工作はじまる」
    • [44]原安三郎は不況下でも再建資金を融通。1930年5月の火災を機に設備を鉄骨・三段の立体式に改めた
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
    • [45]1943年8月、帝国染料製造株式会社・山川製薬株式会社を合併
    • [47]1934年11月、日本導火線・日本雷管・中外雷管を合併(社史では125万円増資で資本金475万円)
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
    • [46]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [48]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [49]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [50]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場
    • [51]1934年6月に火薬工業を合併し姫路作業所・100万円増資。日本雷管は金融恐慌後に経営を委託し遠藤素三を派遣。日本導火線は1929年6月に飯塚作業所。1936年11月資本金1000万円で東京株式市場に上場

出典・参考

10件
出典・参考
  • 日本化薬 有価証券報告書(第169期)「沿革」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「ダイナマイト民営論の抬頭」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬製造(株)の設立」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「民間爆薬の生まれ故郷・厚狭」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「厚狭工場の建設と操業開始」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「一次大戦後の反動不況」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「販売競争の回顧」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「火工品部門設置の経緯とその発展」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「日本火薬の傘下へ」
  • 刊行社史『火薬から化薬まで 原安三郎と日本化薬の50年』(1967)「再建工作はじまる」

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