UBE:沖ノ山炭鉱の設立と宇部セメント製造・宇部窒素工業への多角化
1897年〜地元の出資と労役で掘り始めた沖ノ山炭鉱と、有限の石炭から無限の工業へという理念
渡辺祐策氏は1897年6月、資本金4万5000円の匿名組合として沖ノ山炭鉱を山口県宇部に創業した。設立の目的は宇部炭田の開発にあり、のちに宇部で生まれる関連会社のなかで最も早い創立にあたる。当時の宇部は県内でも辺地の寒村で、中央の財界から資本を呼び込める土地ではなかった。そこで渡辺祐策氏は地元の有志に身の丈に合った額の出資を頼み、出資した者自身も働き手として採炭の労役を引き受けた。最初の株主はすべて村人で、組合員が出資者と従業員を兼ねる共同組織として経営が回り出した。外からの介入を拒むこの結束に、のちに付いた名が宇部モンロー主義。資本の出し手と働き手が重なる仕組みが、宇部の事業を地元の手で守る気風を育てたのだろう。
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [1]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- [5]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- [6]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [2]沖ノ山炭鉱は宇部炭田の開発を目的に1897年に創立され、合併4社のうち最も古い
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [3]宇部は地理的に辺地で中央財界から離れ、渡辺祐策が有志に出資を求め出資者自らも労役を提供して炭鉱を始めた
- [4]宇部は地理的に辺地で中央財界から離れ、渡辺祐策が有志に出資を求め出資者自らも労役を提供して炭鉱を始めた
渡辺祐策氏は炭鉱を興すにあたり、石炭はいずれ尽きるという前提に立って経営の理念を定めた。石炭がもたらす利益をその時代の宇部の住民だけで使い切らず、将来の工業に移し替えて子孫の暮らしを支えるという考え方である。理念は『有限の石炭から無限の工業へ』という言葉にまとめられ、以後の事業拡大を通じて受け継がれた。中安閑一氏の回想では、渡辺祐策氏は石炭が消えても宇部が栄えるよう新しい工業を次々に興し、町と港も整える必要があると説いた。渡辺祐策氏は郷土への思いが強く、炭鉱の稼ぎを地域の産業基盤づくりに振り向ける構想を早くから抱き続けた。炭鉱1本の時期に掲げた理念が、のちの鉄工・セメント・窒素への展開の順路を先に描いたと言える。
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [7]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- [8]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- [9]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [10]渡辺祐策は郷土愛が強く、石炭がなくなっても宇部が栄えるよう新工業を興し町や港を整備すべきとの信念を持っていた
- [11]渡辺祐策は郷土愛が強く、石炭がなくなっても宇部が栄えるよう新工業を興し町や港を整備すべきとの信念を持っていた
参考文献[1]-[11]
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [1]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- [5]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- [6]1897年に資本金4万5千円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業。最初の株主は全員村人で出資者と従業員を兼ね、外部の介入を許さぬ態度が宇部モンロー主義と呼ばれた
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [2]沖ノ山炭鉱は宇部炭田の開発を目的に1897年に創立され、合併4社のうち最も古い
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [3]宇部は地理的に辺地で中央財界から離れ、渡辺祐策が有志に出資を求め出資者自らも労役を提供して炭鉱を始めた
- [4]宇部は地理的に辺地で中央財界から離れ、渡辺祐策が有志に出資を求め出資者自らも労役を提供して炭鉱を始めた
- [7]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- [8]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- [9]渡辺祐策は創業時、有限の石炭の恩恵を将来の工業に転化し子々孫々を豊かにするという理念を持ち、「有限の石炭から無限の工業へ」として受け継がれた
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [10]渡辺祐策は郷土愛が強く、石炭がなくなっても宇部が栄えるよう新工業を興し町や港を整備すべきとの信念を持っていた
- [11]渡辺祐策は郷土愛が強く、石炭がなくなっても宇部が栄えるよう新工業を興し町や港を整備すべきとの信念を持っていた
1914年〜炭鉱機械を製作・修理する宇部新川鉄工所と、採炭の粘土で焼く宇部セメント製造
渡辺祐策氏は1914年1月、炭鉱で使う機械を地元で作るため宇部新川鉄工所を設立した。採炭の拡大に伴って炭鉱用機械の需要が増え、鍛冶場程度の設備では製作も修理も追いつかなくなった。鉄工所の役目は炭鉱向けの諸機械の製作と修理と定められた。のちに宇部セメント製造の工場を建てた際には、アメリカから輸入した本体を除く機械の全部が宇部の鉄工所の製作による。渡辺祐策氏は1917年3月に紡績工場も設立した。この宇部紡績は事業が破綻し、宇部では株式会社は育たないという評判が地元に残った。炭鉱の必要から生まれた鉄工所が根づき、炭鉱と縁の薄い紡績が定着しなかった経過は、石炭との結びつきが事業の成否を分けたことを示す。
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [12]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- [15]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- [16]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [13]1914年に宇部新川鉄工所(現宇部鉄工所)を設立。炭鉱用機械の需要増に在来の鍛冶場的な鉄工所では応じきれなかった
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [14]宇部鉄工所は炭砿用諸機械の製作・修理を目的に設立された(同書は設立を1913年と記す)
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [17]渡辺祐策の唯一の失敗は宇部紡績で、宇部では株式会社は育たないと言われた
渡辺祐策氏は1923年、鉄工所に続く2番目の事業として宇部セメント製造を設立し、ポートランドセメントの製造に参入した。燃料には宇部炭を使い、粘土は石炭を掘る際に出る良質なものを充て、石灰石は近郊の産地から仕入れた。石灰石の産地として挙がったのは門司と美祢。工場の生産開始は1925年3月で、セメント業界が生産過剰から操業短縮に入った時期にあたる。熟練工は4人だけで、残る140人の従業員の多くは前日まで農業に従事した人々だった。それでも原料をすべて自前で賄える強みを持ち、工場はキルンを2基、3基と増設して量産に移行した。採炭の副産物まで原料に取り込んだセメントは、石炭を工業に移し替える理念を初めて大きな規模で形にした事業と思われる。
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [18]1923年、採炭の粘土と門司・美祢産の石灰石を原料にポートランドセメントを造るため宇部セメント製造を設立
- [20]1923年、採炭の粘土と門司・美祢産の石灰石を原料にポートランドセメントを造るため宇部セメント製造を設立
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [19]セメント事業は燃料の石炭・近郊産の石灰石・採炭に伴う良質の粘土を利用し、1923年に宇部セメント製造を創業
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [21]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
- [22]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
- [23]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
中安閑一氏は東京高等工業学校で機械を修め、1918年7月の卒業と同時に三菱造船へ入社した。宇部では1914年に宇部新川鉄工所が設立され、機械の専門を生かす場も生まれた。それでも中安閑一氏は郷里を出る意思を固めていたため、三菱造船を選んだ。転機は1923年、宇部に新設するセメント会社の工場設計を担ってほしいという渡辺祐策氏の依頼だった。渡辺祐策氏は中安閑一氏の父と旧知で、石炭が尽きた後の宇部を見据える信念に中安閑一氏も共鳴した。中安閑一氏は同年8月に神戸造船所を退き、宇部セメント製造の技師長として大阪で約半年かけて設計図を仕上げた。1924年4月に宇部へ戻り、アメリカから届いた機械の据え付けを経て工務部長に昇格した。
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [24]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [26]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [27]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [28]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [29]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [30]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [25]1914年に宇部新川鉄工所が設立された
参考文献[12]-[30]
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [12]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- [15]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- [16]宇部新川鉄工所は1914年1月創立、紡績工場は1917年3月設立。宇部セメントの工場では本体以外の機械を全て鉄工所で製作した
- [21]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
- [22]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
- [23]生産開始は1925年3月、業界は生産過剰で操短期。熟練工4人・他140人は元農民。石炭・石灰石・粘土は全て自前、キルンを増設
- [24]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [26]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [27]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [28]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [29]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- [30]1918年7月東京高工卒・三菱造船入社。1923年に渡辺祐策からセメント工場設計を頼まれ、同年8月神戸を退いて技師長に。大阪で設計し1924年4月に帰郷、工務部長に昇格
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [13]1914年に宇部新川鉄工所(現宇部鉄工所)を設立。炭鉱用機械の需要増に在来の鍛冶場的な鉄工所では応じきれなかった
- [19]セメント事業は燃料の石炭・近郊産の石灰石・採炭に伴う良質の粘土を利用し、1923年に宇部セメント製造を創業
- [25]1914年に宇部新川鉄工所が設立された
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [14]宇部鉄工所は炭砿用諸機械の製作・修理を目的に設立された(同書は設立を1913年と記す)
- [18]1923年、採炭の粘土と門司・美祢産の石灰石を原料にポートランドセメントを造るため宇部セメント製造を設立
- [20]1923年、採炭の粘土と門司・美祢産の石灰石を原料にポートランドセメントを造るため宇部セメント製造を設立
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [17]渡辺祐策の唯一の失敗は宇部紡績で、宇部では株式会社は育たないと言われた
1927年〜欧米視察で持ち帰った石炭の直接ガス化と、資本金500万円の宇部窒素工業
沖ノ山炭鉱事務長の俵田明氏と宇部セメント製造の中安閑一氏は、1927年から1928年にかけて欧米を視察した。宇部炭はカロリーが3600、灰分が40%に達する低品位炭で、燃料としては扱いにくかった。その活用策は宇部で長く懸案とされ、視察はその答えを探すために組まれた。中安閑一氏が主に学ぼうとしたのは、英国とドイツで進んでいた石炭の液化法である。英国の工場は生産を止め、ドイツでは見学を断られたため、クルップの工場で液化用の鉄管の寸法を書き留めるにとどまった。持ち帰った成果は、石炭の低温ガス化、微粉燃焼による発電、セメントをばら積みで運ぶタンカーの着想の3つ。狙った液化の収穫は乏しく、副次的に得たガス化と微粉燃焼が以後の宇部の事業の方向を定めた。
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [31]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [34]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [35]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [36]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [32]宇部の低品位炭の活用が長年の懸案で、俵田明と中安閑一が1928年に欧米へ派遣された。大派炭はカロリー3600・灰分40%
- [33]宇部の低品位炭の活用が長年の懸案で、俵田明と中安閑一が1928年に欧米へ派遣された。大派炭はカロリー3600・灰分40%
1933年、資本金500万円の宇部窒素工業が設立され、宇部炭をガス化して硫安を造る事業が始まった。当時のアンモニアは石炭コークスから得る水性ガスで造るのが通例で、石炭から直接水素を取り出す方法は国内初の方式にあたる。硫安の大半が輸入品で占められ、田中義一首相と親交のあった渡辺祐策氏は肥料の国産を急務と考えた。一方で英国商社の投げ売りにより硫安は1トン50円まで値下がりし、ガス法のコストは55円と見込まれた。社内で設立に賛成したのは渡辺祐策氏と俵田明氏の2人だけで、残る全員が反対した。会社の目的は宇部炭のガス化と電力化による硫安製造と定められた。生産前から赤字を覚悟した決断は、低品位炭の用途を広げる理念を採算より先に置いた判断だった。
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [37]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- [40]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- [41]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [38]従来はコークスから水性ガスを得たが、宇部窒素は石炭から直接水素をとるわが国最初の石炭ガス化で硫安を製造
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [39]硫安の大半が輸入で、田中義一首相と親交のあった渡辺祐策は化学肥料への進出を急務と考えた
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [42]宇部窒素工業は宇部炭のガス化および電力化による硫安製造を目的に1933年に設立
宇部セメント製造は1934年より前に低品位炭の微粉炭燃焼装置を完成させ、出力1万キロワットの発電所を設けた。ドイツのフンボルト社の燃焼装置4台と三菱神戸造船所のタービンを導入し、1キロワット当たり5厘の火力発電を実現させた。発電所はセメント工場に併設され、灰分17%を超える微粉炭は燃やせないという当時の定説を覆した。炭鉱・鉄工・セメント・窒素の4社は、いずれも宇部炭を母体に生まれ、同じ資本系統に連なって互いに依存し合う関係である。4社は設立の当初から役員を共通にし、同じ立地のうえで経営を一体に進めた。石炭を燃料・原料・電力に振り分ける仕組みが整い、4社を別々の会社にしておく理由は事業の実態から薄れたと推察される。
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [43]1934年の取締役就任より少し前、低品位炭の微粉炭燃焼装置が完成し1万キロワットの発電所を設けた
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [44]フンボルトの微粉炭燃焼装置4台と三菱神戸造船のユングストローム・タービンでkW当り5厘の火力発電に成功、セメント工場に併設。灰分17%以上は燃焼不能という定説を覆した
- [45]フンボルトの微粉炭燃焼装置4台と三菱神戸造船のユングストローム・タービンでkW当り5厘の火力発電に成功、セメント工場に併設。灰分17%以上は燃焼不能という定説を覆した
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [46]宇部炭を母体とする関連会社は同一資本系統につながり相互に依存しあう密接な関係にあった
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [47]4社は設立当初より経営が不離一体で役員を共通にし同一立地条件にあった
参考文献[31]-[47]
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一
- [31]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [34]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [35]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [36]1927年、事務長の俵田明と欧米へ。英独の石炭液化法を学ぼうとしたが見られず、低温ガス化・微粉燃焼発電・ばら積みセメントタンカーを持ち帰った
- [37]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- [40]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- [41]1933年に資本金500万円の宇部窒素工業を創立。主目的はガス化による宇部炭の活用。英商社のダンピングで硫安は1トン50円、ガス法コストは55円。賛成は渡辺祐策と俵田明の2人だけ
- [43]1934年の取締役就任より少し前、低品位炭の微粉炭燃焼装置が完成し1万キロワットの発電所を設けた
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- [32]宇部の低品位炭の活用が長年の懸案で、俵田明と中安閑一が1928年に欧米へ派遣された。大派炭はカロリー3600・灰分40%
- [33]宇部の低品位炭の活用が長年の懸案で、俵田明と中安閑一が1928年に欧米へ派遣された。大派炭はカロリー3600・灰分40%
- [39]硫安の大半が輸入で、田中義一首相と親交のあった渡辺祐策は化学肥料への進出を急務と考えた
- [44]フンボルトの微粉炭燃焼装置4台と三菱神戸造船のユングストローム・タービンでkW当り5厘の火力発電に成功、セメント工場に併設。灰分17%以上は燃焼不能という定説を覆した
- [45]フンボルトの微粉炭燃焼装置4台と三菱神戸造船のユングストローム・タービンでkW当り5厘の火力発電に成功、セメント工場に併設。灰分17%以上は燃焼不能という定説を覆した
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- [38]従来はコークスから水性ガスを得たが、宇部窒素は石炭から直接水素をとるわが国最初の石炭ガス化で硫安を製造
- [47]4社は設立当初より経営が不離一体で役員を共通にし同一立地条件にあった
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- [42]宇部窒素工業は宇部炭のガス化および電力化による硫安製造を目的に1933年に設立
- [46]宇部炭を母体とする関連会社は同一資本系統につながり相互に依存しあう密接な関係にあった
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史(1955)第2篇 日本会社史「宇部興産」
- 歴史をつくる人々(1965)中安閑一「無念無想」
- 企業の歴史 明治百年(1968)第3編「宇部興産」
- 私の履歴書 経済人11 中安閑一