東亞合成:福澤桃介の矢作工業設立と矢作水力からの工業部門独立
1933年〜矢作水力の余った電力と、資本金300万円で名古屋に設立した矢作工業
1933年5月、矢作水力は資本金300万円で化学工業の子会社、矢作工業を設立した。発起人には福澤桃介氏のほか、福澤駒吉氏と増田次郎氏らが加わった。矢作水力は福澤桃介氏が経営する電力会社で、発電から送電までを自社で担った。矢作工業は、その電力を使って硫安・硫酸・硝酸を作る事業から出発した。設立の狙いは、矢作水力の発電所で起こしながら使い切れない電力に、自前の消費先を設けることにあった。創立時の株式はほぼ全数を矢作水力が持ち、矢作工業は親会社の余った電気を引き受ける硫安肥料の会社として出発した。電力を社外の需要家へ売り込むより、自ら需要家を設けるほうが余剰を確実に収益へ変えられると福澤桃介氏は判断したのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [1]1933年5月、矢作水力が自家発電所の電力を活用するため資本金300万円で矢作工業を設立
- [3]矢作水力は福沢桃介の経営で発送電事業を営んだ
- 企業の歴史 明治百年(1968)「東亜合成化学工業」
- [2]発起人は福沢桃介・福沢駒吉・増田次郎ら。親会社矢作水力の余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造
- [4]発起人は福沢桃介・福沢駒吉・増田次郎ら。親会社矢作水力の余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [5]福沢桃介が自系電力の活用のため資本金300万円で設立したのが事業の実質的な創始
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [6]矢作水力の余剰電気を消費する目的で1933年5月に創立した硫安肥料会社。旧株はほぼ全株を矢作水力が所有
矢作工業は名古屋市昭和町に工場を建て、1934年2月に操業を始めた。硫安の製造には、原料のアンモニアを合成するために多量の水素が要る。矢作工業の製法は水を電気で分解して水素を取り出し、その水素からアンモニアを合成する電解法で、ドイツのウーデ式の特許方法を導入した。同じ工場には、アンモニアを原料とする塔式硫酸・硫安・合成硝酸の設備を並べた。当初の計画能力は年産で硫安3万瓲、硝酸3千瓲で、電力は矢作水力の余剰分を安く受けた。この工場は、戦後に東亞合成名古屋工業所となる拠点の母体となった。矢作工業の硫安は「矢印」の名で売られ、戦後の1950年8月に硫安の販売が自由化された際、東亜合成化学工業は同じ名を復活させた。水力の余剰電力を水素の原料に置き換える電解法は、発電所を持つ親会社の事情にそのまま合う製法だったとみられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [7]名古屋市昭和町に工場を建設し、1934年2月に操業開始
- [10]電解法アンモニア合成・塔式硫酸・硫安・合成硝酸の製造設備を持つ工場
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [8]硫安の製造には多量の水素を要し、電解式では水を電気分解して水素を得る
- [11]矢作水力の余剰電力を利用し、硫安3万瓲・硝酸3千瓲の計画で出発。余剰電力を低廉に受電
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [9]水を電気分解して水素を回収しアンモニアを合成する独逸ウーデー式特許方法(俗に電解式)を採用
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [12]水電解法アンモニア合成などで1934年から操業した矢作工業の工場が現在の名古屋工業所の母体
- [13]1950年8月の硫安自由販売化を機に、硫安の名称を昔の「矢印硫安」に戻した
参考文献[1]-[13]
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [1]1933年5月、矢作水力が自家発電所の電力を活用するため資本金300万円で矢作工業を設立
- [3]矢作水力は福沢桃介の経営で発送電事業を営んだ
- [7]名古屋市昭和町に工場を建設し、1934年2月に操業開始
- [10]電解法アンモニア合成・塔式硫酸・硫安・合成硝酸の製造設備を持つ工場
- 企業の歴史 明治百年(1968)「東亜合成化学工業」
- [2]発起人は福沢桃介・福沢駒吉・増田次郎ら。親会社矢作水力の余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造
- [4]発起人は福沢桃介・福沢駒吉・増田次郎ら。親会社矢作水力の余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [5]福沢桃介が自系電力の活用のため資本金300万円で設立したのが事業の実質的な創始
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [6]矢作水力の余剰電気を消費する目的で1933年5月に創立した硫安肥料会社。旧株はほぼ全株を矢作水力が所有
- [9]水を電気分解して水素を回収しアンモニアを合成する独逸ウーデー式特許方法(俗に電解式)を採用
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [8]硫安の製造には多量の水素を要し、電解式では水を電気分解して水素を得る
- [11]矢作水力の余剰電力を利用し、硫安3万瓲・硝酸3千瓲の計画で出発。余剰電力を低廉に受電
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [12]水電解法アンモニア合成などで1934年から操業した矢作工業の工場が現在の名古屋工業所の母体
- [13]1950年8月の硫安自由販売化を機に、硫安の名称を昔の「矢印硫安」に戻した
1936年〜資本金1650万円への増資と、ガス法アンモニア・接触法濃硫酸を足した拡張
1936年、矢作工業は資本金を300万円から1650万円へ増やした。同年上期には、立ち上げ期に生じた繰越損失を埋めたうえで、初の年6分の配当。増資の月には1月説のほか、配当を始めた春に続く同年秋とする当時の記録もある。半期の利益金は27万〜28万円の水準に達した。増資の新株は、矢作水力の株主にも割り当てた。増資で払込資本が525万円に増えた分、1936年下期は資本に対する利益の割合がやや下がった。この低下は増資の直後に限ったもので、1937年には持ち直すと見込まれていた。硫安の採算が見えた段階で、親会社とその株主から元手を調達し、電解法の拡張とガス法の新設に充当した。電力の受け手を広げる拡張の資金を、電力会社の側の資本で賄う構図だったと推測される。
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [14]1936年1月に資本金を1650万円に増加し、電解法の拡張とガス法アンモニア・接触法濃硫酸の拡充を実施
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [15]1936年上期に操業過渡期の繰越損金を全部補填し、初めて6分配当を実施。下期も継続
- [17]半期の利益金は27〜28万円
- [18]1936年下期に1650万円に増資。増資新株は矢作水力の株主にも割当
- [19]増資で資本の負担が525万円に膨張し、下期の利益率が少し低下
- [20]利益率の低下は過渡期の一時的現象で、1937年になってから回復するとの見方
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [16]1936年春に6分配当を開始し、秋に資本金を1650万円に増加(1937年10月の記事)
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [21]1936年7月、電解法アンモニア設備を拡張し、ガス法アンモニア合成設備と接触法濃硫酸設備を新設
1936年7月、矢作工業は電解法のアンモニア設備を広げ、あわせてガス法のアンモニア合成と接触法の濃硫酸の設備を新設した。計画では電解式の硫安能力を年3万瓲から6万瓲に倍増し、石炭ガス法の5万瓲を加えて合計11万瓲とする。ガス法は、石炭を低温で乾留したコーライトに水蒸気を当てて水素を得る製法である。原料のコーライトは、三菱鉱業の子会社である日本化成工業から受け入れた。1937年夏は雨量が極端に少なく、矢作水力の余剰電力が不足して操業に支障が出た。水力の余剰電力に依存する電解法だけでは渇水の年に生産が揺れるため、石炭を水素源とする2本目の製法を持つ意味があったと考えられる。
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [22]1936年7月、電解法アンモニア設備を拡張し、ガス法アンモニア合成設備と接触法濃硫酸設備を新設
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [23]電解式3万瓲を6万瓲に倍増し、石炭瓦斯法5万瓲を新設。完成で計11万瓲の硫安
- [24]瓦斯法は石炭低温乾溜の副産物コーライトに水蒸気を当てて水素を得る
- [25]コーライトは三菱鉱業の子会社日本化成工業から供給を受ける
- [26]1937年夏は雨量が極度に少なく、矢作水力の余剰電力が不足して操業に差支えが生じた
拡張した設備は1937年に順に動き出した。電解式の増設3万瓲は同年4月に操業を始め、ガス式の5万瓲の一部稼働は6月の予定から遅れて9月。先に動いた電解式の増設分は、4月以降おおむね順調に操業した。1937年春の時点では、配当を6分から7分へ上げ、5月に新株の払込を求める運びと予想されていた。同年秋になっても払込資本は637万5千円にとどまり、残る払込の徴収とその先の増資は避けられない情勢だった。次の期に8分へ上がるとの予想もあり、増資は1938年下期と目された。配当は1940年3月の合併直前まで7分のままだった。設備の完成が利益に反映される前に払込による資金の調達が続き、増配の余地は拡張の資金需要と相殺されたと思われる。
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [27]拡張が漸次完成(1937年10月の記事)
- [28]拡張分8万瓲のうち電解式3万瓲は1937年4月から操業開始、ガス式5万瓲は予定の6月完成から遅れ9月に一部操業
- [29]4月以降の電解式増設分は比較的順調に操業。増資期は1938年下期との見方(1937年10月の記事)
- [31]現在637万5千円の払込。未払込徴収の上での増資が不可避の情勢(1937年10月の記事)
- [32]来期配当は8分かとの見通し(1937年10月の記事)
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [30]今期配当は1分増しの7分の見込み、5月に新株の払込徴収の見通し(1937年4月の記事)
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- [33]矢作工業の合併直前の配当は7分
参考文献[14]-[33]
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [14]1936年1月に資本金を1650万円に増加し、電解法の拡張とガス法アンモニア・接触法濃硫酸の拡充を実施
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [15]1936年上期に操業過渡期の繰越損金を全部補填し、初めて6分配当を実施。下期も継続
- [17]半期の利益金は27〜28万円
- [18]1936年下期に1650万円に増資。増資新株は矢作水力の株主にも割当
- [19]増資で資本の負担が525万円に膨張し、下期の利益率が少し低下
- [20]利益率の低下は過渡期の一時的現象で、1937年になってから回復するとの見方
- [30]今期配当は1分増しの7分の見込み、5月に新株の払込徴収の見通し(1937年4月の記事)
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- [16]1936年春に6分配当を開始し、秋に資本金を1650万円に増加(1937年10月の記事)
- [23]電解式3万瓲を6万瓲に倍増し、石炭瓦斯法5万瓲を新設。完成で計11万瓲の硫安
- [24]瓦斯法は石炭低温乾溜の副産物コーライトに水蒸気を当てて水素を得る
- [25]コーライトは三菱鉱業の子会社日本化成工業から供給を受ける
- [26]1937年夏は雨量が極度に少なく、矢作水力の余剰電力が不足して操業に差支えが生じた
- [27]拡張が漸次完成(1937年10月の記事)
- [28]拡張分8万瓲のうち電解式3万瓲は1937年4月から操業開始、ガス式5万瓲は予定の6月完成から遅れ9月に一部操業
- [29]4月以降の電解式増設分は比較的順調に操業。増資期は1938年下期との見方(1937年10月の記事)
- [31]現在637万5千円の払込。未払込徴収の上での増資が不可避の情勢(1937年10月の記事)
- [32]来期配当は8分かとの見通し(1937年10月の記事)
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [21]1936年7月、電解法アンモニア設備を拡張し、ガス法アンモニア合成設備と接触法濃硫酸設備を新設
- [22]1936年7月、電解法アンモニア設備を拡張し、ガス法アンモニア合成設備と接触法濃硫酸設備を新設
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- [33]矢作工業の合併直前の配当は7分
1940年〜矢作水力の工業部への合併と、電力国家管理で資本金2300万円の矢作工業に戻った独立
1940年3月、矢作水力は子会社の矢作工業を合併し、その事業を社内の工業部とした。矢作工業の旧株は、合併の前からほぼ全数を矢作水力が保有していた。合併の理由は、電気事業と化学工業を一つの経営にまとめ、事業の発展を一段と進めることにあった。合併の時点で矢作工業は資本金1650万円で、硫安・硫酸・硝酸・液体アンモニア・酸素の製造を手がけた。矢作水力はこの合併で電力と化学を兼ねる多角経営に移り、1940年9月期の利益金は394万円。合併後も8分の配当は保てる見通しだった。余剰電力の受け手を社内に取り込めば、電力と化学の利益を一つの損益で平準化できると矢作水力はみたと推察される。
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [34]1940年3月、親会社矢作水力に合併して同社の工業部となる
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [35]矢作工業の旧株はほぼ全株を矢作水力が所有(1937年4月の記事)
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [36]電気事業との綜合経営で一層の事業発展を図るため1940年に矢作水力に合併
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- [37]矢作工業は資本金1650万円、1933年5月創立で硫安・硫酸・硝酸・液体アンモニア・酸素を製造
- [38]矢作水力は1940年3月に子会社矢作工業を合併して多角的経営を進める。1940年9月期の利益金は394万円
- [39]合併後の矢作水力の8分配当持続は確実(1940年12月の記事)
1940年12月の時点で、矢作水力の発電部門も日本発送電へ統合される見通しとなっていた。電力の国家管理が強まるなかで、矢作水力は発電と送電の事業を日本発送電と中部配電へ譲渡し、会社を解散することになった。これに伴い1942年3月31日、工業部の工場設備一切を現物出資して、資本金2300万円の矢作工業を新たに設立した。社名は、1940年に合併で消えた旧社名をそのまま引き継いだ。新会社は設立と同時に、工業部の工場で製造を始めた。この第二次の矢作工業の設立が、現在の東亞合成の会社としての起点にあたる。東亞合成の起こりは、余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を作ってきた矢作水力の工業部が分かれて独立したところに求められる。電力事業が国へ移っても化学の工場は民間の会社として残す必要があり、工業部の切り出しはそのための手立てだったと解される。
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- [40]矢作水力の発電も日発に統合される模様(1940年12月の記事)
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [41]国家管理の強化により矢作水力が発送電事業を日本発送電と中部配電に譲渡して解散
- [42]1942年3月31日、矢作水力工業部の工場設備一切の現物出資により資本金2300万円の矢作工業を設立
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [43]1942年に同社工業部の現物出資で旧社名の矢作工業として設立
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [44]1942年3月、工業部の工場設備一切と資本金2300万円で矢作工業として設立し製造を開始
- 企業の歴史 明治百年(1968)「東亜合成化学工業」
- [45]矢作水力は1942年に電力国家管理法で解散し、第二次矢作工業を設立。これが同社の始まり
- 投資月報 1984年「企業研究 東亞合成化学工業」
- [46]矢作水力の工業部(余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造)が1942年に分離独立して矢作工業を設立
矢作工業は1942年の設立後、硫安・硫酸・硝酸・圧縮酸素・液体アンモニアの製造を続け、業績を順に高めた。製品はアンモニアと酸の系統に限られ、苛性ソーダと塩素系の製品は1944年7月にソーダ会社3社を合併して初めて加わった。この合併で社名を東亜合成化学工業に改め、本店を東京に移した。これで硫酸・硝酸などの酸と苛性ソーダなどのアルカリを、1社で作れるようになった。合併先の昭和曹達は、福澤系の東海曹達の設備と技術を引き継いで1928年12月に設立され、名古屋に工場を置いた。戦後の名古屋工業所では、道路を挟んで旧矢作工業による硫安の部門と旧昭和曹達による曹達の部門が並んだ。酸の系統だけを持つ単独の化学会社となったことが、同じ福澤系で名古屋に工場を持つソーダ会社との合併に向かう下地になったと読み取れる。
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [47]1942年以来、硫安・硫酸・硝酸・圧縮酸素・液安などを製造して逐次業績を向上
- [50]三社合併後、酸・アルカリの二大基礎化学工業を併有し総合化学工業経営の基盤を整えた
- [51]昭和曹達は福沢系の東海曹達の設備技術を承継して1928年12月設立(工場名古屋)
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [48]1944年7月に昭和曹達・北海曹達・レーヨン曹達を吸収合併し、従来の製品に苛性曹達その他の塩素系製品を加える
- [49]1944年7月の合併で東亜合成化学工業と改称し、本店を東京に移転
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [52]名古屋工業所は道路を挟んで西工場の旧矢作工業硫安部門と東工場の旧昭和曹達曹達部門を併有
参考文献[34]-[52]
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- [34]1940年3月、親会社矢作水力に合併して同社の工業部となる
- [41]国家管理の強化により矢作水力が発送電事業を日本発送電と中部配電に譲渡して解散
- [42]1942年3月31日、矢作水力工業部の工場設備一切の現物出資により資本金2300万円の矢作工業を設立
- [47]1942年以来、硫安・硫酸・硝酸・圧縮酸素・液安などを製造して逐次業績を向上
- [50]三社合併後、酸・アルカリの二大基礎化学工業を併有し総合化学工業経営の基盤を整えた
- [51]昭和曹達は福沢系の東海曹達の設備技術を承継して1928年12月設立(工場名古屋)
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- [35]矢作工業の旧株はほぼ全株を矢作水力が所有(1937年4月の記事)
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- [36]電気事業との綜合経営で一層の事業発展を図るため1940年に矢作水力に合併
- [43]1942年に同社工業部の現物出資で旧社名の矢作工業として設立
- [52]名古屋工業所は道路を挟んで西工場の旧矢作工業硫安部門と東工場の旧昭和曹達曹達部門を併有
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- [37]矢作工業は資本金1650万円、1933年5月創立で硫安・硫酸・硝酸・液体アンモニア・酸素を製造
- [38]矢作水力は1940年3月に子会社矢作工業を合併して多角的経営を進める。1940年9月期の利益金は394万円
- [39]合併後の矢作水力の8分配当持続は確実(1940年12月の記事)
- [40]矢作水力の発電も日発に統合される模様(1940年12月の記事)
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- [44]1942年3月、工業部の工場設備一切と資本金2300万円で矢作工業として設立し製造を開始
- [48]1944年7月に昭和曹達・北海曹達・レーヨン曹達を吸収合併し、従来の製品に苛性曹達その他の塩素系製品を加える
- [49]1944年7月の合併で東亜合成化学工業と改称し、本店を東京に移転
- 企業の歴史 明治百年(1968)「東亜合成化学工業」
- [45]矢作水力は1942年に電力国家管理法で解散し、第二次矢作工業を設立。これが同社の始まり
- 投資月報 1984年「企業研究 東亞合成化学工業」
- [46]矢作水力の工業部(余剰電力で硫安・硫酸・硝酸を製造)が1942年に分離独立して矢作工業を設立
出典・参考
8件
- 会社銀行八十年史(1955)「東亜合成化学工業」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「東亜合成化学工業」
- 経済之日本 18(4) 1937年4月「矢作工業拂込增配せん」
- 経済之日本 18(10) 1937年10月「矢作工業の擴張漸次完成」
- 中央経済 11(12)(184) 1940年12月「矢作水力は好調」
- 東邦経済 13(5) 1952年「躍進的發展を遂げる 東亞合成化學工業の偉容」
- 硫安協会月報 (26) 1953年「新版工場めぐり(その4)東亞合成名古屋工業所の卷」
- 投資月報 1984年「企業研究 東亞合成化学工業」