第1章 年〜年

住友化学:新居浜の肥料製造所とアンモニア合成・染料への展開

1913年〜別子銅山の煙害を肥料に変えた新居浜の製造所と、資本金300万円で独立した住友肥料製造所

住友総本店は1913年9月22日、愛媛県新居浜に肥料製造所を設け、支配人に梶浦鎌次郎氏を充てた。別子銅山の鉱石は約40%が硫黄分で、製錬所を山麓の新居浜や沖合の四阪島へ移すたびに、亜硫酸ガスの被害が周辺の農村に広がった。別子鉱業所にいた梶浦鎌次郎氏は1908年4月、ガスから硫酸を採って過燐酸石灰にすれば、煙害を防ぎつつ農家に安い肥料を供給できるとする見積書を上申。肥料製造所の事業は、製錬の廃ガスを硫酸に変え、その硫酸で過燐酸石灰を製造するものである。最初の肥料は1915年10月4日に尾道へ出荷され、注文の殺到で一時売止めとなった。後に社長となる大屋敦氏は、新居浜の化学工業の出発点を、農民から煙害の解決を強く迫られた経緯に求めた。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「住友肥料製造所」
    • [1]1913年9月22日に住友総本店直営の肥料製造所を新居浜に設立、支配人は梶浦鎌次郎。1915年10月4日に尾道へ初出荷し注文殺到で一時売止め
    • [5]1913年9月22日に住友総本店直営の肥料製造所を新居浜に設立、支配人は梶浦鎌次郎。1915年10月4日に尾道へ初出荷し注文殺到で一時売止め
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)第一編 四章「当社の生い立ち」
    • [2]別子の鉱石は約40%が硫黄分。製錬所の新居浜・四阪島移転で煙害が拡大。梶浦鎌次郎が1908年4月に「硫酸及肥料製造に関する利益見積書」を提出し、煙害防止と安価な肥料供給を説いた
    • [3]別子の鉱石は約40%が硫黄分。製錬所の新居浜・四阪島移転で煙害が拡大。梶浦鎌次郎が1908年4月に「硫酸及肥料製造に関する利益見積書」を提出し、煙害防止と安価な肥料供給を説いた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「住友化学工業」
    • [4]銅鉱石製錬の亜硫酸ガスを処理して硫酸をつくり、その硫酸から過燐酸石灰を製造するため新居浜に肥料製造所を設置
  • 大屋敦「私の履歴書」(経済人7)
    • [6]住友化学が新居浜で総合化学工業を営むに至ったきっかけは、付近の農民から煙害解決を強く求められたことにあると大屋敦が回想

住友合資会社は1925年6月1日、直営の肥料製造所を株式会社住友肥料製造所に改めた。資本金は300万円で、払込金180万円は住友合資会社の全額出資である。組織を改めた背景には、1920年から1922年の赤字を切り抜け、1924年に50万円を超える利益を計上した業績の安定があった。取締役会長は住友合資会社常務理事の小倉正恒氏、常務取締役は支配人の梶浦鎌次郎氏である。新会社は6月3日に本店を新居浜から大阪へ移し、燐鉱石の購入や販売の判断を住友合資会社や住友銀行と同じ一画で下せるようにした。この株式会社への独立が、現在の住友化学工業の直接の前身と位置づけられている。肥料を独立採算の事業として切り出し、硫酸の新たな販路を自ら開く狙いがあったとみられる。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「株式会社住友肥料製造所」
    • [7]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [8]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [9]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [10]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [11]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「住友化学工業」
    • [12]肥料製造所が1925年6月に住友肥料製造所として独立発足したのが住友化学工業の前身

株式会社住友肥料製造所は1928年10月10日、米国のナイトロジェン・エンジニアリング社(NEC)とアンモニア合成技術の導入契約に調印した。各地の特約店は他社製品を扱えず、過燐酸石灰と配合肥料だけでは取扱量が足りないとして硫安の製造を求めていた。常務取締役の日高直次氏は会長の小倉正恒氏の支援を得て硫安への進出を決め、住友合資会社も四阪島製錬所で生じる硫酸の処分先として賛成した。NEC法は割安なコークスから水性ガスを得て水素に変える方式で、日本での採用は住友肥料製造所が最初である。機器購入で予算は822万円に膨らみ、1930年に資本金を1000万円へ増資して賄った。硫安の自給と廃ガス硫酸の処理を同時に果たすことが、アンモニア合成へ進んだ直接の動機とされる。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「株式会社住友肥料製造所」
    • [13]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [14]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [15]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [16]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [17]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
  • 『日本産業史』第1巻「化学-花開く内外の技術」(日本経済新聞社, 1994)
    • [18]住友のアンモニア合成進出は硫安の自給と増える廃ガス硫酸の処理が直接の動機
参考文献[1]-[18]
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「住友肥料製造所」
    • [1]1913年9月22日に住友総本店直営の肥料製造所を新居浜に設立、支配人は梶浦鎌次郎。1915年10月4日に尾道へ初出荷し注文殺到で一時売止め
    • [5]1913年9月22日に住友総本店直営の肥料製造所を新居浜に設立、支配人は梶浦鎌次郎。1915年10月4日に尾道へ初出荷し注文殺到で一時売止め
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)第一編 四章「当社の生い立ち」
    • [2]別子の鉱石は約40%が硫黄分。製錬所の新居浜・四阪島移転で煙害が拡大。梶浦鎌次郎が1908年4月に「硫酸及肥料製造に関する利益見積書」を提出し、煙害防止と安価な肥料供給を説いた
    • [3]別子の鉱石は約40%が硫黄分。製錬所の新居浜・四阪島移転で煙害が拡大。梶浦鎌次郎が1908年4月に「硫酸及肥料製造に関する利益見積書」を提出し、煙害防止と安価な肥料供給を説いた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「住友化学工業」
    • [4]銅鉱石製錬の亜硫酸ガスを処理して硫酸をつくり、その硫酸から過燐酸石灰を製造するため新居浜に肥料製造所を設置
    • [12]肥料製造所が1925年6月に住友肥料製造所として独立発足したのが住友化学工業の前身
  • 大屋敦「私の履歴書」(経済人7)
    • [6]住友化学が新居浜で総合化学工業を営むに至ったきっかけは、付近の農民から煙害解決を強く求められたことにあると大屋敦が回想
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「株式会社住友肥料製造所」
    • [7]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [8]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [9]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [10]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [11]1924年に利益50万円超で業績安定。1925年6月1日に株式会社住友肥料製造所へ改組、資本金300万円・払込180万円は住友合資会社の全額出資。会長小倉正恒、常務梶浦鎌次郎。6月3日に本店を大阪へ移転
    • [13]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [14]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [15]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [16]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
    • [17]特約店の硫安製造要望を受け日高直次常務が小倉会長の支援で硫安進出を決定。1928年10月10日にNECと契約調印、コークス水性ガス変成法は国内初採用。予算822万円に膨張し1930年に1000万円へ増資。1931年4月硫安販売開始
  • 『日本産業史』第1巻「化学-花開く内外の技術」(日本経済新聞社, 1994)
    • [18]住友のアンモニア合成進出は硫安の自給と増える廃ガス硫酸の処理が直接の動機

1933年〜大屋敦氏が掲げた化学工業一般への転身と、日本染料製造を合わせて得た大阪製造所

株式会社住友肥料製造所は1934年2月15日、社名を住友化学工業に改めた。改称を主導したのは、1933年12月に住友本社の経理部長兼総務部長から専務取締役に転じた大屋敦氏。大屋敦氏は事業を肥料製造にとどめず、化学工業全般へ広げる方針を掲げた。硫安の開始後、コスト低減を狙って尿素・メタノール・ホルマリンなどアンモニア系製品の研究が進み、工業薬品部門の端緒となった。1932年に陸軍から火薬用の硝酸を強く勧められ、硝酸工場を1934年2月、国内初の大規模な接触硫酸工場を同年3月に完成させた。同じ2月に資本金を2000万円へ倍増し、3月には住友の製造会社として初めて株式を公開した。住友合資会社が傘下各社の資金需要を賄いきれなくなるという懸念が、公開の理由である。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「住友化学工業株式会社へ」
    • [19]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
    • [21]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
    • [24]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
  • 大屋敦「私の履歴書」(経済人7)
    • [20]大屋敦は1933年12月に住友本社経理部長兼総務部長を辞し住友肥料製造の専務に就任、のち社名変更時に初代社長
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)「住化のアルミナ進出」
    • [22]アンモニア製造開始後に硫安コスト削減のためアンモニア系製品の研究が始まり工業薬品部門の端緒に。株式公開は合資会社の資金負担への懸念から
    • [25]アンモニア製造開始後に硫安コスト削減のためアンモニア系製品の研究が始まり工業薬品部門の端緒に。株式公開は合資会社の資金負担への懸念から
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「接触硫酸・硝酸へ進出」
    • [23]1932年に陸軍の勧奨で硝酸製造へ。硝酸工場1934年2月、日産45トンの接触硫酸工場1934年3月完成(国内初の大規模接触硫酸工場)

住友化学工業のアルミニウム事業は、住友伸銅所が使うジュラルミン原料を国産化せよという軍事上の要請から始まった。住友肥料製造所は1933年初めに新居浜工場で朝鮮産の明礬石からアルミナをつくる試験に入り、浅田法を改良した住友法を考案した。製錬会社の住友アルミニウム製錬は浅田平蔵氏との提携による設立で、事業開始は1936年5月である。政府と軍の奨励で国内のアルミニウム生産は1941年に8社11工場、6万5000トンへ拡大した。住友化学工業では1943年にアルミナ・氷晶石など軽金属関係製品が全売上高の40%を占めた。社長を務めた大屋敦氏が早くから説いた一貫生産に向け、1944年7月1日に住友アルミニウム製錬の経営を受託し、アルミナ製造所と合わせて軽金属製造所とした。

  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)「住化のアルミナ進出」
    • [26]ジュラルミン原料アルミの国産化が軍事的要請。1933年初から新居浜で明礬石原料の浅田法試験、改良した住友法を考案。浅田平蔵と共同で住友アルミニウム製錬を設立
    • [27]ジュラルミン原料アルミの国産化が軍事的要請。1933年初から新居浜で明礬石原料の浅田法試験、改良した住友法を考案。浅田平蔵と共同で住友アルミニウム製錬を設立
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)三章「軽金属事業の伸展」
    • [28]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [29]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [30]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [31]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説

住友化学工業は1944年7月1日、日本染料製造を合併し、有機化学部門を担う大阪製造所とした。日本染料製造は資本金3000万円、大阪の春日出と西島に工場を持つ国内最大の染料会社である。主力の染料は平和産業に格付けされ、原料・資材と工科系技術者の割当てを受けられなくなっていた。1943年の売上構成は医薬品が30%、軍需品が22%を占め、染料は27%にとどまった。1944年1月の軍需会社の第1回指定から漏れた日本染料製造の社長は、軍などの強い指示を受けて住友化学工業への合併を申し入れた。1945年8月には岡山の尾崎染料化学工業所の設備も譲り受け、大阪製造所岡山工場とした。日本染料製造との合併で、住友化学工業の石炭化学コンビナートがひとまず完成したと評価されている。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)八章「当社への合併」
    • [32]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [34]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [35]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [36]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)四章「大阪製造所の新設」
    • [33]日本染料製造は資本金3000万円の国内最大の染料会社(春日出・西島工場)。1945年8月に尾崎染料化学工業所の設備を譲受け大阪製造所岡山工場に
    • [37]日本染料製造は資本金3000万円の国内最大の染料会社(春日出・西島工場)。1945年8月に尾崎染料化学工業所の設備を譲受け大阪製造所岡山工場に
  • 『日本産業史』第1巻「化学-花開く内外の技術」(日本経済新聞社, 1994)
    • [38]1944年の日本染料との合併で住友化学の石炭化学コンビナートがいちおう完成
参考文献[19]-[38]
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「住友化学工業株式会社へ」
    • [19]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
    • [21]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
    • [24]1933年12月専務就任の大屋敦が化学工業一般への展開を期し1934年2月15日に社名を住友化学工業へ変更。2月資本金2000万円へ増額、3月住友の製造会社で初の株式公開
  • 大屋敦「私の履歴書」(経済人7)
    • [20]大屋敦は1933年12月に住友本社経理部長兼総務部長を辞し住友肥料製造の専務に就任、のち社名変更時に初代社長
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)「住化のアルミナ進出」
    • [22]アンモニア製造開始後に硫安コスト削減のためアンモニア系製品の研究が始まり工業薬品部門の端緒に。株式公開は合資会社の資金負担への懸念から
    • [25]アンモニア製造開始後に硫安コスト削減のためアンモニア系製品の研究が始まり工業薬品部門の端緒に。株式公開は合資会社の資金負担への懸念から
    • [26]ジュラルミン原料アルミの国産化が軍事的要請。1933年初から新居浜で明礬石原料の浅田法試験、改良した住友法を考案。浅田平蔵と共同で住友アルミニウム製錬を設立
    • [27]ジュラルミン原料アルミの国産化が軍事的要請。1933年初から新居浜で明礬石原料の浅田法試験、改良した住友法を考案。浅田平蔵と共同で住友アルミニウム製錬を設立
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「接触硫酸・硝酸へ進出」
    • [23]1932年に陸軍の勧奨で硝酸製造へ。硝酸工場1934年2月、日産45トンの接触硫酸工場1934年3月完成(国内初の大規模接触硫酸工場)
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)三章「軽金属事業の伸展」
    • [28]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [29]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [30]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
    • [31]住友アルミニウム製錬は1936年5月事業開始。1941年全国8社11工場・6.5万トン。1943年軽金属関係製品が全売上高の40%。1944年7月1日に同社経営を受託し軽金属製造所を設置、合併は大屋前社長が早くから力説
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)八章「当社への合併」
    • [32]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [34]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [35]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
    • [36]日本染料は染料が平和産業格付けで原料・資材・技術者確保に苦しむ。1943年売上は医薬品30%・軍需品22%・染料27%。1944年1月軍需会社指定漏れ、軍の指示で合併申入れ、1944年7月1日合併し大阪製造所として有機化学部門を担当
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)四章「大阪製造所の新設」
    • [33]日本染料製造は資本金3000万円の国内最大の染料会社(春日出・西島工場)。1945年8月に尾崎染料化学工業所の設備を譲受け大阪製造所岡山工場に
    • [37]日本染料製造は資本金3000万円の国内最大の染料会社(春日出・西島工場)。1945年8月に尾崎染料化学工業所の設備を譲受け大阪製造所岡山工場に
  • 『日本産業史』第1巻「化学-花開く内外の技術」(日本経済新聞社, 1994)
    • [38]1944年の日本染料との合併で住友化学の石炭化学コンビナートがいちおう完成

1945年〜「住友」を外した日新化学工業と、六分割を免れた集中排除法の指定取消

住友化学工業は1946年2月26日、社名を日新化学工業に改めた。住友本社は1945年11月の解散要綱で、住友系各社に「住友」の名称を避けるよう求めていた。連系各社で商号に「住友」を残したのは3社だけ。新社名は四書の「大学」の一節から採り、敗戦からの再起の意志を込めたものである。経営陣は1945年10月に戦時の生産責任者だった会長・社長らが辞任し、副社長の小林晴十郎氏が社長に就任していた。その小林晴十郎氏も公職追放に該当して1947年4月24日に退任し、常務取締役の土井正治氏が社長に就任した。土井正治氏は前年2月に常務へ昇進したばかりで、役員をまったく新しい顔ぶれで組み直す。土井正治氏は全社員に、政府の保護に依存しない自主独立の経営方針を示した。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「戦後処理」
    • [39]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [40]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [42]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [43]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [44]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [46]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)6章「財閥解体後の住友」
    • [41]住友本社解体に伴い連系各社は3社を残して「住友」の商号を避け社名を変更
  • 土井正治「私の履歴書」(経済人14)
    • [45]土井正治は1946年2月常務昇進、1947年4月社長就任。役員は全く新しい陣容で出発

住友化学工業は1945年10月、新居浜製造所で硫安の製造を再開し、戦後の国内肥料生産の口火を切った。戦時の食糧難に1945年の大凶作が重なり、総司令部と政府は肥料の生産再開を急いでいた。国内の硫安工場は爆撃で8割が壊れており、新居浜は9月下旬にコークス炉を補修してアンモニアの合成を再開した。新居浜・大阪両製造所の補修と人員削減を進め、1万4000名に膨らんだ全社員を1945年末までに8500名へ減らす。1946年10月の硫安生産は月1万トンで、戦後の国内で最初の水準にあたる。同年5月には総司令部の許可を得て、アルミニウム停止で余った電力を水電解に使い、アンモニア年産8万4000トンをめざす復旧計画に着手した。社長の土井正治氏によれば、1950年には硫安の生産能力が1万5000トンと全国生産の13%を占めた。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「戦後処理」
    • [47]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [48]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [49]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [50]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [51]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [52]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
  • 土井正治「私の履歴書」(経済人14)
    • [53]新居浜は戦後最初に生産再開。1950年の硫安生産能力は国内最大の1万5000トンで全国生産の13%

日新化学工業は1949年4月15日、過度経済力集中排除法の指定を取り消され、分割されずに存続した。総司令部は1947年7月22日、両製造所やアルミニウム部門、和歌山・岡山の両工場を別会社とする六分割案を示していた。社長の土井正治氏は、瀬戸内海をはさむ各工場が技術・人・原料で結び付く一体経営だと主張し、2か月半の折衝は経理部長の長谷川周重氏らが担う。土井正治氏は、三井・三菱・保土谷が同じ条件で分割されるならと条件を付けて案を受け入れた。1948年5月には四分割案に改め、9月には集中排除法の運用を緩める四原則が出る。1949年11月30日には住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲り受け、アルミニウムの一貫生産体制を得た。1950年6月の朝鮮動乱で経済が好転したとき、肥料事業の復興は前年中に終わっていた。

  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「占領政策のもとに」
    • [54]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [55]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [56]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [58]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [59]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
  • 土井正治「私の履歴書」(経済人14)
    • [57]六分割案を同業三井・三菱・保土谷と同条件ならと条件付きで受諾。集中排除法解除で住友アルミ製錬を吸収しアルミ一貫経営体制
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)五章「業績の推移と社名復帰」
    • [60]1950年6月の朝鮮動乱時、当社は前年中に肥料事業の復興を終えていた
参考文献[39]-[60]
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「戦後処理」
    • [39]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [40]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [42]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [43]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [44]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [46]住友本社解散要綱(1945年11月)で「住友」の名称回避。1945年10月16日に会長・社長ら辞任し小林晴十郎副社長が社長。1946年2月26日日新化学工業に改称(典拠は「大学」)。1947年4月24日小林社長ら追放で退任、土井正治常務が社長、自主独立の経営方針を示す
    • [47]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [48]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [49]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [50]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [51]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
    • [52]1945年10月新居浜で硫安製造再開(戦後国内初の肥料生産)。硫安工場は爆撃で8割破壊。全社1万4000名を1945年末8500名に。1946年10月硫安1万トン生産。1946年5月GHQ許可でアンモニア8.4万トン・硫安30万トン目標の復旧計画、余剰電力で水電解
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)6章「財閥解体後の住友」
    • [41]住友本社解体に伴い連系各社は3社を残して「住友」の商号を避け社名を変更
  • 土井正治「私の履歴書」(経済人14)
    • [45]土井正治は1946年2月常務昇進、1947年4月社長就任。役員は全く新しい陣容で出発
    • [53]新居浜は戦後最初に生産再開。1950年の硫安生産能力は国内最大の1万5000トンで全国生産の13%
    • [57]六分割案を同業三井・三菱・保土谷と同条件ならと条件付きで受諾。集中排除法解除で住友アルミ製錬を吸収しアルミ一貫経営体制
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「占領政策のもとに」
    • [54]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [55]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [56]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [58]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
    • [59]土井社長が各工場の相互依存と一体経営の必要を主張、長谷川周重経理部長らが2か月半折衝。1947年7月22日六分割案。1948年5月四分割案、9月四原則。1949年4月15日指定取消。1949年11月30日住友アルミニウム製錬の全設備を1705万円で譲受
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)五章「業績の推移と社名復帰」
    • [60]1950年6月の朝鮮動乱時、当社は前年中に肥料事業の復興を終えていた

出典・参考

17件
出典・参考
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「住友肥料製造所」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)第一編 四章「当社の生い立ち」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「株式会社住友肥料製造所」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「住友化学工業株式会社へ」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「接触硫酸・硝酸へ進出」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)三章「軽金属事業の伸展」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)八章「当社への合併」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)四章「大阪製造所の新設」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)一章「戦後処理」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)二章「占領政策のもとに」
  • 『住友化学工業株式会社史』(1981)五章「業績の推移と社名復帰」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「住友化学工業」
  • 『日本産業史』第1巻「化学-花開く内外の技術」(日本経済新聞社, 1994)
  • 大屋敦「私の履歴書」(経済人7)
  • 土井正治「私の履歴書」(経済人14)
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)「住化のアルミナ進出」
  • 『私の住友昭和史』(東洋経済新報社, 1988)6章「財閥解体後の住友」

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