第1章 年〜年

倉敷紡績:有限責任倉敷紡績所の創立と倉敷本社工場の操業

1888年〜倉敷村の三青年が描いた資本金10万円・5,000錘の原案と、大原孝四郎氏を頭取に迎えた創立

1887年7月、倉敷村の大橋沢三郎氏ら3人の青年は、資本金10万円・紡機5,000錘の紡績所案を岡山県知事の千阪高雅氏に内々に示した。3人の1人の小松原慶太郎氏は前年12月の官民親睦会で、村の綿花を綿のまま出荷せず、綿糸に加工して販売すべきだと説いた。倉敷は綿の産地と商業の町として栄え、紡績による殖産を望む地元の若い有志の熱意が創立の起点となった。発起人は周辺の有力者に出資を勧めて約8万円の株式応募の見込みを得たうえで、案の数字を定めた。商法の施行前で、多人数が出資する共同事業には知事の営業許可が必要だった。知事の内意を先に得たのは、許可の審査で計画が退けられる危険を事前に減らすためとみられる。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [1]1887年7月、三青年(大橋沢三郎・小松原慶太郎・木村利太郎)が資本金10万円・紡機5,000錘の原案を千阪高雅岡山県知事に内々に相談
    • [2]1886年12月の官民親睦会で小松原慶太郎が、綿花を紡糸にして販売する紡績企業化を説いた
    • [4]発起人が周辺の有力者を勧誘し、約8万円の株式応募見込みを得て原案を作成
    • [5]商法施行前は多人数出資の共同事業に知事の営業許可が必要だった
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [3]綿産地・商業都市の倉敷に紡績業を興して殖産を図ろうとする地元の若い有志の熱意が創立につながった

1888年3月4日、発起人は倉敷村の誓願寺での創立総会で、有限責任倉敷紡績所を設けて大原孝四郎氏を初代頭取に選んだ。前年に知事の千阪高雅氏は、他県で1万錘の紡績所が建つ時勢を挙げて慎重な立案を求めた。発起人は村一番の資産家だった大原孝四郎氏を訪ね、他の出資で足りない額は自ら引き受けるという約束を得た。1888年2月に頭取の内定を公表すると株式の申込みが相次ぎ、8万8,500円(885株)の見込みが立った。総会では資本金20万円・1万錘の原案に対し、大原孝四郎氏が応募の実情から資本金10万円で先に始業する案を示し、定款を改めた。創立時の設備は精紡機4,472錘で、倉敷村の資産家を頭に据えた会社として出発した。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [6]1888年3月4日、誓願寺で有限責任倉敷紡績所の創立総会を開き、大原孝四郎が初代頭取に就任
    • [7]千阪高雅知事は他県で1万錘の紡績が建設される時代であるとして十分慎重な対処を勧告
    • [8]大原孝四郎は他方面の出資を先に集め、不足分は自ら引き受けると発起人に応じた
    • [9]1888年2月に大原孝四郎の頭取内定を公表し、株式応募見込みが8万8,500円(885株)に
    • [10]創立総会で大原孝四郎が資本金20万円・1万錘の原案を2回に分け、第1回を資本金10万円・5,000錘とする案を出し定款を変更
  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
    • [11]1888年3月、大原孝四郎を中心に精紡機4,472錘・資本金10万円で創立

1889年10月、倉敷紡績所は倉敷の工場で綿糸の製造を始め、20日の初出荷から販路の開拓に着手した。紡機は三井物産を通じて据えた英国プラット社の最新型リング精紡機で、未熟練の工員でも扱える設備である。隣村玉島の陶器店がまず取引に応じ、特約店は約10店から岡山・広島・九州・大阪にわたる計37店へ増えた。操業71日間の第1期は売上高3万9,592円8銭・純利益4,743円70銭を計上し、配当は1割6分5厘。1890年の第3回内国勧業博覧会では綿糸が2等有功賞を受け、県内先発3社の3等を上回った。後発の小工場が販路を得られたのは、新鋭機による品質を最初に示したためと推察される。

  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
    • [12]1889年10月、倉敷工場で綿糸製造を開始
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [13]三井物産を通じ英プラット社の最新型リング精紡機を導入。リング精紡機は未熟練工でも運転できた
  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [14]玉島の陶器店が最初に取引に応じ、特約店は約10店から岡山18・広島5ほか計37店に
    • [15]第1期(1889年10月20日〜12月30日、71日間)売上高3万9,592円8銭、純利益4,743円70銭、配当1割6分5厘
    • [16]1890年第3回内国勧業博覧会で綿糸が2等有功賞、県内先発3社は3等
参考文献[1]-[16]
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [1]1887年7月、三青年(大橋沢三郎・小松原慶太郎・木村利太郎)が資本金10万円・紡機5,000錘の原案を千阪高雅岡山県知事に内々に相談
    • [2]1886年12月の官民親睦会で小松原慶太郎が、綿花を紡糸にして販売する紡績企業化を説いた
    • [4]発起人が周辺の有力者を勧誘し、約8万円の株式応募見込みを得て原案を作成
    • [5]商法施行前は多人数出資の共同事業に知事の営業許可が必要だった
    • [6]1888年3月4日、誓願寺で有限責任倉敷紡績所の創立総会を開き、大原孝四郎が初代頭取に就任
    • [7]千阪高雅知事は他県で1万錘の紡績が建設される時代であるとして十分慎重な対処を勧告
    • [8]大原孝四郎は他方面の出資を先に集め、不足分は自ら引き受けると発起人に応じた
    • [9]1888年2月に大原孝四郎の頭取内定を公表し、株式応募見込みが8万8,500円(885株)に
    • [10]創立総会で大原孝四郎が資本金20万円・1万錘の原案を2回に分け、第1回を資本金10万円・5,000錘とする案を出し定款を変更
    • [13]三井物産を通じ英プラット社の最新型リング精紡機を導入。リング精紡機は未熟練工でも運転できた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [3]綿産地・商業都市の倉敷に紡績業を興して殖産を図ろうとする地元の若い有志の熱意が創立につながった
  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
    • [11]1888年3月、大原孝四郎を中心に精紡機4,472錘・資本金10万円で創立
    • [12]1889年10月、倉敷工場で綿糸製造を開始
  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [14]玉島の陶器店が最初に取引に応じ、特約店は約10店から岡山18・広島5ほか計37店に
    • [15]第1期(1889年10月20日〜12月30日、71日間)売上高3万9,592円8銭、純利益4,743円70銭、配当1割6分5厘
    • [16]1890年第3回内国勧業博覧会で綿糸が2等有功賞、県内先発3社は3等

1890年〜創業直後の恐慌で強いられた操業短縮と、中国綿・複式簿記で固めて三万錘へ増設を進めた倉敷本社工場

1890年6月、倉敷紡績所は紡績連合会の操業短縮に加わり、夜間操業を休止した。操業2年目の倉敷紡績所が直面したのは、国内で初めての資本主義的恐慌である。全国の紡績業は1887〜1889年に工場数が1.7倍、錘数と生産高が約3倍となり、1890年に供給過剰へ陥った。紡績連合会は6月15日から3カ月間、定期休業を月2昼夜から8昼夜に増やし、綿糸輸出税と綿花輸入税の撤廃運動も起こすと決めた。販売の拡大に入ったばかりの倉敷紡績所は直ちには賛成せず、会議の内容を検討した末に業界へ協調した。前年12月に34社目として加盟した新参の立場から、業界との協調を優先したと思われる。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [17]1890年、紡連の操短決定に対し倉敷紡績所は夜間操業を休止して協調
    • [19]1887〜1889年に紡績工場数1.7倍・錘数と生産高約3倍、1890年に供給過剰と2,500万円の入超
    • [20]紡連は40日の討議を経て、1890年6月15日から3カ月間、定期休業を月2昼夜から8昼夜とする操短と、綿糸輸出税・綿花輸入税の撤廃運動を決定
    • [21]販売拡大体制に入ったばかりで直ちに操短に賛成できず、検討の末に協調
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [18]創業後の1890年、日本最初の資本主義的恐慌に見舞われ、これを克服

恐慌を越えた倉敷紡績所は、費用の低さを競争優位として、岡山県内に続き玉島紡績所の地盤だった備後や熊本の市場へ取引を広げた。工員は周辺の村から集め、1890年6月の女子の日給6銭7厘は全国平均の8銭1厘2毛を下回る水準にあたる。原料には紡機に合い価格も安い中国綿を早くから用い、経費は複式簿記で製品百匁当たりまで計算して抑えた。売上の入金が滞る取引先が出たため、1891年7月に倉敷銀行を開業させ、大原孝四郎氏が頭取に就任した。1893年7月には商法の施行に合わせて商号を倉敷紡績株式会社と改め、大原孝四郎氏は取締役社長となった。賃金・原料・経理の3面で費用を詰めたことが、後発の工場が先発の地盤へ入る条件になったと考えられる。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [22]岡山県内で販売地盤を得た後、玉島紡績所の地盤の備後、在阪紡績が独占した熊本へ進出
    • [23]周辺の村から比較的安価な労働力を集めた。1890年6月の1日当たり平均賃金、女子は当社6銭7厘・全国8銭1厘2毛
    • [24]原料を国内綿から紡機に適し安価な中国綿へ早期に移し、複式簿記で製品百匁当たり経費など単位当たり数値を分析して節減
    • [26]1893年7月の定時総会で商号を倉敷紡績株式会社に変更し、頭取を社長に改称
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [25]取引先の入金遅れで資金が繁忙となり倉敷銀行を設立。大原孝四郎は1891年7月15日に倉敷銀行頭取に就任

倉敷紡績は1906年5月、第5次増設の7,568錘を全運転し、倉敷本社工場を2万9,584錘の三万錘工場にした。日清戦争前後の増設で、1897年3月には2万2,016錘と、岡山県内で玉島紡績所を上回る2位の規模。1900年から1901年の恐慌では増設を見合わせ、新綿が出回る安値期に原綿を大量に仕入れて原料費を下げ、赤字を出さなかった。岡山紡績から備前紡績・味野紡績とともに合同する勧誘を受けたものの、各社の借入の重さを調べたうえで断った。創立時の精紡機は4,472錘で、倉敷本社工場の設備は18年で約6.6倍に広がった。恐慌期に費用を詰めて財務を守ったことが、日露戦後の増設を支えたとうかがえる。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [27]第5次増設7,568錘が1906年5月に全運転し、倉敷本社工場は2万9,584錘の三万錘工場に
    • [28]1897年3月に2万2,016錘となり、県内で玉島紡績所を抜き岡山紡績に次ぐ2位に
    • [29]1900〜1901年の恐慌で増改修を見合わせ、原綿の安値期大量仕入れ等で原料費を下げ赤字に陥らなかった
    • [30]岡山紡績から備前紡績・味野紡績とともに大同合併を勧誘されたが、各社の借金を調べて断った
  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
    • [31]1888年の創立時の設備は精紡機4,472錘
参考文献[17]-[31]
  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
    • [17]1890年、紡連の操短決定に対し倉敷紡績所は夜間操業を休止して協調
    • [19]1887〜1889年に紡績工場数1.7倍・錘数と生産高約3倍、1890年に供給過剰と2,500万円の入超
    • [20]紡連は40日の討議を経て、1890年6月15日から3カ月間、定期休業を月2昼夜から8昼夜とする操短と、綿糸輸出税・綿花輸入税の撤廃運動を決定
    • [21]販売拡大体制に入ったばかりで直ちに操短に賛成できず、検討の末に協調
    • [22]岡山県内で販売地盤を得た後、玉島紡績所の地盤の備後、在阪紡績が独占した熊本へ進出
    • [23]周辺の村から比較的安価な労働力を集めた。1890年6月の1日当たり平均賃金、女子は当社6銭7厘・全国8銭1厘2毛
    • [24]原料を国内綿から紡機に適し安価な中国綿へ早期に移し、複式簿記で製品百匁当たり経費など単位当たり数値を分析して節減
    • [26]1893年7月の定時総会で商号を倉敷紡績株式会社に変更し、頭取を社長に改称
    • [27]第5次増設7,568錘が1906年5月に全運転し、倉敷本社工場は2万9,584錘の三万錘工場に
    • [28]1897年3月に2万2,016錘となり、県内で玉島紡績所を抜き岡山紡績に次ぐ2位に
    • [29]1900〜1901年の恐慌で増改修を見合わせ、原綿の安値期大量仕入れ等で原料費を下げ赤字に陥らなかった
    • [30]岡山紡績から備前紡績・味野紡績とともに大同合併を勧誘されたが、各社の借金を調べて断った
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [18]創業後の1890年、日本最初の資本主義的恐慌に見舞われ、これを克服
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [25]取引先の入金遅れで資金が繁忙となり倉敷銀行を設立。大原孝四郎は1891年7月15日に倉敷銀行頭取に就任
  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
    • [31]1888年の創立時の設備は精紡機4,472錘

1906年〜大原孫三郎氏の社長就任と、46万円で取得した吉備紡績所の玉島工場

1906年9月2日、大原孫三郎氏は臨時株主総会で取締役に選ばれ、26歳で倉敷紡績の第2代社長に就任した。父の大原孝四郎氏が社長と倉敷銀行頭取を退任したのは、同年8月15日である。大原孫三郎氏は1901年1月の入社後、工場に職工教育部と寄宿舎内の尋常小学校を設け、炊事や採用を請け負う飯場制度を廃止した。社長就任後の1907年からは、大学・高等専門学校の新卒者ら30人を上回る人材を採用。1907年3月には1万2,480坪の土地を福利施設用地に充て、76棟の平屋の分散式家族的寄宿舎を1912年12月までに建てた。約1,000人が雑居する寄宿舎で疫病が出て社会問題となった経験が、寄宿舎の建て替えを急がせたと推測される。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)三章 近代経営の発展
    • [32]1906年9月2日の臨時株主総会で大原孫三郎が取締役に選任され社長に。当時26歳
    • [34]1901年1月入社後、1902年に職工教育部と寄宿舎内の尋常小学校を設置し、飯場制度を全廃
    • [35]1907年から数年間に大学・高等専門学校の新卒者ら30人超を採用
    • [36]1907年3月、1万2,480坪を福利施設用地とし、76棟の分散式家族的寄宿舎を1912年12月に全部竣工
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [33]大原孝四郎は1906年8月15日に社長および倉敷銀行頭取を退任

1908年11月25日、倉敷紡績は臨時株主総会で吉備紡績所を46万円で取得する契約を承認し、資本金を60万円に増資した。同年ごろ三重紡績は17万9,604錘に達し、倉敷紡績は2万9,584錘にとどまった。倉敷本社工場は敷地の制約で増設できず、新工場の建設は電力による動力の転換を見極めるまで待った。坂本合資会社の吉備紡績所は中国向け輸出の途絶で行き詰まり、三井物産と第二十二国立銀行の管理下にあった。倉敷紡績は買収額が資本金を上回るという異論を退け、11月28日に玉島工場と名づけて2工場5万8,920錘の体制とした。大原孫三郎氏は吉備紡績所の取得に続き、電力を使う万寿工場の新設へ進んだ。

  • 倉敷紡績百年史(1988年)三章 近代経営の発展
    • [37]1908年11月25日臨時株主総会で坂本合資会社吉備紡績所の買収(46万円)と増資20万円・新資本金60万円を承認
    • [38]1908年ごろ三重紡績17万9,604錘、当社は倉敷本社工場の2万9,584錘
    • [39]倉敷本社工場は敷地の制約で増設できず、新工場は動力革命の先行きを見極めるため時日を要し、当面は既設会社の買収に絞った
    • [40]吉備紡績所は1908年に中国向け輸出途絶で行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下に
    • [41]資本金を上回る買収に異論もあったが踏み切り、11月28日に玉島工場と命名し2工場計5万8,920錘に
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [42]大原孫三郎の社長就任以後、吉備紡績所の買収、万寿工場の新設などを実施
参考文献[32]-[42]
  • 倉敷紡績百年史(1988年)三章 近代経営の発展
    • [32]1906年9月2日の臨時株主総会で大原孫三郎が取締役に選任され社長に。当時26歳
    • [34]1901年1月入社後、1902年に職工教育部と寄宿舎内の尋常小学校を設置し、飯場制度を全廃
    • [35]1907年から数年間に大学・高等専門学校の新卒者ら30人超を採用
    • [36]1907年3月、1万2,480坪を福利施設用地とし、76棟の分散式家族的寄宿舎を1912年12月に全部竣工
    • [37]1908年11月25日臨時株主総会で坂本合資会社吉備紡績所の買収(46万円)と増資20万円・新資本金60万円を承認
    • [38]1908年ごろ三重紡績17万9,604錘、当社は倉敷本社工場の2万9,584錘
    • [39]倉敷本社工場は敷地の制約で増設できず、新工場は動力革命の先行きを見極めるため時日を要し、当面は既設会社の買収に絞った
    • [40]吉備紡績所は1908年に中国向け輸出途絶で行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下に
    • [41]資本金を上回る買収に異論もあったが踏み切り、11月28日に玉島工場と命名し2工場計5万8,920錘に
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
    • [33]大原孝四郎は1906年8月15日に社長および倉敷銀行頭取を退任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績
    • [42]大原孫三郎の社長就任以後、吉備紡績所の買収、万寿工場の新設などを実施

出典・参考

5件
出典・参考
  • 倉敷紡績百年史(1988年)一章 会社の創立
  • 倉敷紡績百年史(1988年)二章 企業基礎の確立
  • 倉敷紡績百年史(1988年)三章 近代経営の発展
  • 会社銀行八十年史(1955年)倉敷紡績
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)倉敷紡績

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