大原孝四郎
倉敷紡績・元取締役社長
社長就任 1888年3月
生年月日 —
学歴 簡塾(森田節斎)
出自 —
- 出自
- 天保4年(1833)に岡山の藤田家の三男・藤田幸三郎として生まれ、安政5年(1858)に24歳で倉敷の大原家へ養嗣子として入った。養父大原壮平は呉服・繰綿問屋・米穀問屋・金融を多面的に営み、庄屋も務めた家業を残した。孝四郎氏はその資産をさらに増やし、明治20年(1887)当時は300町歩を持つ倉敷村一番の資産家となっていた。紡績業も工場経営も手掛けたことはなく、経営を託される裏づけは地主としての資力にあったとみられる。
- 抜擢
- 明治19年(1886)から倉敷村の大橋沢三郎氏・小松原慶太郎氏・木村利太郎氏の3人が紡績所の設立を唱えたが、いずれも20歳代で、10万円の資金を集めきれなかった。発起人は村の富豪である大原家に出資を求め、孝四郎氏は他の出資を先に集め足りない分は自分が引き受けると答えた。明治21年(1888)2月、発起人は孝四郎氏を頭取に内定した旨を先に公表して株式を募り、応募は8万8,500円に達した。同年3月4日の創立総会で選ばれた取締役5人の中から初代頭取に就いた。
- 施策
- 創立総会では資本金20万円・紡機1万錘の定款原案を二回に分け、まず10万円・5,000錘で始めることを自ら提案して可決させた。明治26年(1893)3月に第一次増設5,504錘を動かし、27年12月に1万664錘として1万錘会社の目標に届いた。27年7月には半額増資で第三次増設4,816錘を決め、28年から商標「三馬」を付けて中国向け綿糸輸出を始めた。在任18年で増設5回・増資4回を重ね、織布へは広げず紡績一本で通し、合併の誘いも退けて3万錘規模とした。
- 評価
- 執筆予定
就任前-
退任時-
変化-
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退任時-
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