大原孫三郎
経歴1906〜1939年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1906年主要役職の状況(推定含む目安)1939年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 倉敷紡績 | 1906 | 取締役社長 | ||
| 1939 | 社長 退任 |
中興ストーリー
中興ストーリー
大原孫三郎氏は1906年9月の臨時株主総会で取締役に選ばれ、26歳で倉敷紡績の第二代社長に就任した。父の大原孝四郎氏が率いた創業からの18年間、同社は倉敷本社工場の1か所だけを運営し、紡績設備は2万9,584錘にとどまっていた。同じころ三重紡績と鐘淵紡績はそれぞれ17万錘を超え、業界では合併による大型化が進み、1906年2月には岡山県当局も県下の紡績会社に合同を勧めていた。社内では寄宿舎の過密と飯場制度の弊害が重なり、伝染病への対応が社会問題となったうえ、賃上げを求めるストライキも起きていた。
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第一節「社長就任」
- [1]明治三十九年(一九〇六)九月二日の臨時株主総会で、大原孫三郎は取締役に選任され、更に社長に選ばれ、当社第二代社長が誕生した。当時二十六歳
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第四節「事業拡大のまとめ」
- [2]当社は、創業から十八年間、倉敷本社工場一つを守り、それを二万九、五八四錘とした
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章「吉備紡績所の買収」
- [3]明治四十一年ごろには三重紡績十七万九、六〇四錘、鐘淵紡績十七万九、一六八錘に対し、当社は倉敷本社工場の二万九、五八四錘の規模。紡績の合併で会社は大型化。明治三十九年二月、岡山県当局も県下各紡績会社に対し合同を勧めてきた
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第一節「企業内教育と福利」
- [4]寄宿舎が狭くスラム化し、炊事を担当する飯場制度にも弊害が目立った。舎内に悪疫が発生し、これに対する社内の処理が不適切で社会問題となり、賃上げを求めてストライキが発生するなど問題が重なった
同社は県の勧めた合同に加わらず、自社の力で設備を広げると決めた。手段は新工場の建設と既設会社の買収の二つで、当面は買収に絞った。1908年11月、経営に行き詰まって三井物産などの管理下にあった吉備紡績所を、資本金を上回る資金で買い取り、玉島工場とした。これで同社は2工場・5万8,920錘の会社になった。続いて1912年12月に万寿工場の地鎮祭を行い、電動機と鉄道輸送を前提に3万錘の設備を一度に備える新工場を建てた。1918年には讃岐紡績と松山紡績を相次いで合併している。
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章「吉備紡績所の買収」
- [5]進路は新工場の建設と既設会社の合併・買収の二つで、当面は既設会社の買収に絞られた。経営に行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下にあった坂本合資会社吉備紡績所を、資本金を上回る資金を投じて買収。明治四十一年十一月に売買仮契約、臨時株主総会で承認。玉島工場と命名し、倉敷本社工場と合わせて二つの工場に合計五万八、九二〇錘の紡機を有する会社になった。合同の勧めの中で当社は栄誉ある孤立を貫いた
- [6]進路は新工場の建設と既設会社の合併・買収の二つで、当面は既設会社の買収に絞られた。経営に行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下にあった坂本合資会社吉備紡績所を、資本金を上回る資金を投じて買収。明治四十一年十一月に売買仮契約、臨時株主総会で承認。玉島工場と命名し、倉敷本社工場と合わせて二つの工場に合計五万八、九二〇錘の紡機を有する会社になった。合同の勧めの中で当社は栄誉ある孤立を貫いた
- [7]進路は新工場の建設と既設会社の合併・買収の二つで、当面は既設会社の買収に絞られた。経営に行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下にあった坂本合資会社吉備紡績所を、資本金を上回る資金を投じて買収。明治四十一年十一月に売買仮契約、臨時株主総会で承認。玉島工場と命名し、倉敷本社工場と合わせて二つの工場に合計五万八、九二〇錘の紡機を有する会社になった。合同の勧めの中で当社は栄誉ある孤立を貫いた
- [8]進路は新工場の建設と既設会社の合併・買収の二つで、当面は既設会社の買収に絞られた。経営に行き詰まり三井物産と第二十二国立銀行の管理下にあった坂本合資会社吉備紡績所を、資本金を上回る資金を投じて買収。明治四十一年十一月に売買仮契約、臨時株主総会で承認。玉島工場と命名し、倉敷本社工場と合わせて二つの工場に合計五万八、九二〇錘の紡機を有する会社になった。合同の勧めの中で当社は栄誉ある孤立を貫いた
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第三節「万寿工場の建設・本店事務所の移転」
- [9]万寿工場の建設。原料搬入・製品出荷を船便から鉄道輸送に代え、三万錘の紡績設備を擁する工場を一気に作り上げ、精紡機にレパルジョン・モーターを導入。地鎮祭は大正元年十二月
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章「讃岐紡績、松山紡績の合併」
- [10]讃岐紡績、松山紡績の合併。大正七年(一九一八)三月三十日に合併、松山紡績とは大正七年六月三十日合併にこぎつけた
1906年から1924年までの18年間で、工場は9か所、紡績設備は23万1,348錘と約8倍になった。全国の紡績設備に占める割合は2%から4.5%へ上がり、織布の設備も兼営した。拠点は倉敷から中国・四国・近畿へ広がり、社史はこの過程を地方紡績からの脱皮と記している。第一次大戦後の反動不況に入ると、大原孫三郎氏は1922年に原綿と営業の方針決定を自ら直轄し、新たに4人の取締役を加えた。
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第四節「事業拡大のまとめ」
- [11]明治三十九年(一九〇六)から大正十三年(一九二四)までの十八年間に、工場数は合計九工場に、紡績設備は二十三万一、三四八錘へと約八倍になった。当社設備の全国シェアは二%から四・五%へ上がり、織布設備も兼営。倉敷から出発して中国、四国、近畿の各地区に事業所を設置し、地方紡績からの脱皮を完全に果たした
- [12]明治三十九年(一九〇六)から大正十三年(一九二四)までの十八年間に、工場数は合計九工場に、紡績設備は二十三万一、三四八錘へと約八倍になった。当社設備の全国シェアは二%から四・五%へ上がり、織布設備も兼営。倉敷から出発して中国、四国、近畿の各地区に事業所を設置し、地方紡績からの脱皮を完全に果たした
- [13]明治三十九年(一九〇六)から大正十三年(一九二四)までの十八年間に、工場数は合計九工場に、紡績設備は二十三万一、三四八錘へと約八倍になった。当社設備の全国シェアは二%から四・五%へ上がり、織布設備も兼営。倉敷から出発して中国、四国、近畿の各地区に事業所を設置し、地方紡績からの脱皮を完全に果たした
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章「業績の推移」(大正期の組織改革)
- [14]大正九年春以降の反動不況を受け、大正十一年には大原孫三郎社長自らが原綿、営業の方針決定を直轄するとともに、四人の取締役を新たに選任し組織を改めた
綿紡の外へ出る先として、同社は製糸や絹糸紡績ではなく、欧州で事業化が進んでいたレーヨンを選んだ。1925年2月に人絹を兼営する方針を固め、同年9月には京都市に研究所を置いて技術の研究に入った。1926年6月、人造絹糸の製造を目的とする倉敷絹織を別会社として創立し、同社の株式20万株のうち10万株を引き受けた。倉敷絹織は昭和初期の不況を経て1933年以降に業績を立て直した。1935年5月には羊毛の新事業を担う倉敷毛織も、別会社の形で設立している。
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第三章第六節「倉敷絹織の設立」
- [15]製糸業や絹糸紡績業は既に古い事業で、羊毛紡績は不況下にあったため、欧州で事業化されていたレーヨン工業に着目。大正十四年二月に人絹を兼営する方針を固め、京都帝国大学の福島郁三博士の技術指導を受け入れ、同年九月に京都市に京化研究所を新設
- [16]製糸業や絹糸紡績業は既に古い事業で、羊毛紡績は不況下にあったため、欧州で事業化されていたレーヨン工業に着目。大正十四年二月に人絹を兼営する方針を固め、京都帝国大学の福島郁三博士の技術指導を受け入れ、同年九月に京都市に京化研究所を新設
- [17]大正十五年一月の取締役会で、人造絹糸の製造加工を目的とする新会社の株式二十万株中十万株を引き受け出資することを決議。倉敷絹織は大正十五年六月二十四日に創立総会(後の倉敷レイヨン、現・クラレ)
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第四章「倉敷絹織株価の値上がり」
- [18]昭和八年(一九三三)から当社の業績回復が本格化してきたとき、先に設立した倉敷絹織も創業当時数年の苦境を脱出した
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第四章「倉敷毛織の設立と合併」
- [19]昭和十年(一九三五)五月、新事業を担当する別会社、倉敷毛織を設立
1939年1月、欧米の視察から戻った長男の大原總一郎氏が取締役に選ばれ、同月には本店に総務・営業・工務の3部を置く部制へ組織を改めた。還暦を前にした大原孫三郎氏の辞任の申し出には、「今後の社長は、大綱を統率するだけでなく、直接業務に関与参画し、事態の変化に即応した指導をしていかねばならない」とある。同年5月の取締役会はこれを承認し、筆頭役員の神社柳吉氏を後任に推して、大原孫三郎氏は相談役に退いた。在任は33年に及び、大原總一郎氏は1941年1月に第四代社長に就任した。
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第四章「大原孫三郎社長の退任」
- [20]長男大原總一郎は昭和十三年十二月に欧米の旅から帰朝し、翌十四年一月の総会で当社取締役に選任された。昭和十四年一月に業務組織を変更し、本店に総務部、営業部、工務部の三部十課制を設けた
- [21]還暦を前にしていた大原孫三郎社長は「今後の社長は、大綱を統率するだけでなく、直接業務に関与参画し、事態の変化に即応した指導をしていかねばならない」として辞任を申し出た。昭和十四年五月の取締役会はこれを承認し、後任社長に筆頭役員の神社常務を推薦。大原孫三郎は相談役に就任。明治三十九年九月以来三十三年
- [22]還暦を前にしていた大原孫三郎社長は「今後の社長は、大綱を統率するだけでなく、直接業務に関与参画し、事態の変化に即応した指導をしていかねばならない」として辞任を申し出た。昭和十四年五月の取締役会はこれを承認し、後任社長に筆頭役員の神社常務を推薦。大原孫三郎は相談役に就任。明治三十九年九月以来三十三年
- 倉敷紡績『倉敷紡績百年史』(1988年)第四章
- [23]昭和十六年(一九四一)一月六日、大原總一郎は取締役会の決議により第四代社長に就任した
参考文献1件
参考文献
- 倉敷紡績百年史(1988)歴代社長(第二代社長 明治39年9月〜昭和14年5月)
事実根拠:出所(倉敷紡績)