ニップン:東京深川扇橋での欧米式機械製粉による日本製粉の開業
1896年〜浅草の官営製粉所から深川扇橋へ渡った機械と、資本金30万円の日本製粉
1879年秋、大蔵省は浅草蔵前の米倉に製粉所を設け、欧米式工場の手本にしようとした。据えたのは、内務次官の松方正義氏がパリ万国博覧会の帰途に求めた石臼製粉器2台で、能力は30バーレルだった。製品も採算も振るわず、大蔵省は1886年にこの製粉機を実業家の雨宮敬次郎氏へ払い下げた。自前の石臼と併せて雨宮敬次郎氏が興したのが、軍に納めるパンと小麦粉を作る有限責任日本製粉会社。1888年には工場を深川東扇橋町の自己所有地へ移したものの、陸海軍の購買が競争入札に改まると製粉から撤退した。1889年に経営を引き継いだ志摩万次郎氏も販路を得られず、負債を重ねて1892年に事業を断念している。石臼を汽力で回すだけの工場では、製品が在来のうどん粉と変わらず、価格で水車製粉に及ばなかった。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 東京・浅草の官営製粉所と民間の製粉工場」
- [1]1879年秋、大蔵省常平局が浅草蔵前の米廩に松方正義内務次官持ち帰りの石臼製粉器2台(30バーレル)で製粉所を設置、民間の範とする目的
- [2]1879年秋、大蔵省常平局が浅草蔵前の米廩に松方正義内務次官持ち帰りの石臼製粉器2台(30バーレル)で製粉所を設置、民間の範とする目的
- [3]官営製粉所は不成績で1886年に雨宮敬次郎へ払下げ。雨宮は自己設備と合わせ有限責任日本製粉会社(資本金20万円)を創立し軍用パン・小麦粉を製造
- [4]官営製粉所は不成績で1886年に雨宮敬次郎へ払下げ。雨宮は自己設備と合わせ有限責任日本製粉会社(資本金20万円)を創立し軍用パン・小麦粉を製造
- [5]1888年春に工場を深川東扇橋町の雨宮所有地へ移転。陸海軍の購買が競争入札制になり雨宮は工場を志摩万次郎に譲渡し会社を解散
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 日本製粉株式会社設立の経緯」
- [6]1889年4月に志摩万次郎が経営を引継ぐも販路不足で負債累積、1892年に事業を放棄し整理を境豊吉に託す
- 企業の現代史 46(1964)「粉食文化のパイオニア(日本製粉)」
- [7]内地の製粉所は舶来の石臼を用いただけで製品が在来のうどん粉と差がなく、価格で水車製粉にかなわなかった
志摩万次郎氏から整理を託された弁護士の境豊吉氏は、会社を清算せずに事業を残す方針を立てた。最大の債権者だった第四十銀行頭取の南条新六郎氏は、輸入粉の流入を抑えることを自らの務めと考え、経営の責任を引き受けた。2人は旧会社を解散して債権を出資に振り替え、1893年7月に資本金5万円の東京製粉合資会社を設立した。南条新六郎氏と境豊吉氏が優先したのは、軍納や輸出で一時の利益を狙った前の経営を改め、国内の販路を固めることである。同年10月の操業後も、水車粉と関税のかからないメリケン粉に挟まれ、売り先は定まらなかった。1894年7月に日清戦争が始まると軍の糧食にパンが採用され、国内随一の75バーレルを持つ東京製粉がその小麦粉を大量に受注した。戦後もパン用の需要は残り、うどん用と併せて工場を回せるようになった。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 日本製粉株式会社設立の経緯」
- [8]境豊吉は志摩から整理を託されたが、解散・資産処分を惜しみ事業継続を図る
- [11]南条・境は軍納や輸出での一時的利益を狙わず国内市場の販路獲得を方針とした。1893年10月操業、水車粉と無関税のメリケン粉に押され経営難
- [12]南条・境は軍納や輸出での一時的利益を狙わず国内市場の販路獲得を方針とした。1893年10月操業、水車粉と無関税のメリケン粉に押され経営難
- [13]1894年7月の日清戦争で軍用パンが採用され、75バーレル(内地随一)の東京製粉が大量受注。戦後もパン用粉需要が増え好成績
- [14]1894年7月の日清戦争で軍用パンが採用され、75バーレル(内地随一)の東京製粉が大量受注。戦後もパン用粉需要が増え好成績
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- [9]南条新六郎は第四十銀行頭取で、輸入粉の防遏を自分の使命と常々語っていた
- 企業の現代史 46(1964)「粉食文化のパイオニア(日本製粉)」
- [10]境豊吉が南条新六郎・長尾三十郎ら債権者と相談し債権を出資に振替え、資本金5万円で東京製粉合資会社を1893年に創立
日清戦争期の好成績で自信を得た南条新六郎氏と境豊吉氏は、ロール製粉機を輸入し、株式会社に改めて資本を広く調達すると決めた。所要資金は旧会社の資産の譲り受けと機械・建屋・運転資金を合わせて7万円前後と見積もられた。南条新六郎氏は自ら700株を引き受け、日本精製糖の出資者と館林の旧士族を誘って創業資金の大半を調達した。1896年9月26日、創立総会を経て資本金30万円の日本製粉株式会社が発足。2日後の取締役会は、社長に南条新六郎氏、専務取締役に境豊吉氏を選んだ。製粉機は日本精製糖の鈴木藤三郎氏が渡米して注文し、1897年9月に扇橋の新工場で運転が始まった。本店工場の所在地は深川区東扇橋で、出発時の能力は200バーレルである。石臼の旧工場は同年11月に止め、建物を倉庫に転用した。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 日本製粉株式会社設立の経緯」
- [15]1894-95年の好成績を受け、ロール製粉機を輸入し株式会社に改組して資本を広く調達する構想
- [16]資本金30万円。所要資金は東京製粉資産買収約2万円・機械約2万円・建築約1万円・運転資金約2万円の計7万円前後の見積り
- [18]1896年9月26日創立総会、9月28日の取締役会で南条新六郎社長・境豊吉専務を選任
- [19]1896年9月26日創立総会、9月28日の取締役会で南条新六郎社長・境豊吉専務を選任
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- [17]南条新六郎は700株を出資して最大株主となり、日本精製糖グループと館林旧士族を勧誘して創業資金の大半を調達
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 機械製粉の創始とその成功」
- [20]鈴木藤三郎が1896年8月にサンフランシスコで200バーレルの製粉機械を注文。1897年9月にロール製粉機の運転に成功、旧石臼工場は同年11月に操業中止し倉庫化
- [22]鈴木藤三郎が1896年8月にサンフランシスコで200バーレルの製粉機械を注文。1897年9月にロール製粉機の運転に成功、旧石臼工場は同年11月に操業中止し倉庫化
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [21]当初は本店工場を深川区東扇橋に置き製粉能力200バーレル、資本金30万円で発足
参考文献[1]-[22]
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 東京・浅草の官営製粉所と民間の製粉工場」
- [1]1879年秋、大蔵省常平局が浅草蔵前の米廩に松方正義内務次官持ち帰りの石臼製粉器2台(30バーレル)で製粉所を設置、民間の範とする目的
- [2]1879年秋、大蔵省常平局が浅草蔵前の米廩に松方正義内務次官持ち帰りの石臼製粉器2台(30バーレル)で製粉所を設置、民間の範とする目的
- [3]官営製粉所は不成績で1886年に雨宮敬次郎へ払下げ。雨宮は自己設備と合わせ有限責任日本製粉会社(資本金20万円)を創立し軍用パン・小麦粉を製造
- [4]官営製粉所は不成績で1886年に雨宮敬次郎へ払下げ。雨宮は自己設備と合わせ有限責任日本製粉会社(資本金20万円)を創立し軍用パン・小麦粉を製造
- [5]1888年春に工場を深川東扇橋町の雨宮所有地へ移転。陸海軍の購買が競争入札制になり雨宮は工場を志摩万次郎に譲渡し会社を解散
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 日本製粉株式会社設立の経緯」
- [6]1889年4月に志摩万次郎が経営を引継ぐも販路不足で負債累積、1892年に事業を放棄し整理を境豊吉に託す
- [8]境豊吉は志摩から整理を託されたが、解散・資産処分を惜しみ事業継続を図る
- [11]南条・境は軍納や輸出での一時的利益を狙わず国内市場の販路獲得を方針とした。1893年10月操業、水車粉と無関税のメリケン粉に押され経営難
- [12]南条・境は軍納や輸出での一時的利益を狙わず国内市場の販路獲得を方針とした。1893年10月操業、水車粉と無関税のメリケン粉に押され経営難
- [13]1894年7月の日清戦争で軍用パンが採用され、75バーレル(内地随一)の東京製粉が大量受注。戦後もパン用粉需要が増え好成績
- [14]1894年7月の日清戦争で軍用パンが採用され、75バーレル(内地随一)の東京製粉が大量受注。戦後もパン用粉需要が増え好成績
- [15]1894-95年の好成績を受け、ロール製粉機を輸入し株式会社に改組して資本を広く調達する構想
- [16]資本金30万円。所要資金は東京製粉資産買収約2万円・機械約2万円・建築約1万円・運転資金約2万円の計7万円前後の見積り
- [18]1896年9月26日創立総会、9月28日の取締役会で南条新六郎社長・境豊吉専務を選任
- [19]1896年9月26日創立総会、9月28日の取締役会で南条新六郎社長・境豊吉専務を選任
- 企業の現代史 46(1964)「粉食文化のパイオニア(日本製粉)」
- [7]内地の製粉所は舶来の石臼を用いただけで製品が在来のうどん粉と差がなく、価格で水車製粉にかなわなかった
- [10]境豊吉が南条新六郎・長尾三十郎ら債権者と相談し債権を出資に振替え、資本金5万円で東京製粉合資会社を1893年に創立
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- [9]南条新六郎は第四十銀行頭取で、輸入粉の防遏を自分の使命と常々語っていた
- [17]南条新六郎は700株を出資して最大株主となり、日本精製糖グループと館林旧士族を勧誘して創業資金の大半を調達
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 機械製粉の創始とその成功」
- [20]鈴木藤三郎が1896年8月にサンフランシスコで200バーレルの製粉機械を注文。1897年9月にロール製粉機の運転に成功、旧石臼工場は同年11月に操業中止し倉庫化
- [22]鈴木藤三郎が1896年8月にサンフランシスコで200バーレルの製粉機械を注文。1897年9月にロール製粉機の運転に成功、旧石臼工場は同年11月に操業中止し倉庫化
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [21]当初は本店工場を深川区東扇橋に置き製粉能力200バーレル、資本金30万円で発足
1898年〜第一期から1割を配った扇橋工場と、明治製粉・帝国製粉を併せた資本金155万円
日本製粉は第1期の1897年5月決算から1割2分を配当し、第4期の1898年11月決算では1割5分に上げた。1898年には支配人の高木幸次郎氏を関西へ派遣して新たな取引先を開拓し、夏場は注文が製造量を上回った。1899年1月には輸入小麦粉への保護関税が実施された。1904年には扇橋に第二工場を新設し、生産能力を増やした。利益の大半を配当と役員賞与に充てる会社が多いなかで、社長の南条新六郎氏と専務の境豊吉氏は創業時から積立金を計上している。1903年下期には国産小麦の凶作と安いメリケン粉の流入で初の赤字を出した。それでも1905年下期には1割8分を配当し、払込資本金15万円に対し諸積立金7万6,000円を積んだ。この内部留保が、日露戦争後の不況期に同業の合併を主導する余力になったとみられる。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 機械製粉の創始とその成功」
- [23]配当は第1期(1897年5月決算)1割2分、第2期(1897年11月)1割3分2厘、第4期(1898年11月)1割5分
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 工場の増設と業績の伸長」
- [24]1898年に高木支配人を関西に派遣して販路拡張、注文が製造量を超過。1899年1月に輸入小麦粉への保護関税実施
- [25]1898年に高木支配人を関西に派遣して販路拡張、注文が製造量を超過。1899年1月に輸入小麦粉への保護関税実施
- [27]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- [28]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- [29]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [26]1904年(明治37年)に扇橋第二工場を新設
1906年から1908年に関東で大型の製粉会社が相次いで生まれ、乱売で明治製粉と帝国製粉が経営難に陥った。扇橋の本社工場の能力不足を感じていた社長の南条新六郎氏は、小名木川沿いで近い明治製粉との合併を進めた。1907年12月30日に合併が成り、資本金は125万円となった。1908年7月には元農商務大臣の金子堅太郎氏が5社の重役を招いて合同を勧め、農商務省も支持した。南条新六郎氏は一挙の大合同を避け、帝国製粉を優先する合併比率の腹案を重役会に諮った。各社の比率の開きは大きく、協議は同年11月末に打ち切られた。翌1909年4月、欠損の膨らんだ帝国製粉の取締役の岩崎清七氏が交渉の再開を求めた。両社が合意した比率は、南条新六郎氏の案どおりの5対3である。同年9月30日の合併で、資本金は155万円になった。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- [30]1906-08年に帝国・東亜・明治・日清など大規模製粉会社が関東で相次ぎ設立され供給過剰・乱売、明治製粉と帝国製粉が経営難
- [31]扇橋本社工場の能力不足と近接の便から南条社長が明治製粉の藤野房次郎専務と交渉、1907年12月30日に合併し資本金125万円
- [32]扇橋本社工場の能力不足と近接の便から南条社長が明治製粉の藤野房次郎専務と交渉、1907年12月30日に合併し資本金125万円
- [34]1908年8月24日、南条社長は多数一時合同は困難として帝国製粉・東亜製粉の合併を先行する方針と比率を重役会で陳述
- [35]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- [36]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- [37]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 工場の増設と業績の伸長」
- [33]1908年7月1日、金子堅太郎が五社の重役を招き合同を勧奨、農商務省当局も支持
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [38]1909年(明治42年)に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併、明治末年に資本金155万円
1911年末の製粉能力は日本製粉が2,500バーレル、日清製粉が1,800バーレルで、2社が業界の首位と2位を占めた。日本製粉の工場は扇橋・小名木川・砂村の東京勢と兵庫を合わせた5工場で、九州に拠点はなかった。兵庫工場は1907年の100万円への増資と同時に設けた関西の拠点である。会社は1910年に九州工場の新設を決め、小倉を候補地として用地の買収を始めた。買収は種々の支障で完了せず、計画は中絶した。その間の1911年には鈴木商店の大里製粉所が操業を始め、小倉を中心に北九州の取引先を開拓している。兵庫工場だけで西日本の需要に応じるのは難しく、日清製粉と上位を争ううえでも九州の拠点は欠かせないと判断したと推察される。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 近代的製粉業の確立と日粉・日清両社の制覇」
- [39]1911年末の製粉能力は日本製粉2,500バーレル、日清製粉1,800バーレルで上位2社
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [40]明治末年に工場数5(扇橋第一・第二、小名木川、砂村、兵庫)、資本金155万円
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- [41]1907年に資本金100万円へ増資するとともに兵庫工場を設立し事業を拡張
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 生産活動と生産体制」
- [42]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
- [43]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
- [44]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
参考文献[23]-[44]
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 機械製粉の創始とその成功」
- [23]配当は第1期(1897年5月決算)1割2分、第2期(1897年11月)1割3分2厘、第4期(1898年11月)1割5分
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 工場の増設と業績の伸長」
- [24]1898年に高木支配人を関西に派遣して販路拡張、注文が製造量を超過。1899年1月に輸入小麦粉への保護関税実施
- [25]1898年に高木支配人を関西に派遣して販路拡張、注文が製造量を超過。1899年1月に輸入小麦粉への保護関税実施
- [27]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- [28]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- [29]当時の会社は利益を賞与・配当にほぼ充てたが、南条社長・境専務は最初から積立金を計上。1903年下期に凶作と米国粉流入で創業初の赤字、1905年下期は1割8分配当で払込資本金15万円に諸積立金7万6,000円
- [33]1908年7月1日、金子堅太郎が五社の重役を招き合同を勧奨、農商務省当局も支持
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [26]1904年(明治37年)に扇橋第二工場を新設
- [38]1909年(明治42年)に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併、明治末年に資本金155万円
- [40]明治末年に工場数5(扇橋第一・第二、小名木川、砂村、兵庫)、資本金155万円
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- [30]1906-08年に帝国・東亜・明治・日清など大規模製粉会社が関東で相次ぎ設立され供給過剰・乱売、明治製粉と帝国製粉が経営難
- [31]扇橋本社工場の能力不足と近接の便から南条社長が明治製粉の藤野房次郎専務と交渉、1907年12月30日に合併し資本金125万円
- [32]扇橋本社工場の能力不足と近接の便から南条社長が明治製粉の藤野房次郎専務と交渉、1907年12月30日に合併し資本金125万円
- [34]1908年8月24日、南条社長は多数一時合同は困難として帝国製粉・東亜製粉の合併を先行する方針と比率を重役会で陳述
- [35]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- [36]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- [37]比率の懸隔で1908年11月末に協議打切り。帝国製粉の欠損拡大で1909年4月17日に岩崎清七取締役が再開を希望、南条案どおり5対3で合意
- [41]1907年に資本金100万円へ増資するとともに兵庫工場を設立し事業を拡張
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 近代的製粉業の確立と日粉・日清両社の制覇」
- [39]1911年末の製粉能力は日本製粉2,500バーレル、日清製粉1,800バーレルで上位2社
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 生産活動と生産体制」
- [42]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
- [43]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
- [44]1910年に九州工場新設を決定し小倉で用地買収を開始したが支障で中絶。鈴木商店の大里製粉所が1911年に操業し北九州に勢力拡大
1912年〜久留米工場と大戦の輸出で届いた4,200バーレルと、高潮・火災で失った850バーレル
1912年、社長の南条新六郎氏と専務の境豊吉氏が退任。経営は、旧明治製粉の創立者の一人である専務の前山久吉氏が率いた。明治天皇の崩御後の不況で、1912年から3年間の小麦粉生産の年平均増加率は1.1%にとどまった。専務の前山久吉氏は、東北進出を関東3社の競争を激しくするとして延期した。九州工場は、1913年3月の取締役会で小倉から久留米へ移すと決めた。意見書が挙げたのは、筑紫平野が九州の小麦生産の5割を占め、周辺が小麦粉消費の5割以上を占める点である。1,200バーレルの大里製粉所に対し計画は約590バーレルで、規模の不利を立地で補う狙いだった。1914年12月に久留米工場が加わり、総能力は2,500バーレルから3,100バーレルに上がった。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- [45]南条新六郎・境豊吉はともに1912年(大正元年)に日本製粉を辞任
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- [46]明治製粉は前山久吉・久米良作・藤野房次郎ら日本鉄道の出資者が1906年4月に創立
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 製粉業の停滞と発展」
- [47]諒闇不況で1912年から3年間の小麦粉生産の年平均増加率は1.1%
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 生産活動と生産体制」
- [48]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [49]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [50]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [51]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [52]総合能力は1912年12月2,500バーレル、1914年12月久留米工場新設で3,100バーレル
政府は1914年6月、外国小麦を原料とする小麦粉の輸出に輸入税の戻税を設け、1915年11月に率を小麦粉100斤につき1円へ改めた。第一次大戦で交戦国の買い付けが増えて国際的な需給が逼迫し、1915年後半から小麦粉の輸出が急増した。国内でも外国小麦の輸入が途絶えるなか、市場は活況を呈している。専務の前山久吉氏は新工場を建てず、既存の設備に機械を補って約800バーレルを上乗せし、1916年8月に総能力を4,200バーレルとした。資金面では1916年10月に未払込株金28万5,000円を払い込ませ、同年12月の株主総会で資本金を300万円へ増やす定款変更を決めた。1917年6月の公募1万3,500株には、募集の約23倍の申し込みがあった。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 製粉業の停滞と発展」
- [53]1914年6月に外国小麦原料の輸出小麦粉への戻税制度、1915年11月に小麦粉100斤につき1円へ改定。交戦国の買付で国際需給逼迫、1915年後半から輸出急増
- [54]1914年6月に外国小麦原料の輸出小麦粉への戻税制度、1915年11月に小麦粉100斤につき1円へ改定。交戦国の買付で国際需給逼迫、1915年後半から輸出急増
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [55]1914年の欧州大戦勃発で小麦粉需要が増大し外国小麦の輸入杜絶などで国内市場が活況
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「第二節 大正前期における業績」
- [56]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
- [57]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
- [58]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
1917年9月30日、台風に伴う高潮で砂町・小名木川・扇橋の3工場が約1.7メートル浸水し、原料と製品の被害は30万円を超えた。損失は好調だった1917年下期に一括で償却し、2割の配当も維持している。1918年11月5日には兵庫工場が5階から出火して焼け、損害は約53万円に達した。保険の更新期と重なって約6割が会社の損失となり、能力は850バーレル減って3,350バーレルになった。原料面でも1917年7月に米国が小麦の輸出を禁じ、同年の小麦輸入高は7,600トンに減った。1919年10月、専務の前山久吉氏は退任し、監査役の岩崎清七氏に経営を委ねた。同じ1919年の東洋製粉との合併で神戸工場を得て、焼けた兵庫工場は再建せずに廃止した。臨海の工場に原料と製品を積む体制の弱さが、2年続けて顕在化したと思われる。
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 原料入手問題と製品の多様化」
- [59]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- [61]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- [62]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「第二節 大正前期における業績」
- [60]高潮の被害32万4,000円を1917年下期に一期で償却し2割配当
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 製粉業の停滞と発展」
- [63]1917年7月に米国が小麦輸出を禁止、同年の小麦輸入高は7,600トン
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 出資と管理組織」
- [64]1919年10月の臨時株主総会で前山専務が退任を表明し監査役の岩崎清七に経営を委ねる
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [65]1918年11月兵庫工場焼失、1919年に東洋製粉・大黒製粉所を吸収合併し神戸など5工場を加える
参考文献[45]-[65]
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- [45]南条新六郎・境豊吉はともに1912年(大正元年)に日本製粉を辞任
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- [46]明治製粉は前山久吉・久米良作・藤野房次郎ら日本鉄道の出資者が1906年4月に創立
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 製粉業の停滞と発展」
- [47]諒闇不況で1912年から3年間の小麦粉生産の年平均増加率は1.1%
- [53]1914年6月に外国小麦原料の輸出小麦粉への戻税制度、1915年11月に小麦粉100斤につき1円へ改定。交戦国の買付で国際需給逼迫、1915年後半から輸出急増
- [54]1914年6月に外国小麦原料の輸出小麦粉への戻税制度、1915年11月に小麦粉100斤につき1円へ改定。交戦国の買付で国際需給逼迫、1915年後半から輸出急増
- [63]1917年7月に米国が小麦輸出を禁止、同年の小麦輸入高は7,600トン
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 生産活動と生産体制」
- [48]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [49]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [50]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [51]前山専務は株主総会で分工場建設を取締役会に一任。東北進出は延期、1913年3月の取締役会で小倉案を放棄し久留米に決定。理由は筑紫平野が九州小麦生産の5割・消費の5割以上、大里製粉所(1,200バーレル)に対し計画約590バーレルの規模の不利を立地で補う
- [52]総合能力は1912年12月2,500バーレル、1914年12月久留米工場新設で3,100バーレル
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- [55]1914年の欧州大戦勃発で小麦粉需要が増大し外国小麦の輸入杜絶などで国内市場が活況
- [65]1918年11月兵庫工場焼失、1919年に東洋製粉・大黒製粉所を吸収合併し神戸など5工場を加える
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「第二節 大正前期における業績」
- [56]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
- [57]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
- [58]設備補強で約800バーレル増、1916年8月に4,200バーレル。東京3工場を電動機化。1916年10月未払込28万5,000円払込、12月総会で資本金300万円へ、1917年6月公募1万3,500株に約23倍の応募
- [60]高潮の被害32万4,000円を1917年下期に一期で償却し2割配当
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 原料入手問題と製品の多様化」
- [59]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- [61]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- [62]1917年9月30日の高潮で砂町・小名木川・扇橋3工場が約1.7m浸水し被害30万円超。1918年11月5日兵庫工場焼失、損害約53万円、保険未付で約6割が損失、能力850バーレル減の3,350バーレル
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 出資と管理組織」
- [64]1919年10月の臨時株主総会で前山専務が退任を表明し監査役の岩崎清七に経営を委ねる
出典・参考
14件
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 東京・浅草の官営製粉所と民間の製粉工場」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 日本製粉株式会社設立の経緯」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 創業当時の経営者および株主」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 機械製粉の創始とその成功」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 工場の増設と業績の伸長」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 日露戦争後における同業会社の合併」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 近代的製粉業の確立と日粉・日清両社の制覇」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 生産活動と生産体制」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「二 製粉業の停滞と発展」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「第二節 大正前期における業績」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「三 原料入手問題と製品の多様化」
- 日本製粉株式会社七十年史(1968)「一 出資と管理組織」
- 会社銀行八十年史(1955)「日本製粉」
- 企業の現代史 46(1964)「粉食文化のパイオニア(日本製粉)」