TKC:栃木県計算センターの設立とテイケイシイへの商号変更
1946年〜鹿沼の飯塚毅氏の会計事務所と、二つの事業目的を掲げた栃木県計算センター
TKCの源流は、1946年に飯塚毅氏が郷里の栃木県鹿沼市で開設した会計事務所にある。飯塚毅氏は1918年に鹿沼で生まれ、福島高等商業学校を経て、1943年に東北帝国大学の法文学部法科を卒業した。事務所の開設から11年後の1957年には東京の小石川に東京事務所を設け、地元と首都の2か所に拠点を広げた。飯塚毅氏の資格は、税理士と公認会計士のほか、計理士と司法書士。のちに宇都宮で計算センターを起こしたときも、飯塚毅氏は技術者ではなく、税理士かつ公認会計士の立場で設立者となった。電算化の構想が機械の売り手からではなく、関与先の帳簿を預かる職業会計人の側から出てきたことが、TKCの事業の向きを最初から決めたとみられる。
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「TKC全国会会員へのメッセージ(飯塚毅)」
- [1]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [2]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [3]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [4]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [5]1966年10月、税理士及び公認会計士の飯塚毅が税理士事務所向け計算センターとして栃木県宇都宮市に設立
飯塚毅氏がコンピュータに目を向けたきっかけは、1962年にニューヨークで開かれた第8回世界会計士会議である。飯塚毅氏は日本代表として渡米し、欧米の会計事務所がどのように業務を処理しているかを調べた。その結果、日本の会計事務所も遠からず電算機を使わなければ時代から取り残されると痛感した。ただ1960年代半ばの時点で、コンピュータ会計の拠り所になる文献は乏しく、参照できたのは欧米で刊行された数冊の理論書に限られ、手本にできる仕組みは無い時期にあたる。飯塚毅氏は構想を「電算機利用による会計事務所の合理化」と題する著書にまとめ、法令に完全に沿う財務会計の仕組みを最初の目標に置いた。個々の会計事務所が大型の電算機を単独で抱えるのは難しく、複数の事務所で1台を共用する計算センターの発想はここから生まれたのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- [6]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- [7]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- [9]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「TKC全国会会員へのメッセージ(飯塚毅)」
- [8]飯塚毅は第8回・第9回世界会計士会議に日本代表として出席
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [10]1966年当時コンピュータ会計は欧米の理論書が数冊あるのみでモデルがなく、開発思想は飯塚毅の著書「電算機利用による会計事務所の合理化」にある法令準拠の財務会計システムの構築
- [11]1966年当時コンピュータ会計は欧米の理論書が数冊あるのみでモデルがなく、開発思想は飯塚毅の著書「電算機利用による会計事務所の合理化」にある法令準拠の財務会計システムの構築
飯塚毅氏は1966年10月22日、栃木県宇都宮市に栃木県計算センターを資本金100万円で設立した。飯塚毅氏はその前から国税当局との係争である飯塚事件を抱えており、判決が確定するのを待たずに、騒ぎがひとまず静まった時点で創業を決めた。定款の事業目的は2つで、会計事務所の職域を守り運命を切り開くための受託計算と、地方公共団体の行政効率を高めるための受託計算である。顧客は当初、全国の税理士事務所に限定。ところが当局の宣伝が行き渡っていたため会員の募集は難航し、数千通のDMを送って東京商工会議所で説明会を催しても、会計人が1人も来ない回があった。職業会計人のための共同の計算センターという構想は、創業者への不信という壁から出発したと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- [12]1966年10月22日に飯塚毅が栃木県宇都宮市に設立。当初の事業目的は①会計事務所の職域防衛と運命打開のための受託計算センター経営②地方公共団体の行政効率向上のための受託計算センター経営
- [15]1966年10月22日に飯塚毅が栃木県宇都宮市に設立。当初の事業目的は①会計事務所の職域防衛と運命打開のための受託計算センター経営②地方公共団体の行政効率向上のための受託計算センター経営
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [13]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
- [14]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
- [17]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [16]税理士事務所を対象とする計算センターとして設立、商号は栃木県計算センター
参考文献[1]-[17]
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「TKC全国会会員へのメッセージ(飯塚毅)」
- [1]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [2]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [3]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [4]飯塚毅は1918年栃木県鹿沼市生まれ、1939年福島高商卒、1943年東北帝大法文学部法科卒、1946年鹿沼市に飯塚毅会計事務所を開設、1957年東京小石川に東京事務所を開設。公認会計士・税理士・計理士・司法書士
- [8]飯塚毅は第8回・第9回世界会計士会議に日本代表として出席
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [5]1966年10月、税理士及び公認会計士の飯塚毅が税理士事務所向け計算センターとして栃木県宇都宮市に設立
- [16]税理士事務所を対象とする計算センターとして設立、商号は栃木県計算センター
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- [6]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- [7]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- [9]飯塚毅は1962年ニューヨークの第8回世界会計士会議に日本代表として派遣され、欧米の会計事務所を調査し、日本でもコンピュータを使わねば時代に遅れると痛感した
- [12]1966年10月22日に飯塚毅が栃木県宇都宮市に設立。当初の事業目的は①会計事務所の職域防衛と運命打開のための受託計算センター経営②地方公共団体の行政効率向上のための受託計算センター経営
- [15]1966年10月22日に飯塚毅が栃木県宇都宮市に設立。当初の事業目的は①会計事務所の職域防衛と運命打開のための受託計算センター経営②地方公共団体の行政効率向上のための受託計算センター経営
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [10]1966年当時コンピュータ会計は欧米の理論書が数冊あるのみでモデルがなく、開発思想は飯塚毅の著書「電算機利用による会計事務所の合理化」にある法令準拠の財務会計システムの構築
- [11]1966年当時コンピュータ会計は欧米の理論書が数冊あるのみでモデルがなく、開発思想は飯塚毅の著書「電算機利用による会計事務所の合理化」にある法令準拠の財務会計システムの構築
- [13]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
- [14]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
- [17]飯塚毅は飯塚事件の判決を待たず表面上の鎮静を待って1966年10月に資本金100万円で栃木県計算センターを創設。当局の宣伝で会員募集は難航し、数千通のDMで東京商工会議所のセミナーを開いても参加者は1〜2人か0人
1967年〜黒磯町の住民税受託と、FACOM230-20と紙テープで始めた受託計算
栃木県計算センターは1967年9月、栃木県黒磯町から住民税の計算業務を受託し、自治体向けの受託計算を始めた。後押ししたのは黒磯町税務課長の津久井昭氏で、電算機で地方自治体の行政を効率化する必要を飯塚毅氏に強く説いた。飯塚毅氏はこの訴えで自治体分野の重みを悟り、津久井昭氏から進出の指導を受け始めたと回想した。黒磯町との取引は、設立時から定款に掲げていた地方公共団体の受託計算という2つ目の目的を、初めて実務に移した案件にあたる。市町村では昭和40年代に行政事務の量が急速に膨らみ、計算を外部の機械に任せる需要が広がった。会計人の会員集めが難航した創業期に、自治体の業務は会社の経営を下支えしたと考えられる。
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [18]1967年9月、栃木県黒磯町より住民税に係る計算業務を受託し、自治体分野へ進出
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [19]黒磯町の津久井昭税務課長から電算機による地方自治体行政の効率向上の緊急性を説かれ、飯塚毅はこの領域進出の指導を受け始めた
- [20]黒磯町の津久井昭税務課長から電算機による地方自治体行政の効率向上の緊急性を説かれ、飯塚毅はこの領域進出の指導を受け始めた
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- [21]事業目的②は地方公共団体の行政効率向上のための受託計算。市町村では昭和40年代に行政事務量が急速に増大
- [22]事業目的②は地方公共団体の行政効率向上のための受託計算。市町村では昭和40年代に行政事務量が急速に増大
栃木県計算センターは創業から2年近く自前の電算機を持たず、メーカーの機械を時間単位で借りてプログラムを試作した。当時はCOBOLのような高級言語が普及しておらず、アセンブラ中心の開発は難航し、その間の受託は給与計算が中心だった。1968年8月、初の自社専用の電算機として富士通のFACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。入力は会計事務所に置く端末で紙テープに穿孔させる方式とし、IBMのパンチカードで伝票を預かる当時の主流とは異なる方式を選んだ。計算センターが関与先の会計伝票を預かれば、会計事務所に守秘義務を破らせることになるという判断である。入力を会計事務所の手元に残す設計は、会計人の職域を守るという創業の目的から導かれたものと考えてよい。
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [23]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [24]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [26]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [27]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [28]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [25]設立当時は税理士事務所向け財務会計システムの開発に費やされ、給与計算等が受託計算の主体
栃木県計算センターが関与先企業の財務書類を本格的に電算処理し始めたのは、1969年に入ってからである。それまでは財務会計システムの開発に人手を取られ、受託の主体は給与計算にとどまった。紙テープ方式では会計事務所が1台100万円を超える端末を買う必要があり、利用事務所の増え方は鈍かった。社内でも入力方式を改めるべきだという意見が出た。雨の日に紙テープを濡らさない配慮や、穿孔の不完全な端末への対応でも会員事務所に負担をかけた。1969年と1970年は経営が最も苦しい2年となり、固定費の重い業種とはいえ採算を確保するまで5年を要するとは設立時に想定していなかったと、飯塚真玄氏は振り返った。
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [29]財務書類の受託計算を本格的に電算処理したのは1969年に入ってから。それまでは給与計算等が主体
- [30]財務書類の受託計算を本格的に電算処理したのは1969年に入ってから。それまでは給与計算等が主体
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [31]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [32]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [33]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [34]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
参考文献[18]-[34]
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [18]1967年9月、栃木県黒磯町より住民税に係る計算業務を受託し、自治体分野へ進出
- [25]設立当時は税理士事務所向け財務会計システムの開発に費やされ、給与計算等が受託計算の主体
- [29]財務書類の受託計算を本格的に電算処理したのは1969年に入ってから。それまでは給与計算等が主体
- [30]財務書類の受託計算を本格的に電算処理したのは1969年に入ってから。それまでは給与計算等が主体
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [19]黒磯町の津久井昭税務課長から電算機による地方自治体行政の効率向上の緊急性を説かれ、飯塚毅はこの領域進出の指導を受け始めた
- [20]黒磯町の津久井昭税務課長から電算機による地方自治体行政の効率向上の緊急性を説かれ、飯塚毅はこの領域進出の指導を受け始めた
- [23]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [24]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [26]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [27]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [28]創世期(1966〜1968年)はメーカーのコンピュータを時間借りし機械語で開発。1968年8月に富士通FACOM230-20を月額2,200,700円のレンタルで導入。ユーザ側端末の紙テープ入力を採用し、伝票を預かるパンチカード受託入力は守秘義務に反するとして避けた
- [31]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [32]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [33]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- [34]紙テープ入力は100万円超の端末投資が要りユーザ数の伸びは遅く、社内に入力方式変更論も出た。1969・1970年が最も苦しく、テイク・オフまで5年かかった
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- [21]事業目的②は地方公共団体の行政効率向上のための受託計算。市町村では昭和40年代に行政事務量が急速に増大
- [22]事業目的②は地方公共団体の行政効率向上のための受託計算。市町村では昭和40年代に行政事務量が急速に増大
1971年〜九段会館で発足したTKC全国会と、東京・大阪の計算センターとテイケイシイへの商号変更
1971年8月16日、TKC東京綜合計算センターが稼働し、その翌日の17日に九段会館でTKC全国会が発足した。各地の会員事務所がつくっていた地域会を1つに統合した会で、前年7月に結成したコンピュータ会計事務所全国協議会が前身にあたる。この年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅氏は夏から初めて役員報酬を受け取った。同じ時期に飯塚毅氏はシステム開発の責任を長男の飯塚真玄氏に譲り、自らは全国会の結成に専念した。最初の会合で定めたのは、システムの開発と改善を会員の委員会の審議で決めることと、会員が200件を超えた地域から計算センターを置くことの2点である。全国会の結成は、地域ごとに孤立していた会計人に全国で交流する場を生んだ。
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [35]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [36]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [38]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [39]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [40]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [41]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [37]1970年7月にユーザー会としてコンピュータ会計事務所全国協議会(現・TKC全国会)を結成、1971年8月に東京都に計算センターを設置
1972年1月、飯塚毅氏は飯塚真玄氏を伴って、西ドイツのニュルンベルクに本社を置くDATEVを訪ねた。仲立ちしたのは日本オリベッティで、会計機からコンピュータへ製品の軸を移す途上にあり、TKCとの競合が激しくなるなかで業務提携を申し入れてきた。日本オリベッティの説明では、DATEVには7,000を超える会計事務所が加盟し、その95%がオリベッティ製の紙テープ端末を使っていた。訪問にはオリベッティの会計事務所向け販路を担った伊藤重一氏も加わり、この時からTKCとDATEVの業務提携が始まった。飯塚毅氏が社長のハインツ・セビガー氏らに告げたのは、いつか貴社を超えるという宣言である。日本オリベッティとは1972年3月に業務提携を結び、1979年まで同社がTKCの見込み客へ入力用の端末を販売した。
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [42]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [43]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [44]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [45]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [46]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [47]1972年3月に日本オリベッティと業務提携(1979年解消)、同社が見込客にデータ入力用オフライン端末機を販売
日本オリベッティの販売網が加わった1972年、新たに800件を超える会計事務所がTKCに加入した。近畿会を先頭に会員200件超えが見込める地域会が続いたため、全国会の方針どおり1972年に大阪計算センターを開設し、1973年には仙台・名古屋・岡山・福岡にも広げた。商号を栃木県計算センターからテイケイシイに改めたのは、1972年11月である。イタリアのオリベッティでは1972年春から半年以上ストライキが続いて端末の供給が止まり、到着まで約1年待った会員事務所もあった。1973年夏以降は石油危機で伝票や紙テープなど紙製品の調達が滞り、計算センターの立ち上げは難航を極めた。1974年夏には埼玉県川口と札幌にも計算センターを開設した。栃木の地名を外した商号は、全国に計算センターを置く段階に入った事業の姿に合わせたものと思われる。
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [48]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [49]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [51]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [52]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [53]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [50]1972年11月に商号を株式会社テイケイシイに変更
参考文献[35]-[53]
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」
- [35]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [36]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [38]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [39]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [40]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [41]1971年に利用事務所は300件に近づき、飯塚毅は同年夏から役員報酬を取り始めた。システム開発を飯塚真玄に託し全国会結成に専念。TKC東京綜合計算センター稼働の翌日1971年8月17日に九段会館で地域会を大同団結しTKC全国会が発足、システム委員会の設置と会員200件超の地域会から計算センターを置く方針を決めた
- [42]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [43]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [44]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [45]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [46]日本オリベッティが競合のなかで業務提携を申し入れ、DATEV(ニュルンベルク本社、会計事務所7000件超加盟、95%がオリベッティ製紙テープ端末)を紹介。1972年1月に飯塚毅・飯塚真玄・伊藤重一が訪問し業務提携が始まり、飯塚毅はハインツ・セビガー社長らに貴社を超えると宣言
- [48]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [49]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [51]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [52]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- [53]1972年に800件超の会計事務所が加入。全国会方針に従い1972年に大阪計算センター、1973年に岡山・名古屋・仙台・福岡に開設。1972年春から秋までイタリアのストで端末供給が止まり約1年待った会員も。1973年夏からの石油ショックで紙製品が途絶えがち。1974年夏に川口・札幌に開設
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- [37]1970年7月にユーザー会としてコンピュータ会計事務所全国協議会(現・TKC全国会)を結成、1971年8月に東京都に計算センターを設置
- [47]1972年3月に日本オリベッティと業務提携(1979年解消)、同社が見込客にデータ入力用オフライン端末機を販売
- [50]1972年11月に商号を株式会社テイケイシイに変更
出典・参考
4件
- 証券アナリストジャーナル 25(8) 1987年(飯塚真玄)
- 証券 39(9) 1987年(新規上場会社紹介)
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「TKC全国会会員へのメッセージ(飯塚毅)」
- ふるさと日本25 TKC創業25周年記念誌 1991年「紙テープから消費税までの25年の歴史」