スクウェア・エニックス・ホールディングス:エニックスへの改称と「ドラゴンクエスト」の誕生
1980年〜不動産会社から改称したエニックスが賞金100万円で募ったプログラムと、ドラゴンクエスト
福嶋康博氏は1975年9月に営団社募集サービスセンターを設立し、公営住宅の空き家募集を1冊にまとめた情報誌を売り出した。情報誌は入居申込者の約20%に使われたものの、市場は約20万人と限られていた。社内で毎晩開いた「未来会議」から5つの企画が生まれ、その1つがコンピュータソフトだった。米国を3カ月歩いてパソコンの広がりを見たことから、普及すればゲームの流通が大きくなるという見通しも生まれた。1980年2月に東京都港区虎ノ門で設立した不動産仲介の営団社不動産は、1981年8月に商号を営団社システムへ変更。情報を集めて売る情報誌の商売を、規模の大きいソフト市場へ移す判断だったとみられる。
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [1]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- [2]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- [4]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [3]空き家情報誌の市場は約20万人と限られ、米国を3カ月歩いたパソコンブームの見聞からソフトに着目
- [5]空き家情報誌の市場は約20万人と限られ、米国を3カ月歩いたパソコンブームの見聞からソフトに着目
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [6]1980年2月営団社不動産を虎ノ門に設立(不動産売買・仲介)、1981年8月営団社システムへ商号変更
1982年8月に商号をエニックスへ改めた時点で、売るべき面白いソフトは社内に無かった。エニックスはゲームソフトのコンテストを開催し、最優秀賞金を当時の常識の10倍にあたる100万円とした。応募作の無断利用を疑う噂も流れたものの、作品は約2週間で約300本にのぼる。それまでのコンテストは作品の著作権を買い取る方式が通例で、エニックスは売上の一定割合を作者へ払うロイヤルティー方式を採った。入賞作13本を手直しして商品化すると5本が当時のベスト10に入り、コンテストを計3回重ねて約160人の作家を登録した。作り手への支払いをすべて印税にしたことで、完成までの経費はほとんど発生しなかった。
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [7]1982年8月 商号を株式会社エニックスに変更
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [8]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [9]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [10]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [11]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [12]優秀作13本を手直しして商品化し5本がベスト10入り、コンテスト3回で約160人の作家を登録、開発チームへの支払いはすべて印税で完成までの経費はほとんどかからない
- [13]優秀作13本を手直しして商品化し5本がベスト10入り、コンテスト3回で約160人の作家を登録、開発チームへの支払いはすべて印税で完成までの経費はほとんどかからない
1986年5月、エニックスはファミコン向けに「ドラゴンクエスト」を発売した。シナリオの堀井雄二氏とプログラマーの中村光一氏は、どちらもコンテストの応募作で見いだされた作り手だった。プログラムは中村光一氏のチュンソフト、キャラクターデザインは漫画家の鳥山明氏、音楽は作曲家のすぎやまこういち氏が担当。エニックスは任天堂の「ファミコン」の販売台数が100万台を超えるのを待ち、1985年7月にファミコンソフトの発売を始めていた。マニア向けの多かったパソコンのゲームを、一般の利用者でも遊べるように作り替えたことが最大のヒット要因となった。第1作は140万本、1987年1月の第2作は230万本を売り上げた。
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [14]1985年7月 ファミコンソフトの発売開始、1986年5月 ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」発売
- [18]1985年7月 ファミコンソフトの発売開始、1986年5月 ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」発売
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [15]コンテスト入賞作に中村光一・堀井雄二の作品があった、ヒットの最大要因はマニア向けを一般大衆向けに作り替えたこと
- [19]コンテスト入賞作に中村光一・堀井雄二の作品があった、ヒットの最大要因はマニア向けを一般大衆向けに作り替えたこと
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [16]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
- [17]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
- [20]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
参考文献[1]-[20]
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [1]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- [2]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- [4]1975年9月営団社募集サービスセンター設立、公営住宅入居申込者の約20%が情報誌を利用、未来会議の5企画の1つがコンピュータソフト
- [12]優秀作13本を手直しして商品化し5本がベスト10入り、コンテスト3回で約160人の作家を登録、開発チームへの支払いはすべて印税で完成までの経費はほとんどかからない
- [13]優秀作13本を手直しして商品化し5本がベスト10入り、コンテスト3回で約160人の作家を登録、開発チームへの支払いはすべて印税で完成までの経費はほとんどかからない
- [15]コンテスト入賞作に中村光一・堀井雄二の作品があった、ヒットの最大要因はマニア向けを一般大衆向けに作り替えたこと
- [19]コンテスト入賞作に中村光一・堀井雄二の作品があった、ヒットの最大要因はマニア向けを一般大衆向けに作り替えたこと
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [3]空き家情報誌の市場は約20万人と限られ、米国を3カ月歩いたパソコンブームの見聞からソフトに着目
- [5]空き家情報誌の市場は約20万人と限られ、米国を3カ月歩いたパソコンブームの見聞からソフトに着目
- [8]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [9]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [10]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [11]面白いソフトが無くコンテストを開催、最優秀賞金100万円(常識の10倍)、2週間で約300作品、ロイヤルティー方式を採用
- [16]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
- [17]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
- [20]シナリオ堀井雄二・キャラクター鳥山明・音楽すぎやまこういち・プログラムはチュンソフト、ファミコン100万台突破後に参入、第1作140万本・第2作230万本
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [6]1980年2月営団社不動産を虎ノ門に設立(不動産売買・仲介)、1981年8月営団社システムへ商号変更
- [7]1982年8月 商号を株式会社エニックスに変更
- [14]1985年7月 ファミコンソフトの発売開始、1986年5月 ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」発売
- [18]1985年7月 ファミコンソフトの発売開始、1986年5月 ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」発売
1987年〜外部開発で売るエニックスの店頭登録と、自社開発するスクウェアのファイナルファンタジー
1988年2月に発売した「ドラゴンクエストIII」は、1990年6月時点でおよそ340万本を販売した。1990年3月期の売上高162億円に対し、従業員は80人、社内のプロジェクトチームはおよそ10にとどまる。エニックスはストーリーからプログラム、グラフィック、音楽まで有名クリエーターへ外注し、社内に開発部門を置かなかった。福嶋康博氏は『売れるほど実入りも多くなるやり方こそ、ヒットするソフトを作る方法だ』として、安くつく利用権の買い取りより印税方式を選んだ。業界には、プロデューサーに徹すると社内に人材もノウハウも育たないと疑う見方があった。当たった作品にだけ費用が生じる仕組みが、シリーズの拡大と固定費の抑制を両立させたと考えられる。
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [21]1988年2月 ファミコンソフト「ドラゴンクエストIII」発売
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [22]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- [23]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- [25]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- 日経ビジネス 1993年2月15日号
- [24]エニックスはストーリーからプログラム・グラフィック・音楽まで有名クリエーターに外注、業界には人材・ノウハウが育たないと疑問視する向き
- [26]エニックスはストーリーからプログラム・グラフィック・音楽まで有名クリエーターに外注、業界には人材・ノウハウが育たないと疑問視する向き
エニックスは1991年2月、株式を日本証券業協会に店頭登録した。1989年4月の合併で、営団社募集サービスセンター、コニカエニックス、エニックスプロダクツの3社を経営の合理化のため取り込んでいた。1990年3月期の売上高162億6,600万円のうち、コンピュータソフトは75.9%を占めた。1991年3月期の見込みではソフトの比率が56.9%に下がり、書籍は19.5%、玩具は8.9%へ上がる。同じ時期に月刊のマンガ誌「月刊少年ガンガン」を計画し、1991年3月中旬の創刊を予定した。ドラゴンクエストの発売年と谷間の年で売上が振れる構造を、出版と玩具で均そうとしたと推察される。
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [27]1989年4月 営団社募集サービスセンター・コニカエニックス・エニックスプロダクツと合併、1991年2月 日本証券業協会に店頭登録
- [28]1989年4月 営団社募集サービスセンター・コニカエニックス・エニックスプロダクツと合併、1991年2月 日本証券業協会に店頭登録
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [29]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
- [30]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
- [31]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
スクウェアは1986年に電友社のソフトウェア制作部門から独立し、1987年に「ファイナルファンタジー」を発売した。企画からプログラム、グラフィック、作曲までを社内スタッフで一貫してつくり、外注するエニックスと逆の体制を選んだ。1988年には裁量労働制を導入し、副社長の坂口博信氏は『我々はひらめきがすべてのクリエーティブ集団。夜に頭がさえる人もいれば、遊んでいる時にアイデアが浮かぶ人もいる。8時間、会社に拘束しても、何の意味もない』として勤務時間を開発スタッフに委ねた。売上高は1988年度の25億円から1991年度の166億円へ拡大。1994年8月時点で社員270名のうち210名が開発スタッフで、ファイナルファンタジーは第6作までで累計970万本を出荷した。すべてを自社内で開発するため、進行状況を常に把握でき、開発スケジュールを正確に立てられた。
- 日経ビジネス 1993年2月15日号
- [32]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [33]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [34]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [35]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- 証券アナリストジャーナル 32巻9号 1994年8月(水野哲夫)
- [36]1994年8月時点で社員270名中210名が開発スタッフ、FFシリーズ累計出荷970万本、100%自社内開発で進行把握とスケジュールの正確さ
- [37]1994年8月時点で社員270名中210名が開発スタッフ、FFシリーズ累計出荷970万本、100%自社内開発で進行把握とスケジュールの正確さ
参考文献[21]-[37]
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [21]1988年2月 ファミコンソフト「ドラゴンクエストIII」発売
- [27]1989年4月 営団社募集サービスセンター・コニカエニックス・エニックスプロダクツと合併、1991年2月 日本証券業協会に店頭登録
- [28]1989年4月 営団社募集サービスセンター・コニカエニックス・エニックスプロダクツと合併、1991年2月 日本証券業協会に店頭登録
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- [22]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- [23]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- [25]DQIIIは約340万本、1990年3月期売上高162億円・従業員80人、福嶋社長は利用権購入より売れるほど作者の実入りが増える方式を選択
- 日経ビジネス 1993年2月15日号
- [24]エニックスはストーリーからプログラム・グラフィック・音楽まで有名クリエーターに外注、業界には人材・ノウハウが育たないと疑問視する向き
- [26]エニックスはストーリーからプログラム・グラフィック・音楽まで有名クリエーターに外注、業界には人材・ノウハウが育たないと疑問視する向き
- [32]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [33]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [34]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- [35]1986年電友社から独立、1987年FF発売、企画から作曲まで社内で一貫開発、1988年裁量労働制導入、売上高88年度25億円→91年度166億円
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- [29]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
- [30]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
- [31]1990年3月期売上高162億6,600万円・ソフト75.9%、1991年3月期見込みでソフト56.9%・書籍19.5%・玩具8.9%、「月刊少年ガンガン」を3月中旬発刊予定
- 証券アナリストジャーナル 32巻9号 1994年8月(水野哲夫)
- [36]1994年8月時点で社員270名中210名が開発スタッフ、FFシリーズ累計出荷970万本、100%自社内開発で進行把握とスケジュールの正確さ
- [37]1994年8月時点で社員270名中210名が開発スタッフ、FFシリーズ累計出荷970万本、100%自社内開発で進行把握とスケジュールの正確さ
1995年〜プレイステーションへ移ったドラゴンクエストVIIの延期と、映画で傷んだスクウェアとの合併
スクウェアは1996年に入り、ソフト開発の主力を任天堂機からソニー・コンピュータエンタテインメントのプレイステーションへ移した。同年2月には流通子会社のデジキューブを設立し、コンビニ3社と提携して全国1万店以上に売り場を得た。生産に手間のかかるマスクROMでは見込み発注が外れやすく、抱き合わせ販売や値崩れの原因となった。注文後1週間で生産できるCD-ROMなら、売れ行きに合わせた追加生産が可能になる。エニックスも「ドラゴンクエストVII」をプレイステーション向けに開発し、2000年8月に発売した。半導体メモリーからCD-ROMへの移行で1本に収められるデータ量は大きく膨らみ、作品の規模を広げる余地が生まれた。
- 日経ビジネス 1996年5月27日号
- [38]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [39]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [40]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [41]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [42]2000年8月 プレイステーションソフト「ドラゴンクエストVII」発売
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- [43]DQは6作目まで任天堂機、7はPS用に開発、媒体が半導体メモリーからCD-ROMに変わり容量が格段に増加
- [44]DQは6作目まで任天堂機、7はPS用に開発、媒体が半導体メモリーからCD-ROMに変わり容量が格段に増加
エニックスは1999年8月に東京証券取引所市場第一部へ上場した。2000年3月に予定した「ドラゴンクエストVII」の発売は約2カ月延び、延期は3度目となった。2000年3月期の売上高は当初予想比49.1%減の188億7000万円へ下方修正され、株価はストップ安が続いた。シナリオは前作の約4000ページから1万5000ページを超え、委託先のプログラミングが予定に追いつかなかった。進行管理は毎週火曜日の打ち合わせで担い、エニックスの2人と委託先のゲームデザイナー、プログラマー、CGの各代表者が顔をそろえた。福嶋康博氏は『ユーザーに対して、より喜んでもらえるものを作るか、会社の業績を修正しないで済むようにするかの二者択一です。』と経営上の選択を整理し、最終的に作品の完成度を優先した。
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [45]1999年8月 東京証券取引所市場第一部に上場
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- [46]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [47]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [48]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [49]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [50]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
エニックスとスクウェアは2002年11月に合併を発表し、2003年4月にスクウェア・エニックスが発足した。日米で公開した映画「ファイナルファンタジー」の興行不振を受け、スクウェアは2001年秋にソニー・コンピュータエンタテインメントから19%弱の出資を仰いだ。エニックスは社内に企画部門だけを置き、2002年3月期の従業員は156人、現金及び現金同等物は422億8000万円だった。自前の開発陣を抱えるスクウェアの従業員は952人に達する。両社は合併の最大の狙いを、ブロードバンド時代を見据えたデジタルコンテンツの開発に置いた。手元資金の厚いエニックスと開発陣を抱えるスクウェアが、互いの欠けた部分を補う組み合わせだったと思われる。
- 日経ビジネス 2003年1月20日号
- [51]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [53]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [54]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [55]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [56]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [52]2003年4月 エニックスとスクウェアが合併しスクウェア・エニックスに商号変更
参考文献[38]-[56]
- 日経ビジネス 1996年5月27日号
- [38]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [39]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [40]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- [41]1996年にスクウェアが開発主力をPSへ移行、2月にデジキューブ設立しコンビニ3社・1万店超と提携、マスクROMの見込み発注が抱き合わせ・値崩れを招く、CD-ROMは注文後1週間で生産
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- [42]2000年8月 プレイステーションソフト「ドラゴンクエストVII」発売
- [45]1999年8月 東京証券取引所市場第一部に上場
- [52]2003年4月 エニックスとスクウェアが合併しスクウェア・エニックスに商号変更
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- [43]DQは6作目まで任天堂機、7はPS用に開発、媒体が半導体メモリーからCD-ROMに変わり容量が格段に増加
- [44]DQは6作目まで任天堂機、7はPS用に開発、媒体が半導体メモリーからCD-ROMに変わり容量が格段に増加
- [46]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [47]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [48]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [49]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- [50]DQ7の3度目の延期(2000年3月→約2カ月)、2000年3月期売上高を49.1%減の188億7000万円に下方修正し株価はストップ安、シナリオ約4000→1万5000ページ超、毎週火曜にエニックス2人と委託先代表が打ち合わせ
- 日経ビジネス 2003年1月20日号
- [51]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [53]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [54]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [55]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
- [56]2002年11月に合併発表、映画FF不振で2001年秋SCEから19%弱の出資、エニックス従業員156人・現預金422億8000万円、スクウェア従業員952人、最大の狙いはブロードバンド時代のデジタルコンテンツ開発
出典・参考
8件
- スクウェア・エニックス 有価証券報告書 第26期(2006年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1990年6月11日号
- 証券アナリストジャーナル 29巻3号 1991年2月(福嶋康博)
- 日経ビジネス 1993年2月15日号
- 証券アナリストジャーナル 32巻9号 1994年8月(水野哲夫)
- 日経ビジネス 1996年5月27日号
- 日経ビジネス 2000年4月24日号
- 日経ビジネス 2003年1月20日号