アインHD の歴史

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創業 1969年
母体 大谷喜一の叔父が創業
創業地 北海道札幌市北区
創業 1969年8月、札幌市北区に資本金130万円で株式会社第一臨床検査センターが設立
1969年8月、札幌市北区に資本金130万円で株式会社第一臨床検査センターが設立され、病院から血液や尿の検査を受託する事業を始めた。経営していたのは、のちに社長となる大谷喜一氏の叔父である。1981年11月に旭川へ同名の会社が設けられて札幌側が資本参加し、1983年に叔父の会社が経営不振に陥ると大谷喜一氏が経営を肩代わりした。1988年3月には2社を吸収合併し、同年5月に大谷喜一氏が代表取締役社長へ就任している。1989年5月に株式会社オータニを吸収合併してドラッグストアを承継し、商号は1998年11月に株式会社アインファーマシーズ、2015年11月に株式会社アインホールディングスへ改めた。
決断 門前薬局とは逆に、薬局を先に置いてから医師のほうを誘致した。1969年に始めた受
門前薬局とは逆に、薬局を先に置いてから医師のほうを誘致した。1969年に始めた受託臨床検査は、検査を回してもらうために病院の医師と関係を作る商売だった。1993年6月に札幌郊外の野幌で開業したショッピングセンターでは、借り切った1棟の2階に小児科と歯科を誘致し、1階の大型薬店へ処方箋が下りる動線を作っている。医師が診療所を開設するときに薬局へ声を掛けるのが通例のところ、ここでは薬局が先にあり、開業を考えていた大学病院の医師を自社が探してきた。1998年10月には創業事業だった臨床検査の全部を営業譲渡し、2002年11月に今川薬品と合併して調剤薬局の最大手となる。検査の営業で作った医師との関係を処方箋の側へ移したことが、薬局参入から9年半での首位到達を支えた。
現況 調剤の会社が、家具と生活雑貨の店を同じ連結に抱えている。2026年4月期の連結売
調剤の会社が、家具と生活雑貨の店を同じ連結に抱えている。2026年4月期の連結売上高は6,478億円、営業利益は298億円、親会社株主に帰属する当期純利益は173億円である。連結従業員数は前期の13,009名から17,332名へ膨らみ、規模の拡大はほぼ全面的に買収によるものだった。部門別に見ると、ファーマシー事業は売上5,564億円・利益358億円、リテール事業は売上803億円・利益65億円である。リテールが倍の規模になったのは、2024年8月にインテリア雑貨のFrancfrancを子会社に加えたためだ。2025年8月には、さくら薬局グループの833店舗を運営するクラフト株式会社も傘下に収めた。さくら薬局が年間に応じる処方箋は1,600万枚にのぼり、1枚当たりの技術料には両社で300円ほどの開きがある。
競合 同業が物販の棚で規模を競うあいだ、この会社は処方箋だけを集めた。ドラッグストア各
同業が物販の棚で規模を競うあいだ、この会社は処方箋だけを集めた。ドラッグストア各社は売場に調剤を併設する形で調剤へ参入しており、スギホールディングスは2000年に安売りによらない調剤併設ドラッグストアへ業態を転換し、ウエルシアホールディングスは2014年にイオンの公開買付けに賛同して連結子会社となり、いずれも物販の店舗網の上に調剤を載せている。アインホールディングスは物販の売場を持たない門前薬局を積み、2026年4月期にファーマシー事業だけで5,564億円を計上した。リテール事業のアインズ&トルペとFrancfrancは商業施設の化粧品と生活雑貨で、医薬品の棚では競合しない。調剤の報酬は薬価と技術料で決まるため、競争の焦点は売価ではなく、1店あたりに集まる処方箋の枚数に置かれている。
長期業績の推移 1994〜2026年
アインホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年4月期〜2026年4月期

第1章 1969年〜 受託臨床検査への後発参入旭川市医師会の空白から北海道全域への営業網拡大

筆者考察y.sugiura, author

後発が先発を追い越せる市場は、価格だけで選ばれる市場である。旭川市医師会の直営検査所が握っていた取引を、大谷喜一氏は関係の深さでは崩せなかった。残っていたのは原価だけである。病院にとって外注の検査料は、受け取る診療報酬から差し引かれる費用であり、安い相手を選ぶほど手元に残る額が増える。だから第一臨床検査センターは郊外の小規模病院から検体を1件ずつ集め、集めた量で1件あたりの処理費用を下げ、下げた価格でさらに量を集めた。毎日1万体という処理量は、病院が自前で抱える100から200検体とは費用の水準が違う。参入から十年余りで旭川市医師会の検査を全面的に代行するに至ったのは、市場を握っていた側が自前でやる理由を失ったからである。

売上7億円に届かない会社が4億8000万円の増資を受けたのは、装置を先に買うためである。受託臨床検査では検体が増えるほど1件あたりの費用が下がるが、その前提として処理する設備がなければ量そのものを受けられない。設備が先、量が後という順序は、稼ぎながら買い足す資金繰りと相性が悪い。大谷喜一氏が1987年と1988年に北海道ジャフコから受け入れた4億8000万円は、この順序を成り立たせる代金だった。株式の公開はその6年後であり、外部資本の受け入れのほうが公開より先に来ている。持分の希薄化を引き受けてでも設備を前倒しにした判断が、後発でありながら道内の処理量で上位に立つ条件を作った。

1969年〜5坪の薬店から旭川の受託臨床検査への転身

第一臨床検査センターは1969年8月、医師が診断を下す際の補助となる受託臨床検査を目的として、札幌市北区に資本金130万円で設立された。創業したのは大谷喜一氏の叔父であり、大谷氏自身が事業へ加わるのは10年以上あとになる。大谷氏は薬学部を出た薬剤師で、卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開いたばかりだった。その店を開いてまだ1年しか経たない1981年、30歳のときに叔父の勧めで旭川の臨床検査業へ乗り出し、同年11月には旭川市の第一臨床検査センターへ資本参加している。薬の小売から医療機関を相手にする受託業へ移ったことで、以後の取引先は個人の客ではなく病院と医師になった。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [1]1969年8月、受託臨床検査を目的として札幌市北区に資本金130万円で第一臨床検査センターが設立された
    • [5]1981年11月、北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [2]第一臨床検査センターの実質的な創業者は大谷喜一であり、会社そのものは叔父が創業していた
    • [3]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、大学卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開業していた
    • [4]大谷喜一が臨床検査を始めたのは1981年、30歳のときで、叔父の勧めで旭川の臨床検査業に乗り出した

旭川で待っていたのは、既に固まった取引関係だった。市内には旭川市医師会が直営する検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた。検査を受託できるかどうかは病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかで決まり、関係の出来ている先へ後から入る余地は乏しい。大谷氏は医師会の力が及びにくい郊外の小規模病院を1軒ずつ回り、受託を少しずつ積み上げた。当時の受託検査業は全国に約800の検査センターがひしめき、その大半は家内工業の域を出ず、従業員100人以上の事業者は10社から15社にとどまっていた。小さな事業者が各地に散在する構造は、後発が足を掛ける隙間を残していた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [6]臨床検査業界には参入の壁があり、旭川では既存の取引関係が固まっていた
    • [7]旭川には医師会直営の検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた
    • [8]臨床検査獲得の要点は病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかにあり、それができて初めて検査を回してもらえた
    • [9]旭川では医師会の力が弱い郊外の小規模病院を1軒1軒回り、仕事を少しずつ増やしていった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [10]全国に約800ある臨床検査センターのほとんどが家内工業的な会社で、従業員数100人以上は10〜15社程度だった

関係の次に効いたのは検査料の安さだった。病院が受け取る診療報酬は保険点数で定まっており、そこから外部へ払う受託検査料を引いた差額が病院の手元に残る。外注先を選ぶ基準は価格へ収斂し、受託側は大量の検体を集めて1件あたりの処理費用をどこまで下げられるかで競うことになった。大谷氏は後年、自社が毎日1万体ほどを処理するのに対し、病院の検査室は大きいところでも100から200検体にとどまり、費用効率が全く見合わないと述べている。量を確保できた者だけが価格を下げられ、価格を下げた者だけが量を集められる構造であり、参入の順番よりも処理量の順番が効いた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [11]検査を病院から受託するうえでものを言うのは検査料の安さだった
    • [12]診療報酬の保険点数と実際の受託検査料の差額が病院の利益になる
    • [13]大量の検査を集めていかにコストを引き下げるかが競争の要点だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [14]第一臨床検査センターは毎日1万体程度を処理していたのに対し、病院は大きいところでも100〜200検体で、コストパフォーマンスが見合わなかった
参考文献[1]-[14]
  • 有価証券報告書 沿革
    • [1]1969年8月、受託臨床検査を目的として札幌市北区に資本金130万円で第一臨床検査センターが設立された
    • [5]1981年11月、北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [2]第一臨床検査センターの実質的な創業者は大谷喜一であり、会社そのものは叔父が創業していた
    • [3]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、大学卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開業していた
    • [4]大谷喜一が臨床検査を始めたのは1981年、30歳のときで、叔父の勧めで旭川の臨床検査業に乗り出した
    • [6]臨床検査業界には参入の壁があり、旭川では既存の取引関係が固まっていた
    • [7]旭川には医師会直営の検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた
    • [8]臨床検査獲得の要点は病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかにあり、それができて初めて検査を回してもらえた
    • [9]旭川では医師会の力が弱い郊外の小規模病院を1軒1軒回り、仕事を少しずつ増やしていった
    • [11]検査を病院から受託するうえでものを言うのは検査料の安さだった
    • [12]診療報酬の保険点数と実際の受託検査料の差額が病院の利益になる
    • [13]大量の検査を集めていかにコストを引き下げるかが競争の要点だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [10]全国に約800ある臨床検査センターのほとんどが家内工業的な会社で、従業員数100人以上は10〜15社程度だった
    • [14]第一臨床検査センターは毎日1万体程度を処理していたのに対し、病院は大きいところでも100〜200検体で、コストパフォーマンスが見合わなかった

1983年〜札幌の事業を肩代わりして広げた北海道全域の営業網

1983年、叔父が札幌で経営していた第一臨床検査センターが経営不振に陥った。大谷氏はこれを機に札幌の事業を肩代わりし、検査のエリアを旭川から札幌へ広げた。当時の受託検査市場では、家内工業並みの小さな事業者が価格を削り合う状態が続いており、量で原価を下げられない事業者から順に採算割れに陥っていった。苦しい事業を引き受けたとはいえ、原価が量で決まるこの事業では、道内最大の医療圏を得ることに意味があった。その後、支店と営業所を北海道全域に広げて受託件数そのものを増やし、件数が積み上がるほど競争上の立場も強まっていった。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [15]1983年、叔父が札幌で経営していた当時の第一臨床検査センターが経営不振に陥った
    • [16]大谷喜一は経営不振の札幌の会社を肩代わりし、臨床検査のエリアを旭川から札幌へ広げた
    • [19]検査の獲得件数を増やすため、北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
    • [20]検体の量を確保することで競争力は強まっていった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [17]臨床検査業界ではダンピング合戦が行われてきた
    • [18]臨床検査の受託料は価格競争にさらされ、価格体系の改定余地が残るほど水準が下がっていた

営業網の拡張と並行して、検査そのものの費用も削った。コンピューターによる検査データの精度管理を進め、処理を装置と手順へ載せ替えることで1件あたりの原価を下げている。検査は医師の診断の根拠になるため、費用を下げる過程で精度が落ちれば受託そのものを失う。大谷氏は最新技術の導入と精度管理、検査ネットワークの拡大を同時に進める方針を掲げていた。この組み合わせを回した結果、参入時に立ちはだかっていた旭川市医師会の検査を、後年には全面的に代行するまでになった。市場を握っていた側が、費用で見合わなくなった業務を外へ出す相手として、かつての後発を選んだ。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [21]臨床検査の伸びを支えたのは徹底した検査のコストダウンだった
    • [22]コンピューターによる精度管理など検査のシステム化に取り組んだ
    • [25]コスト競争に勝ち抜いた結果、旭川市医師会の検査を全面的に代行するまでになった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [23]臨床検査は医師が診断を下す際の重要な診断補助であり、人命にかかわる業務と位置づけられていた
    • [24]診断事業部では高度な最新技術の導入、コンピューターを駆使した検査データの精度管理、ネットワークの拡大を進める方針だった

業界の見方はこの動きと逆だった。検査料が保険点数で定まり、病院の数も増えない以上、新規参入の余地の無い成熟市場だという認識が業界に強かった。大谷氏はこの認識を取らなかった『厚生行政が競争原理を強めると、確かに価格は下がる。しかし、企業として戦略性を持てば十分にやっていけるし、高齢化社会を迎えて検査の需要は増える』。価格の下落は避けられないものとして受け入れ、下がった価格でも採算の合う原価をつくる側に回るという判断である。実際、大型の大学病院や官公立病院は、診療報酬の改定と人件費の高騰によって自前の検査が採算に合わなくなり、外注へ振り替えていった。臨床検査の市場規模は1994年の時点で推定6000億円を超え、外注率の上昇がその規模を押し上げていた。検査の外注化は、病院経営の合理化と高齢化による検査需要の増加という二つの流れに支えられていた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [26]当時は病院数が増えない一方で検査料は保険点数で決まっており、業界は競争のない市場だとみられていた
    • [27]臨床検査業界では新規参入などできない競争のない成熟した業界だという認識が強かった
    • [28]大谷喜一は、厚生行政が競争原理を強めても戦略性を持てば事業は成り立ち、高齢化社会を迎えて検査需要は増えるという確信を持っていた
    • [30]臨床検査の市場規模は1994年時点で推定6000億円を超えていた
    • [31]健康志向の高まりで検査需要が増え、病院経営の合理化の一環として検査の外注率が高まった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [29]大学病院や官公立病院が自前で行っていた検査を、診療報酬の改定と人件費の高騰により外注へ転換していた
参考文献[15]-[31]
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [15]1983年、叔父が札幌で経営していた当時の第一臨床検査センターが経営不振に陥った
    • [16]大谷喜一は経営不振の札幌の会社を肩代わりし、臨床検査のエリアを旭川から札幌へ広げた
    • [19]検査の獲得件数を増やすため、北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
    • [20]検体の量を確保することで競争力は強まっていった
    • [21]臨床検査の伸びを支えたのは徹底した検査のコストダウンだった
    • [22]コンピューターによる精度管理など検査のシステム化に取り組んだ
    • [25]コスト競争に勝ち抜いた結果、旭川市医師会の検査を全面的に代行するまでになった
    • [26]当時は病院数が増えない一方で検査料は保険点数で決まっており、業界は競争のない市場だとみられていた
    • [27]臨床検査業界では新規参入などできない競争のない成熟した業界だという認識が強かった
    • [28]大谷喜一は、厚生行政が競争原理を強めても戦略性を持てば事業は成り立ち、高齢化社会を迎えて検査需要は増えるという確信を持っていた
    • [30]臨床検査の市場規模は1994年時点で推定6000億円を超えていた
    • [31]健康志向の高まりで検査需要が増え、病院経営の合理化の一環として検査の外注率が高まった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [17]臨床検査業界ではダンピング合戦が行われてきた
    • [18]臨床検査の受託料は価格競争にさらされ、価格体系の改定余地が残るほど水準が下がっていた
    • [23]臨床検査は医師が診断を下す際の重要な診断補助であり、人命にかかわる業務と位置づけられていた
    • [24]診断事業部では高度な最新技術の導入、コンピューターを駆使した検査データの精度管理、ネットワークの拡大を進める方針だった
    • [29]大学病院や官公立病院が自前で行っていた検査を、診療報酬の改定と人件費の高騰により外注へ転換していた

1987年〜北海道ジャフコの増資が前倒しにした設備投資

検査の原価を下げる道は、装置への投資を先に済ませることだった。大谷氏は設備投資の資金を賄うため、日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコへ持ち込んだ。1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を引き出している。外部資本の受け入れは、1994年3月の株式公開から6年以上さかのぼる時期に行われた。その額は年商の7割近くに及び、売上高が7億円に満たない会社としては大きかった。持分が薄まるのを承知のうえで、設備を他社より早く手に入れることを優先した判断である。検査センターとしては後発だった同社が伸びた理由を、大谷氏は後年この資金に求めて『最後発の検査センターが大きく成長できたのはこの資金があったからだ』いる。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [32]設備投資資金を賄うために外部資本を求めた
    • [33]増資の引き受け手は日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコだった
    • [34]1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を調達した
    • [36]第三者割当増資の当時、売上高はまだ7億円に達していなかった
    • [37]大谷喜一は、最後発の検査センターが大きく成長できたのは北海道ジャフコからの資金があったからだと振り返った
  • 有価証券報告書 沿革
    • [35]1994年3月、日本証券業協会に株式を店頭登録した

臨床検査の営業網は、検査以外の業務も運んだ。企業や地方自治体の健康診断、医療廃棄物の収集と運搬が、病院を訪ねる同じ経路に沿って足されていった。一度つくった訪問の経路へ商材を重ねれば、営業の費用を増やさずに売上だけを増やせる。医療廃棄物の処理では北海道で首位のシェアを取り、検査で取りきれない医療機関との接点をここから作った。臨床検査そのものの道内シェアは1994年の時点でなお約10%にとどまり、検査単独で道内を覆う構図にはならなかった。大谷氏は住民検診と企業検診の血液検査を、予防医学の側から伸びる分野として最も期待できる市場に挙げていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [38]臨床検査の受託を中心とする診断事業に、調剤薬局、医療廃棄物の収集・運搬、企業や住民の健診などをリンクさせる事業を展開していた
    • [39]地方自治体による住民検診や企業の検診における血液検査部門を事業に組み込んでいた
    • [40]医療廃棄物処理では北海道でトップシェアを持っていた
    • [41]臨床検査の北海道内シェアは1994年時点で約10%だった
    • [42]予防医学の見地からの健康者の検査を最も期待するジャンルと位置づけ、住民検診や企業検診の血液検査部門は拡大の余地があるとみていた

1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併し、旭川と札幌に分かれていた検査事業が一つの会社にまとまった。同年10月には本社を札幌市東区へ移している。参入から7年で、道内を覆う検査の営業網と、それを支える外部資本の両方が揃った。この営業網は検査を受託する経路であると同時に、どの病院がどれだけの検査を出し、どの方針で動いているかが日々集まる経路でもあった。医療機関の内部事情が集まる会社は、医療機関を相手にする別の商売へ入るとき、他社より早く動ける。翌1989年に会社が手を伸ばしたのは、検査とは客層も商流も異なる小売だった。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [43]1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併した
    • [44]1988年10月、本社を札幌市東区に移転した
    • [47]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継し、診断とリテールの事業部制を採用した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [45]旭川から札幌へエリアを広げ、その後も北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [46]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかむ体制をとっていた
参考文献[32]-[47]
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [32]設備投資資金を賄うために外部資本を求めた
    • [33]増資の引き受け手は日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコだった
    • [34]1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を調達した
    • [36]第三者割当増資の当時、売上高はまだ7億円に達していなかった
    • [37]大谷喜一は、最後発の検査センターが大きく成長できたのは北海道ジャフコからの資金があったからだと振り返った
    • [45]旭川から札幌へエリアを広げ、その後も北海道全域を網羅する支店や営業所をつくった
  • 有価証券報告書 沿革
    • [35]1994年3月、日本証券業協会に株式を店頭登録した
    • [43]1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併した
    • [44]1988年10月、本社を札幌市東区に移転した
    • [47]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継し、診断とリテールの事業部制を採用した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [38]臨床検査の受託を中心とする診断事業に、調剤薬局、医療廃棄物の収集・運搬、企業や住民の健診などをリンクさせる事業を展開していた
    • [39]地方自治体による住民検診や企業の検診における血液検査部門を事業に組み込んでいた
    • [40]医療廃棄物処理では北海道でトップシェアを持っていた
    • [41]臨床検査の北海道内シェアは1994年時点で約10%だった
    • [42]予防医学の見地からの健康者の検査を最も期待するジャンルと位置づけ、住民検診や企業検診の血液検査部門は拡大の余地があるとみていた
    • [46]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかむ体制をとっていた

第2章 1989年〜 臨床検査から調剤への主力交代オータニ吸収合併の物販から臨床検査の営業譲渡へ

筆者考察y.sugiura, author

病院を回る営業は、検査を売る経路であると同時に、その病院がいつ院外処方へ切り替えるかを最初に知る経路でもある。第一臨床検査センターが調剤薬局で先行できた理由はここにある。月300万円の検査を受託している病院が院外処方に踏み切れば、その近くの調剤薬局には月2000万円の売上が立つ。同じ相手から6倍を超える売上が生まれる以上、大谷喜一氏は検査のために作った営業網を、調剤の出店網としてもう一度使った。場所の確保は一番乗りが決め、後から出た薬局には採算が残らない。切り替えの時期を誰より早く知る会社が、誰より早く土地を押さえられる。1993年6月のセリオ野幌で、薬店の出店を先に決めてから医師を誘致したのも、同じ順序の反転である。

創業事業を手放す判断は、追い抜かれる前に下されている。大谷喜一氏は1994年3月の株式公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年もかからないと見ていた。調剤の粗利益率は45%で、代金の請求先は国であり、臨床検査のような値引き競争が起こらない。同じ医療機関を相手にしながら、一方は価格を削り合い、他方は技術料を受け取る。1994年4月期に臨床検査41%・物販54%と売上構成が入れ替わった時点で、検査はすでに会社の主力ではなくなっていた。1998年10月に臨床検査事業の全部を営業譲渡し、翌月アインファーマシーズへ商号を改めたのは、収益の順位が確定したあとの整理である。

第一臨床検査センターの売上高 1993年4月期・1994年4月期(単体)(億円)

52.93 93年4月期 71.93 94年4月期
  • 1993年4月期の52億9300万円は5年間で7.2倍の水準。1994年4月期は前年比36%増。
  • 出所は日経ビジネス 1994年10月17日号。

1989年〜オータニ吸収合併で入った物販と大型薬店の多店舗展開

1989年5月、第一臨床検査センターはオータニを吸収合併し、ドラッグストアの事業を承継した。同時に診断とリテールの事業部制を採り、検査と小売を並べて置く体制へ変えている。北海道ジャフコから受け入れた資金は、この物販部門の強化に充てられた。承継した店は「オータニドラッグ」の名で大型薬店の多店舗展開に入り、検査で作った北海道全域の網の上へ小売の店が重なっていった。検査は病院から受託する事業で、薬店は個人客に売る事業であり、客も商流も重ならない。それでも薬剤師を抱えて医薬品を扱う点では、5坪の薬店から出発した大谷氏の原点に近い事業だった。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [48]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継した
    • [49]オータニ吸収合併にあわせて診断とリテールの事業部制を採用した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [50]北海道ジャフコから調達した資金を物販部門の強化に投じた
    • [51]1989年に薬店事業を合併し、「オータニドラッグ」として大型薬店の多店舗展開に乗り出した
    • [52]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、臨床検査に入る前に札幌で5坪の薬店を開いていた

物販が伸びた背景には、大規模小売店舗法の規制緩和があった。規制が緩んだことで新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増え、第一臨床検査センターはそこへキーテナントとして入った。自前で商圏を開くのではなく、開発する側が用意した集客の上へ店を載せる形であり、出店の速度は土地の取得ではなく交渉の速度で決まる。1990年代に入ると大型薬店を中心とする大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店も始めた。扱う商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がり、薬店の枠を越えていった。家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けている。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [53]大店法の規制緩和により、新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増えた
    • [54]近隣型ショッピングセンターへキーテナントとして出店し、成果を上げていた
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [55]1990年代に入り、大型薬店を中心とした大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店を始めた
    • [56]大型ディスカウントストアで販売する商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がった
    • [57]家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けることになった

小売へ大きく乗り出したきっかけは、身近な成功例だった。食品ディスカウンターのカウボーイを率いる中野晃氏は大谷氏の遠い親戚にあたり、その成長を目の当たりにしたことが動機になった。大型ディスカウントストアの展開ではカウボーイと組み、苫小牧や新潟へ出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上へ大型化していった。急拡大した会社の社員は250人、平均年齢は28歳と若く、小売の経験は社内に蓄積されていなかった。そこで取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採った。検査の会社が小売の人材を外から入れたのは、内部で育てる時間より出店の速度を優先したためだろう。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [58]小売りに大きく乗り出したきっかけはカウボーイの成功を目の当たりにしたことだった
    • [59]食品ディスカウンター・カウボーイの中野晃社長と大谷喜一は遠い親戚で、昔からよく知る間柄だった
    • [60]大型ディスカウントストアではカウボーイと組んで苫小牧や新潟に出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上と大型化していた
    • [61]急速に拡大したため、250人いる社員の平均年齢は28歳と若かった
    • [62]小売りのノウハウを得るため取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採用した
参考文献[48]-[62]
  • 有価証券報告書 沿革
    • [48]1989年5月、オータニを吸収合併してドラッグストアを承継した
    • [49]オータニ吸収合併にあわせて診断とリテールの事業部制を採用した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [50]北海道ジャフコから調達した資金を物販部門の強化に投じた
    • [51]1989年に薬店事業を合併し、「オータニドラッグ」として大型薬店の多店舗展開に乗り出した
    • [52]大谷喜一は薬学部卒の薬剤師で、臨床検査に入る前に札幌で5坪の薬店を開いていた
    • [55]1990年代に入り、大型薬店を中心とした大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店を始めた
    • [56]大型ディスカウントストアで販売する商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がった
    • [57]家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けることになった
    • [58]小売りに大きく乗り出したきっかけはカウボーイの成功を目の当たりにしたことだった
    • [59]食品ディスカウンター・カウボーイの中野晃社長と大谷喜一は遠い親戚で、昔からよく知る間柄だった
    • [60]大型ディスカウントストアではカウボーイと組んで苫小牧や新潟に出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上と大型化していた
    • [61]急速に拡大したため、250人いる社員の平均年齢は28歳と若かった
    • [62]小売りのノウハウを得るため取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採用した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [53]大店法の規制緩和により、新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増えた
    • [54]近隣型ショッピングセンターへキーテナントとして出店し、成果を上げていた

1993年〜セリオ野幌の逆向きの門前と売上構成の逆転

1993年6月、札幌市の郊外にあたる野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した。門前薬局は、医師が診療所を開く段になって薬店に声がかかり生まれるのが普通だが、ここでは薬店の出店が先に決まっていた。借り切った建物の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、売場の一角をガラスで区切って調剤薬局を設けた。上の2階に入る小児科と歯科については、大学病院に籍を置いたまま独立を検討する医師を第一臨床検査センターが自分で見つけてきた。処方箋を手にした患者が2階から1階へ下りる流れは開業前から設計の前提となっており、診療所を後から呼び込むこの逆の順序によって、診療所の開設が自社に客を集める仕掛けとして働いた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [63]1993年6月、北海道札幌市郊外の野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した
    • [64]通常は医師が診療所を開く際に薬店へ声を掛ける門前薬局が多いが、セリオ野幌ではまず薬店の出店が先に決まっていた
    • [65]セリオ野幌の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、店舗の一角をガラスで区切った調剤薬局が置かれた
    • [66]第一臨床検査センターが借り切った建物の2階部分に小児科と歯科を誘致し、大学病院で開業を考えていた医師を探してきた
    • [67]2階の小児科を出た患者が処方箋を手に1階の薬店へ入り、調剤薬局で薬を調合してもらう動線になっていた

この出店には三つの資源が要った。強みとして挙がるのは、開業医を探し当てる人脈、調剤薬局を運営してきた経験、家庭雑貨まで扱う小売の知見であり、このうち人脈は、検査部門の営業担当が北海道内の病院をくまなく訪ねるなかで培ったものだった。三つが組み合わさると、診療所の開業を後押しして検査を受注し、そこで発行される処方箋を自社の調剤薬局に取り込み、通院客で薬店の売上も増やすという流れが生まれる。こうした出店の方法は他社にはまねのできないものだと、大谷氏は述べている『一見簡単に見えるが、これはうちにしかできない出店方法だ』。当時の急速な伸びは、検査・薬局・物販の三つを一体として動かした結果だった。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [68]セリオ野幌型の出店には、医師を探すネットワーク、調剤薬局のキャリア、薬店で家庭雑貨などを扱う小売の三つのノウハウが必要だった
    • [69]三つの事業が一体となる相乗効果は大きいと位置づけられていた
    • [71]診療所開設を助けることで臨床検査を受託でき、調剤薬局は診療所からの処方箋を獲得でき、患者の出入りで薬店の物販も伸びた
    • [72]大谷喜一は、セリオ野幌型の出店を自社にしかできない出店方法だとしていた
    • [73]「検査」「薬局」「物販」の三つの事業を一つに束ねることで急速に成長した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [70]診断事業部門の営業担当が病院を回り、医療機関の動きをつかむ体制を持っていた

業績は小売の拡大とともに跳ねた。1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった。翌1994年4月期は71億9300万円と前年から36%増え、経常利益は4億500万円へ拡大している。医薬品などの物販が54%、臨床検査が41%というのが1994年4月期の売上構成で、この3年間に両者の比重は逆転した。検査の売上が縮んだわけではない。物販の伸びが検査を上回る速さだったため、創業事業の比率が半分を下回ったのである。費用面では固定費を低く抑えていた。大谷氏は、上場企業のなかで一番安いと銀行から指摘された『公開会社で日本一安いと銀行に言われる』ことがあると、自身の報酬について語っていた。

  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [74]物販の拡大によって急成長を遂げた
    • [75]1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった
    • [76]1994年4月期の売上高は71億9300万円で前年比36%増、経常利益は4億500万円だった
    • [77]1994年4月期の売上高のうち臨床検査は41%、医薬品などの物販は54%で、売上構成は3年間で逆転した
    • [78]固定費の低さが競争力に直結しており、大谷喜一は自らの報酬を公開会社で日本一安いと銀行に言われると語っていた
参考文献[63]-[78]
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [63]1993年6月、北海道札幌市郊外の野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した
    • [64]通常は医師が診療所を開く際に薬店へ声を掛ける門前薬局が多いが、セリオ野幌ではまず薬店の出店が先に決まっていた
    • [65]セリオ野幌の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、店舗の一角をガラスで区切った調剤薬局が置かれた
    • [66]第一臨床検査センターが借り切った建物の2階部分に小児科と歯科を誘致し、大学病院で開業を考えていた医師を探してきた
    • [67]2階の小児科を出た患者が処方箋を手に1階の薬店へ入り、調剤薬局で薬を調合してもらう動線になっていた
    • [68]セリオ野幌型の出店には、医師を探すネットワーク、調剤薬局のキャリア、薬店で家庭雑貨などを扱う小売の三つのノウハウが必要だった
    • [69]三つの事業が一体となる相乗効果は大きいと位置づけられていた
    • [71]診療所開設を助けることで臨床検査を受託でき、調剤薬局は診療所からの処方箋を獲得でき、患者の出入りで薬店の物販も伸びた
    • [72]大谷喜一は、セリオ野幌型の出店を自社にしかできない出店方法だとしていた
    • [73]「検査」「薬局」「物販」の三つの事業を一つに束ねることで急速に成長した
    • [74]物販の拡大によって急成長を遂げた
    • [75]1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった
    • [76]1994年4月期の売上高は71億9300万円で前年比36%増、経常利益は4億500万円だった
    • [77]1994年4月期の売上高のうち臨床検査は41%、医薬品などの物販は54%で、売上構成は3年間で逆転した
    • [78]固定費の低さが競争力に直結しており、大谷喜一は自らの報酬を公開会社で日本一安いと銀行に言われると語っていた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [70]診断事業部門の営業担当が病院を回り、医療機関の動きをつかむ体制を持っていた

1993年〜調剤薬局への主力移動と創業事業の営業譲渡

1993年5月、旭川市に「第一薬局」を開局し、調剤薬局の事業へ入った。翌1994年3月には日本証券業協会に株式を店頭登録している。大谷氏が調剤へ傾いた理由は利益の構造にあった。調剤薬局の粗利益率は45%程度で、しかも代金の請求先は国であるため、臨床検査のような値引き競争が起こらない。収益のほとんどが技術料で構成されており、保険点数の改定には晒されるが、取引先ごとの価格交渉からは解放される。欧米で定着していた医薬分業が、日本でも医療行政の改革によって進み始めていた。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [79]1993年5月、北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入した
    • [80]1994年3月18日、日本証券業協会に株式を店頭登録した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [81]医薬分業の進展による将来性が大きいとして、調剤薬局の分野に最も注力していた
    • [82]調剤薬局の粗利益率は45%程度で、国に請求するためダンピングの必要が全くなかった
    • [83]調剤薬局の収益はほぼ技術料であり、収益面から拡充すべき分野と位置づけられていた
    • [84]欧米では100%の分業体制だが、日本では薬価差による利益があったため病院が自ら調剤しており、医療行政の改革で分業体制が推進され始めた

調剤薬局の出店では、場所の確保が競争そのものだった。第一臨床検査センターは、どの病院が院外処方へ切り替えるかを診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、その近隣の場所を直ちに押さえる体制を取った。臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方へ切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になる。検査の6倍を超える売上が同じ病院から生まれる計算であり、検査の営業網は調剤の出店網として二度使えた。先に押さえられた場所へ後から出ても採算は合わず、一番乗りすることが肝心で、それは資金力の競争になる。北海道内には当時、手強い競争相手がいなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [85]調剤薬局の出店では場所の確保が先行投資であり、資金力がものを言った
    • [86]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、近隣の場所を直ちに確保する体制を取っていた
    • [87]臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方に切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になるとみていた
    • [88]先手を打たれた場所へ後から出ても採算は合わないため、一番乗りすることが肝心だとしていた
    • [89]北海道内には当時、調剤薬局の出店で手強い競争相手がいなかった

主力の交代は数年で起きた。1994年5月に薬局の名称を「アイン薬局」へ統一し、翌1995年5月には薬局事業を物販事業部から分離して医薬事業部を新設している。1994年6月には三井物産と組み、80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して、東京周辺での調剤薬局の展開に乗り出した。道内に閉じていた会社が本州へ出るにあたり、資本と商流を大手商社から借りた形である。大谷氏は店頭公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年を越すことはないとみていた『5年を越すことはあるまい』。実際には1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーへ営業譲渡し、翌11月に商号をアインファーマシーズへ改めた。追い抜かれる前に、追い抜かれる側を手放した。

  • 有価証券報告書 沿革
    • [90]1994年5月、薬局の名称を「アイン薬局」に統一した
    • [91]1995年5月、薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部を新設した
    • [95]1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡し、同年11月にアインファーマシーズへ商号を変更した
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [92]1994年6月、三井物産と提携し80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して東京周辺で調剤薬局の展開に乗り出した
    • [93]関東での調剤薬局展開には基盤となる臨床検査事業が必要なため、東京の臨床検査所との提携も検討していた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [94]大谷喜一は、調剤薬局の売上高が臨床検査の売上高を追い抜く時期について5年を越すことはないとみていた
参考文献[79]-[95]
  • 有価証券報告書 沿革
    • [79]1993年5月、北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入した
    • [80]1994年3月18日、日本証券業協会に株式を店頭登録した
    • [90]1994年5月、薬局の名称を「アイン薬局」に統一した
    • [91]1995年5月、薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部を新設した
    • [95]1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡し、同年11月にアインファーマシーズへ商号を変更した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演
    • [81]医薬分業の進展による将来性が大きいとして、調剤薬局の分野に最も注力していた
    • [82]調剤薬局の粗利益率は45%程度で、国に請求するためダンピングの必要が全くなかった
    • [83]調剤薬局の収益はほぼ技術料であり、収益面から拡充すべき分野と位置づけられていた
    • [84]欧米では100%の分業体制だが、日本では薬価差による利益があったため病院が自ら調剤しており、医療行政の改革で分業体制が推進され始めた
    • [85]調剤薬局の出店では場所の確保が先行投資であり、資金力がものを言った
    • [86]どの病院が医薬分業に転換するかの情報を診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、近隣の場所を直ちに確保する体制を取っていた
    • [87]臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方に切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になるとみていた
    • [88]先手を打たれた場所へ後から出ても採算は合わないため、一番乗りすることが肝心だとしていた
    • [89]北海道内には当時、調剤薬局の出店で手強い競争相手がいなかった
    • [94]大谷喜一は、調剤薬局の売上高が臨床検査の売上高を追い抜く時期について5年を越すことはないとみていた
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
    • [92]1994年6月、三井物産と提携し80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して東京周辺で調剤薬局の展開に乗り出した
    • [93]関東での調剤薬局展開には基盤となる臨床検査事業が必要なため、東京の臨床検査所との提携も検討していた

第3章 1999-2014 (気が向いたら執筆します!) 今川薬品合併で調剤最大手へ、CFS統合を否決した42.8%の反対票

第4章 2015-2026 (気が向いたら執筆します!) 1000店舗を超えたM&Aと、処方箋1枚あたりの効率

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歴史年表 1969〜2025年

アインホールディングスの沿革1969〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1969〜1988年受託臨床検査への後発参入札幌市北区に受託臨床検査を目的として資本金130万円で第一臨床検査センターを設立★★
北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加★
旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併★
大谷喜一本社を札幌市東区に移転★
1989〜1998年臨床検査から調剤への主力交代大谷喜一オータニを吸収合併しドラッグストアを承継、診断とリテールの事業部制を採用★★
大谷喜一北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入★★★
大谷喜一日本証券業協会に株式を店頭登録★
大谷喜一薬局の名称を「アイン薬局」に統一★★
大谷喜一東京都新宿区に子会社のアインメディカルシステムズ(現アインファーマシーズ)を設立★
大谷喜一薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部(現ファーマシー事業)を新設★
大谷喜一ドラッグストアの店舗名称を「アインズ」に統一★★
大谷喜一創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡★★★
大谷喜一アインファーマシーズに商号を変更★★
1999〜2014年今川薬品合併で調剤最大手へ、CFS統合を否決した42.8%の反対票大谷喜一丸紅とアインメディカルシステムズの三者間で薬局事業の業務提携・資本提携契約を締結★★
大谷喜一札幌市中央区に新業態のコスメ&ドラッグストア「アインズ&トルペ地下街店」を出店★★★
大谷喜一今川薬品と合併★
大谷喜一コスメ&ドラッグストア業態への集約のため関東地区のドラッグストアを営業譲渡★★
大谷喜一医療コンサルティングのメディウェルを子会社化★
大谷喜一ホールセールスターズを設立しジェネリック医薬品の卸売業を開始★
大谷喜一ダイチク(現アイン北陸)を子会社化★
大谷喜一あさひ調剤(現アイン中央)を子会社化★
大谷喜一セブン&アイ・ホールディングスと業務提携・資本提携契約を締結★★
大谷喜一東京証券取引所市場第二部に株式を上場★
大谷喜一セブン&アイ・ホールディングスとの共同出資でセブンヘルスケアを設立★
大谷喜一東京証券取引所市場第一部に指定★
大谷喜一札幌証券取引所に株式を上場★
2015〜2026年1000店舗を超えたM&Aと、処方箋1枚あたりの効率大谷喜一化粧品製造のアユーララボラトリーズを子会社化★
大谷喜一持株会社体制へ移行しアインホールディングスに商号を変更★★★
大谷喜一シダックスと業務提携し同社子会社のシダックスアイを子会社化★
大谷喜一東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行★
大谷喜一調剤薬局のファーマシィホールディングスを子会社化★★
大谷喜一インテリア雑貨のFrancfrancを子会社化★★★
大谷喜一エーアンドエムを子会社化★
大谷喜一調剤薬局のクラフトを子会社化★★
出典・参考 3件
出典・参考
  • 有価証券報告書 沿革
  • 日経ビジネス 1994年10月17日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年3月 第一臨床検査センター 大谷喜一社長講演

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