後発が先発を追い越せる市場は、価格だけで選ばれる市場である。旭川市医師会の直営検査所が握っていた取引を、大谷喜一氏は関係の深さでは崩せなかった。残っていたのは原価だけである。病院にとって外注の検査料は、受け取る診療報酬から差し引かれる費用であり、安い相手を選ぶほど手元に残る額が増える。だから第一臨床検査センターは郊外の小規模病院から検体を1件ずつ集め、集めた量で1件あたりの処理費用を下げ、下げた価格でさらに量を集めた。毎日1万体という処理量は、病院が自前で抱える100から200検体とは費用の水準が違う。参入から十年余りで旭川市医師会の検査を全面的に代行するに至ったのは、市場を握っていた側が自前でやる理由を失ったからである。
売上7億円に届かない会社が4億8000万円の増資を受けたのは、装置を先に買うためである。受託臨床検査では検体が増えるほど1件あたりの費用が下がるが、その前提として処理する設備がなければ量そのものを受けられない。設備が先、量が後という順序は、稼ぎながら買い足す資金繰りと相性が悪い。大谷喜一氏が1987年と1988年に北海道ジャフコから受け入れた4億8000万円は、この順序を成り立たせる代金だった。株式の公開はその6年後であり、外部資本の受け入れのほうが公開より先に来ている。持分の希薄化を引き受けてでも設備を前倒しにした判断が、後発でありながら道内の処理量で上位に立つ条件を作った。
第一臨床検査センターは1969年8月、医師が診断を下す際の補助となる受託臨床検査を目的として、札幌市北区に資本金130万円で設立された。創業したのは大谷喜一氏の叔父であり、大谷氏自身が事業へ加わるのは10年以上あとになる。大谷氏は薬学部を出た薬剤師で、卒業後に入社した杏林製薬を辞め、札幌で5坪の薬店を開いたばかりだった。その店を開いてまだ1年しか経たない1981年、30歳のときに叔父の勧めで旭川の臨床検査業へ乗り出し、同年11月には旭川市の第一臨床検査センターへ資本参加している。薬の小売から医療機関を相手にする受託業へ移ったことで、以後の取引先は個人の客ではなく病院と医師になった。
旭川で待っていたのは、既に固まった取引関係だった。市内には旭川市医師会が直営する検査所があり、圧倒的なシェアを握っていた。検査を受託できるかどうかは病院の医師と緊密な関係を築けるかどうかで決まり、関係の出来ている先へ後から入る余地は乏しい。大谷氏は医師会の力が及びにくい郊外の小規模病院を1軒ずつ回り、受託を少しずつ積み上げた。当時の受託検査業は全国に約800の検査センターがひしめき、その大半は家内工業の域を出ず、従業員100人以上の事業者は10社から15社にとどまっていた。小さな事業者が各地に散在する構造は、後発が足を掛ける隙間を残していた。
関係の次に効いたのは検査料の安さだった。病院が受け取る診療報酬は保険点数で定まっており、そこから外部へ払う受託検査料を引いた差額が病院の手元に残る。外注先を選ぶ基準は価格へ収斂し、受託側は大量の検体を集めて1件あたりの処理費用をどこまで下げられるかで競うことになった。大谷氏は後年、自社が毎日1万体ほどを処理するのに対し、病院の検査室は大きいところでも100から200検体にとどまり、費用効率が全く見合わないと述べている。量を確保できた者だけが価格を下げられ、価格を下げた者だけが量を集められる構造であり、参入の順番よりも処理量の順番が効いた。
1983年、叔父が札幌で経営していた第一臨床検査センターが経営不振に陥った。大谷氏はこれを機に札幌の事業を肩代わりし、検査のエリアを旭川から札幌へ広げた。当時の受託検査市場では、家内工業並みの小さな事業者が価格を削り合う状態が続いており、量で原価を下げられない事業者から順に採算割れに陥っていった。苦しい事業を引き受けたとはいえ、原価が量で決まるこの事業では、道内最大の医療圏を得ることに意味があった。その後、支店と営業所を北海道全域に広げて受託件数そのものを増やし、件数が積み上がるほど競争上の立場も強まっていった。
営業網の拡張と並行して、検査そのものの費用も削った。コンピューターによる検査データの精度管理を進め、処理を装置と手順へ載せ替えることで1件あたりの原価を下げている。検査は医師の診断の根拠になるため、費用を下げる過程で精度が落ちれば受託そのものを失う。大谷氏は最新技術の導入と精度管理、検査ネットワークの拡大を同時に進める方針を掲げていた。この組み合わせを回した結果、参入時に立ちはだかっていた旭川市医師会の検査を、後年には全面的に代行するまでになった。市場を握っていた側が、費用で見合わなくなった業務を外へ出す相手として、かつての後発を選んだ。
業界の見方はこの動きと逆だった。検査料が保険点数で定まり、病院の数も増えない以上、新規参入の余地の無い成熟市場だという認識が業界に強かった。大谷氏はこの認識を取らなかった『厚生行政が競争原理を強めると、確かに価格は下がる。しかし、企業として戦略性を持てば十分にやっていけるし、高齢化社会を迎えて検査の需要は増える』。価格の下落は避けられないものとして受け入れ、下がった価格でも採算の合う原価をつくる側に回るという判断である。実際、大型の大学病院や官公立病院は、診療報酬の改定と人件費の高騰によって自前の検査が採算に合わなくなり、外注へ振り替えていった。臨床検査の市場規模は1994年の時点で推定6000億円を超え、外注率の上昇がその規模を押し上げていた。検査の外注化は、病院経営の合理化と高齢化による検査需要の増加という二つの流れに支えられていた。
検査の原価を下げる道は、装置への投資を先に済ませることだった。大谷氏は設備投資の資金を賄うため、日本合同ファイナンスグループのベンチャーキャピタルである北海道ジャフコへ持ち込んだ。1987年と1988年の2回に分けて第三者割当増資を実施し、合計4億8000万円を引き出している。外部資本の受け入れは、1994年3月の株式公開から6年以上さかのぼる時期に行われた。その額は年商の7割近くに及び、売上高が7億円に満たない会社としては大きかった。持分が薄まるのを承知のうえで、設備を他社より早く手に入れることを優先した判断である。検査センターとしては後発だった同社が伸びた理由を、大谷氏は後年この資金に求めて『最後発の検査センターが大きく成長できたのはこの資金があったからだ』いる。
臨床検査の営業網は、検査以外の業務も運んだ。企業や地方自治体の健康診断、医療廃棄物の収集と運搬が、病院を訪ねる同じ経路に沿って足されていった。一度つくった訪問の経路へ商材を重ねれば、営業の費用を増やさずに売上だけを増やせる。医療廃棄物の処理では北海道で首位のシェアを取り、検査で取りきれない医療機関との接点をここから作った。臨床検査そのものの道内シェアは1994年の時点でなお約10%にとどまり、検査単独で道内を覆う構図にはならなかった。大谷氏は住民検診と企業検診の血液検査を、予防医学の側から伸びる分野として最も期待できる市場に挙げていた。
1988年3月、旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併し、旭川と札幌に分かれていた検査事業が一つの会社にまとまった。同年10月には本社を札幌市東区へ移している。参入から7年で、道内を覆う検査の営業網と、それを支える外部資本の両方が揃った。この営業網は検査を受託する経路であると同時に、どの病院がどれだけの検査を出し、どの方針で動いているかが日々集まる経路でもあった。医療機関の内部事情が集まる会社は、医療機関を相手にする別の商売へ入るとき、他社より早く動ける。翌1989年に会社が手を伸ばしたのは、検査とは客層も商流も異なる小売だった。
病院を回る営業は、検査を売る経路であると同時に、その病院がいつ院外処方へ切り替えるかを最初に知る経路でもある。第一臨床検査センターが調剤薬局で先行できた理由はここにある。月300万円の検査を受託している病院が院外処方に踏み切れば、その近くの調剤薬局には月2000万円の売上が立つ。同じ相手から6倍を超える売上が生まれる以上、大谷喜一氏は検査のために作った営業網を、調剤の出店網としてもう一度使った。場所の確保は一番乗りが決め、後から出た薬局には採算が残らない。切り替えの時期を誰より早く知る会社が、誰より早く土地を押さえられる。1993年6月のセリオ野幌で、薬店の出店を先に決めてから医師を誘致したのも、同じ順序の反転である。
創業事業を手放す判断は、追い抜かれる前に下されている。大谷喜一氏は1994年3月の株式公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年もかからないと見ていた。調剤の粗利益率は45%で、代金の請求先は国であり、臨床検査のような値引き競争が起こらない。同じ医療機関を相手にしながら、一方は価格を削り合い、他方は技術料を受け取る。1994年4月期に臨床検査41%・物販54%と売上構成が入れ替わった時点で、検査はすでに会社の主力ではなくなっていた。1998年10月に臨床検査事業の全部を営業譲渡し、翌月アインファーマシーズへ商号を改めたのは、収益の順位が確定したあとの整理である。
1989年5月、第一臨床検査センターはオータニを吸収合併し、ドラッグストアの事業を承継した。同時に診断とリテールの事業部制を採り、検査と小売を並べて置く体制へ変えている。北海道ジャフコから受け入れた資金は、この物販部門の強化に充てられた。承継した店は「オータニドラッグ」の名で大型薬店の多店舗展開に入り、検査で作った北海道全域の網の上へ小売の店が重なっていった。検査は病院から受託する事業で、薬店は個人客に売る事業であり、客も商流も重ならない。それでも薬剤師を抱えて医薬品を扱う点では、5坪の薬店から出発した大谷氏の原点に近い事業だった。
物販が伸びた背景には、大規模小売店舗法の規制緩和があった。規制が緩んだことで新しいタイプの近隣型ショッピングセンターの出店が増え、第一臨床検査センターはそこへキーテナントとして入った。自前で商圏を開くのではなく、開発する側が用意した集客の上へ店を載せる形であり、出店の速度は土地の取得ではなく交渉の速度で決まる。1990年代に入ると大型薬店を中心とする大型ディスカウントストア「オータニアイン」の出店も始めた。扱う商品は家庭雑貨からカー用品、衣料、玩具、食品へと広がり、薬店の枠を越えていった。家電では上新電機と提携し、フランチャイジーとして商品供給を受けている。
小売へ大きく乗り出したきっかけは、身近な成功例だった。食品ディスカウンターのカウボーイを率いる中野晃氏は大谷氏の遠い親戚にあたり、その成長を目の当たりにしたことが動機になった。大型ディスカウントストアの展開ではカウボーイと組み、苫小牧や新潟へ出店し、計画中の店舗は3000平方メートル以上へ大型化していった。急拡大した会社の社員は250人、平均年齢は28歳と若く、小売の経験は社内に蓄積されていなかった。そこで取締役の角谷氏らイトーヨーカ堂出身者を招き、家電販売をにらんで三菱電機からも人材を採った。検査の会社が小売の人材を外から入れたのは、内部で育てる時間より出店の速度を優先したためだろう。
1993年6月、札幌市の郊外にあたる野幌の新興住宅街にショッピングセンター「セリオ野幌」が開業した。門前薬局は、医師が診療所を開く段になって薬店に声がかかり生まれるのが普通だが、ここでは薬店の出店が先に決まっていた。借り切った建物の1階に大型薬店「オータニドラッグ」が入り、売場の一角をガラスで区切って調剤薬局を設けた。上の2階に入る小児科と歯科については、大学病院に籍を置いたまま独立を検討する医師を第一臨床検査センターが自分で見つけてきた。処方箋を手にした患者が2階から1階へ下りる流れは開業前から設計の前提となっており、診療所を後から呼び込むこの逆の順序によって、診療所の開設が自社に客を集める仕掛けとして働いた。
この出店には三つの資源が要った。強みとして挙がるのは、開業医を探し当てる人脈、調剤薬局を運営してきた経験、家庭雑貨まで扱う小売の知見であり、このうち人脈は、検査部門の営業担当が北海道内の病院をくまなく訪ねるなかで培ったものだった。三つが組み合わさると、診療所の開業を後押しして検査を受注し、そこで発行される処方箋を自社の調剤薬局に取り込み、通院客で薬店の売上も増やすという流れが生まれる。こうした出店の方法は他社にはまねのできないものだと、大谷氏は述べている『一見簡単に見えるが、これはうちにしかできない出店方法だ』。当時の急速な伸びは、検査・薬局・物販の三つを一体として動かした結果だった。
業績は小売の拡大とともに跳ねた。1993年4月期の売上高は52億9300万円で、5年間で7.2倍になった。翌1994年4月期は71億9300万円と前年から36%増え、経常利益は4億500万円へ拡大している。医薬品などの物販が54%、臨床検査が41%というのが1994年4月期の売上構成で、この3年間に両者の比重は逆転した。検査の売上が縮んだわけではない。物販の伸びが検査を上回る速さだったため、創業事業の比率が半分を下回ったのである。費用面では固定費を低く抑えていた。大谷氏は、上場企業のなかで一番安いと銀行から指摘された『公開会社で日本一安いと銀行に言われる』ことがあると、自身の報酬について語っていた。
1993年5月、旭川市に「第一薬局」を開局し、調剤薬局の事業へ入った。翌1994年3月には日本証券業協会に株式を店頭登録している。大谷氏が調剤へ傾いた理由は利益の構造にあった。調剤薬局の粗利益率は45%程度で、しかも代金の請求先は国であるため、臨床検査のような値引き競争が起こらない。収益のほとんどが技術料で構成されており、保険点数の改定には晒されるが、取引先ごとの価格交渉からは解放される。欧米で定着していた医薬分業が、日本でも医療行政の改革によって進み始めていた。
調剤薬局の出店では、場所の確保が競争そのものだった。第一臨床検査センターは、どの病院が院外処方へ切り替えるかを診断事業部門の営業担当がいち早くつかみ、その近隣の場所を直ちに押さえる体制を取った。臨床検査を月間300万円受託している病院が薬剤を院外処方へ切り替えると、調剤薬局の売上高は月額2000万円程度になる。検査の6倍を超える売上が同じ病院から生まれる計算であり、検査の営業網は調剤の出店網として二度使えた。先に押さえられた場所へ後から出ても採算は合わず、一番乗りすることが肝心で、それは資金力の競争になる。北海道内には当時、手強い競争相手がいなかった。
主力の交代は数年で起きた。1994年5月に薬局の名称を「アイン薬局」へ統一し、翌1995年5月には薬局事業を物販事業部から分離して医薬事業部を新設している。1994年6月には三井物産と組み、80%出資の子会社アイン・メディカル・システムズを東京都新宿区に設立して、東京周辺での調剤薬局の展開に乗り出した。道内に閉じていた会社が本州へ出るにあたり、資本と商流を大手商社から借りた形である。大谷氏は店頭公開の時点で、調剤薬局の売上高が臨床検査を追い抜くまで5年を越すことはないとみていた『5年を越すことはあるまい』。実際には1998年10月、創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーへ営業譲渡し、翌11月に商号をアインファーマシーズへ改めた。追い抜かれる前に、追い抜かれる側を手放した。
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|---|---|---|---|---|
| 1969〜1988年受託臨床検査への後発参入 | 札幌市北区に受託臨床検査を目的として資本金130万円で第一臨床検査センターを設立 | ★★ | ||
| 北海道旭川市の第一臨床検査センターに資本参加 | ★ | |||
| 旭川市の第一臨床検査センターを吸収合併 | ★ | |||
| 大谷喜一 | 本社を札幌市東区に移転 | ★ | ||
| 1989〜1998年臨床検査から調剤への主力交代 | 大谷喜一 | オータニを吸収合併しドラッグストアを承継、診断とリテールの事業部制を採用 | ★★ | |
| 大谷喜一 | 北海道旭川市に「第一薬局」を開局し薬局事業に参入 | ★★★ | ||
| 大谷喜一 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 薬局の名称を「アイン薬局」に統一 | ★★ | ||
| 大谷喜一 | 東京都新宿区に子会社のアインメディカルシステムズ(現アインファーマシーズ)を設立 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 薬局事業を物販事業部から分離し医薬事業部(現ファーマシー事業)を新設 | ★ | ||
| 大谷喜一 | ドラッグストアの店舗名称を「アインズ」に統一 | ★★ | ||
| 大谷喜一 | 創業事業である臨床検査事業の全部を第一臨床検査センター札幌ラボラトリーに営業譲渡 | ★★★ | ||
| 大谷喜一 | アインファーマシーズに商号を変更 | ★★ | ||
| 1999〜2014年今川薬品合併で調剤最大手へ、CFS統合を否決した42.8%の反対票 | 大谷喜一 | 丸紅とアインメディカルシステムズの三者間で薬局事業の業務提携・資本提携契約を締結 | ★★ | |
| 大谷喜一 | 札幌市中央区に新業態のコスメ&ドラッグストア「アインズ&トルペ地下街店」を出店 | ★★★ | ||
| 大谷喜一 | 今川薬品と合併 | ★ | ||
| 大谷喜一 | コスメ&ドラッグストア業態への集約のため関東地区のドラッグストアを営業譲渡 | ★★ | ||
| 大谷喜一 | 医療コンサルティングのメディウェルを子会社化 | ★ | ||
| 大谷喜一 | ホールセールスターズを設立しジェネリック医薬品の卸売業を開始 | ★ | ||
| 大谷喜一 | ダイチク(現アイン北陸)を子会社化 | ★ | ||
| 大谷喜一 | あさひ調剤(現アイン中央)を子会社化 | ★ | ||
| 大谷喜一 | セブン&アイ・ホールディングスと業務提携・資本提携契約を締結 | ★★ | ||
| 大谷喜一 | 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 大谷喜一 | セブン&アイ・ホールディングスとの共同出資でセブンヘルスケアを設立 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 札幌証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 2015〜2026年1000店舗を超えたM&Aと、処方箋1枚あたりの効率 | 大谷喜一 | 化粧品製造のアユーララボラトリーズを子会社化 | ★ | |
| 大谷喜一 | 持株会社体制へ移行しアインホールディングスに商号を変更 | ★★★ | ||
| 大谷喜一 | シダックスと業務提携し同社子会社のシダックスアイを子会社化 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 調剤薬局のファーマシィホールディングスを子会社化 | ★★ | ||
| 大谷喜一 | インテリア雑貨のFrancfrancを子会社化 | ★★★ | ||
| 大谷喜一 | エーアンドエムを子会社化 | ★ | ||
| 大谷喜一 | 調剤薬局のクラフトを子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(アインホールディングス)