安売りに背を向けた調剤併設ドラッグストアという業態選択

2000年実施

利益の出ない調剤をなぜ全店の柱に据えたのか——上場を機に杉浦広一が掲げた「日本初のビジネスモデル」

時期 2000年6月
意思決定者 杉浦広一(社長)
論点 業態モデルの選択と全国チェーン化
概要
2000年6月の株式上場を機に、スギ薬局が利益の薄い処方箋調剤を全店に併せ持つ調剤併設型を主軸と定め、東海のドミナントを足場に全国チェーン化を掲げた経営判断。安さと売場面積を競う当時のドラッグストア業界で、あえて調剤を差別化の核に据えた。
背景
1990年代のドラッグストアは再販制の緩和を追い風に化粧品・日用品の安売りで伸び、物販型が業界の主流だった。薬科大出の杉浦夫妻は愛知・西尾で調剤主体の薬局として創業し、院外処方への移行、すなわち医薬分業の進展を先読みしていた。
内容
全店を保険薬局の認可を受けた調剤併設型とし、東海3県にドミナント出店。上場時に「物販型は競争に勝てない」と業態を見立て、2005年2月期に東海3県で処方箋調剤を除く売上高1000億円・300店の中期計画と西日本進出を掲げた。
含意
消費者の支持は2000年代を通じて安さから専門性へ傾き、逆張りが本流になった。売上は上場後に急伸し、当初描いた時期からは遅れて2016年に稼働店舗が1000店を超えた。業態選択の正しさは、長い時間をかけて裏づけられた。
筆者の見解

逆張りが、本流になるまで

この判断の芯は、業界の追い風から意識して身を引いた点にある。1990年代のドラッグストアは安さと売場面積で競い、その競争に乗るほど手早く伸びられた。杉浦夫妻はそこにあえて背を向け、薬剤師でなければ担えない処方箋調剤を全店の柱に据えた。利益が薄く、費用のかさむ道である。安売りが本流だった時代に、二人は自分たちの資格と、医薬分業という長い流れに賭けた。業界の常識より自社の見立てを優先する選択だったといえる。

もっとも、見立てがすぐに報われたわけではない。医薬分業は長く足踏みし、調剤に賭ける戦略は時期尚早とも見られた。全国チェーン化も、思い描いた速さでは進まなかった。それでも、消費者の関心が安さから専門性へ移り、コンビニでも一般薬が買える時代が近づくと、調剤を持たない店の強みは薄れていく。逆張りが本流になるまでには、十年を超える時間がかかった。早く動いたことより、長く同じ答えを持ち続けたことに、この判断の性格がある。自社をどの業態で定義するか――その問いに、二人は開業時の答えを手放さなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

安さで伸びたドラッグストア

1990年代のドラッグストアは、安さと便利さを武器に伸びた業態だった。医薬品や化粧品の再販売価格維持制度が段階的に外れると、首都圏では化粧品や日用雑貨を安く売る店が駅前に相次いで開き、その象徴がマツモトキヨシだった。杉浦広一自身、業界の成長要因を「第一に安さ、第二に便利さ」と見ており、多くの店は売場面積の拡大による物販の増加を追っていた。1999年度の業界は約3000店・売上高およそ1兆2000億円に達し、安さを競う物販型が主流を占めていた[1]

薬剤師夫妻が選んだ調剤

そのなかでスギ薬局は、逆の道を歩んでいた。1976年12月、薬剤師の杉浦広一と妻・昭子が愛知県西尾市に一軒の薬局を開く。ともに薬学部の出身で、二人には物販で薬を売るだけでなく医療に役立ちたいという願いがあった。杉浦は薬剤師として処方箋調剤に深い思い入れと責務を感じ、開業から24年にわたって調剤にかかわり続けたと語る。26歳での独立から、調剤薬局のかたちを貫く姿勢は変わらなかった[2][3]

ただ、その調剤はなかなか商いにならなかった。医薬分業――院内で薬を渡す仕組みから、医師の処方箋を院外の薬局が受ける仕組みへの移行は、言葉こそ古くからあったが、20年ものあいだ処方箋はほとんど院外へ出なかった。分業率は1999年度でようやく約35%に届いたところで、利益の薄い調剤に軸足を置く薬局は業界では少数派である。それでも杉浦は、院外へ出る処方箋がやがて急増すると読み、その受け皿となる全店調剤併設という形を磨いていく[4]

決断

上場を機に、全国チェーンを掲げる

2000年6月、スギ薬局は大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場に株式を上場した。このとき店舗は愛知・岐阜・三重の東海3県を中心に93店。週に1店という速さで開き続けていたが、その全店を保険薬局の認可を受けた調剤併設型で通していた。薬剤師を常駐させ、調剤室と薬剤の在庫をそろえる店づくりには費用がかさむ。中部財界は、莫大な出費を承知で全店調剤併設を貫く姿を、医薬分業の進行を見据えた「先見性ゆえの選択」と評した[5][6]

上場は、東海の中堅からの脱皮を宣言する場でもあった。杉浦は中期計画として、2005年2月期に東海3県で処方箋調剤を除く売上高1000億円・300店を掲げる。当面は西日本へ出店を強め、調剤併設型ドラッグストアを「日本初のビジネスモデル」として確立したいと述べた。一定の商圏に店を密に重ねるドミナント出店で知名度と在庫効率を高め、近くの自社店どうしで薬を融通し合う。この形をそのまま全国へ広げようとする構想だった[7]

「物販型は競争に勝てない」という見立て

賭けの根拠は、業態の見立てにあった。日本のドラッグストアは安さと便利さを追う物販型で伸びてきたが、欧米では調剤薬局が当たり前だと杉浦は見ていた。2005年には分業率が8割に達し、処方箋は10億枚・5兆円の市場になると読む。だからこそ調剤室を設けて薬剤師を置き、拡大する調剤市場に備える店づくりが要る。「それを怠ったドラッグストアは、今後の競争に勝てない」――物販だけに頼る店の限界を、杉浦はこう言い切った[8]

もっとも、利益の出ない調剤に軸足を置く戦略は、分業がなお3分の1にとどまる当時としては時期尚早にも映った。実現の鍵は薬剤師の確保にあり、全店で処方箋調剤ができる体制を保つには多くの有資格者が要る。それでも杉浦は、全店調剤という一点に差別化を見た。処方箋調剤ができることで信頼が高まり、薬を買うならスギ薬局と選ばれるようになる。専門知識を発揮しやすい職場は薬剤師の定着率も高め、その循環が集客につながると読んでいた[9]

結果

業績は伸び、店舗は四桁へ

賭けの帰趨は、数字に表れた。上場後の売上は伸び続け、単体で2002年2月期の524億円から2006年2月期には1229億円へ、4年でおよそ2.3倍になる。関東地盤のドラッグストアを傘下に収めた2007年2月期には連結売上高が2172億円へ跳ね、東海の中堅は全国上位のチェーンへと駆け上がっていった。安さを競う物販型が業界を覆っていた時期に、調剤を軸に据えた店が急伸したことになる[10]

店舗の広がりも続いた。グループの店舗は2000年10月に100店、2006年9月に500店を超え、東海から関西・関東へ版図を伸ばしていく。上場時に思い描いた四桁の店舗網は、当初見込んだ時期からは遅れたものの、2016年4月にスギ薬局の稼働店舗が1000店を突破して現実になった。利益の薄い調剤を全店に併せ持つという重い選択は、時間をかけて規模の裏づけを得ていった[11]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 38(8)(日本証券アナリスト協会, 2000年8月・杉浦広一発言)
  • 中部財界 43(9)(中部財界社, 2000年9月)
  • スギホールディングス 有価証券報告書(主要な経営指標等の推移)
  • スギホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • スギホールディングス 会社沿革(公式サイト)