第1章 年〜年

三井倉庫ホールディングス:横浜派出の開業と神戸桟橋・大阪倉庫の買収

1909年〜三井銀行倉庫部から分かれた資本金200万円の東神倉庫と、神戸に築いた繋船岸壁

1905年11月、三井銀行本店営業部長の池田成彬氏は支店長会議で信託業への進出を提案した。同年3月公布の担保付社債信託法は、信託会社が銀行業以外の事業を兼ねることを禁じていた。倉庫業を定款に掲げる三井銀行は、倉庫業と信託業のどちらかを選ぶ必要に迫られた。三井家は銀行・物産・鉱山を株式会社に改める組織改正を進めており、その一環で倉庫業を銀行から切り離すと決めた。切り離した倉庫部は、三井銀行が1892年に始めた商品担保貸付で担保品を保管する部門である。1909年10月11日、三井銀行本店での創立総会を経て資本金200万円の東神倉庫株式会社が発足し、三井元之助氏が初代社長に就任した。社名は東京と神戸の頭文字から採り、資本金2,000万円の三井銀行・三井物産と並べて三井を冠することは避けた。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「一章 創立前史と揺籃時代」
    • [1]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [2]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [3]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [4]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [6]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [7]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [5]三井銀行倉庫部は1892年に始めた商品担保貸付の担保商品保管部門として開設。1909年10月分離して東神倉庫設立、東京・神戸・門司に支店

1915年10月21日、東神倉庫は神戸・小野浜の海底に重さ2,000トンのケーソンを据え、繋船岸壁の埋立工事に着手した。発端は1906年に東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を設け、日本棉花同業会と荷捌きの契約を結んだことである。小野浜倉庫の綿花取扱いは大きく減少し、海陸をつなぐ鉄道の建設で倉庫前の海面も遮られた。三井銀行は同年8月に地先海面の埋立てを出願し、この計画は創立後の東神倉庫に引き継がれた。1914年12月の許可では、岸壁170間の水深を干潮時30尺とし、1万トン級貨物船2隻の同時繋留を見込んだ。最後の第9号ケーソンの沈設は1916年11月8日、工事費は総額104万円。東神倉庫は1万余坪の埋立地に岸壁を築き、外航の大型船を横付けできる臨港倉庫の基盤とした。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [8]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円
    • [12]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円
    • [13]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「一章 創立前史と揺籃時代」
    • [9]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
    • [10]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
    • [11]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [14]神戸で水面1万余坪を埋め立てて岸壁を築き、外航大型船を繋留する臨港倉庫の機能を整えた
参考文献[1]-[14]
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「一章 創立前史と揺籃時代」
    • [1]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [2]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [3]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [4]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [6]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [7]1905年11月池田成彬が信託業進出を提案、担保付社債信託法第6条の兼業禁止で倉庫業との選択を迫られ、三井の組織改正の一環で倉庫業分離独立を決定。1909年10月11日東神倉庫創立(資本金200万円)、三井元之助が初代社長。社名は東京・神戸の頭文字、三井を冠さなかったのは資本金が小さいため
    • [9]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
    • [10]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
    • [11]1906年東京倉庫が兵庫・和田に桟橋2基を新設し日本棉花同業会と荷捌契約、小野浜倉庫の綿花取扱いが激減。鉄道建設で沿海面が遮断。同年8月三井銀行が埋立を出願し計画は当社に継承
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [5]三井銀行倉庫部は1892年に始めた商品担保貸付の担保商品保管部門として開設。1909年10月分離して東神倉庫設立、東京・神戸・門司に支店
    • [14]神戸で水面1万余坪を埋め立てて岸壁を築き、外航大型船を繋留する臨港倉庫の機能を整えた
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [8]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円
    • [12]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円
    • [13]1914年12月22日埋立許可(岸壁170間・水深30尺・1万トン級2隻同時繋留)。1915年10月21日第1号ケーソン(2,000トン)設置、1916年11月8日第9号設置。工事費総額104万円

1917年〜神戸桟橋会社と大阪倉庫会社の買収と、震災後に横浜・神戸で始めた生糸保管

1917年8月15日、東神倉庫は神戸桟橋に代償金120万円を支払い、同社の港湾業務と付随する物件を取得した。前提は1915年5月25日、社長の三井養之助氏と神戸桟橋社長の松方幸次郎氏が結んだ共同経営の契約である。契約は東神倉庫が陸上、神戸桟橋が海上の業務を受け持ち、10年後に海上部門を120万円で買収すると定めた。神戸の港運業務への参入を狙う東神倉庫は、買収の時期を早めることを望んだ。神戸桟橋も、第一次大戦下の海運の好況を受けて港湾倉庫業務を売却し、船舶の購入資金に充てる方針に転じた。取得により、日本郵船の欧州航路やP&O汽船の欧州・インド航路の船内荷役の権利が東神倉庫に移った。船内荷役に陸揚げの代理業務が加わり、東神倉庫は本船から倉庫までの荷を一社で扱えるようになった。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [15]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [16]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [17]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [18]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [19]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [20]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [21]ステベトアリング・ランディングエーゼント等の業務も経営し、海陸ターミナルにおける一貫作業の態勢を確立

1918年1月1日、東神倉庫は大阪倉庫の施設と業務を継承し、大阪での営業を本格化させた。日露戦争後に繊維工業と精糖業が発展した大阪に、東神倉庫は有力な拠点を持たなかった。1917年6月には天保山運河沿いの市有地3,856坪を入札で借り受け、12月に神戸支店大阪築港派出を開設した。並行して1916年春から鴻池家が経営する大阪倉庫の買収交渉を進めた。大阪倉庫の保管残高3,000万円は、東神倉庫の神戸・門司両支店の合計とほぼ同じ規模である。1917年12月15日、倉庫施設などを150万円で譲り受ける予約契約を結んだ。大阪倉庫の株主は20年間大阪府下で倉庫業を営まないと約し、その代償は33万3,255円である。創立時に東京・神戸・門司の3支店であった東神倉庫は、これで大阪に支店を加えた。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [22]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [23]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [24]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [25]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [26]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [27]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [28]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
  • 証券 1950
    • [29]創立当初の支店は東京・神戸・門司の3か所、大正2年横浜、同6年大阪、同11年名古屋に支店を設置

1924年上期、東神倉庫は横浜と神戸で生糸の保管を始め、前期の損失39万2,919円から79万5,711円の利益に転じた。横浜には1913年、東京支店の派出所を税関構内に開いていた。1923年9月の関東大震災で、東京の箱崎と深川の倉庫は保管貨物ごと焼失した。横浜派出の社員は税関構内の借庫2棟に施錠して艀で避難し、2棟は類焼を免れた。震災後、東神倉庫は税関の倉庫を独占的に使い、生糸の保管を全面的に引き受けた。救援物資と復興資材の輸入が急増したことも業績を押し上げ、配当は年9分へ回復。生糸の輸出港を神戸にも求める神戸市と商業会議所の要望に応え、1926年10月竣工の新港倉庫に1,600坪の生糸保管倉庫を設けた。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「三章 施設近代化時代」
    • [30]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた
    • [35]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた
    • [36]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [31]横浜支店は大正2年(1913年)東京支店の一派出所として開設、震災直後に独立の支店
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [32]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
    • [33]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
    • [34]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
参考文献[15]-[36]
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
    • [15]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [16]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [17]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [18]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [19]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [20]1915年5月25日三井養之助と松方幸次郎が共同経営契約(陸上は当社・海上は神戸桟橋、10年後に海上部門を120万円で買収、期間短縮可)。神戸桟橋は海運進出のため港湾倉庫業務を売却し船舶購入資金に充当。1917年8月15日120万円を支払い取得、9月1日営業開始。日本郵船・P&O等のステベの権利を継承
    • [22]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [23]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [24]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [25]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [26]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [27]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [28]大阪に有力な拠点がなく、1917年6月天保山運河河岸の市有地3,856坪を落札し12月1日神戸支店大阪築港派出を開設。1916年春から鴻池家経営の大阪倉庫(保管残高3,000万円)と買収交渉、1917年12月15日妥結(150万円で譲渡、株主は20年間競業避止で33万3,255円)。1918年1月1日施設と業務を継承
    • [32]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
    • [33]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
    • [34]1923年9月1日関東大震災で箱崎・深川の倉庫が焼失。横浜派出の借庫2棟は施錠して避難し類焼を免れ、震災後は税関倉庫を独占して全面的に生糸保管
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
    • [21]ステベトアリング・ランディングエーゼント等の業務も経営し、海陸ターミナルにおける一貫作業の態勢を確立
    • [31]横浜支店は大正2年(1913年)東京支店の一派出所として開設、震災直後に独立の支店
  • 証券 1950
    • [29]創立当初の支店は東京・神戸・門司の3か所、大正2年横浜、同6年大阪、同11年名古屋に支店を設置
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「三章 施設近代化時代」
    • [30]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた
    • [35]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた
    • [36]1924年上期は横浜・神戸での生糸保管開始と救援物資・復興資材輸入の急増で、前期損失39万2,919円から79万5,711円の利益、年9分に復配。新港倉庫(1926年10月9日竣工)東倉庫に生糸保管倉庫1,600坪、神戸市・商業会議所の要望に応じた

1942年〜軍や官庁との折衝で掲げた三井倉庫の商号と、日本倉庫統制へ供出した施設の返還

1942年2月13日、東神倉庫は臨時株主総会で、3月1日から商号を三井倉庫株式会社に改めると決議した。東神倉庫はかねて三井の名を冠することを望んでいた。戦時下では軍部や諸官庁との折衝に三井の商号が有利と判断し、三井総元方の承認を得た。改称の告知は、1942年2月15日付の中外商業新報に出した広告による。商号変更の前にも、1941年9月施行の港湾運送業等統制令で曳船・艀船と海上業務の営業権を各地の港運会社に譲渡した。陸運統制令に基づく小運送の統合でも、名古屋と門司の小運送の営業権を日本通運に譲渡。創立時に避けた三井の名を戦時に掲げたのは、海の業務を失った会社が官との交渉力を社名に求めたためと推察される。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「四章 戦時統制時代」
    • [37]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [38]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [39]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [40]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [42]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
  • 証券 1950
    • [41]1941年9月施行の港湾運送業等統制令により曳船・艀船等の施設と海上業務の営業権を各地の港運会社に譲渡。1942年3月三井倉庫に改称

1944年5月、三井倉庫は日本倉庫統制に国内の全営業設備を供出し、役職員261名を同社へ転出させた。政府は同年3月24日の閣議で倉庫業統制要綱を決め、3月30日に三井倉庫を含む倉庫業者54社へ統制会社の設立を命じた。4月4日には三菱倉庫社長の三橋信三氏を委員長とする設立委員会が発足し、会長の大塚俊雄氏も委員に加わった。日本倉庫統制の資本金は2,000万円で、株式は供出した倉庫面積に応じて受命各社に割り当てる仕組みである。三井倉庫は7万4,940株を保有し、内地では倉庫上屋の借上料を受け取るだけとなり、外地の海南島とペナンで営業を続けた。三井倉庫は一時、土地と倉庫を管理するだけの会社に変わった。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「四章 戦時統制時代」
    • [43]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [44]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [45]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [46]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [47]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
  • 証券 1950
    • [48]1944年5月日本倉庫統制の設立と共に全倉庫施設と社員の大部分を供出し、一時土地及倉庫の管理者に過ぎなくなった

1945年12月1日、三井倉庫は日本倉庫統制から資産と業務の返還を受け、横浜・名古屋・神戸・門司の支店を再設置した。米国政府が9月22日に公表した初期の対日方針が巨大な企業結合の解体を掲げ、日本政府は10月5日に日本倉庫統制の解散を命じた。三井倉庫は11月24日の定時株主総会で日本倉庫統制から営業の一部を譲り受けることを可決し、社長の松本季三志氏が重任した。港湾運送の再開は1948年9月からで、閉鎖機関に指定された各地の港運会社から曳船と艀船を回収して順次進めた。経営坪数は戦災前の11万6,400坪に対し、1950年時点で7万4,533坪である。失った施設の再建と、その資金を市場から調達することが次の課題になったとみられる。

  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「五章 戦後復興時代」
    • [49]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ
    • [50]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ
    • [51]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ
  • 証券 1950
    • [52]1945年12月倉庫業務の全部を復元、1948年9月から閉鎖機関指定の港運会社から曳船・艀船を回収し港湾運送業を開始。経営坪数は戦災前116,400坪、現在(1950年)74,533坪
    • [53]1945年12月倉庫業務の全部を復元、1948年9月から閉鎖機関指定の港運会社から曳船・艀船を回収し港湾運送業を開始。経営坪数は戦災前116,400坪、現在(1950年)74,533坪
参考文献[37]-[53]
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「四章 戦時統制時代」
    • [37]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [38]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [39]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [40]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [42]1942年2月13日臨時株主総会で3月1日から三井倉庫株式会社へ商号変更を議決。かねて希望、軍部・諸官庁との折衝上三井の商号が好都合と判断し三井総元方の承認を得た。陸運統制令により名古屋・門司の小運送営業権を日本通運に譲渡
    • [43]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [44]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [45]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [46]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
    • [47]1944年3月24日閣議で倉庫業統制要綱、3月30日54社に設立命令、4月4日設立委員会(委員長三橋信三、委員に会長大塚俊雄)。日本倉庫統制は資本金2,000万円、供出面積に応じ株式割当、当社持株74,940株。国内全営業設備を供出し261名転出、内地は借上料収受のみ、外地は海南島・ペナンで営業
  • 証券 1950
    • [41]1941年9月施行の港湾運送業等統制令により曳船・艀船等の施設と海上業務の営業権を各地の港運会社に譲渡。1942年3月三井倉庫に改称
    • [48]1944年5月日本倉庫統制の設立と共に全倉庫施設と社員の大部分を供出し、一時土地及倉庫の管理者に過ぎなくなった
    • [52]1945年12月倉庫業務の全部を復元、1948年9月から閉鎖機関指定の港運会社から曳船・艀船を回収し港湾運送業を開始。経営坪数は戦災前116,400坪、現在(1950年)74,533坪
    • [53]1945年12月倉庫業務の全部を復元、1948年9月から閉鎖機関指定の港運会社から曳船・艀船を回収し港湾運送業を開始。経営坪数は戦災前116,400坪、現在(1950年)74,533坪
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「五章 戦後復興時代」
    • [49]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ
    • [50]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ
    • [51]1945年9月22日米国「初期の対日方針」に大コンビネーション解体。10月5日政府が日倉解散を命じ12月1日に各受命会社へ返還。11月22日定款変更で横浜・名古屋・神戸・門司支店を12月1日再設置、11月24日定時総会で日倉から営業一部譲受を可決、社長松本季三志重任。勤続25年以上を除く日倉転出者の大部分を迎え入れ

出典・参考

7件
出典・参考
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「一章 創立前史と揺籃時代」
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「二章 業務拡張時代」
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「三章 施設近代化時代」
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「四章 戦時統制時代」
  • 刊行社史 三井倉庫八十年史(1989)「五章 戦後復興時代」
  • 会社銀行八十年史(1955)「三井倉庫」
  • 証券 1950

免責事項およびポリシー