第1章 年〜年

四国銀行:第37国立銀行の創業と第127国立銀行の合併

1878年〜三浦萬衛氏が開いた第37国立銀行と、丸亀に立った資本金15万円の第127国立銀行

第37国立銀行は1878年10月17日に開業免許を受け、同年12月8日に高知で営業を始めた。資本金は15万円、1株50円で、初代頭取には土佐藩で格式が馬回り、禄高56石の上士だった三浦萬衛氏が就任した。取締役の林勇氏・太田義一氏・東野行輔氏も士族で、支配人の国久駒吉氏だけが平民の出である。下地になったのは1876年の国立銀行条例の改正で、禄を離れた華士族に渡した金禄公債を銀行券発行の抵当に充てることが認められた。士族が公債を一斉に売り出して相場は額面の半値近くまで下がり、政府は公債を銀行の資本へ向けて価値を支えようとした。第37国立銀行も資本金の80%にあたる12万円の銀行券の交付を受けた。価値の下がる公債を配当の得られる株式に替えることが、士族の出資の動機だったとみられる。

  • 四国銀行百年史(1980)
    • [1]第三十七国立銀行は資本金15万円・1株50円、開業免許1878年10月17日・開業同年12月8日、頭取三浦萬衛・取締役林勇・太田義一・東野行輔(士族)、支配人国久駒吉(平民)
    • [2]初代頭取三浦萬衛は鷹匠町に住む馬回り56石の上士。資本金15万円の80%にあたる12万円の銀行券を公債供託により交付された
    • [3]第三十七国立銀行は資本金15万円・1株50円、開業免許1878年10月17日・開業同年12月8日、頭取三浦萬衛・取締役林勇・太田義一・東野行輔(士族)、支配人国久駒吉(平民)
    • [4]1876年の国立銀行条例改正は華士族救済も柱で、金禄公債証書を銀行券発行の抵当とすることを認めた
    • [6]初代頭取三浦萬衛は鷹匠町に住む馬回り56石の上士。資本金15万円の80%にあたる12万円の銀行券を公債供託により交付された
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [5]士族の公債売却で相場は額面の半額くらいまで暴落し、政府は額面復旧と士族救済のため公債を担保とする国立銀行の設立を勧めた

高知で最初の国立銀行は1877年3月開業の第7国立銀行で、川崎幾三郎氏と小松金吾氏が1871年に興した共立社(のちの開行社)を源流とする。1878年の第7国立銀行は株主40人、1株100円で、上位5人の役員が全株数の3分の2以上を保有した。第37国立銀行は1879年1月13日に10万円を増資し、資本金は25万円になった。同年上半季の株主は252人、総株数5,000株で、1人平均の持株は19.8株にとどまる。1~20株の株主が全体の70%を占め、91株以上を持つ上位4人の持株は合計で13.8%だった。株主は土佐郡を中心に県内全域に及び、金禄公債を手にした士族が少額ずつ出資した。商人の資本を少数が握る第7国立銀行に対し、第37国立銀行は士族の小口の出資を集めた銀行として出発したと推察される。

  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [7]第七国立銀行は1877年3月15日営業開始。1871年に川崎幾三郎・小松金吾が設けた共立社(のち開行社)が前身
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [8]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [9]第三十七国立銀行は1879年1月13日に10万円増資し資本金25万円
    • [10]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [11]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [12]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上

同じころ讃岐の丸亀では、第127国立銀行が1878年11月17日に設立許可を受け、1879年2月1日に開業した。本店は当時愛媛県に属した丸亀の通町18番地に置き、資本金15万円・1株50円、頭取は士族の岩崎長武氏である。設立時の株主は丸亀藩の士族が中心で、高知県人は1人もいなかった。1880年上半季に売買された株式92口でも、売り手の76口、買い手の69口を士族が占めた。それでも営業規則は丸亀の本店のほか、大阪北堀江と高知に支店を設けると定めた。高知の発起人が県内の国立銀行の数に阻まれて新設を許されず、丸亀の銀行設立の動きと合流したという説も伝わる。讃岐の士族の銀行は、出発の時点で高知と結び付いていたと思われる。

  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [13]第百二十七国立銀行は1878年11月17日設立許可、1879年2月1日営業開始、資本金15万円・1株50円
    • [18]高知で発起したが既に3行が免許を受け新設が許されず、丸亀の銀行創立の議と協議して丸亀で免許を得たとの記述(百年史は裏付け資料なしとする)
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [14]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [15]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [16]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [17]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
参考文献[1]-[18]
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [1]第三十七国立銀行は資本金15万円・1株50円、開業免許1878年10月17日・開業同年12月8日、頭取三浦萬衛・取締役林勇・太田義一・東野行輔(士族)、支配人国久駒吉(平民)
    • [2]初代頭取三浦萬衛は鷹匠町に住む馬回り56石の上士。資本金15万円の80%にあたる12万円の銀行券を公債供託により交付された
    • [3]第三十七国立銀行は資本金15万円・1株50円、開業免許1878年10月17日・開業同年12月8日、頭取三浦萬衛・取締役林勇・太田義一・東野行輔(士族)、支配人国久駒吉(平民)
    • [4]1876年の国立銀行条例改正は華士族救済も柱で、金禄公債証書を銀行券発行の抵当とすることを認めた
    • [6]初代頭取三浦萬衛は鷹匠町に住む馬回り56石の上士。資本金15万円の80%にあたる12万円の銀行券を公債供託により交付された
    • [8]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [9]第三十七国立銀行は1879年1月13日に10万円増資し資本金25万円
    • [10]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [11]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [12]1879年上半季の第三十七国立銀行は株主252人・5,000株・平均19.8株、1~20株の株主が70%、上位4人で13.8%、株主は土佐郡中心に全県。第七は株主40人で上位5役員が3分の2以上
    • [14]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [15]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [16]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
    • [17]第百二十七国立銀行は丸亀通町18番地、頭取岩崎長武(士族)。株主は丸亀藩士族中心で高知県人はいない。1880年上季の売買92口のうち売76口・買69口が士族。営業規則に大阪北堀江・高知の支店開設
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [5]士族の公債売却で相場は額面の半額くらいまで暴落し、政府は額面復旧と士族救済のため公債を担保とする国立銀行の設立を勧めた
    • [7]第七国立銀行は1877年3月15日営業開始。1871年に川崎幾三郎・小松金吾が設けた共立社(のち開行社)が前身
    • [13]第百二十七国立銀行は1878年11月17日設立許可、1879年2月1日営業開始、資本金15万円・1株50円
    • [18]高知で発起したが既に3行が免許を受け新設が許されず、丸亀の銀行創立の議と協議して丸亀で免許を得たとの記述(百年史は裏付け資料なしとする)

1880年〜短い期間で替わった頭取と、浦戸町へ移った第127国立銀行の本店

第37国立銀行の頭取は1878年から1896年までに8人を数え、交代は10回を超えた。三浦萬衛氏が1880年6月に退任すると、大谷謙作氏が同年12月まで、続く小崎元嘩氏も1881年1月から約1年だけ務めた。その後も大谷謙作氏と三浦萬衛氏が頭取に戻り、荒尾騰作氏、楠目伊奈伎氏、北川深淵氏が1~2年ずつ就任した。顔ぶれは林勇氏・大谷謙作氏・楠目伊奈伎氏ら少数の取締役でほぼ固まり、その中で頭取の席が移った。国立銀行の定款は各行でほぼ同じ内容で、第7国立銀行の定款は頭取と取締役の在職年限を1年と定めた。頭取は取締役の互選、取締役は30株以上の株主からの選挙という規定である。1年ごとに選び直す定めの下で、士族の重役が頭取の席を順に引き受けたと考えられる。

  • 四国銀行百年史(1980)
    • [19]歴代頭取:三浦萬衛1878年10月~1880年6月、大谷謙作1880年6月~12月、小崎元嘩1881年1月~1882年1月、荒尾騰作1887年、楠目伊奈伎1888~1889年、北川深淵1890年1月~1891年6月、布井良之助、斉藤雅雄1896年1月~9月
    • [20]歴代頭取:三浦萬衛1878年10月~1880年6月、大谷謙作1880年6月~12月、小崎元嘩1881年1月~1882年1月、荒尾騰作1887年、楠目伊奈伎1888~1889年、北川深淵1890年1月~1891年6月、布井良之助、斉藤雅雄1896年1月~9月
    • [21]役員の推移表で頭取は三浦・大谷・小崎・大谷・三浦・荒尾・楠目・北川・大谷・三浦と移り、取締役は林勇・大谷謙作・楠目伊奈伎・国久駒吉らで推移
    • [22]役員の推移表で頭取は三浦・大谷・小崎・大谷・三浦・荒尾・楠目・北川・大谷・三浦と移り、取締役は林勇・大谷謙作・楠目伊奈伎・国久駒吉らで推移
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [23]国立銀行の創立証書・定款は各行大体同じ。第七国立銀行定款第7・8条:取締役は30株以上の株主から5人以上選挙、頭取は取締役の衆議で選び、頭取・取締役の在職年限は1年
    • [24]国立銀行の創立証書・定款は各行大体同じ。第七国立銀行定款第7・8条:取締役は30株以上の株主から5人以上選挙、頭取は取締役の衆議で選び、頭取・取締役の在職年限は1年

第127国立銀行は1881年7月1日に本店を高知県浦戸町55番地へ移し、丸亀の本店を支店に改めた。開業から2年余りでの本店移転である。丸亀の株主はこのころ株式を譲渡して経営から離れ、銀行は高知の資本で営業を続けた。1884年には高知県人の高尾長豪氏が頭取に、栗尾兎之助氏が支配人に就任し、同じ時期に株式の持ち主も大きく入れ替わった。1882年下半季の役職員は23人で、第7国立銀行の25人、第80国立銀行の29人と規模の差は小さい。1885年の役員給与の合計も2,141円と、第37国立銀行の2,267円に近い水準だった。株主も経営陣も高知の人に移り、第127国立銀行は第37国立銀行と並ぶ高知の銀行になったのだろう。

  • 四国銀行百年史(1980)
    • [25]第百二十七国立銀行は1881年7月1日、本店を高知県浦戸町55番地に移し丸亀の本店を支店とした
    • [26]開業後2年余りで本店を高知に移し、1884年に頭取高尾長豪(士族)・支配人栗尾兎之助(平民)と高知県人が就任、前後に株式が大きく移動
    • [28]開業後2年余りで本店を高知に移し、1884年に頭取高尾長豪(士族)・支配人栗尾兎之助(平民)と高知県人が就任、前後に株式が大きく移動
    • [29]1882年下季の役職員数は第七25人・第八十29人・第百二十七23人。1885年の役員給与合計は第三十七2,267円・第百二十七2,141円
    • [30]1882年下季の役職員数は第七25人・第八十29人・第百二十七23人。1885年の役員給与合計は第三十七2,267円・第百二十七2,141円
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [27]後幾何もなく高知に本店を移し支店を丸亀に設け、同地株主は退いた

国立銀行の多くは士族が担い、不慣れな経営で銀行の働きが振るわない例が各地で出た。1881年からの緊縮財政と不換紙幣の整理で米価は1882年ごろから急落し、1884年の米価は1880・1881年の高値の半分を下回った。閉店や営業停止に追い込まれる国立銀行も出るなか、高知県の3行は危機を免れた。それでも第37国立銀行の1885年下半季は総益金が約20%、純益金が13%減り、役員賞与は創業以来初めてゼロとなった。役職員は1882年下半季の25人から1885年上半季の18人へ減り、書記を7人減らした。翌1886年3月22日には、頭取の三浦萬衛氏以下23人全員が血判を押した誓約書を作成。行金を盗用すれば『私財を挙げて之を弁償し而して自刃す』と誓う文面だった。減益の局面で、士族の規律を行内に改めて示す狙いがあったと推測される。

  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [31]国立銀行は金禄公債の価値維持を目的とした関係で士族が多く、いわゆる士族の商法で銀行機能が不振を極めた
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [32]松方デフレで財政緊縮と不換紙幣整理が進み、1882年ごろから米価が急落、1884年の米価は1880・81年のピークの半値以下。全国で閉店・営業停止の国立銀行が出たが高知県の3銀行は危機を免れた
    • [33]松方デフレで財政緊縮と不換紙幣整理が進み、1882年ごろから米価が急落、1884年の米価は1880・81年のピークの半値以下。全国で閉店・営業停止の国立銀行が出たが高知県の3銀行は危機を免れた
    • [34]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
    • [35]第三十七国立銀行の役職員は1882年下季25人から1885年上季18人に減少、減少は書記7人
    • [36]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
    • [37]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
参考文献[19]-[37]
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [19]歴代頭取:三浦萬衛1878年10月~1880年6月、大谷謙作1880年6月~12月、小崎元嘩1881年1月~1882年1月、荒尾騰作1887年、楠目伊奈伎1888~1889年、北川深淵1890年1月~1891年6月、布井良之助、斉藤雅雄1896年1月~9月
    • [20]歴代頭取:三浦萬衛1878年10月~1880年6月、大谷謙作1880年6月~12月、小崎元嘩1881年1月~1882年1月、荒尾騰作1887年、楠目伊奈伎1888~1889年、北川深淵1890年1月~1891年6月、布井良之助、斉藤雅雄1896年1月~9月
    • [21]役員の推移表で頭取は三浦・大谷・小崎・大谷・三浦・荒尾・楠目・北川・大谷・三浦と移り、取締役は林勇・大谷謙作・楠目伊奈伎・国久駒吉らで推移
    • [22]役員の推移表で頭取は三浦・大谷・小崎・大谷・三浦・荒尾・楠目・北川・大谷・三浦と移り、取締役は林勇・大谷謙作・楠目伊奈伎・国久駒吉らで推移
    • [25]第百二十七国立銀行は1881年7月1日、本店を高知県浦戸町55番地に移し丸亀の本店を支店とした
    • [26]開業後2年余りで本店を高知に移し、1884年に頭取高尾長豪(士族)・支配人栗尾兎之助(平民)と高知県人が就任、前後に株式が大きく移動
    • [28]開業後2年余りで本店を高知に移し、1884年に頭取高尾長豪(士族)・支配人栗尾兎之助(平民)と高知県人が就任、前後に株式が大きく移動
    • [29]1882年下季の役職員数は第七25人・第八十29人・第百二十七23人。1885年の役員給与合計は第三十七2,267円・第百二十七2,141円
    • [30]1882年下季の役職員数は第七25人・第八十29人・第百二十七23人。1885年の役員給与合計は第三十七2,267円・第百二十七2,141円
    • [32]松方デフレで財政緊縮と不換紙幣整理が進み、1882年ごろから米価が急落、1884年の米価は1880・81年のピークの半値以下。全国で閉店・営業停止の国立銀行が出たが高知県の3銀行は危機を免れた
    • [33]松方デフレで財政緊縮と不換紙幣整理が進み、1882年ごろから米価が急落、1884年の米価は1880・81年のピークの半値以下。全国で閉店・営業停止の国立銀行が出たが高知県の3銀行は危機を免れた
    • [34]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
    • [35]第三十七国立銀行の役職員は1882年下季25人から1885年上季18人に減少、減少は書記7人
    • [36]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
    • [37]第15回半季考課状(1885年7~12月)で総益金約20%・純益金13%減、役員賞与が初のゼロ。1886年3月22日付で頭取三浦萬衛以下全重役・従業員23人が署名・血判した誓約書
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [23]国立銀行の創立証書・定款は各行大体同じ。第七国立銀行定款第7・8条:取締役は30株以上の株主から5人以上選挙、頭取は取締役の衆議で選び、頭取・取締役の在職年限は1年
    • [24]国立銀行の創立証書・定款は各行大体同じ。第七国立銀行定款第7・8条:取締役は30株以上の株主から5人以上選挙、頭取は取締役の衆議で選び、頭取・取締役の在職年限は1年
    • [27]後幾何もなく高知に本店を移し支店を丸亀に設け、同地株主は退いた
    • [31]国立銀行は金禄公債の価値維持を目的とした関係で士族が多く、いわゆる士族の商法で銀行機能が不振を極めた

1891年〜コルレスと保険代理で広げた業務と、高知に並んだ2つの国立銀行の合併

第37国立銀行の業務は県内の産業と商業の発展に合わせて広がり、為替の取引網を県外へ延ばした。1885年下半季には須崎支店が日本銀行大阪支店のコルレス特約店となった。1893年上半季のコルレスと聯帯送金の取組先は中国・四国を中心に、北は北海道、南は九州に及ぶ。本店のコルレス先には東京の第三国立銀行があり、その大阪・横浜・函館の支店とも契約を結んだ。生命保険の代理店も務め、1890年2月27日付の土陽新聞に広告を載せた。経営陣では1893年に副頭取の席へ斉藤雅雄氏が就任し、取締役の国久駒吉氏が支配人を兼ねた。同年12月26日の登記でも、頭取の三浦萬衛氏と副頭取の斉藤雅雄氏が並ぶ。県内の商取引を県外の市場につなぐ為替の業務が、銀行の主な業務になりつつあったようだ。

  • 四国銀行百年史(1980)
    • [38]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [39]1885年下季から須崎支店が日本銀行大阪支店のコレスポンデンス特約店。生命保険代理店業務を行い、1890年2月27日付土陽新聞に広告
    • [40]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [41]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [42]1885年下季から須崎支店が日本銀行大阪支店のコレスポンデンス特約店。生命保険代理店業務を行い、1890年2月27日付土陽新聞に広告
    • [43]1893年の第30回半季考課状に、欠員の副頭取に斉藤雅雄が就任、取締役国久駒吉が支配人を兼務と記載
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [44]1893年12月26日の高知区裁判所登記原簿で頭取三浦萬衛・副頭取斎藤雅雄

第37国立銀行は1896年8月18日に第127国立銀行との合併の認可を受け、同年9月26日に合併を実施した。両行はこれに先立つ同年2月、行名をそれぞれ高知第37国立銀行、高知第127国立銀行に改めた。合併前の資本金は第37国立銀行が25万円、第127国立銀行が15万円で、合わせて40万円の私立銀行として再発足。認可を得た時の頭取は、1896年1月に就任した斉藤雅雄氏である。同年10月の役員改選では荒尾騰作氏が頭取に就任し、斉藤雅雄氏は取締役に回った。株主は100人余り増え、高知市と土佐郡の株主が人数で80%、株金で90%を占めた。第127国立銀行の重役の多くは新銀行に加わらず、別に土佐貯金銀行を設けた。営業満期を前に、同じ高知に本店を置く2行が資本を合わせて地元の株主を固めたのであろう。

  • 四国銀行百年史(1980)
    • [45]1896年8月18日に満期前特別処分法により第百二十七国立銀行との合併認可、9月26日合併実施、資本金40万円の私立銀行に。同年10月の改選で頭取荒尾騰作、取締役斉藤雅雄ほか
    • [48]歴代頭取表で斉藤雅雄は1896年1月~9月、荒尾騰作は1896年9月~1897年3月
    • [49]1896年8月18日に満期前特別処分法により第百二十七国立銀行との合併認可、9月26日合併実施、資本金40万円の私立銀行に。同年10月の改選で頭取荒尾騰作、取締役斉藤雅雄ほか
    • [50]1896年9月26日の合併で株主数は100余人増え、高知市と土佐郡で株主数80%・株金高90%
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [46]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立
    • [47]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立
    • [51]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立

国立銀行の営業期間は開業から20年で、各行の満期は1896年から1897年だった。1895年9月6日に第一国立銀行ほか有力12行が満期後の存続を求め、政府は1896年3月23日に国立銀行営業満期前特別処分法を公布した。この法律で国立銀行は満期を待たずに私立銀行へ移れるようになり、全国133行のうち122行が私立銀行として営業を続けた。高知では第7国立銀行と第80国立銀行が私立銀行に改組し、1896年3月に第7銀行が第80銀行の営業を引き継いだ。頭取の大脇克佶氏の下、資本金100万円の土佐銀行の発足。第37国立銀行は1897年3月1日に行名を株式会社高知銀行へ改め、資本金を80万円に増やした。高知の国立銀行4行は高知銀行と土佐銀行の2行にまとまり、のちの両行の合併に向けた地ならしになったといえよう。

  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [52]国立銀行は1896~97年に営業満期。1895年9月6日に第一国立銀行ほか有力12行が存続運動、1896年3月23日営業満期前特別処分法を公布し私立銀行として存続の途を開いた
    • [53]国立銀行は1896~97年に営業満期。1895年9月6日に第一国立銀行ほか有力12行が存続運動、1896年3月23日営業満期前特別処分法を公布し私立銀行として存続の途を開いた
    • [57]高知第三十七国立銀行は処分法により私立銀行として継続、社名を株式会社高知銀行とし資本金80万円で1897年3月1日新発足
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [54]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
    • [55]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
    • [56]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
参考文献[38]-[57]
  • 四国銀行百年史(1980)
    • [38]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [39]1885年下季から須崎支店が日本銀行大阪支店のコレスポンデンス特約店。生命保険代理店業務を行い、1890年2月27日付土陽新聞に広告
    • [40]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [41]業務は産業・商業の発展にしたがい拡張され、1893年上季のコレスポンデンス・聯帯送金取組先は中四国中心に北海道から九州まで。本店の取組先に第三国立銀行本店・大阪・横浜・函館支店
    • [42]1885年下季から須崎支店が日本銀行大阪支店のコレスポンデンス特約店。生命保険代理店業務を行い、1890年2月27日付土陽新聞に広告
    • [43]1893年の第30回半季考課状に、欠員の副頭取に斉藤雅雄が就任、取締役国久駒吉が支配人を兼務と記載
    • [45]1896年8月18日に満期前特別処分法により第百二十七国立銀行との合併認可、9月26日合併実施、資本金40万円の私立銀行に。同年10月の改選で頭取荒尾騰作、取締役斉藤雅雄ほか
    • [48]歴代頭取表で斉藤雅雄は1896年1月~9月、荒尾騰作は1896年9月~1897年3月
    • [49]1896年8月18日に満期前特別処分法により第百二十七国立銀行との合併認可、9月26日合併実施、資本金40万円の私立銀行に。同年10月の改選で頭取荒尾騰作、取締役斉藤雅雄ほか
    • [50]1896年9月26日の合併で株主数は100余人増え、高知市と土佐郡で株主数80%・株金高90%
    • [54]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
    • [55]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
    • [56]全国133国立銀行のうち122行が私立銀行として継続。第七・第八十は私立銀行に改組し、1896年3月に第七銀行が第八十銀行の営業権を継いで土佐銀行(資本金100万円、頭取大脇克佶)
  • 四国銀行五十年史(1950)
    • [44]1893年12月26日の高知区裁判所登記原簿で頭取三浦萬衛・副頭取斎藤雅雄
    • [46]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立
    • [47]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立
    • [51]1896年2月7日に高知第三十七・高知第百二十七国立銀行と社名変更。資本金は第三十七が25万円、第百二十七が15万円、合併後40万円。元第百二十七の重役の多くは別に土佐貯金銀行を創立
    • [52]国立銀行は1896~97年に営業満期。1895年9月6日に第一国立銀行ほか有力12行が存続運動、1896年3月23日営業満期前特別処分法を公布し私立銀行として存続の途を開いた
    • [53]国立銀行は1896~97年に営業満期。1895年9月6日に第一国立銀行ほか有力12行が存続運動、1896年3月23日営業満期前特別処分法を公布し私立銀行として存続の途を開いた
    • [57]高知第三十七国立銀行は処分法により私立銀行として継続、社名を株式会社高知銀行とし資本金80万円で1897年3月1日新発足

出典・参考

2件
出典・参考
  • 四国銀行五十年史(1950)
  • 四国銀行百年史(1980)

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