滋賀銀行:百卅三銀行と八幡銀行の対等合併による設立
1933年〜日本銀行が示した株式比率無条件の対等合併と、大津に本店を置いた新銀行
百卅三銀行と八幡銀行は互いの資産の優劣を自ら判定できず、合併比率の決定を日本銀行の裁定に委ねた。両行の合併は、日本銀行京都支店長の菊池亀三郎氏の示唆が直接の契機である。百卅三銀行は1927年の金融恐慌後に当局の勧奨を受けて県内5行の対等な新設合併を協議し、各行の財産の隔たりから断念した。その後の高島・寺庄・淡海の3行との合併は、いずれも百卅三銀行が主体となる買収合併で進んだ。日本銀行は両行の資料を調べ、1933年4月17日に株式比率を無条件で対等とする最終案を示した。同年5月23日の合併要項は、両行の資産や収益の差を認めつつ『滋賀県下金融界ノ安定ト両行将来ノタメ対等条件ヲ以テ合併スルコト』と定めた。比率に差が付けば株主総会の運営が難しくなるという両行の懸念を、第三者の裁定が取り除いたとみられる。
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ151-200
- [1]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- [3]1927年の5行合同協定は財産の隔たりで対等合併不能となり、百卅三銀行が個別に高島・寺庄・淡海を買収合併
- [4]1927年の5行合同協定は財産の隔たりで対等合併不能となり、百卅三銀行が個別に高島・寺庄・淡海を買収合併
- [5]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- [6]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [2]日本銀行京都支店長菊池亀三郎が両行の合併を示唆したことが新立銀行誕生の直接の導火線
1933年10月1日、両行は新設合併で株式会社滋賀銀行を設立し、翌2日に開店した。本店の所在地は大津市。資本金340万円の百卅三銀行と525万円の八幡銀行が合わさり、新銀行の資本金は750万円である。仮契約書は合併の目的を『県下ニ於ケル金融界ノ安定ヲ図リ其ノ使命ヲ一層充実セントスル目的』と記した。役員の人選は日本銀行の指名に一任され、60歳で一線を画しつつ旧行の頭取と専務は例外とする原則が置かれた。この原則のもとで八幡銀行専務の梅村甚兵衛氏が初代頭取に就任し、百卅三銀行専務の広野規矩太郎氏が専務取締役に就任した。両行で計19名いた重役を10〜12名に減らす人選の摩擦を、年齢の基準が和らげたと推察される。
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [7]1933年10月1日設立総会、10月2日開店・設立及び解散登記
- [12]取締役頭取梅村甚兵衛、専務取締役広野規矩太郎
- 滋賀銀行 有価証券報告書「沿革」
- [8]1933年10月設立、本店大津市
- 会社銀行八十年史(1955)「滋賀銀行」
- [9]百卅三銀行資本金340万円・八幡銀行525万円、新銀行資本金750万円
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ201-250
- [10]仮契約書の目的条項、役員は日銀指名に一任し60歳を一線・旧行頭取専務は例外、梅村専務が初代頭取
- [11]仮契約書の目的条項、役員は日銀指名に一任し60歳を一線・旧行頭取専務は例外、梅村専務が初代頭取
参考文献[1]-[12]
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ151-200
- [1]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- [3]1927年の5行合同協定は財産の隔たりで対等合併不能となり、百卅三銀行が個別に高島・寺庄・淡海を買収合併
- [4]1927年の5行合同協定は財産の隔たりで対等合併不能となり、百卅三銀行が個別に高島・寺庄・淡海を買収合併
- [5]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- [6]日銀に裁定を一任し1933年4月17日に株式比率無条件対等合併の最終案、5月23日に合併要項提示
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [2]日本銀行京都支店長菊池亀三郎が両行の合併を示唆したことが新立銀行誕生の直接の導火線
- [7]1933年10月1日設立総会、10月2日開店・設立及び解散登記
- [12]取締役頭取梅村甚兵衛、専務取締役広野規矩太郎
- 滋賀銀行 有価証券報告書「沿革」
- [8]1933年10月設立、本店大津市
- 会社銀行八十年史(1955)「滋賀銀行」
- [9]百卅三銀行資本金340万円・八幡銀行525万円、新銀行資本金750万円
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ201-250
- [10]仮契約書の目的条項、役員は日銀指名に一任し60歳を一線・旧行頭取専務は例外、梅村専務が初代頭取
- [11]仮契約書の目的条項、役員は日銀指名に一任し60歳を一線・旧行頭取専務は例外、梅村専務が初代頭取
1934年〜旧2行の事務統合と京都・大阪への出店、蒲生・湖北・柏原の3行買収
開業日に滋賀銀行は通達10種を発し、旧2行の店舗の廃合、役員、職員の配置、取扱手続を一斉に定めた。国立銀行の流れを汲む百卅三銀行と私立銀行として運営してきた八幡銀行では事務の流儀が異なり、全店の手続がそろうまで約半年を要した。創業期は全国的な低金利と重なり、1934年上期の貸出金は創業時より減少して預金の36%にとどまった。滋賀銀行は1938年春に京都支店と大阪出張所の新設を大蔵省に内伺し、県内では預金を消化できないと訴えた。京都支店は同年8月10日に認可され、10月3日に京都市の烏丸通松原で開業した。大阪は京都府を隔てる点が問われ、大阪支店の開店は1941年3月1日。繊維業界で活躍する滋賀県出身の商人が京都と大阪に集まっていたことが、出店先の選定を後押ししたと思われる。
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [13]開業日に達第一号〜第十号、旧両行の方式の違いで手続統一に約半年
- [14]開業日に達第一号〜第十号、旧両行の方式の違いで手続統一に約半年
- [15]1934年上期、貸出金は創業時より減少し預金の36%
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ201-250
- [16]1938年春に京都支店・大阪出張所を内伺、8月10日京都支店認可、10月3日開業、大阪は府を隔て保留
- [17]1938年春に京都支店・大阪出張所を内伺、8月10日京都支店認可、10月3日開業、大阪は府を隔て保留
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [18]大阪支店1941年3月1日開店
1940年11月18日、滋賀銀行は日野町に本店を置く蒲生銀行を買収合併した。蒲生銀行は1898年の創立で、本店と桜川・朝日野の2支店に職員13名を抱え、1936年末の預金は48万円だった。1937年初めに当局が強い方針で合併を求め、両行は同年3月13日に仮契約を結んだ。ところが蒲生銀行の整理に伴う役員の個人責任をめぐって意見がまとまらず、交渉は一度中止となる。全国の銀行数が1940年9月末に289行まで減少するなかで、蒲生銀行は営業譲渡を決め、同年9月13日に改めて仮契約に調印した。蒲生銀行は1927年の5行合同協定の当事者でもあり、合併の実現までに要した年月は13年にのぼる。日中戦争下の資金統制が強まり、小規模行の単独での存続は難しくなっていたのだろう。
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [19]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [20]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [21]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [22]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [23]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ151-200
- [24]1927年の5行合同協定に蒲生銀行が参加、1940年11月18日に滋賀銀行が買収合併
戦時の金融統制で政府が一県一行の方針を進めるなか、滋賀銀行は1942年8月に湖北銀行、1943年6月に柏原銀行を買収した。湖北銀行は1929年11月に二十一・江北・伊香の3行が新設合併して生まれた銀行である。1943年3月に普通銀行の貯蓄銀行業務・信託業務の兼営を認める法律が公布された。これを受け、滋賀銀行は代理店契約を結んでいた傍系の滋賀貯蓄銀行と同年8月に合併した。近江信託は信託会社を一県一社に限る許可方針のもと、県内3派の出願を一本化して1928年1月に資本金500万円で開業した会社である。1945年7月1日に近江信託を合併し、資本金は1,350万円となり、本店に信託部を設けた。明治以来県内に本店を置いた地方銀行は、これで直接・間接にすべて滋賀銀行へ合流した。
- 滋賀銀行 有価証券報告書「沿革」
- [25]1942年8月湖北銀行、1943年6月柏原銀行を買収、1943年8月滋賀貯蓄銀行、1945年7月近江信託を合併
- [28]1942年8月湖北銀行、1943年6月柏原銀行を買収、1943年8月滋賀貯蓄銀行、1945年7月近江信託を合併
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [26]湖北銀行は1929年11月に二十一・江北・伊香3行が新立合併
- [27]1943年3月兼営法公布、滋賀貯蓄銀行と合併、県内本店銀行がすべて当行に合流し一県一行が結実
- [30]1945年7月1日近江信託合併、資本金13,500千円、本店信託部新設
- [31]1943年3月兼営法公布、滋賀貯蓄銀行と合併、県内本店銀行がすべて当行に合流し一県一行が結実
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [29]信託会社は一県一社の許可方針、3派一致し1928年1月23日大津で資本金500万円で近江信託開業
参考文献[13]-[31]
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- [13]開業日に達第一号〜第十号、旧両行の方式の違いで手続統一に約半年
- [14]開業日に達第一号〜第十号、旧両行の方式の違いで手続統一に約半年
- [15]1934年上期、貸出金は創業時より減少し預金の36%
- [29]信託会社は一県一社の許可方針、3派一致し1928年1月23日大津で資本金500万円で近江信託開業
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ201-250
- [16]1938年春に京都支店・大阪出張所を内伺、8月10日京都支店認可、10月3日開業、大阪は府を隔て保留
- [17]1938年春に京都支店・大阪出張所を内伺、8月10日京都支店認可、10月3日開業、大阪は府を隔て保留
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [18]大阪支店1941年3月1日開店
- [19]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [20]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [21]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [22]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [23]蒲生銀行は1898年創立、3店舗・職員13名、1937年3月13日仮契約後中止、1940年9月13日再調印、11月18日合併実行
- [26]湖北銀行は1929年11月に二十一・江北・伊香3行が新立合併
- [27]1943年3月兼営法公布、滋賀貯蓄銀行と合併、県内本店銀行がすべて当行に合流し一県一行が結実
- [30]1945年7月1日近江信託合併、資本金13,500千円、本店信託部新設
- [31]1943年3月兼営法公布、滋賀貯蓄銀行と合併、県内本店銀行がすべて当行に合流し一県一行が結実
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ151-200
- [24]1927年の5行合同協定に蒲生銀行が参加、1940年11月18日に滋賀銀行が買収合併
- 滋賀銀行 有価証券報告書「沿革」
- [25]1942年8月湖北銀行、1943年6月柏原銀行を買収、1943年8月滋賀貯蓄銀行、1945年7月近江信託を合併
- [28]1942年8月湖北銀行、1943年6月柏原銀行を買収、1943年8月滋賀貯蓄銀行、1945年7月近江信託を合併
1945年〜金融緊急措置で封鎖された預金と、都市店舗の整備で始めた復興経営
敗戦から1カ月足らずの1945年9月7日、滋賀銀行は重役会で戦後の復興経営の大綱を定めた。1946年2月16日に政府はインフレ防遏綜合対策を発表し、金融緊急措置令と日本銀行券預入令で全金融機関の既存預金を封鎖した。券面5円以上の旧日本銀行券は3月3日以後に無効となり、預金の払い出しは原則として封鎖支払の方法に限られた。封鎖預金の支払には金額、封鎖と自由の区別、使途、金融機関名を記す必要があり、窓口の手数と時間は従前の2〜3倍。滋賀銀行は同年8月10日に上期の打ち切り決算を行い、翌11日午前零時現在で資産と負債を新旧の勘定に分けた。払い出しの制限と事務量の急増を抱えたまま、店頭の営業を止めずに続けることがこの時期の課題だったと考えられる。
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ201-250
- [32]1945年9月7日の重役会で戦後復興経営の大綱を決定
- [33]1946年2月16日インフレ防遏綜合対策、金融緊急措置令・日銀券預入令で預金封鎖、5円以上の旧券は3月3日以後無効
- [34]1946年2月16日インフレ防遏綜合対策、金融緊急措置令・日銀券預入令で預金封鎖、5円以上の旧券は3月3日以後無効
- [35]封鎖預金支払時は金額・封鎖自由の区別・使途・金融機関名を記入し手数は従前の2〜3倍
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ251-300
- [36]1946年8月10日打ち切り決算、8月11日午前零時現在で新旧勘定に分離
終戦後、滋賀銀行は浮動購買力の吸収と情勢の急変に耐える採算を店舗政策の主眼に置いた。戦時中に預金吸収や他行の合併で設けた弱小店舗を整理し、京都市内では1946年4月に北大路と九条、同年7月に銀閣寺の各出張所を支店に昇格させた。大阪支店は1945年3月13日の大阪大空襲で全焼し、戦後にかつて大阪事務所を置いた野村ビルへ移った。さらに東京支店を開設し、京都・大阪・東京の3大都市にそろって店舗を持つ地方銀行になった。1955年3月末の店舗は県内50店に対し、京都市内7店、東京都内2店、大阪市内2店という構成である。県内の合同を終えた後の成長余地を、滋賀県出身の商人が取引を広げる大都市に求めた判断と推測される。
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ201-250
- [37]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- [38]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- [39]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [40]終戦後に東京支店を開設し三大都市に店舗を持つ地方銀行となる
- 会社銀行八十年史(1955)「滋賀銀行」
- [41]1955年3月末の店舗は県内50・京都市内7・東京都内2・大阪市内2
1946年10月に金融機関再建整備法が施行され、旧勘定に分けた損失の処理が実施段階に入った。損失を株主が負担すると、残る資本金は135万円にとどまる計算である。1947年10月末の総預金13億5,000万円に比べ、自己資本の過少は明らかだった。1947年10月25日の重役会は資本を増加する方針を決め、増資計画を再建整備計画と並行して進めた。資本金は1948年3月31日に9割減資で135万円となり、同年9月27日に6,700万円へ増資した。1949年度予算はドッジ・ラインの超均衡予算として組まれ、復興金融金庫の貸出停止で資金供給の鍵は金融機関に移った。資本の立て直しと復金の後退が重なり、滋賀銀行は自己資本を厚くして地域の資金需要を受け止める体制に移ったと読み取れる。
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ251-300
- [42]1946年10月金融機関再建整備法施行で再建整備の実施段階へ
- [46]1948年3月31日9割減資で1,350千円、9月27日67,000千円
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ251-300
- [43]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [44]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [45]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [47]1949年度予算は超均衡予算、復金貸出停止で資金供給の鍵を金融機関に委ねる
参考文献[32]-[47]
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ201-250
- [32]1945年9月7日の重役会で戦後復興経営の大綱を決定
- [33]1946年2月16日インフレ防遏綜合対策、金融緊急措置令・日銀券預入令で預金封鎖、5円以上の旧券は3月3日以後無効
- [34]1946年2月16日インフレ防遏綜合対策、金融緊急措置令・日銀券預入令で預金封鎖、5円以上の旧券は3月3日以後無効
- [35]封鎖預金支払時は金額・封鎖自由の区別・使途・金融機関名を記入し手数は従前の2〜3倍
- [37]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- [38]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- [39]戦後の店舗政策は浮動購買力吸収と採算経営、1946年4月北大路・九条、7月銀閣寺を支店昇格、大阪支店は1945年3月13日全焼後野村ビルへ
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ251-300
- [36]1946年8月10日打ち切り決算、8月11日午前零時現在で新旧勘定に分離
- [42]1946年10月金融機関再建整備法施行で再建整備の実施段階へ
- [46]1948年3月31日9割減資で1,350千円、9月27日67,000千円
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- [40]終戦後に東京支店を開設し三大都市に店舗を持つ地方銀行となる
- 会社銀行八十年史(1955)「滋賀銀行」
- [41]1955年3月末の店舗は県内50・京都市内7・東京都内2・大阪市内2
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ251-300
- [43]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [44]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [45]株主負担を資本金の9割とすれば残存資本金135万円、総預金13億5千万円(1947年10月末)、1947年10月25日重役会で増資方針
- [47]1949年度予算は超均衡予算、復金貸出停止で資金供給の鍵を金融機関に委ねる
出典・参考
9件
- 滋賀銀行 有価証券報告書「沿革」
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ101-150
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ151-200
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ201-250
- 滋賀銀行二十年史(1954) コマ251-300
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ151-200
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ201-250
- 滋賀銀行五十年史(1985) コマ251-300
- 会社銀行八十年史(1955)「滋賀銀行」