第1章 年〜年

東邦銀行:郡山商業銀行など3行の合併による設立と福島市への本店移転

1941年〜大蔵省の慫慂による郡山商業など3行の合併と、県内唯一の本店銀行への統合

東邦銀行は1941年11月4日、郡山商業銀行・会津銀行・白河瀬谷銀行の3行の合併で発足した。発端は1936年の馬場蔵相の時代に唱えられた1県1行主義で、1940年11月に大蔵省が郡山商業銀行へ合併を勧めた。1941年4〜5月には3行の純資産を査定する大蔵省の検査が入り、会津銀行では一部の株主が合併反対の陳情書を出した。頭取の谷半兵衛氏らは株主を個別に訪ねて陳情の取り下げを求め、合併承諾にこぎつけた。新銀行の名称「東邦」は大蔵省銀行局が命名し、本店の所在地と役員の人選も大蔵省に任された。設立の目的として掲げたのは、大蔵省の勧めに沿った福島県の金融界の強化である。資本金は200万円、本店は郡山市、初代頭取は谷半兵衛氏。3行の自発的な判断というより、国策が組み立てた合併だったとみられる。

  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1941年11月4日に郡山商業・会津・白河瀬谷の3行が合併して設立。資本金200万円・本店郡山市
    • [7]1941年11月4日に郡山商業・会津・白河瀬谷の3行が合併して設立。資本金200万円・本店郡山市
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ1-50)
    • [2]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [3]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [4]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [5]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [6]大蔵省の慫慂に基づき福島県財界の強化発展を図るため3行合併で設立

発足から3年で、東邦銀行は県内に残る6行と福島貯蓄銀行を取り込み、県内に本店を置く唯一の銀行となった。新立後も県内に本店を構える銀行は、岩瀬興業・三春・猪苗代・磐東・田村実業・矢吹の6行。大蔵省・県・日銀は、これらを1行にまとめる第2次合同の下工作を進めた。まず1942年8月に岩瀬興業・三春・猪苗代の3行と営業譲受の仮契約を結び、同年11月に4支店3出張所を引き継いだ。続いて1943年2月に磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し、資本金は270万円となった。1944年11月には福島貯蓄銀行を合併し、資本金は320万円に達した。県内各地の小銀行の店舗網を一手に収めたことが、戦後に県の公金を扱う前提になったと考えられる。

  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [8]1942年猪苗代・岩瀬興業・三春の営業譲受、1943年矢吹・田村実業・磐東の営業譲受、1944年福島貯蓄銀行合併で県内唯一の本店銀行、資本金320万円
    • [14]1942年猪苗代・岩瀬興業・三春の営業譲受、1943年矢吹・田村実業・磐東の営業譲受、1944年福島貯蓄銀行合併で県内唯一の本店銀行、資本金320万円
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ1-50)
    • [9]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [10]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [11]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [12]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1943年2月矢吹銀行・田村実業銀行・磐東銀行の3行を合併

1944年4月、谷半兵衛氏が頭取を辞任し、副頭取の佐藤安二氏が2代頭取に昇格した。谷半兵衛氏は老齢と健康の不調を理由に取締役と代表取締役を退く意向で、常勤役員の留任要請にも応じなかった。後任は谷半兵衛氏の推薦で決まり、空いた副頭取には監査役の瀬谷磯吉氏が就任した。佐藤安二氏は郡山商業銀行の常務・頭取を経て、設立時から副頭取を務めてきた人物である。同年6月、東邦銀行は大日本兵器と保土谷化学工業の県内工場に当座資金を貸す乙種軍需融資金融機関に指定された。同年11月の福島貯蓄銀行の合併も、佐藤安二頭取の代にあたる。郡山の地場銀行出身者が頭取となり、経営の中心は郡山に置かれたまま終戦を迎えたのだろう。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [15]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [16]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [17]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [18]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [19]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1944年11月福島貯蓄銀行を合併
参考文献[1]-[20]
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1941年11月4日に郡山商業・会津・白河瀬谷の3行が合併して設立。資本金200万円・本店郡山市
    • [7]1941年11月4日に郡山商業・会津・白河瀬谷の3行が合併して設立。資本金200万円・本店郡山市
    • [13]1943年2月矢吹銀行・田村実業銀行・磐東銀行の3行を合併
    • [20]1944年11月福島貯蓄銀行を合併
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ1-50)
    • [2]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [3]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [4]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [5]1940年11月大蔵省が郡山商業銀行に合併勧奨、1941年4-5月に純資産査定の検査、会津銀行で株主の反対陳情、行名は大蔵省銀行局が命名、本店所在地・役員は大蔵省一任、初代頭取谷半兵衛
    • [9]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [10]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [11]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
    • [12]県内に残る6行を1県1行にまとめる第2次合同。1942年8月3行と営業譲受仮契約・11月実現(4支店3出張所)、磐東・田村実業・矢吹の3行を吸収合併し資本金270万円
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [6]大蔵省の慫慂に基づき福島県財界の強化発展を図るため3行合併で設立
    • [8]1942年猪苗代・岩瀬興業・三春の営業譲受、1943年矢吹・田村実業・磐東の営業譲受、1944年福島貯蓄銀行合併で県内唯一の本店銀行、資本金320万円
    • [14]1942年猪苗代・岩瀬興業・三春の営業譲受、1943年矢吹・田村実業・磐東の営業譲受、1944年福島貯蓄銀行合併で県内唯一の本店銀行、資本金320万円
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [15]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [16]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [17]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [18]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定
    • [19]1944年4月谷半兵衛頭取が老齢・健康不良で辞任、推薦により佐藤安二副頭取が頭取に昇格、副頭取に瀬谷磯吉。同年6月大日本兵器・保土谷化学工業の工場向け乙種軍需融資金融機関に指定

1946年〜日銀出身の須藤仁郎氏が進めた福島市への本店移転と、県本金庫の引受け

1946年7月、副頭取の瀬谷磯吉氏が辞任し、臨時株主総会で取締役に選ばれた須藤仁郎氏が副頭取に就任した。須藤仁郎氏は福島市の出身で、市立福島商業学校から日本銀行に入り、当時は日銀青森事務所長を務めていた。日銀での経歴は本店調査局、秋田支店営業課長、本店審査部。設立から5年足らずで経営基盤の固まらない東邦銀行に、行の内外から強く請われて入った。本店の福島市移転は以前から話に上っていたが、高齢の佐藤安二頭取に代わって福島市に常駐し経営全般を見る人材がいなかった。就任後はまず内規を全面改正し、1946年10月に店部課制度と事務分掌を規定として整えた。副頭取の須藤仁郎氏の就任から5カ月後の1946年12月、本店は郡山市から福島市へ移った。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [21]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [22]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [23]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [24]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [25]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [26]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1946年12月本店を郡山市から福島市に移転

1946年12月、東邦銀行は本店を郡山市から福島市へ移し、福島支店を応急工事で広げて本店社屋とした。郡山の旧本店は郡山支店として営業を続けた。県政の中心で日銀支店もある福島市なら諸官庁や日銀との連絡が密になり、県金庫と日銀代理店の引受け交渉でも有利になると見込んだ。郡山周辺を地盤とする小銀行という受け止め方を薄める狙いもあった。終戦直後で店舗と行員住宅の確保を危ぶむ声があり、頭取の佐藤安二氏も郡山の人々への申し開きを案じた。副頭取の須藤仁郎氏は自ら郡山市長に事情を説明して了承を得たうえで、『とにかく無茶でも良いから決行しなければ』という気持ちで移転を推し進めたと回想した。本店の場所の変更は、公金の受託を見据えた布石だったと思われる。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [28]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [30]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [31]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [32]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [33]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [29]1946年12月本店を郡山市より福島市に移転

1947年4月、東邦銀行は日本勧業銀行福島支店から福島県の本金庫を引き継ぎ、県内支店の支金庫事務もあわせて受託した。同年7月には県庁内に出張員詰所を設け、県庁の金銭出納を担った。副頭取の須藤仁郎氏は自ら陳情書を起案して県当局と交渉し、勧銀にも譲り渡しを懇請していた。先に本店を福島市へ移していたことも、交渉を有利に運ぶ材料になった。1948年12月には若松・郡山・平の日銀代理店事務も引き受け、県内の日銀代理店事務をすべて担った。資本面では、金融機関再建整備法に従い1948年3月末に資本金を32万円へ減資し、同年9月に3,200万円へ増資した。公金を扱う銀行という信用が、その後の預金の拡大を支えたと推察される。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [34]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [36]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [37]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [38]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [39]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [40]再建整備法により1948年3月末に資本金の90%を切り捨て32万円に減資
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1947年4月福島県金庫事務を受託
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [41]1948年9月再建整備計画に基づき3,200万円に増資
参考文献[21]-[41]
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [21]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [22]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [23]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [24]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [25]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [26]1946年7月瀬谷磯吉副頭取辞任、臨時株主総会で須藤仁郎を取締役に選任し副頭取に。福島市出身、日銀青森事務所長から内外の懇請で入行。佐藤頭取に代わり福島に常駐できる人材がおらず移転が進まなかった。1946年10月内規を全面改正
    • [28]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [30]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [31]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [32]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [33]本店移転の理由: 諸官庁・日銀支店との連絡、県金庫・日銀代理店引受けに有利、郡山周辺の小銀行との見方を薄める。住宅難の懸念、佐藤頭取の郡山への配慮、須藤が郡山市長に説明
    • [34]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [36]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [37]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [38]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [39]1947年4月勧銀福島支店から県本金庫を引受け、支金庫事務も全面受託。須藤副頭取が陳情書起案・勧銀に懇請。本店移転が有利に。1948年12月若松・郡山・平の日銀代理店を引受け県下全部に
    • [40]再建整備法により1948年3月末に資本金の90%を切り捨て32万円に減資
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1946年12月本店を郡山市から福島市に移転
    • [35]1947年4月福島県金庫事務を受託
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [29]1946年12月本店を郡山市より福島市に移転
    • [41]1948年9月再建整備計画に基づき3,200万円に増資

1953年〜只見川電源開発の補償金をめぐる預金競争と、預金100億円の突破

1953年10月、佐藤安二頭取が定時株主総会のあと高齢を理由に辞任を表明し、副頭取の須藤仁郎氏が後任の頭取に選ばれた。役員全員が留任を求めたが佐藤安二氏の決意は変わらず、取締役会も辞任を認めた。後任は佐藤安二氏の指名で、役員は全員一致でこれに賛成している。佐藤安二氏は会長に転じたが、定款の変更が必要だったため正式な就任は同年12月の臨時株主総会となった。佐藤安二氏は1944年の頭取就任から、東邦銀行を東北の地方銀行で第3位に押し上げていた。須藤仁郎氏は就任あいさつで前頭取の方針を受け継ぎ、内容の充実と行運の発展を図る考えを示した。1955年刊の会社録も、頭取として須藤仁郎氏の名を載せている。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [42]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [43]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [44]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [46]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [47]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ151-168)
    • [45]1953年12月21日臨時株主総会で定款変更、佐藤安二が正式に会長就任
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [48]1955年時点の頭取は須藤仁郎

1953年7月、只見川水系の電源開発計画が政府案で決着し、福島県は全国一の電力県となる見通しになった。田子倉・奥只見・黒又川第一の3発電所だけで約440億円が投じられる予定で、10数社の金融機関が水没補償金の預金を求めて現地に入った。東邦銀行は1953年11月に只見出張員詰所を開設し、常務の川島勇助氏らが雪の中を回って地元に働きかけた。1953年11月から1954年3月の補償金支払では、支払額197,926千円のうち124,406千円を預金として獲得した。1955年1月の田子倉ダムの補償金でも、支払額185,870千円に対し132,082千円が預金として入った。1955年3月末の預金は123億円に達した。地元の支店網と人手の厚さが、補償金の預金化で競争優位となったと推測される。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [49]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [50]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [51]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [52]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [53]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [54]1955年3月末の預金123億円・貸出99億円

東邦銀行の預金は1953年3月末に100億円を超えた。総預金は1950年3月末の32億3,200万円から、朝鮮動乱をはさんだ1952年3月末に66億4,500万円へ増えていた。同じ期間の行員の増加は67名にとどまり、組織と事務の整備が課題となった。1953年の方針には県外支店の設置と並んで機械化によるサービス強化が入り、同年9月に本店へ普通預金記帳会計機2台と当座預金記帳機1台を入れた。1956年3月に倍額増資の払込みを終え、同年4月には初の県外店舗となる東京支店を開設した。創立15周年にあたる1956年の預金増強運動は、200億円を目標とするものである。1967年11月には本店を現在地に新築して移転した。預金の伸びに追いつかない事務と店舗を整えることが、機械化と新本店の狙いだったとうかがえる。

  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [55]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [56]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [57]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [58]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [60]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [61]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ151-168)
    • [59]1953年9月1日本店で普通預金記帳会計機2台・当座預金記帳機1台を採用
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1967年11月本店を現在地に新築移転
参考文献[42]-[62]
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
    • [42]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [43]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [44]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [46]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [47]1953年10月佐藤安二頭取が高齢を理由に辞任、指名により須藤仁郎副頭取が頭取に。佐藤は東北地銀3位に。就任あいさつで前頭取の方針踏襲
    • [49]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [50]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [51]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [52]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [53]1953年7月只見川開発の基本方針決定、福島県が全国一の電力県に。3発電所に約440億円、10数社が預金獲得競争。1953年11月只見出張員詰所開設。補償金支払197,926千円中124,406千円獲得、1955年1月185,870千円中132,082千円獲得
    • [55]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [56]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [57]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [58]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [60]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
    • [61]1953年3月末預金100億円突破。総預金1950年3月末32億3,200万円→1952年3月末66億4,500万円、行員増67名。1953年方針に県外支店・機械化、9月本店に会計機導入。1956年3月倍額増資払込完了、4月東京支店開設
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ151-168)
    • [45]1953年12月21日臨時株主総会で定款変更、佐藤安二が正式に会長就任
    • [59]1953年9月1日本店で普通預金記帳会計機2台・当座預金記帳機1台を採用
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」
    • [48]1955年時点の頭取は須藤仁郎
    • [54]1955年3月末の預金123億円・貸出99億円
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1967年11月本店を現在地に新築移転

出典・参考

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出典・参考
  • 東邦銀行 有価証券報告書【沿革】
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ1-50)
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ51-100)
  • 東邦銀行特別調査室 編『東邦銀行二十年史』1963年(コマ151-168)
  • 会社銀行八十年史 1955年「東邦銀行」

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