武蔵野銀行:大宮市での8か店開業と東証一部指定替え
1952年〜一県一行主義の修正で興った遠藤柳作氏の新銀行と、大宮市での8か店開業
1949年11月に政府が一県一行主義の修正を打ち出すと、各地で地方銀行を新設する運動が起きた。埼玉県に本店を置く地方銀行は1943年発足の埼玉銀行だけで、県内では金属や機械器具の中小工場が資金需要を強めていた。ドッジ不況のもとで中小企業金融を支えるため、1949年7月には埼玉県が埼玉県信用保証協会を設立。1950年2月の最初の出願は発起人総代の丹羽彪吉氏の急逝で実現せず、運動は元朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作氏が継いだ。遠藤柳作氏は1951年3月15日の第1回設立発起人会で創立委員長に選任され、本店を大宮に置く原始定款をまとめた。新銀行は資本金1億円で、1952年4月に大宮市で開業した。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [1]1949年11月、政府が一県一行主義の修正を打ち出し、各地で新銀行設立の機運が起きた(1950-54年に地方銀行12行が新設)
- [2]当時の県内本店の地方銀行は1943年に4行合併で成立した埼玉銀行のみ。金属・機械器具の中小工場が増え、ドッジ不況下で資金需要が強かった
- [3]当時の県内本店の地方銀行は1943年に4行合併で成立した埼玉銀行のみ。金属・機械器具の中小工場が増え、ドッジ不況下で資金需要が強かった
- [4]1950年2月丹羽彪吉代議士を総代に初出願、同年4月急逝で不成立。遠藤柳作中心に運動継承、1951年3月15日第1回設立発起人会で発起人総代・創立委員長、行名「武蔵野銀行」、本店を大宮に置く原始定款を決定
- [5]1950年2月丹羽彪吉代議士を総代に初出願、同年4月急逝で不成立。遠藤柳作中心に運動継承、1951年3月15日第1回設立発起人会で発起人総代・創立委員長、行名「武蔵野銀行」、本店を大宮に置く原始定款を決定
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [6]1952年4月、資本金1億円、本店を大宮市に置き8か店で開業
新銀行は株式の満額募集を果たし、1952年3月3日の創立総会で遠藤柳作氏を初代頭取に選任した。これに先立ち、物価庁次長の熊田克郎氏が参画の条件に挙げたのは、資本金の1億円への引き上げと銀行経験者の幹部登用である。1月4日に始めた株式募集は、朝鮮特需の反動と農作物の不作で県内経済が沈滞し、難航した。株式は1月31日までに満額となって2月7日に払込みを終え、株式数の58.5%を占めたのは県外、特に東京方面の株主である。創立総会では熊田克郎氏が副頭取、大和銀行出身の村岡末吉氏が常務に選任され、3月28日に営業の正式認可を得た。新銀行は熊田克郎氏の条件どおり、資本金1億円で発足した。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [7]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [8]熊田克郎は資本金を5,000万円から1億円に引き上げる、銀行経験者を幹部に入れる、支援銀行を決めるの3条件を示して創立に参画
- [9]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [10]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [11]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [12]1952年4月、資本金1億円で開業
武蔵野銀行は1952年4月1日、本店を大宮市に置き、8か店で営業を始めた。内免許から開店までの約4カ月で、600余名の応募から155名を採用し、講習会は1週間にとどめた。本店は3月25日に落成したものの、新築は浦和・川口・熊谷を加えた4店だけで、ほかは既存の建物を改修した。計画は本店以下9カ店で、浦和支店は建築が遅れて5月15日の開店となった。創業3年で10店を増設し、1955年3月末の19店は新設12行で3番目の店舗数にあたる。店舗の内訳は県北8・県南4・県西4・県東3で、埼玉銀行と競合の少ない県北から業容を固める狙いがあったとみられる。
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [13]1952年4月、本店を大宮市に置き8か店で開業
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [14]1951年11月24日内免許から1952年4月1日開店まで約4カ月。600余名の応募から155名採用、3月20日から1週間の講習。新築は本店・浦和・川口・熊谷の4店のみ。本店は1952年3月25日落成
- [15]1951年11月24日内免許から1952年4月1日開店まで約4カ月。600余名の応募から155名採用、3月20日から1週間の講習。新築は本店・浦和・川口・熊谷の4店のみ。本店は1952年3月25日落成
- [16]本店以下9カ店の予定が浦和支店の建設遅れで8カ店で開業(浦和は5月15日開店)、役職員162名。創業期3年で10カ店増設、1955年3月末19カ店で新設12行中3番目。県南4・県北8・県西4・県東3
- [17]本店以下9カ店の予定が浦和支店の建設遅れで8カ店で開業(浦和は5月15日開店)、役職員162名。創業期3年で10カ店増設、1955年3月末19カ店で新設12行中3番目。県南4・県北8・県西4・県東3
参考文献[1]-[17]
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [1]1949年11月、政府が一県一行主義の修正を打ち出し、各地で新銀行設立の機運が起きた(1950-54年に地方銀行12行が新設)
- [2]当時の県内本店の地方銀行は1943年に4行合併で成立した埼玉銀行のみ。金属・機械器具の中小工場が増え、ドッジ不況下で資金需要が強かった
- [3]当時の県内本店の地方銀行は1943年に4行合併で成立した埼玉銀行のみ。金属・機械器具の中小工場が増え、ドッジ不況下で資金需要が強かった
- [4]1950年2月丹羽彪吉代議士を総代に初出願、同年4月急逝で不成立。遠藤柳作中心に運動継承、1951年3月15日第1回設立発起人会で発起人総代・創立委員長、行名「武蔵野銀行」、本店を大宮に置く原始定款を決定
- [5]1950年2月丹羽彪吉代議士を総代に初出願、同年4月急逝で不成立。遠藤柳作中心に運動継承、1951年3月15日第1回設立発起人会で発起人総代・創立委員長、行名「武蔵野銀行」、本店を大宮に置く原始定款を決定
- [7]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [8]熊田克郎は資本金を5,000万円から1億円に引き上げる、銀行経験者を幹部に入れる、支援銀行を決めるの3条件を示して創立に参画
- [9]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [10]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [11]株式募集は1952年1月4日開始、特需反動と不作で難航。1月31日までに満額、2月7日払込完了。株式数は県外58.5%。3月3日創立総会で頭取遠藤柳作・副頭取熊田克郎・常務村岡末吉(大和銀行名古屋支店長)を選任。3月28日正式に営業認可
- [14]1951年11月24日内免許から1952年4月1日開店まで約4カ月。600余名の応募から155名採用、3月20日から1週間の講習。新築は本店・浦和・川口・熊谷の4店のみ。本店は1952年3月25日落成
- [15]1951年11月24日内免許から1952年4月1日開店まで約4カ月。600余名の応募から155名採用、3月20日から1週間の講習。新築は本店・浦和・川口・熊谷の4店のみ。本店は1952年3月25日落成
- [16]本店以下9カ店の予定が浦和支店の建設遅れで8カ店で開業(浦和は5月15日開店)、役職員162名。創業期3年で10カ店増設、1955年3月末19カ店で新設12行中3番目。県南4・県北8・県西4・県東3
- [17]本店以下9カ店の予定が浦和支店の建設遅れで8カ店で開業(浦和は5月15日開店)、役職員162名。創業期3年で10カ店増設、1955年3月末19カ店で新設12行中3番目。県南4・県北8・県西4・県東3
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [6]1952年4月、資本金1億円、本店を大宮市に置き8か店で開業
- [12]1952年4月、資本金1億円で開業
- [13]1952年4月、本店を大宮市に置き8か店で開業
1956年〜熊田克郎氏の頭取就任と、預金100億円の達成
1956年4月2日、副頭取の熊田克郎氏が頭取に就任し、遠藤柳作氏は取締役会長に転じた。遠藤柳作氏は1955年6月5日の参議院埼玉地方区の補欠選挙に自由党から立候補し、当選した。国会の政務に追われ、1956年3月28日の取締役会で頭取の辞任を申し出た。辞任のあいさつでは『政治と銀行経営との両立は困難』と考えたと説明し、次の参院選への再出馬の意向を示した。後任は、野村鉱業の社長や物価庁次長を務め、創業から経営全般を任されてきた熊田克郎氏で、全役員の推薦による選任である。同じ1955年、全国銀行の預金増加額の約74%は都市銀行に集中し、地方銀行の伸びは前年比15.9%にとどまった。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ51-100
- [18]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [19]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [20]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [21]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [23]1955年の全国銀行預金増加額の約74%が都市銀行に集中、都銀の伸び26.6%に対し地方銀行15.9%
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [22]熊田克郎は野村鉱業社長(1945年)、物価庁次長(1950年)を経て創立に参画
武蔵野銀行は1960年3月末に預金残高104億9,300万円となり、100億円の目標を上回った。出発点は1955年11月、預金量の伸び悩みが収益を圧迫したため熊田克郎氏を委員長に設けた預金増強推進委員会である。預金は1956年3月末の36億円から1957年7月末に50億円へ増え、1959年度上期末に87億7,500万円となった。1959年11月26日の業務合理化委員会は100億円早期達成の総合計画を定め、12月から運動を始めた。重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金の預金獲得に置き、各店が実行計画を作った。1960年2月に足踏みしたため、2月25日の支店長会議で店別の方策を確認し直した。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ51-100
- [24]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [25]預金量の伸び悩みが収益面に影響し、1955年11月に熊田副頭取を委員長とする預金増強推進委員会が発足
- [26]預金は1956年3月末36億円、1957年7月末50億円、1959年度上期末87億7,500万円
- [27]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [28]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [29]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
1960年3月末から1965年3月末に、武蔵野銀行の貸出残高は78億5,000万円から325億1,500万円へ4.14倍に増えた。同じ期間の地方銀行の伸びは2.37倍で、県内の銀行貸出に占めるシェアも11.0%から15.2%に上昇。貸出増加額264億円のうち製造業向けは159億円、60.2%を占め、重化学工業向けの比率は22.8%から33.8%に上がった。店舗の新設は、1950年代後半には鴻巣・北浦和の2店だけである。1961年度以降の店舗行政の緩和を受け、1962年4月に設けた企画室が市場を調べて出店地を選んだ。1965年3月末の店舗網は27店となった。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ51-100
- [30]貸出残高は1960年3月末78億5,000万円から1965年3月末325億1,500万円へ4.14倍(地銀2.37倍)、県内銀行貸出シェア11.0%→15.2%
- [31]貸出残高は1960年3月末78億5,000万円から1965年3月末325億1,500万円へ4.14倍(地銀2.37倍)、県内銀行貸出シェア11.0%→15.2%
- [32]1960-65年の貸出増加額264億円のうち製造業向け159億円(60.2%、全国銀行48.9%)。重化学工業向け比率22.8%→33.8%
- [33]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
- [34]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
- [35]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
参考文献[18]-[35]
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ51-100
- [18]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [19]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [20]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [21]遠藤柳作は1955年6月5日参院埼玉地方区補選に自由党から当選、1956年3月28日取締役会で頭取辞任を申出。4月2日熊田克郎副頭取が全役員の推薦で頭取、遠藤は取締役会長
- [23]1955年の全国銀行預金増加額の約74%が都市銀行に集中、都銀の伸び26.6%に対し地方銀行15.9%
- [24]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [25]預金量の伸び悩みが収益面に影響し、1955年11月に熊田副頭取を委員長とする預金増強推進委員会が発足
- [26]預金は1956年3月末36億円、1957年7月末50億円、1959年度上期末87億7,500万円
- [27]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [28]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [29]1959年11月26日第13回業務合理化委員会で100億円早期達成の総合計画。運動は1959年12月1日〜1960年3月31日、重点は米代金・ボーナス・退職金・土地代金。2月25日支店長会議。1960年3月預金残高104億9,300万円
- [30]貸出残高は1960年3月末78億5,000万円から1965年3月末325億1,500万円へ4.14倍(地銀2.37倍)、県内銀行貸出シェア11.0%→15.2%
- [31]貸出残高は1960年3月末78億5,000万円から1965年3月末325億1,500万円へ4.14倍(地銀2.37倍)、県内銀行貸出シェア11.0%→15.2%
- [32]1960-65年の貸出増加額264億円のうち製造業向け159億円(60.2%、全国銀行48.9%)。重化学工業向け比率22.8%→33.8%
- [33]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
- [34]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
- [35]1950年代後半の新設は鴻巣・北浦和の2店のみ。1961年度以降の小型支店制度で店舗行政が弾力化、1962年4月企画室設置で市場調査。1960年4月〜1965年3月に6カ店新設、1965年3月末27カ店
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- [22]熊田克郎は野村鉱業社長(1945年)、物価庁次長(1950年)を経て創立に参画
1965年〜大宮の新本店落成と、地方銀行で8番目の東証上場
武蔵野銀行は1969年8月、大宮市に新本店を完成させた。新本店を建てたのは、創業時の木造の本店が狭く、本部事務室の一部を近隣の貸しビルに分散させ、電子計算機による事務の本部集中化も不可能だったためである。1966年夏に大宮駅西口から約500mの国道17号沿いに2,505m2の用地を決め、1968年1月26日に大成建設の施工で着工した。1969年8月12日の落成式を経て、新本店へのIBMシステム360モデル25の導入を決めた。1970年1月に事務部へ事務集中課を含む3課を設けた。同年11月12日に電子計算機を始動させ、手形割引や給与計算の事務を本部に集中した。
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [36]1969年8月 新本店(現在地)完成
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ101-150
- [37]旧本店は創業時の木造で狭隘、本部事務室の一部を近隣の貸しビルに分散。電子計算機導入による本部集中化は物理的に不可能。1966年夏に大宮駅西口から約500mの国道17号沿い2,505m2の用地を決定、1968年1月26日地鎮祭・着工(大成建設)
- [38]旧本店は創業時の木造で狭隘、本部事務室の一部を近隣の貸しビルに分散。電子計算機導入による本部集中化は物理的に不可能。1966年夏に大宮駅西口から約500mの国道17号沿い2,505m2の用地を決定、1968年1月26日地鎮祭・着工(大成建設)
- [39]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
- [40]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
- [41]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
武蔵野銀行は1969年10月1日に東京証券取引所第2部へ上場し、地方銀行で上位7行に次ぐ8番目の上場となった。翌1970年8月には東京証券取引所第1部への指定替え。1969年9月9日に野村証券ホールで開いた上場説明会で、頭取の熊田克郎氏は『公正な株価の形成,堅実なる投資家の対象となりますよう』と上場の狙いを説明した。熊田克郎氏が示した中小企業向け貸出比率は約60%で、地銀平均の55%を上回る。県内取引率は預金で92%、貸出で85%に達し、10年後の目標に預金5,000億円を掲げた。新本店の完成と株式公開を同じ年に重ね、県外の投資家にも行名を広める機会としたのだろう。
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ101-150
- [42]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [44]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [45]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [46]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [43]1969年10月東証2部上場、1970年8月東証1部
武蔵野銀行は1972年8月1日に外国為替公認銀行の認可を受け、外国部を設けて外国為替業務を始めた。1960年代後半から日本経済の国際化が中小企業にも及び、県内企業の取引も海外に広がった。外国為替公認銀行となることが求められ、1971年7月20日に外国為替準備室を設けて準備を進めた。1972年3月末の店舗網は県内39・県外1の40店となり、4月の創立20周年を機に行名の略称を「ぶぎん」と正式に決めた。新本店の電子計算機によるオフライン処理は約2年続き、次の課題は総合オンラインへの移行である。1974年4月に事務センターが完成し、総合オンラインへの移行の準備が整った。
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [47]1972年8月 外国為替業務取扱開始
- [52]1974年4月 事務センター完成
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ101-150
- [48]1971年7月20日外国為替準備室設置。経済の国際化が中小企業にも浸透し県内企業にも国際化の波、外国為替公認銀行となることが望まれた。1972年8月1日認可、外国部設置
- [49]1971年7月20日外国為替準備室設置。経済の国際化が中小企業にも浸透し県内企業にも国際化の波、外国為替公認銀行となることが望まれた。1972年8月1日認可、外国部設置
- [50]1972年3月末の店舗網は県内39・県外1の計40カ店。1972年4月創立20周年、記念行事で行名略称「ぶぎん」を正式決定。IBM360-25稼動後約2年オフラインで集中化、その後総合オンラインへ
- [51]1972年3月末の店舗網は県内39・県外1の計40カ店。1972年4月創立20周年、記念行事で行名略称「ぶぎん」を正式決定。IBM360-25稼動後約2年オフラインで集中化、その後総合オンラインへ
参考文献[36]-[52]
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- [36]1969年8月 新本店(現在地)完成
- [43]1969年10月東証2部上場、1970年8月東証1部
- [47]1972年8月 外国為替業務取扱開始
- [52]1974年4月 事務センター完成
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ101-150
- [37]旧本店は創業時の木造で狭隘、本部事務室の一部を近隣の貸しビルに分散。電子計算機導入による本部集中化は物理的に不可能。1966年夏に大宮駅西口から約500mの国道17号沿い2,505m2の用地を決定、1968年1月26日地鎮祭・着工(大成建設)
- [38]旧本店は創業時の木造で狭隘、本部事務室の一部を近隣の貸しビルに分散。電子計算機導入による本部集中化は物理的に不可能。1966年夏に大宮駅西口から約500mの国道17号沿い2,505m2の用地を決定、1968年1月26日地鎮祭・着工(大成建設)
- [39]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
- [40]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
- [41]1969年8月12日新本店落成式。新本店落成と同時にIBM360-25とNCR420の導入を決定、1970年11月12日始動式。1970年11月商業手形割引、1971年1月給与計算などをオフラインで集中。1970年1月5日事務部に事務管理課・機械計算課・事務集中課
- [42]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [44]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [45]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [46]1969年10月1日東証2部、1970年8月1日1部指定替え、地銀上位7行に次ぎ8番目。1969年9月9日野村証券ホールで上場説明会、熊田頭取は中小企業貸出比率約60%(地銀平均55%)、県内取引率預金92%・貸出85%、10年後に預金5,000億円を目標と表明
- [48]1971年7月20日外国為替準備室設置。経済の国際化が中小企業にも浸透し県内企業にも国際化の波、外国為替公認銀行となることが望まれた。1972年8月1日認可、外国部設置
- [49]1971年7月20日外国為替準備室設置。経済の国際化が中小企業にも浸透し県内企業にも国際化の波、外国為替公認銀行となることが望まれた。1972年8月1日認可、外国部設置
- [50]1972年3月末の店舗網は県内39・県外1の計40カ店。1972年4月創立20周年、記念行事で行名略称「ぶぎん」を正式決定。IBM360-25稼動後約2年オフラインで集中化、その後総合オンラインへ
- [51]1972年3月末の店舗網は県内39・県外1の計40カ店。1972年4月創立20周年、記念行事で行名略称「ぶぎん」を正式決定。IBM360-25稼動後約2年オフラインで集中化、その後総合オンラインへ
出典・参考
4件
- 武蔵野銀行 有価証券報告書【沿革】
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ1-50
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ51-100
- 武蔵野銀行25年史(1978) コマ101-150