第2章 年〜年

第一勧業銀行:帝国銀行からの第一銀行分離と日本勧業銀行の普通銀行転換

1946年〜占領軍を相手に分離を説いた第一銀行系

戦時の合併を解く仕事は、占領軍の内部の対立をくぐるところから始まった。企画課にいた井上薫氏は帝国銀行の分割を求めて連合国軍総司令部へ通い、分割の正当性を説き続けた。総司令部のなかでも反トラスト課は強く賛成し、課長のウエルシュ氏は大銀行をすべて分割すべきだと主張していた。ところが経済科学局のバンキング・セクションは、経済再建の要である銀行は弱体化させるべきではないとして、金融機関を集中排除法の適用の例外にすべきだという主張へ傾く。銀行界出身の課長ビープラット氏も、市中銀行担当のロビンソン氏も分割は不要との立場だった。1947年12月31日には、大蔵省から分離運動を差し控えるよう強く申し渡されている。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [1]第一銀行企画課の井上薫は帝国銀行の分割を求めてGHQへ通い、帝銀は分割した方がよいと説明を重ねた。
    • [2]GHQの反トラスト課は帝国銀行の分割に強い賛成を示し、課長のウエルシュは大銀行はすべて分割すべきであると主張していた。
    • [3]GHQ経済科学局のバンキング・セクションは、経済再建の要として銀行は弱体化させるべきではないとして、銀行その他の金融機関を集中排除法適用の例外にすべきだとの主張に傾いた。
    • [4]バンキング・セクション課長のビープラットは銀行界の出身で銀行を分割する必要はないとの考えであり、市中銀行担当のロビンソンも同意見だった。
    • [5]1947年12月31日、井上薫は大蔵省から呼び出しを受け、分離運動を差し控えるよう強く申し渡された。

分離を動かしたのは、行内と取引先に広がった声だった。大蔵省の制止にもかかわらず旧第一系の間で分離を望む声は高まり、押しとどめられない状況となる。1948年1月、帝国銀行の役員会で分離問題が討議され、佐藤喜一郎頭取が分離を決断した。総司令部は原則としては分離に反対で、これは例外中の例外だと強調したうえ、分けるなら五分五分でという条件を付けた。この時点で旧第一系の店舗は本支店と出張所を合わせて76、三井系に旧十五銀行の店舗を加えると80であり、線引きはこれに基づいて行われた。帝国銀行の名称は三井側が引き継ぎ、第一の側は名称にこだわらず、分離できればよいとだけ考えていた。重要な取引先を抱える神戸支店を確保する代わりに3カ店を三井へ譲るといった調整も重ねている。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [6]大蔵省の制止にもかかわらず、銀行の内部でも取引先の中でも旧第一系の人々の間で分離を熱望する声が高まり、流れを押しとどめることは不可能な状況となった。
    • [7]1948年1月、帝国銀行の役員会で分離問題が討議され、佐藤喜一郎頭取が分離を決断した。
    • [8]GHQは原則論としては分離に反対で今回の分離は例外中の例外であると強調し、分離するならイーブン(五分五分)でと付け加えていた。
    • [9]分離時点で旧第一系の店舗は本支店・出張所を合わせて76、三井系の店舗に旧十五銀行の店舗を加えると80で、線引きはこれに基づいて行われた。
    • [10]帝国銀行の名称は三井側が引き継ぐことになり、第一の側は名称にこだわらず分離できればよいとだけ考えていた。
    • [11]分離の店舗配分では、第一にとって重要な取引先を抱える神戸支店を確保する代わりに3カ店を三井に譲渡するといった調整が行われた。

1948年10月1日に再発足した第一銀行は、戦前より小さな銀行だった。資本金10億2000万円、預金高152億円、営業店舗82カ店、出張員詰め所16、従業員4600人がその規模である。同じ時期の富士銀行は189の店舗を有しており、その半分にも満たない。荻野正孝氏が頭取、酒井杏之助氏が副頭取に就任し、経営陣も若返った。荻野氏は旧第一銀行と比べて内容実力に相当の隔たりがあり、元に戻すには並々ならぬ覚悟が必要だと行員に訓示している。実際、1948年から1953年にかけての行員一人当たりの預金増加高は他行にひけをとらず、分離の成果は数字に表れた。所帯が小さくなったことが、かえって行内の結束を強めた。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [12]1948年10月1日に再発足した第一銀行の規模は資本金10億2000万円、預金高152億円、営業店舗82カ店、出張員詰め所16、従業員4600人だった。
    • [13]第一銀行が再発足した1948年、富士銀行(旧安田銀行)は189の店舗を有していた。
    • [14]再建第一銀行の頭取には荻野正孝、副頭取には酒井杏之助が就任し、経営陣も若返った。
    • [15]荻野正孝頭取は、旧第一銀行と比べれば内容実力に相当の隔たりがあり、元の第一銀行に戻すためには並々ならぬ覚悟が必要であると行員に訓示した。
    • [16]1948年から1953年にかけて、第一銀行の行員一人当たりの預金増加高は他の銀行にひけをとらなかった。
参考文献[1]-[16]
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [1]第一銀行企画課の井上薫は帝国銀行の分割を求めてGHQへ通い、帝銀は分割した方がよいと説明を重ねた。
    • [2]GHQの反トラスト課は帝国銀行の分割に強い賛成を示し、課長のウエルシュは大銀行はすべて分割すべきであると主張していた。
    • [3]GHQ経済科学局のバンキング・セクションは、経済再建の要として銀行は弱体化させるべきではないとして、銀行その他の金融機関を集中排除法適用の例外にすべきだとの主張に傾いた。
    • [4]バンキング・セクション課長のビープラットは銀行界の出身で銀行を分割する必要はないとの考えであり、市中銀行担当のロビンソンも同意見だった。
    • [5]1947年12月31日、井上薫は大蔵省から呼び出しを受け、分離運動を差し控えるよう強く申し渡された。
    • [6]大蔵省の制止にもかかわらず、銀行の内部でも取引先の中でも旧第一系の人々の間で分離を熱望する声が高まり、流れを押しとどめることは不可能な状況となった。
    • [7]1948年1月、帝国銀行の役員会で分離問題が討議され、佐藤喜一郎頭取が分離を決断した。
    • [8]GHQは原則論としては分離に反対で今回の分離は例外中の例外であると強調し、分離するならイーブン(五分五分)でと付け加えていた。
    • [9]分離時点で旧第一系の店舗は本支店・出張所を合わせて76、三井系の店舗に旧十五銀行の店舗を加えると80で、線引きはこれに基づいて行われた。
    • [10]帝国銀行の名称は三井側が引き継ぐことになり、第一の側は名称にこだわらず分離できればよいとだけ考えていた。
    • [11]分離の店舗配分では、第一にとって重要な取引先を抱える神戸支店を確保する代わりに3カ店を三井に譲渡するといった調整が行われた。
    • [12]1948年10月1日に再発足した第一銀行の規模は資本金10億2000万円、預金高152億円、営業店舗82カ店、出張員詰め所16、従業員4600人だった。
    • [13]第一銀行が再発足した1948年、富士銀行(旧安田銀行)は189の店舗を有していた。
    • [14]再建第一銀行の頭取には荻野正孝、副頭取には酒井杏之助が就任し、経営陣も若返った。
    • [15]荻野正孝頭取は、旧第一銀行と比べれば内容実力に相当の隔たりがあり、元の第一銀行に戻すためには並々ならぬ覚悟が必要であると行員に訓示した。
    • [16]1948年から1953年にかけて、第一銀行の行員一人当たりの預金増加高は他の銀行にひけをとらなかった。

1948年〜債券を捨てて預金銀行へ転じた日本勧業銀行

勧銀が抱えた問題は、資金の調達手段と貸し先の両方が同時に塞がったことだった。戦後の貨幣価値の低落が著しく、債券の発行によって長期資金を吸収することが困難になる。勧銀には、資金の源を債券から預金へ移し、不動産銀行から商業銀行に変わる以外の道がなかった。農地解放に加え、土地建物の賃借権が保護されたことで、農耕地や市街地の不動産を担保とする金融が法の制約を受けていたからである。1948年9月、特殊銀行は総司令部の意向により、債券を出す会社として残るか預金銀行になるかを選ばなければならなくなり、勧銀は預金銀行となる方針を取り、店舗と内部の機構も普通銀行にふさわしい形に組み替えて、地方店を廃し都市店を増やした。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
    • [17]戦後の貨幣価値の低落が著しく、日本勧業銀行は債券発行による長期資金の吸収が困難となった。
    • [18]日本勧業銀行は特殊銀行から普通銀行へ、不動産銀行から商業銀行へ転換せざるをえなくなった。
    • [19]農地解放や土地建物の賃借権の保護により、農耕地や市街地不動産を担保とする農業金融・不動産金融に法律上の制約が加えられた。
    • [21]日本勧業銀行は業務の主力を短期金融に置くための再編成を進め、地方店舗の廃止と都市店舗の増設を遂行した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
    • [20]1948年9月、GHQの意向により従来の特殊銀行は債券発行会社か預金銀行かの岐路に立たされ、日本勧業銀行は預金銀行化の方針をとった。

転換は二段階を踏んだ。1950年2月に日本勧業銀行法が廃止されて勧銀は法律上まったくの普通銀行となったが、銀行等の債券発行等に関する法律のもとで勧業債券の発行と長期融資も併せて続け、新債券を裏付ける見返資金引受の優先株増資で資本金は20億円に達し、債券で得た資金が普通銀行業務を伸ばして、短期間で都市銀行の土台を固める力になった。ところが1952年、長期と短期の金融を分けることを主眼とした長期信用銀行法の施行に伴い、勧銀は創業以来慣れ親しんだ勧業債券の発行を止めた。資金を集める手段を失ったばかりか、発行済みの債券を償還し続ける重荷も残り、完済までには1955年11月までかかった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
    • [22]1950年2月に日本勧業銀行法が廃止されて法的に完全な普通銀行となり、同時に銀行等の債券発行等に関する法律により債券発行業務と長期融資業務を併せ行うこととなった。
    • [23]新債券発行の裏付けとして見返資金引受による優先株の増資が行われ、日本勧業銀行の資本金は20億円となった。
    • [26]日本勧業銀行の既発行勧業債券の償還は1955年11月で完済になった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
    • [24]債券資金の活用は普通銀行業務の一層の進展に役立ち、日本勧業銀行が都市銀行としての基礎を短時日のうちに築き上げる力となった。
    • [25]1952年、長短両金融の分離を主眼とする長期信用銀行法の制定に伴い、日本勧業銀行は創業以来国民になじみの深かった勧業債券の発行を打ち切った。
参考文献[17]-[26]
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
    • [17]戦後の貨幣価値の低落が著しく、日本勧業銀行は債券発行による長期資金の吸収が困難となった。
    • [18]日本勧業銀行は特殊銀行から普通銀行へ、不動産銀行から商業銀行へ転換せざるをえなくなった。
    • [19]農地解放や土地建物の賃借権の保護により、農耕地や市街地不動産を担保とする農業金融・不動産金融に法律上の制約が加えられた。
    • [21]日本勧業銀行は業務の主力を短期金融に置くための再編成を進め、地方店舗の廃止と都市店舗の増設を遂行した。
    • [22]1950年2月に日本勧業銀行法が廃止されて法的に完全な普通銀行となり、同時に銀行等の債券発行等に関する法律により債券発行業務と長期融資業務を併せ行うこととなった。
    • [23]新債券発行の裏付けとして見返資金引受による優先株の増資が行われ、日本勧業銀行の資本金は20億円となった。
    • [26]日本勧業銀行の既発行勧業債券の償還は1955年11月で完済になった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
    • [20]1948年9月、GHQの意向により従来の特殊銀行は債券発行会社か預金銀行かの岐路に立たされ、日本勧業銀行は預金銀行化の方針をとった。
    • [24]債券資金の活用は普通銀行業務の一層の進展に役立ち、日本勧業銀行が都市銀行としての基礎を短時日のうちに築き上げる力となった。
    • [25]1952年、長短両金融の分離を主眼とする長期信用銀行法の制定に伴い、日本勧業銀行は創業以来国民になじみの深かった勧業債券の発行を打ち切った。

1963年〜蔵相の一言から始まった朝日銀行合併と、三菱との破談

戦後の合併は、大蔵大臣の発言が口火を切った。1963年秋の銀行協会の昼食会で、田中角栄蔵相が銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えてはどうかと述べる。戦後は銀行の新設こそ認められても合併は事実上の禁忌であり、当時銀行協会長だった井上薫氏は耳を疑った。ところが1964年新春の昼食会で蔵相が同じ発言を繰り返したため、井上氏は真意を確かめ、銀行局長にも確認したうえで朝日銀行へ向かう。朝日銀行は1920年に十五銀行の信託部門として創立された国際信託を前身とし、1939年に第一銀行が経営を肩代わりした姉妹関係にあった。中小企業金融を使命とする同行を合併すれば、融資先のすそ野が広がるという読みもあった。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [27]1963年秋の銀行協会の昼食会で、田中角栄蔵相は銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えたらどうかと述べた。
    • [28]戦後は銀行の新設は認められても合併はご法度とされており、当時銀行協会長だった井上薫は蔵相の発言に耳を疑った。
    • [29]1964年新春の昼食会で田中角栄蔵相が再び合併を促したため、井上薫は真意を確かめ、銀行局長にも確認したうえで朝日銀行へ向かった。
    • [30]朝日銀行は1920年に十五銀行の信託部門として創立された国際信託を前身とし、1939年に第一銀行が経営を肩代わりして第一信託株式会社と改称、1962年の中央信託銀行発足に際し信託部門を譲渡して朝日銀行と改称した。
    • [31]中小企業金融を使命とする朝日銀行を合併することは、第一銀行にとって融資先のすそ野を広げる意味で大きなプラスとなると考えられた。

合併の設計には帝国銀行の経験が反映された。1964年3月10日に合併覚書へ調印し、4月15日に大蔵省銀行局長の内認可、7月14日に正式認可を得て、8月1日付で合併が実現する。形式は吸収合併だったが、朝日銀行の従業員はそっくり引き継ぎ、株主にも1対1の割合で第一銀行の株式を割り当てて、実質において対等の合併とした。帝国銀行で不公平が禍根を残したため、不満が残らないよう配慮したものである。これは戦後の金融界では初の本格的な合併であり、1965年の住友銀行と河内銀行、1968年の三井銀行と東都銀行の合併が続いた。1968年6月には金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、異種の金融機関どうしの合併や転換にも道が開かれている。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [32]第一銀行と朝日銀行は1964年3月10日に合併覚書へ調印し、4月15日に大蔵省銀行局長の内認可、7月14日に正式認可を得て、8月1日付で合併した。
    • [33]朝日銀行との合併は形式は吸収合併だが、従業員をそっくり引き継ぎ、株主にも1対1の割合で第一銀行の株式を割り当てるなど実質において全くの対等の合併だった。
    • [34]朝日銀行との合併に際しては帝国銀行での苦い経験から、不満が残らないよう十分に配慮された。
    • [35]朝日銀行との合併は戦後の金融界で初の本格的な合併であり、1965年4月に住友銀行が河内銀行を、1968年4月に三井銀行が東都銀行を合併した。
    • [36]1968年6月、金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、普通銀行・相互銀行・信用金庫など法制上異なる位置付けの金融機関同士の合併や転換に道が開かれた。

合併は預金量を押し上げた。第一銀行は1965年9月末の決算で預金残高1兆311億円を計上し、1兆円突破の目標を達成する。勧銀も1966年3月期末に総預金残高が1兆円を超えた。1963年3月末の預金は第一銀行が6299億円、勧銀が6035億円、従業員は6714人と6837人で、規模はほぼ並んでいる。1968年3月末でも第一銀行の預金1兆3110億円・貸出1兆2122億円に対し、勧銀は総預金1兆2000億円・貸出1兆817億円だった。ただし第一銀行の順位は都市銀行のなかで6位にとどまり、預金の伸びだけでは上位行との差は詰まらなかった。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [37]第一銀行は1965年9月末の決算で預金残高1兆311億円を計上し、1兆円突破の目標を達成した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
    • [38]日本勧業銀行の総預金残高は1966年3月期末に1兆円を越えた。
  • 株式会社年鑑 1964年版「第一銀行」
    • [39]1963年3月末の預金は第一銀行が6299億7414万円、日本勧業銀行が6035億4931万円、従業員数は第一銀行6714人、日本勧業銀行6837人だった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
    • [40]1968年3月末で第一銀行の預金は1兆3110億円・貸出1兆2122億円、日本勧業銀行の総預金は1兆2000億円・貸出残高1兆817億円だった。
    • [41]1968年3月末現在、第一銀行の預金1兆3110億円・貸出1兆2122億円は都市銀行中第6位だった。

三菱銀行との合併話は、相手の選び方をめぐって破れた。1968年秋、長谷川重三郎頭取から三菱銀行との対等合併の相談を受けた井上薫会長は反対の意向を伝える。理由は一点で、最初は対等合併でも株主に三菱グループの企業が並べば、いずれ三菱色に塗りつぶされ、渋沢栄一氏以来の中立的な立場が失われるというものだった。井上氏は筆頭株主の朝日生命を皮切りに主要株主15、6社を訪ね、全員が合併に反対した。1969年1月1日の朝刊で合併構想が表面化し、10日の全国支店長会議では反対する支店長が多数を占め、11日には従業員組合の拡大執行委員会が圧倒的多数で反対を表明する。13日の役員懇談会で頭取は機が熟していないとして合併の白紙還元を表明し、頭取以下数人の役員が辞任した。

  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [42]1968年秋、長谷川重三郎頭取が井上薫会長に三菱銀行との対等合併の計画を相談し、井上は反対の意向を伝えた。
    • [43]井上薫が三菱との合併に反対した理由は、最初は対等合併でも株主に三菱グループの企業が並べばいずれ三菱色に塗りつぶされ、渋沢栄一以来中立的な立場を貫いてきた第一銀行の特色が失われるという一点だった。
    • [44]井上薫は筆頭株主の朝日生命を最初に訪ね、古河系・川崎系企業など主要株主15、6社の代表に会い、全員が合併に反対した。
    • [45]1969年1月1日に読売新聞が三菱銀行と第一銀行の合併を報じ、1月10日の全国支店長会議では合併に反対する支店長が多数を占め、11日の従業員組合拡大執行委員会は圧倒的多数で合併反対の態度を表明した。
    • [46]1969年1月13日の役員懇談会で長谷川重三郎頭取は機いまだ熟さずとして合併の白紙還元を表明し、これをきっかけに頭取以下数人の役員が辞任した。
参考文献[27]-[46]
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
    • [27]1963年秋の銀行協会の昼食会で、田中角栄蔵相は銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えたらどうかと述べた。
    • [28]戦後は銀行の新設は認められても合併はご法度とされており、当時銀行協会長だった井上薫は蔵相の発言に耳を疑った。
    • [29]1964年新春の昼食会で田中角栄蔵相が再び合併を促したため、井上薫は真意を確かめ、銀行局長にも確認したうえで朝日銀行へ向かった。
    • [30]朝日銀行は1920年に十五銀行の信託部門として創立された国際信託を前身とし、1939年に第一銀行が経営を肩代わりして第一信託株式会社と改称、1962年の中央信託銀行発足に際し信託部門を譲渡して朝日銀行と改称した。
    • [31]中小企業金融を使命とする朝日銀行を合併することは、第一銀行にとって融資先のすそ野を広げる意味で大きなプラスとなると考えられた。
    • [32]第一銀行と朝日銀行は1964年3月10日に合併覚書へ調印し、4月15日に大蔵省銀行局長の内認可、7月14日に正式認可を得て、8月1日付で合併した。
    • [33]朝日銀行との合併は形式は吸収合併だが、従業員をそっくり引き継ぎ、株主にも1対1の割合で第一銀行の株式を割り当てるなど実質において全くの対等の合併だった。
    • [34]朝日銀行との合併に際しては帝国銀行での苦い経験から、不満が残らないよう十分に配慮された。
    • [35]朝日銀行との合併は戦後の金融界で初の本格的な合併であり、1965年4月に住友銀行が河内銀行を、1968年4月に三井銀行が東都銀行を合併した。
    • [36]1968年6月、金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、普通銀行・相互銀行・信用金庫など法制上異なる位置付けの金融機関同士の合併や転換に道が開かれた。
    • [37]第一銀行は1965年9月末の決算で預金残高1兆311億円を計上し、1兆円突破の目標を達成した。
    • [42]1968年秋、長谷川重三郎頭取が井上薫会長に三菱銀行との対等合併の計画を相談し、井上は反対の意向を伝えた。
    • [43]井上薫が三菱との合併に反対した理由は、最初は対等合併でも株主に三菱グループの企業が並べばいずれ三菱色に塗りつぶされ、渋沢栄一以来中立的な立場を貫いてきた第一銀行の特色が失われるという一点だった。
    • [44]井上薫は筆頭株主の朝日生命を最初に訪ね、古河系・川崎系企業など主要株主15、6社の代表に会い、全員が合併に反対した。
    • [45]1969年1月1日に読売新聞が三菱銀行と第一銀行の合併を報じ、1月10日の全国支店長会議では合併に反対する支店長が多数を占め、11日の従業員組合拡大執行委員会は圧倒的多数で合併反対の態度を表明した。
    • [46]1969年1月13日の役員懇談会で長谷川重三郎頭取は機いまだ熟さずとして合併の白紙還元を表明し、これをきっかけに頭取以下数人の役員が辞任した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
    • [38]日本勧業銀行の総預金残高は1966年3月期末に1兆円を越えた。
  • 株式会社年鑑 1964年版「第一銀行」
    • [39]1963年3月末の預金は第一銀行が6299億7414万円、日本勧業銀行が6035億4931万円、従業員数は第一銀行6714人、日本勧業銀行6837人だった。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
    • [40]1968年3月末で第一銀行の預金は1兆3110億円・貸出1兆2122億円、日本勧業銀行の総預金は1兆2000億円・貸出残高1兆817億円だった。
    • [41]1968年3月末現在、第一銀行の預金1兆3110億円・貸出1兆2122億円は都市銀行中第6位だった。

1945年〜1970年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 128 n/a 33 12 9.9% n/a
1955年03月期 単体 147 +14.5% 35 14 9.5% n/a
1956年03月期 単体 150 +2.4% n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 174 +15.9% n/a 10 6.1% n/a
1958年03月期 単体 234 +34.2% n/a 11 4.9% n/a
1959年03月期 単体 263 +12.2% n/a 11 4.4% n/a
1960年03月期 単体 297 +12.9% n/a 14 4.7% n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a 30 n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a 43 n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 1,154 n/a n/a 70 6.1% n/a
1970年03月期 単体 1,310 +13.5% n/a 86 6.6% n/a

出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1956年版、1959年版 半期合算、上場会社総覧 1959年版 半期合算、上場会社総覧 1961年版 半期合算、会社年鑑 1963年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算

出典・参考

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出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
  • 株式会社年鑑 1964年版「第一銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
  • 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」

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