第一勧業銀行:第一銀行・日本勧業銀行の合併と預金量日本一
1971年〜八十島親義氏の仲介で結んだ対等合併と、旧2行で二分した融資枠と人事
1971年10月1日、第一銀行と日本勧業銀行が合併し、第一勧業銀行が営業を始めた。会長には第一の井上薫氏、頭取には勧銀の横田郁氏が就き、両行の現職役員がそのまま残ったため経営陣は40名に達した。交渉の起点は1969年10月、両頭取と親しい第一出身の八十島親義氏を立会人とする3者会談だった。以後ほぼ月1回の会談を重ね、1970年末までに行名・本店所在地・人事の要点が固まった。1970年9月末の預金量は第一が1兆7395億円で都銀6位、勧銀が1兆5786億円で8位だった。大蔵省は重複店舗の早期の配置転換を内諾し、勧銀本店に隣接する国有地の払い下げにも応じた。中位行の2行が組むだけで首位へ上がれる組み合わせを、行政の側も待っていたのだろう。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [1]1971年10月1日、第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が発足した。
- [2]新銀行の会長に第一銀行頭取の井上薫、頭取に日本勧業銀行頭取の横田郁が就任し、両行の現職役員がそのまま就任して経営陣は総勢40名で発足した。
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [3]1969年10月、井上薫・横田郁・八十島親義(第一銀行OB、当時渋沢倉庫社長)の初めての3者会談が東京・六本木の旅館で開かれた。
- [4]3者会談はほぼ月1回開かれ、1970年末までに新銀行名・本店所在地・人事などの要点がほぼ固まった。
- [5]1970年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円(都銀6位)、日本勧業銀行1兆5786億円(都銀8位)。
- [6]大蔵省は合併後の重複店舗の早急な配置転換を認めると内諾し、勧銀本店に隣接する国有地の払い下げを認めた。
合併の直後から、旧2行の均衡を崩さないことが運営の原則になった。日銀が示す貸出の枠は四半期ごとにほぼ半分ずつに割られ、旧第一系と旧勧銀系の取引先へ、それぞれの旧行の融資方針で貸し出された。部長の後任は前任と同じ旧行の出身者から選び、支店長も同じ扱いとする原則は、1974年になっても変わらなかった。井上会長は、戦時中に三井銀行と合併した帝国銀行が割れた経緯を内側から見ていた。資金配分も人事も等分にする方式は、その経験に根ざしていた。支店長人事はいずれ交互に回したいとしながら、井上会長は『こういった問題は30年もたてば 100%片づく問題なので、そんなに急ぐことはない』とも語っていた。一体化を先送りした分だけ、摩擦は表に出にくくなったとみられる。
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- [7]第一勧銀は融資方針のすり合わせを行わず、日銀が指示した融資枠を四半期ごとにほぼ2分し、旧第一系列・旧勧銀系列の企業にそれぞれの旧行の融資方針で融資していた(1974年時点)。
- [8]重役から部課長のポスト配分まで旧第一・旧勧銀の均衡が保たれ、旧第一出身の部長の後任は旧第一出身者、旧勧銀出身の支店長の後任は旧勧銀出身者という原則が1974年時点でも続いていた。
- [10]井上会長は、いずれは支店長人事も旧両行出身者が順番に務める形にしたいと述べた。
- Decide 1985年 3巻1号
- [9]第一勧銀では1971年の合併時から資金配分も人事も第一(D)と勧銀(K)で等分する方式が守られ、その背景には旧第一銀行が三井銀行と合併した帝国銀行が融和に失敗して分裂した経験があった。
首脳の顔ぶれも、旧2行の出身者を組み合わせる形で受け継がれた。1976年12月には旧勧銀系の西川正次郎氏が会長、旧第一系の村本周三氏が頭取となり、井上・横田両氏から経営を引き継いだ。1982年6月には旧第一系の藤森鐵雄副頭取が会長、羽倉信也副頭取が頭取へ昇った。1988年6月の3回目の交代では中村一郎副頭取が会長に、宮崎邦次副頭取が頭取に就いた。宮崎氏は旧第一の出身だった。発足から14年を経た1985年にも、1つの屋根に2つの銀行が同居すると評される状態は残っていた。均衡を守る人事は摩擦を抑えた一方で、誰が決めたのかを曖昧にする仕組みでもあったと思われる。
- Decide 1985年 3巻1号
- [11]1976年12月、井上薫・横田郁の両氏は会長・頭取の座を西川正次郎(K系)、村本周三(D系)の両氏に譲った。
- [15]1985年時点でも、第一勧銀は一つの屋根に二つの銀行と揶揄されていた。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [12]1982年6月、藤森鐵雄副頭取が会長、羽倉信也副頭取が頭取に就任した(2回目の首脳交代)。
- [13]1988年6月、3回目の首脳交代で中村一郎副頭取が会長、宮崎邦次副頭取が頭取に就任した。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [14]宮崎邦次は旧第一銀行の出身だった。
参考文献[1]-[15]
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [1]1971年10月1日、第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が発足した。
- [2]新銀行の会長に第一銀行頭取の井上薫、頭取に日本勧業銀行頭取の横田郁が就任し、両行の現職役員がそのまま就任して経営陣は総勢40名で発足した。
- [12]1982年6月、藤森鐵雄副頭取が会長、羽倉信也副頭取が頭取に就任した(2回目の首脳交代)。
- [13]1988年6月、3回目の首脳交代で中村一郎副頭取が会長、宮崎邦次副頭取が頭取に就任した。
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [3]1969年10月、井上薫・横田郁・八十島親義(第一銀行OB、当時渋沢倉庫社長)の初めての3者会談が東京・六本木の旅館で開かれた。
- [4]3者会談はほぼ月1回開かれ、1970年末までに新銀行名・本店所在地・人事などの要点がほぼ固まった。
- [5]1970年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円(都銀6位)、日本勧業銀行1兆5786億円(都銀8位)。
- [6]大蔵省は合併後の重複店舗の早急な配置転換を認めると内諾し、勧銀本店に隣接する国有地の払い下げを認めた。
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- [7]第一勧銀は融資方針のすり合わせを行わず、日銀が指示した融資枠を四半期ごとにほぼ2分し、旧第一系列・旧勧銀系列の企業にそれぞれの旧行の融資方針で融資していた(1974年時点)。
- [8]重役から部課長のポスト配分まで旧第一・旧勧銀の均衡が保たれ、旧第一出身の部長の後任は旧第一出身者、旧勧銀出身の支店長の後任は旧勧銀出身者という原則が1974年時点でも続いていた。
- [10]井上会長は、いずれは支店長人事も旧両行出身者が順番に務める形にしたいと述べた。
- Decide 1985年 3巻1号
- [9]第一勧銀では1971年の合併時から資金配分も人事も第一(D)と勧銀(K)で等分する方式が守られ、その背景には旧第一銀行が三井銀行と合併した帝国銀行が融和に失敗して分裂した経験があった。
- [11]1976年12月、井上薫・横田郁の両氏は会長・頭取の座を西川正次郎(K系)、村本周三(D系)の両氏に譲った。
- [15]1985年時点でも、第一勧銀は一つの屋根に二つの銀行と揶揄されていた。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [14]宮崎邦次は旧第一銀行の出身だった。
1972年〜ハートの銀行で伸ばした個人預金と、上位5行で最下位だった1人当たり預金
新銀行が最初に打ち出したのは、個人客へ向けた看板だった。1972年4月から新聞広告などで「ハートの銀行」の愛称とハートのマークを掲げ、1973年4月には「ハートおじさん」を広告の顔に起用した。1972年5月には、生活情報や商品案内を載せた顧客向けの月刊誌「ヒント」も創刊した。旧2行はともに保守的な印象を持たれており、1974年には個人預金の上位5行内でのシェアが上がっていた。1972年4月からの第一次長期経営計画も、店舗の配置と広告の組み合わせで個人預金を大きく積み増したと総括している。規模の効果は海外にも及び、合併時に9カ所だった海外拠点は1974年に36カ所となった。国内の個人と海外の取引相手の双方に、首位という肩書きが効いた。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [16]1972年4月から新聞広告などで「ハートの銀行」という愛称とハートのマークを打ち出し、1973年4月からイメージキャラクター「ハートおじさん」を登場させた。
- [17]1972年5月、生活情報、銀行の商品・サービスや経済ニュースを盛り込んだ顧客向け月刊PR誌「ヒント」を発行した。
- [19]第一次長期経営計画(1972年4月〜1975年3月)の成果として、個人預金が有利な店舗展開とハートのイメージづくりによって大幅に増加した。
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- [18]旧第一・旧勧銀はともに保守的なイメージの銀行だったが、ハートのシンボルマークの浸透とともに、個人預金の上位5行中に占めるシェアが上昇した(1974年時点)。
- [20]合併時に9カ所だった海外拠点は、1974年には36カ所に増えた。
看板は首位でも、収益を支える中身は伴っていなかった。1974年3月期に自己資本で割った経常利益は17.9%にとどまり、都銀平均の20.5%を下回った。預金量で見た都銀13行内の比重も、合併した時点の13.8%が1974年7月末には13.0%に落ち、貸出金は14.1%から13.5%に縮小した。効率の指標では、上位5行のなかで行員1人当たりでも1店舗当たりでも預金額が最も少なかった。原因の一つは店舗の組み替えで、重なった店を3年で48店閉め、代わりに52店を出したが、新しい店はまだ預金を集め切れていなかった。人員は第一次長期経営計画の間に2351名膨らんで1人当たり預金は伸び悩んだままとなり、1974年時点の2万4000人余りという行員数は、1万7000人強の富士銀行を大きく上回る規模だった。
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- [21]1974年3月期の経常利益対自己資本比率は17.9%で、都銀平均の20.5%を下回った。
- [22]都銀13行中の預金シェアは合併時の13.8%から1974年7月末に13.0%へ、貸出金のシェアは14.1%から13.5%へ低下した。
- [23]従業員1人当たり、1店舗当たりの預金額はいずれも都銀上位5行中で最下位だった(1974年時点)。
- [24]合併後3年間に重複店舗など48店舗を廃止し52店舗を新設したが、新設店の多くは廃止店に見合う業績をまだ上げていなかった。
- [26]行員数は合併後3年間に1200人以上増えて2万4000人余りとなり、富士銀行の1万7000人強を大幅に上回った(1974年時点)。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [25]第一次長期経営計画の期間中、行員数は2351名増加し、パーヘッド預金の向上は満足すべき成果をあげられなかった。
1975年4月に始まった第二次長期経営計画は、効率化を柱に据え、その前提に旧2行の一体化を置いた。同年5月の全国支店長会議で、井上会長は『『経営効率化』を進めるにあたっては、基本的前提として、『一体化』をさらに広げ、深めることが必要不可欠であります』と行員に求めた。それでも1980年9月期の預金高は13兆1900億円で国内首位だった一方、経常利益は348億円で4位にとどまった。1980年の年頭、村本周三頭取はトップバンクからベストバンクへという標語を掲げ、顧客志向の徹底を訴えた。一体化を効率化の条件としながら均衡人事を続けた以上、効率化の歩みが遅れたのは避けがたかったとみられる。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [27]第二次長期経営計画(1975年4月〜1978年3月)は経営の効率化を課題とし、一体化の推進を最大の効率化施策と位置づけた。
- [28]1975年5月の第9回全国支店長会議で第二次長期経営計画が発表され、井上会長が経営効率化に取り組む心構えを述べた。
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [29]1980年9月期の預金高は13兆1900億円で国内トップだったが、経常利益は348億円で4位だった。
- 80年代わが社の戦略(1980年)「第一勧業銀行」
- [30]1980年の年頭、村本周三頭取は「トップバンクからベストバンクへ」を掲げ、顧客志向の徹底を行員に求めた。
参考文献[16]-[30]
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [16]1972年4月から新聞広告などで「ハートの銀行」という愛称とハートのマークを打ち出し、1973年4月からイメージキャラクター「ハートおじさん」を登場させた。
- [17]1972年5月、生活情報、銀行の商品・サービスや経済ニュースを盛り込んだ顧客向け月刊PR誌「ヒント」を発行した。
- [19]第一次長期経営計画(1972年4月〜1975年3月)の成果として、個人預金が有利な店舗展開とハートのイメージづくりによって大幅に増加した。
- [25]第一次長期経営計画の期間中、行員数は2351名増加し、パーヘッド預金の向上は満足すべき成果をあげられなかった。
- [27]第二次長期経営計画(1975年4月〜1978年3月)は経営の効率化を課題とし、一体化の推進を最大の効率化施策と位置づけた。
- [28]1975年5月の第9回全国支店長会議で第二次長期経営計画が発表され、井上会長が経営効率化に取り組む心構えを述べた。
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- [18]旧第一・旧勧銀はともに保守的なイメージの銀行だったが、ハートのシンボルマークの浸透とともに、個人預金の上位5行中に占めるシェアが上昇した(1974年時点)。
- [20]合併時に9カ所だった海外拠点は、1974年には36カ所に増えた。
- [21]1974年3月期の経常利益対自己資本比率は17.9%で、都銀平均の20.5%を下回った。
- [22]都銀13行中の預金シェアは合併時の13.8%から1974年7月末に13.0%へ、貸出金のシェアは14.1%から13.5%へ低下した。
- [23]従業員1人当たり、1店舗当たりの預金額はいずれも都銀上位5行中で最下位だった(1974年時点)。
- [24]合併後3年間に重複店舗など48店舗を廃止し52店舗を新設したが、新設店の多くは廃止店に見合う業績をまだ上げていなかった。
- [26]行員数は合併後3年間に1200人以上増えて2万4000人余りとなり、富士銀行の1万7000人強を大幅に上回った(1974年時点)。
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- [29]1980年9月期の預金高は13兆1900億円で国内トップだったが、経常利益は348億円で4位だった。
- 80年代わが社の戦略(1980年)「第一勧業銀行」
- [30]1980年の年頭、村本周三頭取は「トップバンクからベストバンクへ」を掲げ、顧客志向の徹底を行員に求めた。
1982年〜シンガポール支店の97億円損失、4本部制、ハートファイナンスと1985年の株式担保融資
旧2行の均衡に手を入れたのは、1982年6月に就いた藤森鐵雄会長と羽倉信也頭取だった。就任から1カ月後にシンガポール支店が為替取引で97億円の損失を出し、予定していた機構改革は半年遅れた。1983年1月の改革では、均衡のために入り組んでいた本部を業務・企画・国際・営業の4本部へ絞り、各本部の担当と権限をはっきりさせた。当初は幹部の意欲が乏しく、藤森会長は役員の一人ひとりに『DもKもない。そんなことにこだわる人間なら役員だってやめてもらう』と迫ったという。同年6月29日の株主総会では役員全員が起立して損失を詫び、会場の片側には拍手で議事を支える社員株主が並んでいた。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [31]1982年6月、藤森鐵雄会長・羽倉信也頭取の体制が発足した。
- Decide 1985年 3巻1号
- [32]新首脳部の発足から約1カ月後の1982年7月、シンガポール支店が為替投機で97億円の損失を出し、機構改革の実施は半年ずれて1983年1月となった。
- [33]1983年1月の機構改革で、D-Kバランスで複雑化していた本部を業務・企画・国際・営業の4本部制に簡素化し、各本部の専任体制と権限委譲を明確にした。
- [34]改革の当初は役員・幹部の責任の自覚や意欲が乏しく、藤森会長は役員一人ひとりに旧行へのこだわりを捨てるよう求めた。
- 日経ビジネス 1983年7月11日号
- [35]1983年6月29日の株主総会で、議長の藤森会長はシンガポール支店の為替損失97億円について陳謝し、役員全員が起立して頭を下げ、社員株主とみられる席から拍手が起きた。
改革の後、収益の順位が動いた。1983年9月期の営業利益は492億円で上位5行の5位だったが、1984年9月期には534億円で2位に上がり、5行で増益はここだけだった。1984年10月には都市銀行で初めて消費者金融の専門会社ハートファイナンスの設立を発表し、資本金3億円のうち直接出資は5%に抑えた。1986年4月からの第六次経営計画は、1988年度の実体営業純益2000億円と、人件費の営業収支に対する比率30%を目標に掲げた。羽倉頭取は計画の発表にあたり、『もはや合併銀行ではないということを全行員が確かめたいと思います』と訓示した。1989年6月に小口MMCの最低預入額が300万円へ下がると、奥田正司常務は調達コストの上昇を個人向けの運用で吸収する方針を示した。
- Decide 1985年 3巻1号
- [36]営業利益は1983年9月期に492億円で都銀上位5行中5位だったが、1984年9月期には534億円(前年同期比8.6%増)で2位となり、上位5行で唯一の増益だった。
- 日経ビジネス 1985年1月21日号(No.396)
- [37]1984年10月、都市銀行初の消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表した。資本金3億円のうち第一勧業銀行の直接出資は5%で、残る95%は関連会社が持った。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [38]第六次経営計画(1986年4月〜1989年3月)は、1988年度に実体営業純益2000億円を達成すること、人件費の営業収支額に対する比率を30%とすることなどを目標とした。
- [39]羽倉頭取は第36回全国支店長会議の訓示で第六次経営計画の精神を示し、創立15周年を迎えるにあたり収益でもトップバンクを目指すと述べた。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [40]1989年6月5日に市場金利連動型定期預金(MMC)の最低預け入れ額が300万円に下がり、奥田正司常務は調達コストの上昇を運用の強化で吸収し、個人をローンの対象としても取り込む方針を示した。
同じ時期、次の10年に表へ出る融資も始まっていた。1985年3月、出版社社長の木島力也氏の紹介で、のちに大物総会屋として知られる小池隆一氏の側へ1億円の株式担保融資が初めて実行された。担保の時価は8700万円で、通常なら時価の7割までとされる掛け目を10割で扱っていた。1988年1月には、麹町支店の業務課長が1987年5月から7カ月にわたり仮払金を不正に支出し、約36億円の損失を出していたことが発覚した。常務以上の全役員の報酬が一部削られ、全営業店で仮払金の総点検が行われた。旧2行の均衡を保つ人事は、こうした例外の取引を問いただす声を上げにくくした面もあったのではないか。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [41]1985年3月、出版社社長の木島力也の紹介で、小池隆一側に初めて1億円の融資が実行された。融資は株式やその預り証を担保とする株式担保融資だった。
- [42]1985年3月の初回融資時の担保時価は8700万円で、大手都銀が通常は優良株でも7割までとする掛け目が、小池側には当初から10割だった。
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [43]1988年1月、麹町支店の業務課長が1987年5月から12月までの約7カ月間、仮払金の不正支出を続け、約36億円の損失を発生させていたことが発覚した。
- [44]事故を受けて常務取締役以上の全役員の報酬の一部をカットし、1988年2月に全営業店に仮払金内容総点検の特別店内検査を指示した。
参考文献[31]-[44]
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- [31]1982年6月、藤森鐵雄会長・羽倉信也頭取の体制が発足した。
- [38]第六次経営計画(1986年4月〜1989年3月)は、1988年度に実体営業純益2000億円を達成すること、人件費の営業収支額に対する比率を30%とすることなどを目標とした。
- [39]羽倉頭取は第36回全国支店長会議の訓示で第六次経営計画の精神を示し、創立15周年を迎えるにあたり収益でもトップバンクを目指すと述べた。
- [43]1988年1月、麹町支店の業務課長が1987年5月から12月までの約7カ月間、仮払金の不正支出を続け、約36億円の損失を発生させていたことが発覚した。
- [44]事故を受けて常務取締役以上の全役員の報酬の一部をカットし、1988年2月に全営業店に仮払金内容総点検の特別店内検査を指示した。
- Decide 1985年 3巻1号
- [32]新首脳部の発足から約1カ月後の1982年7月、シンガポール支店が為替投機で97億円の損失を出し、機構改革の実施は半年ずれて1983年1月となった。
- [33]1983年1月の機構改革で、D-Kバランスで複雑化していた本部を業務・企画・国際・営業の4本部制に簡素化し、各本部の専任体制と権限委譲を明確にした。
- [34]改革の当初は役員・幹部の責任の自覚や意欲が乏しく、藤森会長は役員一人ひとりに旧行へのこだわりを捨てるよう求めた。
- [36]営業利益は1983年9月期に492億円で都銀上位5行中5位だったが、1984年9月期には534億円(前年同期比8.6%増)で2位となり、上位5行で唯一の増益だった。
- 日経ビジネス 1983年7月11日号
- [35]1983年6月29日の株主総会で、議長の藤森会長はシンガポール支店の為替損失97億円について陳謝し、役員全員が起立して頭を下げ、社員株主とみられる席から拍手が起きた。
- 日経ビジネス 1985年1月21日号(No.396)
- [37]1984年10月、都市銀行初の消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表した。資本金3億円のうち第一勧業銀行の直接出資は5%で、残る95%は関連会社が持った。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- [40]1989年6月5日に市場金利連動型定期預金(MMC)の最低預け入れ額が300万円に下がり、奥田正司常務は調達コストの上昇を運用の強化で吸収し、個人をローンの対象としても取り込む方針を示した。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [41]1985年3月、出版社社長の木島力也の紹介で、小池隆一側に初めて1億円の融資が実行された。融資は株式やその預り証を担保とする株式担保融資だった。
- [42]1985年3月の初回融資時の担保時価は8700万円で、大手都銀が通常は優良株でも7割までとする掛け目が、小池側には当初から10割だった。
1971年〜1990年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 3,926 | n/a | 546 | 268 | 6.8% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 5,354 | +36.4% | 459 | 281 | 5.3% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 7,513 | +40.3% | 661 | 219 | 2.9% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 7,556 | n/a | 666 | 286 | 3.8% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 10,759 | +42.4% | 474 | 245 | 2.3% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 15,232 | +41.6% | 485 | 274 | 1.8% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 18,876 | +23.9% | 810 | 355 | 1.9% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 18,427 | ▲2.4% | 834 | 370 | 2.0% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 17,873 | ▲3.0% | 1,370 | 564 | 3.2% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 22,295 | +24.7% | 1,339 | 601 | 2.7% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑 1976年版 半期合算、会社年鑑 1986年版 半期合算、会社年鑑 1986年版
出典・参考
9件
- 第一勧業銀行二十年史(1992年)
- 日経ビジネス 1974年9月30日号
- 日経ビジネス 1981年2月23日号
- 日経ビジネス 1983年7月11日号
- Decide 1985年 3巻1号
- 日経ビジネス 1985年1月21日号(No.396)
- 日経ビジネス 1989年6月5日号
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- 80年代わが社の戦略(1980年)「第一勧業銀行」