第一勧業銀行:第一国立銀行の開業と日本勧業銀行の設立
1873年〜国の制度で先に設立された第一国立銀行と日本勧業銀行
第一国立銀行は、民間の資金需要に応じて生まれたのではなく、国立銀行条例という制度に合わせて作られた銀行である。1873年6月、資本金244万800円をもって東京兜町に本店を置き、大阪・神戸・横浜に支店を構えて開業した。資本金の大半は三井組と小野組が共同で出しており、両者が建てた三井組ハウスがそのまま新銀行へ譲渡されている。渋沢栄一氏が総監役として経営の最高責任者に就任し、業務は預金・為替・一般銀行業務のほか、紙幣発行と官金出納事務にまで及んだ。もっとも当時は銀行という言葉すら世間に知られておらず、預金の習慣も、資金を必要とする近代的企業も存在しなかった。渋沢氏が最初に取り組んだのは、銀行の取引先となる近代的企業そのものを興すことであり、銀行事務は英国人シャンドに一から学んでいる。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [1]第一国立銀行は1873年6月、資本金244万800円で東京兜町に本店、大阪・神戸・横浜に支店を置いて開業した。
- [3]第一国立銀行は総監役に渋沢栄一が就き、預金・為替・一般銀行業務のほか紙幣発行と官金出納事務も行った。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「三井銀行」
- [2]1873年6月、三井組は小野組との共同出資により第一国立銀行を設立し、建築中だった三井組ハウスをこれに譲渡した。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [4]創立当時のわが国には近代的金融機関がなく、銀行という言葉も一般には知られず、預金の習慣も近代的企業もなかった。
- [5]渋沢栄一の最初の仕事のひとつは銀行の得意先となる近代的企業を興すことであり、銀行事務は英国人シャンドに学んだ。
制度が与えた特権は、10年足らずで日本銀行へ移った。1882年に日本銀行が設立されて兌換券発行の特権が同行に付与されると、第一国立銀行は日銀と代理店契約および手形再割引契約を結び、支払保証や横線小切手を創始して業務の形を組み替えた。1896年9月には国立銀行としての営業満期を迎え、資本金450万円の普通銀行、第一銀行として新発足する。このとき同行が定めたのは、主力を民間取引に置く純然たる商業銀行として立つという経営方針だった。1901年の金融恐慌では商工業者の救済に尽力し、そのためにかえって預金が急増している。日露戦争後には活動範囲が商業部門から工業部門全般へ広がった。制度から降りた銀行が民間の信用で立ち直る経路を、この時期に見つけている。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [6]1882年の日本銀行設立で兌換券発行の特権が日銀に付与され、第一国立銀行は日銀と代理店契約および手形再割引契約を結び、支払保証・横線小切手を創始した。
- [7]1896年9月、国立銀行としての営業満期により資本金450万円の普通銀行、第一銀行として新発足した。
- [8]第一国立銀行は主力を民間取引に置く純然たる商業銀行として立つことを経営方針に決定した。
- [9]1901年の金融恐慌に際して第一銀行は商工業者の救済に尽力し、そのためかえって預金が急増した。
- [10]日露戦争後の産業構造の変化に伴い、従来商業部門に重点があった第一銀行の活動範囲は工業部門全般に及んだ。
もう一方の日本勧業銀行の構想は、1881年に内務卿の松方正義氏が日本銀行の設立を提案した際、あわせて長期の資金を低い金利で貸す機関が要ると説いたことに遡る。この銀行は、預金でなく債券で資金をまかなうよう設計された。日本勧業銀行法は1896年4月に公布され、翌1897年6月、資本金1000万円のうち4分の1の払込で銀行が発足し、農工業の改良発達を趣旨として、不動産を担保に、あるいは抵当なしで、長い期間を低い利率で貸すことを使命とした。資金源は割増金付の勧業小券で、1910年からは金融事情を見ながら割増金のない勧業大券も出し、同じ1910年に預金業務も始めた。ただ預金は当初、総額にも運用法にも枠がはめられた付随的な業務でしかなかった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [11]勧業銀行の設立構想は1881年、内務卿の松方正義が日本銀行の設立を提案すると同時に、低金利で長期の資金を供給する銀行の必要を説いたことに遡る。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [12]日本勧業銀行法は1896年4月に公布され、1897年6月、資本金1000万円(4分の1払込)で日本勧業銀行が設立された。
- [13]日本勧業銀行の設立趣旨は農工業の改良発達を目的として、不動産を担保としあるいは無抵当で長期低利の資金を供給することにあった。
- [14]日本勧業銀行は1910年以降、従来の割増金付勧業小券に対し、割増金をつけない勧業大券も金融事情に応じて発行した。
- [15]日本勧業銀行は1910年から預金業務を開始したが、当初は総額と運用の方法に制限を受けた付随業務にとどまった。
参考文献[1]-[15]
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [1]第一国立銀行は1873年6月、資本金244万800円で東京兜町に本店、大阪・神戸・横浜に支店を置いて開業した。
- [3]第一国立銀行は総監役に渋沢栄一が就き、預金・為替・一般銀行業務のほか紙幣発行と官金出納事務も行った。
- [6]1882年の日本銀行設立で兌換券発行の特権が日銀に付与され、第一国立銀行は日銀と代理店契約および手形再割引契約を結び、支払保証・横線小切手を創始した。
- [7]1896年9月、国立銀行としての営業満期により資本金450万円の普通銀行、第一銀行として新発足した。
- [8]第一国立銀行は主力を民間取引に置く純然たる商業銀行として立つことを経営方針に決定した。
- [9]1901年の金融恐慌に際して第一銀行は商工業者の救済に尽力し、そのためかえって預金が急増した。
- [10]日露戦争後の産業構造の変化に伴い、従来商業部門に重点があった第一銀行の活動範囲は工業部門全般に及んだ。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「三井銀行」
- [2]1873年6月、三井組は小野組との共同出資により第一国立銀行を設立し、建築中だった三井組ハウスをこれに譲渡した。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [4]創立当時のわが国には近代的金融機関がなく、銀行という言葉も一般には知られず、預金の習慣も近代的企業もなかった。
- [5]渋沢栄一の最初の仕事のひとつは銀行の得意先となる近代的企業を興すことであり、銀行事務は英国人シャンドに学んだ。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [11]勧業銀行の設立構想は1881年、内務卿の松方正義が日本銀行の設立を提案すると同時に、低金利で長期の資金を供給する銀行の必要を説いたことに遡る。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [12]日本勧業銀行法は1896年4月に公布され、1897年6月、資本金1000万円(4分の1払込)で日本勧業銀行が設立された。
- [13]日本勧業銀行の設立趣旨は農工業の改良発達を目的として、不動産を担保としあるいは無抵当で長期低利の資金を供給することにあった。
- [14]日本勧業銀行は1910年以降、従来の割増金付勧業小券に対し、割増金をつけない勧業大券も金融事情に応じて発行した。
- [15]日本勧業銀行は1910年から預金業務を開始したが、当初は総額と運用の方法に制限を受けた付随業務にとどまった。
1912年〜合併で店舗を取得した第一銀行と、農工銀行を統合した勧銀
第一銀行が規模を作った手段は、他行の合併だった。1912年に二十銀行、1913年に北海銀行、1916年に京都商工銀行を相次いで合併して10余の支店を加え、1913年末の支店数は22と五大銀行のなかで最多となった。第一次世界大戦を機に産業界が発展して金融市場の資金量が増えると、貿易・商事・海運・造船への貸出を軸に業容を広げ、英米の銀行と外国為替取引を開いて信託業務も兼営した。1916年7月には佐々木勇之助氏が頭取に就任している。銀行界では大都市銀行への資金の集中がこの時期から顕著になっており、合併で店舗を増やし、増えた店舗で預金を集め、その預金を成長産業へ貸すという循環が拡大を支えた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [16]第一銀行は1912年に二十銀行、1913年に北海銀行、1916年に京都商工銀行を合併して10余の支店を加え、1913年末の支店数は22と五大銀行中最多となった。
- [19]第一次大戦を契機に金融市場の資金量が増え、銀行界では大都市銀行への資金の集中が顕著となった。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [17]第一次世界大戦中、第一銀行の業績は飛躍的に伸張し、英米の銀行と外国為替取引を開き、信託業務を兼営した。
- [18]1916年7月、佐々木勇之助が第一銀行の頭取に就任した。
1927年の金融恐慌を境に、銀行の数そのものが減った。第一銀行は1927年に東海銀行、1931年に古河銀行を合併して20余りの支店を加え、五大銀行の一角に入った。この間、全国の銀行数は1926年末の1500余から1941年末の186行へと減っている。恐慌の際には他の有力行と組んで混乱が広がるのを食い止め、同業の銀行を救う側にも立った。1930年11月には本店をビジネスの中心地である東京の丸の内へ移し、1938年から1941年にかけては渡辺銀行・麻布銀行・鉄業銀行を取り込んで貯蓄と中小企業金融を厚くし、1939年には十五銀行から国際信託会社の経営を引き継いだ。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [20]第一銀行は1927年の金融恐慌に際し東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一つとしての地位を占めた。
- [23]1930年11月、第一銀行は本店を東京のビジネスセンターである丸の内の現在地に移転した。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
- [21]全国の銀行数は1926年末の1500余行から1941年末には186行へ減少した。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [22]金融恐慌に際し、第一銀行は他の有力銀行とともに動揺の拡大を防ぎ、同業者を救援した。
- [24]第一銀行は1938年から1941年の間に渡辺銀行、麻布銀行、鉄業銀行を合併し、1939年には十五銀行から国際信託会社(後の第一信託銀行)の経営を譲り受けた。
勧銀が全国に店舗網を得た経路は、これとは異なっていた。1911年に融資の目的制限が撤廃されると、農工業だけの銀行から一般の不動産銀行へ性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要にも応じられるようになる。そのうえで1921年から1944年にかけて、全国46店の農工銀行をすべて合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった。1937年頃の貸出残高は約13億円で、当時の大銀行の最高が7億4000万円程度だったのに比べ2倍近くに達している。府県ごとに置かれた農工銀行を吸い上げた結果、勧銀の店舗網は初めから全国へ散り、各府県の県庁所在地に必ず支店を持つという特色が後年まで残った。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [25]1911年に融資の目的制限が撤廃され、日本勧業銀行は農工業のみの銀行から一般の不動産銀行に性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要に応じうるようになった。
- [26]日本勧業銀行は1921年から1944年の間に全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった。
- [28]日本勧業銀行は全国各府県の農工銀行を合併して支店としたため店舗網が全国的であり、全都道府県の県庁所在地に支店を持つ特色があった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [27]1937年頃の日本勧業銀行の貸出残高は約13億円で、当時の大銀行の貸出残高の最高7億4000万円程度に比べ2倍近くに相当した。
参考文献[16]-[28]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [16]第一銀行は1912年に二十銀行、1913年に北海銀行、1916年に京都商工銀行を合併して10余の支店を加え、1913年末の支店数は22と五大銀行中最多となった。
- [19]第一次大戦を契機に金融市場の資金量が増え、銀行界では大都市銀行への資金の集中が顕著となった。
- [22]金融恐慌に際し、第一銀行は他の有力銀行とともに動揺の拡大を防ぎ、同業者を救援した。
- [24]第一銀行は1938年から1941年の間に渡辺銀行、麻布銀行、鉄業銀行を合併し、1939年には十五銀行から国際信託会社(後の第一信託銀行)の経営を譲り受けた。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [17]第一次世界大戦中、第一銀行の業績は飛躍的に伸張し、英米の銀行と外国為替取引を開き、信託業務を兼営した。
- [18]1916年7月、佐々木勇之助が第一銀行の頭取に就任した。
- [20]第一銀行は1927年の金融恐慌に際し東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一つとしての地位を占めた。
- [23]1930年11月、第一銀行は本店を東京のビジネスセンターである丸の内の現在地に移転した。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
- [21]全国の銀行数は1926年末の1500余行から1941年末には186行へ減少した。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [25]1911年に融資の目的制限が撤廃され、日本勧業銀行は農工業のみの銀行から一般の不動産銀行に性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要に応じうるようになった。
- [26]日本勧業銀行は1921年から1944年の間に全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった。
- [28]日本勧業銀行は全国各府県の農工銀行を合併して支店としたため店舗網が全国的であり、全都道府県の県庁所在地に支店を持つ特色があった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [27]1937年頃の日本勧業銀行の貸出残高は約13億円で、当時の大銀行の貸出残高の最高7億4000万円程度に比べ2倍近くに相当した。
1942年〜金融事業整備令が一つにした第一銀行と三井銀行
戦時の統制は、大銀行どうしを一つにまとめる方向へ働いた。1942年に金融統制団体令とほぼ同時に公布された金融事業整備令によって、政府は金融機関に対して合併等の合理化措置を命令できるようになり、狙いは都市銀行レベルの大型の合同に置かれた。同年12月21日、第一銀行は日本銀行を仲介者として三井銀行から合併の申し込みを受ける。三井から合併を持ちかけられたのはこれが三度目で、最初は1890年、次は1939年だった。過去二度は、規模を大きくするだけでは意義が小さいとして応じていない。しかし今回の仲介者には戦争経済の遂行という大義名分があり、三菱銀行と第百銀行、安田銀行と日本昼夜銀行の合併も同時に伝えられていた。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
- [29]1942年に金融統制団体令と金融事業整備令が公布され、政府は金融機関に対して合併等の合理化措置を命令できるようになった。整備令の狙いは都市銀行レベルの大型の合同にあった。
- [30]1942年12月21日、第一銀行は日本銀行を仲介者として三井銀行から合併の申し込みを受けた。
- [31]第一銀行が三井銀行から合併を持ちかけられたのは1942年で三度目であり、最初は1890年、次は1939年だった。
- [32]第一銀行は過去二度の三井銀行からの合併提案に対し、規模を大きくするだけでは意義が小さいとして応じなかった。
- [33]1942年の合併申し込みの背景には戦争経済遂行という大義名分があり、三菱銀行と第百銀行、安田銀行と日本昼夜銀行の合併も同時に伝えられていた。
合併の決定は1週間で下りた。12月22日と23日の重役会が合併を基本的に了承し、24日には佐々木勇之助・石井健吾の両相談役に諮り、28日には合併覚書に調印して大蔵省の内認可を得ている。両行が対等合併により帝国銀行を設立したのは1943年4月で、本店には旧第一銀行本店が充てられた。一般の行員が合併を知らされたのは、それに先立つ24日頃である。説明された目的は、人員の合理化、資材の節約、店舗の効率的な運営だった。新行名には時局を映した大東亜銀行・太平洋銀行といった案もあったが、検討を重ねて帝国銀行に落ち着いた。1944年8月には十五銀行も合併し、資本金は2億2000万円に増えて、国内の普通銀行で最大の規模となった。
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
- [34]1942年12月22日と23日の重役会が合併を基本的に了承し、24日に佐々木勇之助・石井健吾の両相談役へ相談、28日に合併覚書へ調印して大蔵省の内認可を得た。
- [36]一般行員に合併が知らされたのは1942年12月24日頃で、人員の合理化、資材の節約、店舗の効率的な運営を図るのが合併の目的と説明された。
- [37]新行名の案として大東亜銀行、太平洋銀行が出されたが、検討の結果「帝国銀行」で意見が一致した。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [35]1943年4月、第一銀行は三井銀行と対等合併して帝国銀行を設立し、旧第一銀行本店を本店とした。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「三井銀行」
- [38]帝国銀行は1944年8月に十五銀行を合併して資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行となった。
同じ統制のもとで、勧銀の行名は残った。合同の対象とされたのは普通銀行であり、特殊銀行として長期金融を担う勧銀は、その枠の外に置かれたためである。帝国銀行は、戦需生産に要る巨額の資金を供給できる大銀行をつくるという軍の目的に沿って成立した。しかし戦況が悪くなるにつれて預金の伸びは鈍り、伝統を持つ二行それぞれの特色は結局生かされないままに終わった。一方の勧銀は戦時中も農工銀行との合併を重ね、最後の合併は1944年であった。合併を重ねた末に第一銀行は行名を失い、勧銀は行名を保った。この逆の結末は、二行が国から負わされた役割の違いから生じたものである。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [39]1942年の金融事業整備令による合同は普通銀行を対象としており、日本勧業銀行は特殊銀行として活動を続けた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [40]帝国銀行の設立は戦需生産に必要な巨額の資金を供給する大銀行をつくるという軍事目的のもとに進められたが、戦況の悪化とともに預金の増勢はさえず、二大銀行の特色は生かされなかった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [41]日本勧業銀行による農工銀行の合併は1944年まで続いた。
参考文献[29]-[41]
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」
- [29]1942年に金融統制団体令と金融事業整備令が公布され、政府は金融機関に対して合併等の合理化措置を命令できるようになった。整備令の狙いは都市銀行レベルの大型の合同にあった。
- [30]1942年12月21日、第一銀行は日本銀行を仲介者として三井銀行から合併の申し込みを受けた。
- [31]第一銀行が三井銀行から合併を持ちかけられたのは1942年で三度目であり、最初は1890年、次は1939年だった。
- [32]第一銀行は過去二度の三井銀行からの合併提案に対し、規模を大きくするだけでは意義が小さいとして応じなかった。
- [33]1942年の合併申し込みの背景には戦争経済遂行という大義名分があり、三菱銀行と第百銀行、安田銀行と日本昼夜銀行の合併も同時に伝えられていた。
- [34]1942年12月22日と23日の重役会が合併を基本的に了承し、24日に佐々木勇之助・石井健吾の両相談役へ相談、28日に合併覚書へ調印して大蔵省の内認可を得た。
- [36]一般行員に合併が知らされたのは1942年12月24日頃で、人員の合理化、資材の節約、店舗の効率的な運営を図るのが合併の目的と説明された。
- [37]新行名の案として大東亜銀行、太平洋銀行が出されたが、検討の結果「帝国銀行」で意見が一致した。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- [35]1943年4月、第一銀行は三井銀行と対等合併して帝国銀行を設立し、旧第一銀行本店を本店とした。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「三井銀行」
- [38]帝国銀行は1944年8月に十五銀行を合併して資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行となった。
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- [39]1942年の金融事業整備令による合同は普通銀行を対象としており、日本勧業銀行は特殊銀行として活動を続けた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- [40]帝国銀行の設立は戦需生産に必要な巨額の資金を供給する大銀行をつくるという軍事目的のもとに進められたが、戦況の悪化とともに預金の増勢はさえず、二大銀行の特色は生かされなかった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- [41]日本勧業銀行による農工銀行の合併は1944年まで続いた。
出典・参考
6件
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「第一銀行」
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「三井銀行」
- 会社銀行八十年史(1955年)2篇 日本会社史「日本勧業銀行」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「第一銀行」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「日本勧業銀行」
- 私の履歴書 経済人22(日本経済新聞社、1987年)「井上薫」