大丸:下村彦右衛門正啓の「大文字屋」開業と四都への進出
1717年〜伏見の古着商の大文字屋と、心斎橋に間口一間で開いた松屋
大丸は、下村正啓氏(通称は彦右衛門)が1717年(享保2年)に京都伏見で開業した年を創業と定めた。下村家の衣類の商いは祖父の下村久左衛門氏が古手衣類を地方へ行商したことに始まり、屋号も東山の大文字の火にちなんで河内屋から大文字屋に改めた。父の代には家産が傾き、元禄末年には一家が困窮した。1688年生まれの下村正啓氏は1706年に家業を継ぎ、家運の立て直しを志して伏見から京都へ行商に通った。古着商の行商を十余年続けたのち、下村正啓氏は1717年に伏見で小さな店舗を構えた。絹物を含む古手が庶民の衣料の中心となっていた時代に、京都の得意先から得た信用が店を構える足場になったと思われる。
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 業祖以前」
- [1]大丸は1717年(享保2年)に下村彦右衛門兼雄(法名正啓)が伏見に呉服店を開いた時を創業とする。正啓は1688年生まれ、1706年に家業を継ぎ家運の立て直しを志した
- [4]大丸は1717年(享保2年)に下村彦右衛門兼雄(法名正啓)が伏見に呉服店を開いた時を創業とする。正啓は1688年生まれ、1706年に家業を継ぎ家運の立て直しを志した
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [2]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
- [3]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
- [5]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
伏見開店から9年後の1726年11月1日、39歳の下村正啓氏による、大阪心斎橋の南の木挽北ノ町での呉服店の開業。同業の八文字屋甚右衛門氏と伏見京橋に出す共同店の計画を、八文字屋甚右衛門氏の父の意見で天下の台所の大阪に移した。店は間口1間・奥行2間の空家を両者の共同出資で借り、松屋清兵衛の名義で営んだ。掛売りが常道の時代に現金正札で売って資金の回転を早め、小口の買い物を受けて客層を一般の町人に広げた。開店直後から客が詰めかけ、開業の翌年には借りていた家屋を買い取った。1731年2月に共同経営を解消し、八文字屋甚右衛門氏は持分の譲り代と引き換えに松屋を下村正啓氏に譲り渡した。
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大阪開店」
- [6]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [7]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [8]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [9]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [10]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 名古屋店」
- [11]1731年(享保16年)2月9日、八文字屋甚右衛門が家屋・諸道具・売掛の半分と譲り代、計16貫963匁8厘を受け取り、松屋呉服店を大文字屋彦右衛門に譲り渡した
名古屋への進出は、伏見で同じ町に住む山城屋仁右衛門氏から売薬の取次店を頼まれ、本町4丁目に店を持ったことに始まった。下村正啓氏は取次店を他に譲って向かいの3軒を買い入れ、1728年11月に呉服の卸店を開設して初めて大丸屋の屋号を用いた。丸の中に大の字を置く商標は、天下第一の商人を目指す決意を表すと伝わる。翌1729年春には小売に切り替えて大阪と同じ現金掛値なしの看板を掲げ、1730年には間口30間・奥行15間まで店舗を広げた。同じ1730年に尾張藩7代藩主となった徳川宗春のもとで城下の呉服の需要が増え、大丸屋は藩の御用達も務めた。大阪で客層を広げた売り方を、江戸と上方を結ぶ城下町に移したとみられる。
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 名古屋店」
- [12]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [13]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [15]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [16]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [14]○に大の商標は宇宙と一・人を組み合わせ天下第一の商人を意味し、正啓の決意を象徴すると伝わる。1728年(享保13年)に名古屋店を開いた
参考文献[1]-[16]
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 業祖以前」
- [1]大丸は1717年(享保2年)に下村彦右衛門兼雄(法名正啓)が伏見に呉服店を開いた時を創業とする。正啓は1688年生まれ、1706年に家業を継ぎ家運の立て直しを志した
- [4]大丸は1717年(享保2年)に下村彦右衛門兼雄(法名正啓)が伏見に呉服店を開いた時を創業とする。正啓は1688年生まれ、1706年に家業を継ぎ家運の立て直しを志した
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [2]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
- [3]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
- [5]下村家の衣類商売は祖父久左衛門(静軒)の古手衣類の行商に始まり、屋号を河内屋から大文字屋に改めた。父の代に家産が傾き元禄末年に困窮。正啓は19歳で家業の古着商(大文字屋)を継ぎ京都へ行商、十余年の苦難を経て1717年に伏見に小店舗を開いた
- [14]○に大の商標は宇宙と一・人を組み合わせ天下第一の商人を意味し、正啓の決意を象徴すると伝わる。1728年(享保13年)に名古屋店を開いた
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大阪開店」
- [6]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [7]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [8]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [9]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- [10]1726年11月1日、正啓は八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋南の木挽北ノ町に間口1間・奥行2間の空家を借り、松屋清兵衛の名で相合呉服店を開いた。当初は伏見京橋の共同店を計画したが甚右衛門の父の意見で大阪へ変更。掛売りが常道の中で現金正札商売を始め、資金回転と小口買いで顧客層を一般大衆に広げた。開店早々繁盛し開業翌年に借家を買い取った
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 名古屋店」
- [11]1731年(享保16年)2月9日、八文字屋甚右衛門が家屋・諸道具・売掛の半分と譲り代、計16貫963匁8厘を受け取り、松屋呉服店を大文字屋彦右衛門に譲り渡した
- [12]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [13]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [15]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
- [16]名古屋進出は山城屋仁右衛門から延寿丹(売薬)の取次店を頼まれ本町4丁目に店を持ったのが契機。本業の呉服のため取次店を譲り、向かいの3軒を買い入れて1728年11月に呉服卸店を開き、初めて「大丸屋」を称した。1729年春に小売へ転じ「正味札つき現金かけ値なし」を掲げ、1730年に間口30間・奥行15間に拡張。1730年に藩主となった宗春の代に呉服需要が増え、御用達を勤めた
1729年〜東洞院に二千坪の京都総本店と、大伝馬町で四都目となった江戸店
1729年、下村正啓氏は大阪店と名古屋店の繁盛に応じて京都に仕入店を設け、問屋を通さず西陣や丹後、長浜の産地から直に仕入れる原則を立てた。業務が広がるにつれて仕入の拠点が要り、柳馬場姉小路の角家を借りて伏見から一家で移り住んだ。1734年には京都の今出川大宮にも上之店を設け、京都の拠点は2つ。1736年6月には総本店の敷地として東洞院の船屋町に土地を買い入れ、完成した総本店は間口38間・奥行55間で2,000坪を超えた。総本店は各店の仕入に加え、人事と営業の支配権を握った。仕入の一本化と本拠の移転を同時に進め、伏見の商家は京都に本部を置く多店舗の組織へ変わったと考えられる。
- 大丸二百五拾年史(1967)「三 京都総本店」
- [17]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [18]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [20]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [21]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [19]1734年に京都今出川大宮に上之店(北店)を設け、1736年に東洞院船屋町に大丸総本店を新築した
1743年に下村正啓氏が享保の頃に町方46万4,000余を数えた江戸の大伝馬町3丁目に開設した店は、4都目の拠点にあたる。遺訓によれば、下村正啓氏は1736年頃から江戸出店を考えながら、内の体制が整うまで7、8年実行を控えた。開店に先立つ1738年春から江戸の取引先へ京呉服を送り、商標を染めた萌黄地の風呂敷を荷に添えて屋号を広めた。開店後は現金掛値なしの看板で客を集め、のちに間口36間・奥行26間の店舗となって越後屋や白木屋と並んだ。江戸店は長男の下村正甫氏の発案で、下村正甫氏が初代の店主を務めた。同じ年、下村正啓氏は江戸店を含む全責任を下村正甫氏に譲り、56歳で隠居した。
- 大丸二百五拾年史(1967)「四 江戸店」
- [22]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [23]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [24]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [25]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [26]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [27]1743年に江戸大伝馬町へ進出し、同年に江戸店をはじめ全責任を長男正甫に譲り、正啓は56歳で隠居した
1743年の江戸店開店を機に各店の勘定をまとめる必要が生じ、元方を設けたのは翌1744年である。下村正啓氏が直筆の帳面で一人で差配していた勘定は、元方の設置で経営首脳の元方寄合の管理に移った。元方は自らの資産の勘定を締める元方棚卸帳を設け、その控を延享福の名で書き継いだ。下村正啓氏は事業の基盤が固まった頃、荀子の一節から『先義而後利者栄』の7字を自ら書いて掛軸にし、商いの根本の方針として全店と本家・別家に配った。客のためにならない品は売らず、大名にも子どもの使いにも同じ値で売るよう店員を諭した。元方寄合が勘定を預かるのと同じ時期に理念も文字にして全店へ配り、離れた4都の店が同じ値付けの基準で商えるようにしたのだろう。
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大元方制度と諸帳簿」
- [28]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
- [29]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
- [30]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [31]正啓は荀子栄辱篇の「先義而後利者栄」の7字を自書して掛軸とし全店に配布、本家・別家にも下げ渡し、大丸の精神・営業方針の根本とした。客のためにならぬ物は売らず、大名にも子どもにも同じ値で売るよう諭した
- [32]正啓は荀子栄辱篇の「先義而後利者栄」の7字を自書して掛軸とし全店に配布、本家・別家にも下げ渡し、大丸の精神・営業方針の根本とした。客のためにならぬ物は売らず、大名にも子どもにも同じ値で売るよう諭した
参考文献[17]-[32]
- 大丸二百五拾年史(1967)「三 京都総本店」
- [17]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [18]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [20]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- [21]1729年、大阪・名古屋店の繁栄に応じ京都に仕入店を設置。問屋の仲介を廃し製造元から消費者へを原則とし、業務拡大で仕入店が必要となった。柳馬場姉小路の角家を借りて正啓一家が伏見から移住。1736年6月に東洞院押小路下ル船屋町に総本店敷地を購入。総本店は間口38間・奥行55間、2000坪余で、各店の仕入と人事・営業の支配権を持った
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- [19]1734年に京都今出川大宮に上之店(北店)を設け、1736年に東洞院船屋町に大丸総本店を新築した
- [27]1743年に江戸大伝馬町へ進出し、同年に江戸店をはじめ全責任を長男正甫に譲り、正啓は56歳で隠居した
- [31]正啓は荀子栄辱篇の「先義而後利者栄」の7字を自書して掛軸とし全店に配布、本家・別家にも下げ渡し、大丸の精神・営業方針の根本とした。客のためにならぬ物は売らず、大名にも子どもにも同じ値で売るよう諭した
- [32]正啓は荀子栄辱篇の「先義而後利者栄」の7字を自書して掛軸とし全店に配布、本家・別家にも下げ渡し、大丸の精神・営業方針の根本とした。客のためにならぬ物は売らず、大名にも子どもにも同じ値で売るよう諭した
- 大丸二百五拾年史(1967)「四 江戸店」
- [22]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [23]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [24]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [25]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- [26]1743年(寛保3年)江戸大伝馬町3丁目に開店。遺訓に元文元年頃から江戸出店を考えたが内が整うまで待ったとある。1738年春から江戸へ京呉服を送り、商標入りの萌黄地ふろしきで屋号を広めた。現金かけ値なしの看板で繁盛し、のち間口36間・奥行26間となり越後屋・白木屋と対抗。江戸店は正甫の発案で正甫が初代店主
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大元方制度と諸帳簿」
- [28]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
- [29]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
- [30]元方は寛保4(延享1)年に設置。前年11月の江戸店開店を機に勘定を総括する必要から。それまでは正啓個人が直筆の当座帳で勘定を宰領、以後は経営首脳陣の元方寄合で勘定を整備し、元方棚卸帳の控を延享福の名で書き継いだ
1841年〜天保の改革後に有高の増加が止まった大元方と、資本金50万円の株式合資会社への組織変更
大元方は各店に預けた銀の利子を収入とし、純資産に当たる元方有高を積み上げた。1841年の天保の改革以後、各店の収益である延銀が減少し、有高の増加は止まった。1852年下期に初めて予備の別積銀から300貫の援助を受け、1855年下期には本店と江戸店の大損で有銀が8,000貫から3,000貫台に減少した。有高はその後、天保の改革より前の水準を回復しなかった。幕府は1785年から1866年までに御用金を16回命じ、大丸では1806年に江戸店が江戸の商人で最多の5,000両を課された。利息付きで返す建前の御用金は未済が積み重なりやすく、各店の収益の減少と重なって大元方の蓄えを減少させたと推察される。
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大元方制度と諸帳簿」
- [33]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [34]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [35]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [36]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- 大丸二百五拾年史(1967)「五 御用金と火難」
- [37]御用金は利息付き償還の建前だが未済が累積し焦げつきがち。幕府の御用金は1785年(天明5年)から1866年(慶応2年)まで16回。1806年(文化3年)江戸の御用金で大丸屋正右衛門は5000両で第1位
1864年7月の蛤御門の変で京都の各店は上の店を除いて焼失し、類焼した総本店の再建は1869年11月までかかった。明治に入ると各店の商勢は縮小し、京都では1880年に東店、1900年に絹店を閉じ、1907年には北店を松原店に併合した。当時の店員の回想では、1879年頃から1894年頃まで利益を出した年がなかった。1907年夏、25歳の当主の下村正太郎氏は、店務に専念するため早稲田大学を中退すると表明した。7月18日には看坊職の下村源造氏が京都本店に全店の支配人を招集し、3日間にわたって刷新の具体策を討議。11月の会議では東京店と京都松原店の陳列式への改築を決め、12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店(資本金50万円)の創立総会を開催した。
- 大丸二百五拾年史(1967)「三 京都総本店」
- [38]1864年7月の蛤御門の変で上の店を除く京都の各店が焼失し総本店も類焼。復旧は1869年11月25日に完成
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 維新後の変動」
- [39]明治期に各店の商勢は縮小し、京都では1880年に東店を閉鎖、1900年に絹店を閉店、1907年に北店を松原店に併合
- 大丸二百五拾年史(1967)「七 組織変更」
- [40]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [41]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [42]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [43]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
参考文献[33]-[43]
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大元方制度と諸帳簿」
- [33]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [34]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [35]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- [36]大元方は各店への預け銀の利子を収入として元方有高を積み重ねたが、1841年の天保の改革以後は各店の延銀(収益)が減り有高の増加が止まった。1852年下期に初めて別積銀から300貫の援助。1855年下期に本店と江戸店が大損を出し8000貫の有銀が3000貫台に落ち、天保以前の水準に戻らなかった
- 大丸二百五拾年史(1967)「五 御用金と火難」
- [37]御用金は利息付き償還の建前だが未済が累積し焦げつきがち。幕府の御用金は1785年(天明5年)から1866年(慶応2年)まで16回。1806年(文化3年)江戸の御用金で大丸屋正右衛門は5000両で第1位
- 大丸二百五拾年史(1967)「三 京都総本店」
- [38]1864年7月の蛤御門の変で上の店を除く京都の各店が焼失し総本店も類焼。復旧は1869年11月25日に完成
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 維新後の変動」
- [39]明治期に各店の商勢は縮小し、京都では1880年に東店を閉鎖、1900年に絹店を閉店、1907年に北店を松原店に併合
- 大丸二百五拾年史(1967)「七 組織変更」
- [40]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [41]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [42]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
- [43]1907年夏、当主下村正太郎(25歳)が組織・業務の革新のため早稲田大学を退学し店務に専念する決意を表明。7月18日に看坊職下村源造が全支配人を京都本店に集め3日間刷新案を討議。明治12年頃から27年頃まで赤字続きだったとの店員の回想。11月16日の会議で東京店呉服部と京都松原店の陳列式改築を決議。12月17日に東京店で株式合資会社大丸呉服店の創立総会、資本金50万円(無限責任社員出資30万円・株式20万円)
出典・参考
10件
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 業祖以前」
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 業祖正啓」
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大阪開店」
- 大丸二百五拾年史(1967)「二 名古屋店」
- 大丸二百五拾年史(1967)「三 京都総本店」
- 大丸二百五拾年史(1967)「四 江戸店」
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 大元方制度と諸帳簿」
- 大丸二百五拾年史(1967)「五 御用金と火難」
- 大丸二百五拾年史(1967)「一 維新後の変動」
- 大丸二百五拾年史(1967)「七 組織変更」