三愛オブリ:三愛石油の設立と羽田空港での航空機給油
1952年〜日本航空の打診で生まれた資本金1,000万円の三愛石油と、スタンダード石油の代理店契約
三愛石油は1952年6月9日に設立登記を終え、資本金1,000万円、本店を東京都中央区銀座5丁目に置いて発足した。スタンダード・ヴァキューム石油の代理店としての出発である。創業者で社長の市村清氏は、カメラのリコーフレックスを売り出してカメラの流行を起こした経営者だった。設立のきっかけは、日本航空の経営陣から市村清氏に寄せられた『航空燃料の取扱いを事業としないか』という打診にあった。その日本航空は1951年7月、戦後初の民間の航空会社として生まれたばかりだった。翌1952年4月28日には対日平和条約が発効し、占領下の諸制度が順に解かれた。民間の空の再開に合わせ、日本航空の経営陣が燃料を担う相手を外に求めたと推察される。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [1]1952年6月2日創立総会、6月9日設立登記。資本金1,000万円、本店は東京都中央区銀座5丁目2番地
- [3]創業者の市村清社長はリコーフレックスを発売しカメラブームをつくった経営者
- [4]日本航空の経営陣から市村清に航空燃料の取扱いを事業にしないかと打診があり、設立のきっかけとなった
- [5]1952年4月28日に対日平和条約が発効。1951年7月に戦後初の民間航空として日本航空が設立
- [6]1952年4月28日に対日平和条約が発効。1951年7月に戦後初の民間航空として日本航空が設立
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [2]石油製品の販売を目的にスタンダード・ヴァキューム石油会社の代理店として発足(1952年6月)
三愛石油は設立から2週間後の1952年6月23日、スタンダード・ヴァキューム石油と代理店契約を結んで仕入れの経路を確保した。翌7月には石油統制の撤廃が見込まれていた。7月1日には本社を東京・日本橋の江戸橋新生ビルへ移した。並行して日本航空と燃料補給の業務について折衝を重ね、運輸省から東京国際空港の場内での一般営業の認可を得た。この認可を受けて10月24日に結んだのが、日本航空との航空燃料補給代行特約店契約である。同じ10月には空港内に羽田営業所を開設し、航空機への給油事業に着手した。製油所を持たない新会社は、外資の元売の代理店となることで航空燃料の供給元を確保したとみられる。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [7]1952年6月23日、スタンダードバキューム石油会社と代理店契約を締結
- [8]1952年7月には石油統制の撤廃が見込まれる情勢だった
- [9]1952年7月1日、本社を江戸橋新生ビルに設置
- [10]日本航空と燃料補給業務で折衝し、運輸省から東京国際空港の飛行場内一般営業の認可を受け、1952年10月24日に日本航空と航空燃料補給代行特約店契約を締結
- [11]日本航空と燃料補給業務で折衝し、運輸省から東京国際空港の飛行場内一般営業の認可を受け、1952年10月24日に日本航空と航空燃料補給代行特約店契約を締結
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [12]1952年10月、羽田空港内の構内営業を許可され、羽田営業所を開設して航空機への給油事業に着手
参考文献[1]-[12]
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [1]1952年6月2日創立総会、6月9日設立登記。資本金1,000万円、本店は東京都中央区銀座5丁目2番地
- [3]創業者の市村清社長はリコーフレックスを発売しカメラブームをつくった経営者
- [4]日本航空の経営陣から市村清に航空燃料の取扱いを事業にしないかと打診があり、設立のきっかけとなった
- [5]1952年4月28日に対日平和条約が発効。1951年7月に戦後初の民間航空として日本航空が設立
- [6]1952年4月28日に対日平和条約が発効。1951年7月に戦後初の民間航空として日本航空が設立
- [7]1952年6月23日、スタンダードバキューム石油会社と代理店契約を締結
- [8]1952年7月には石油統制の撤廃が見込まれる情勢だった
- [9]1952年7月1日、本社を江戸橋新生ビルに設置
- [10]日本航空と燃料補給業務で折衝し、運輸省から東京国際空港の飛行場内一般営業の認可を受け、1952年10月24日に日本航空と航空燃料補給代行特約店契約を締結
- [11]日本航空と燃料補給業務で折衝し、運輸省から東京国際空港の飛行場内一般営業の認可を受け、1952年10月24日に日本航空と航空燃料補給代行特約店契約を締結
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [2]石油製品の販売を目的にスタンダード・ヴァキューム石油会社の代理店として発足(1952年6月)
- [12]1952年10月、羽田空港内の構内営業を許可され、羽田営業所を開設して航空機への給油事業に着手
1953年〜市村清氏が構想したハイドラント方式と、50klの地下タンク10基で始めた自主給油
羽田での最初の給油は1953年2月1日、日本航空の小型練習機にトラックのドラム缶から手押しポンプで送った作業だった。大型機への給油はスタンダードとシェルの2社が手がけ、三愛石油が加わる余地はなかった。社長の市村清氏が構想したのは、空港の地下に配管を通して給油するハイドラント(消火栓)方式だった。三愛石油はこの方式の採用を決め、1953年1月に設計を仕上げた。3月に関東財務局から空港内の敷地の払下げを受け、4月には50klの地下タンク10基と給油車への積出し設備の第1期工事に着手した。第1期工事の完成は1953年9月29日のことである。大型機の給油を元売から引き継ぐ前提として、設備を自社で先に押さえる判断だったと思われる。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [13]1953年2月1日、日航小型練習機にトラックのドラム缶から手押しポンプで給油したのが羽田での最初。大型機はスタンダードとシェルが給油
- [14]1953年2月1日、日航小型練習機にトラックのドラム缶から手押しポンプで給油したのが羽田での最初。大型機はスタンダードとシェルが給油
- [16]市村社長の構想によるハイドラント方式の採用を決め、1953年1月に設計を完成
- [17]1953年3月に関東財務局から空港内敷地の払下げ、4月に50kl地下タンク10基と給油車積出し設備の第1期工事に着手し9月29日完成
- [18]1953年3月に関東財務局から空港内敷地の払下げ、4月に50kl地下タンク10基と給油車積出し設備の第1期工事に着手し9月29日完成
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [15]当社開発のハイドラント(消火栓)式給油施設
三愛石油が大型機に自らの手で給油したのは、1954年2月7日の日本航空国内線機が最初である。その5日前の2月2日、前年9月に竣工した地下タンクの使用が運輸省から許可された。以後はスタンダードとシェルの給油も、三愛石油の施設を中継して機体へ送られた。1952年10月の羽田営業所の開設から1年4カ月を経ての自主給油の実現。スタンダード石油は三愛石油の給油能力を認めて国内線の給油業務を委譲し、2月8日に委譲の式典を催した。1953年2月の練習機への手押しポンプでの給油から、1年で大型機の給油を担う立場に移った。空港内の貯油設備を押さえたことが、元売からの業務委譲を引き出したのだろう。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [19]1954年2月7日、日本航空国内線機への給油を初めて当社の手で実施(自主給油)。羽田での最初の給油は1953年2月1日の練習機へのドラム缶・手押しポンプ
- [20]1953年9月竣工の地下タンクの使用が1954年2月2日に運輸省から許可され、スタンダード・シェルの給油も当社施設を中継
- [21]1953年9月竣工の地下タンクの使用が1954年2月2日に運輸省から許可され、スタンダード・シェルの給油も当社施設を中継
- [23]スタンダード石油が当社の能力を認め、1954年2月8日に給油業務委譲のセレモニー
- [24]1954年2月7日、日本航空国内線機への給油を初めて当社の手で実施(自主給油)。羽田での最初の給油は1953年2月1日の練習機へのドラム缶・手押しポンプ
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [22]1952年10月、羽田空港内に羽田営業所を開設し航空機への給油事業に着手
自主給油の翌月の1954年3月8日、三愛石油は前年に設計を終えたハイドラント給油システムを仕上げる第2期工事の地鎮祭を執り行った。工事は、すでに進んでいたエプロンやターミナルビルの工事と歩調を合わせて進めた。4月14日には本社を江戸橋から銀座3丁目の親和ビルへ移し、業容の拡大に備えた。当時の従業員は60名で、1954年3月までの半年間の売上は1億8,000万円を超えた。12月1日には、パンアメリカン航空と日本航空の機体にエンジン潤滑油の給油を開始した。第2期工事は、1955年12月に始まる自社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油へとつながった。ドラム缶と地下タンクの給油では増える便数に追いつけない、という見立てが背景にあったと推測できる。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [25]1954年3月8日、ハイドラント給油システム完成をねらう第2期工事の地鎮祭。エプロン地域・ターミナルビルとの関連をはかりながら進める
- [26]1954年3月8日、ハイドラント給油システム完成をねらう第2期工事の地鎮祭。エプロン地域・ターミナルビルとの関連をはかりながら進める
- [27]1954年4月14日、本社を江戸橋から銀座3丁目1番地の親和ビルに移転し業容の拡充に備えた
- [28]当時の従業員数60名、1954年3月までの半年間の売上1億8,000万円超
- [29]1954年12月1日、パンアメリカン航空と日本航空の航空機にエンジン潤滑油の給油を開始
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [30]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
参考文献[13]-[30]
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [13]1953年2月1日、日航小型練習機にトラックのドラム缶から手押しポンプで給油したのが羽田での最初。大型機はスタンダードとシェルが給油
- [14]1953年2月1日、日航小型練習機にトラックのドラム缶から手押しポンプで給油したのが羽田での最初。大型機はスタンダードとシェルが給油
- [16]市村社長の構想によるハイドラント方式の採用を決め、1953年1月に設計を完成
- [17]1953年3月に関東財務局から空港内敷地の払下げ、4月に50kl地下タンク10基と給油車積出し設備の第1期工事に着手し9月29日完成
- [18]1953年3月に関東財務局から空港内敷地の払下げ、4月に50kl地下タンク10基と給油車積出し設備の第1期工事に着手し9月29日完成
- [19]1954年2月7日、日本航空国内線機への給油を初めて当社の手で実施(自主給油)。羽田での最初の給油は1953年2月1日の練習機へのドラム缶・手押しポンプ
- [20]1953年9月竣工の地下タンクの使用が1954年2月2日に運輸省から許可され、スタンダード・シェルの給油も当社施設を中継
- [21]1953年9月竣工の地下タンクの使用が1954年2月2日に運輸省から許可され、スタンダード・シェルの給油も当社施設を中継
- [23]スタンダード石油が当社の能力を認め、1954年2月8日に給油業務委譲のセレモニー
- [24]1954年2月7日、日本航空国内線機への給油を初めて当社の手で実施(自主給油)。羽田での最初の給油は1953年2月1日の練習機へのドラム缶・手押しポンプ
- [25]1954年3月8日、ハイドラント給油システム完成をねらう第2期工事の地鎮祭。エプロン地域・ターミナルビルとの関連をはかりながら進める
- [26]1954年3月8日、ハイドラント給油システム完成をねらう第2期工事の地鎮祭。エプロン地域・ターミナルビルとの関連をはかりながら進める
- [27]1954年4月14日、本社を江戸橋から銀座3丁目1番地の親和ビルに移転し業容の拡充に備えた
- [28]当時の従業員数60名、1954年3月までの半年間の売上1億8,000万円超
- [29]1954年12月1日、パンアメリカン航空と日本航空の航空機にエンジン潤滑油の給油を開始
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [15]当社開発のハイドラント(消火栓)式給油施設
- [22]1952年10月、羽田空港内に羽田営業所を開設し航空機への給油事業に着手
- [30]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
1955年〜ハイドラント給油の開始と500klタンク4基の増設、ボーイング707と相模原給油所
羽田のハイドラント施設は1955年6月9日、創立3周年の日に竣工した。料率の交渉が長引いて利用の開始は遅れ、12月15日に日本石油が利用の第1号となった。地下の配管を通った100オクタンの航空ガソリンが、大阪行きの日本航空DC-4型機に送られた。三愛石油が自社開発のハイドラント式施設で航空機給油を始めたのは、この1955年12月である。国際線の最初は1956年1月1日、パンアメリカン航空のB-377型機への給油だった。同日にスタンダード石油、1月5日にシェル石油も施設を使い始めた。1956年3月までの通過量は約250万ガロンに達し、既設のタンクでは扱いきれなくなった。三愛石油は4月に500klタンク4基を着工し、12月に完成させた。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [31]1955年6月9日(創立3周年)、羽田のハイドラント施設が竣工
- [32]料率交渉が長びき利用開始が遅れ、1955年12月15日に日本石油が利用第1号。100オクタン航空ガソリンを日本航空DC-4型機(大阪行)に給油
- [33]料率交渉が長びき利用開始が遅れ、1955年12月15日に日本石油が利用第1号。100オクタン航空ガソリンを日本航空DC-4型機(大阪行)に給油
- [35]国際線は1956年1月1日にパンナムB-377が最初。同日スタンダード石油、1月5日シェル石油がハイドラント施設の利用を開始
- [36]国際線は1956年1月1日にパンナムB-377が最初。同日スタンダード石油、1月5日シェル石油がハイドラント施設の利用を開始
- [37]1956年3月までのハイドラント通過量は約250万ガロン。既設タンクで扱いきれなくなり4月に500klタンク4基を着工、12月完成
- [38]1956年3月までのハイドラント通過量は約250万ガロン。既設タンクで扱いきれなくなり4月に500klタンク4基を着工、12月完成
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [34]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
三愛石油は大型ジェット機の就航に備え、ジェット機用駐機場のハイドラント施設の工事認可を受けて社内にジェット対策委員会を設けた。1959年4月には1,000klタンク4基と大型ポンプ、電気計測のコントロール室の新設工事を始めた。制御には計測を自動で行う当時最新の方式を採った。建設途中の1,000klタンク1基は、1959年9月26日の伊勢湾台風で崩れた。同じ9月、パンアメリカン航空のボーイング707型機が初の定期便として羽田に着き、三愛石油が国産の自走給油車で給油した。日本航空も1960年8月にDC-8型機を国際線へ投入し、燃料の需要は航空ガソリンからジェット燃料へ移った。1955年12月に始めた自社開発のハイドラント式施設を、ジェット機の時代に合わせて作り直した格好である。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [39]ジェット機用駐機場のハイドラント施設の工事認可がおり、社内にジェット対策委員会を設置
- [40]1959年4月、1,000klタンク4基・大型ポンプ・電気計測コントロール室の新設工事を開始。最新の計測自動制御を採用
- [41]1959年4月、1,000klタンク4基・大型ポンプ・電気計測コントロール室の新設工事を開始。最新の計測自動制御を採用
- [42]建設途中の1,000klタンクが1959年9月26日の伊勢湾台風で崩壊(写真説明)
- [43]1959年9月、パンアメリカン航空のボーイング707が最初の定期便として羽田に到着し、当社が国産の自走給油車で給油
- [44]日本航空が1960年8月にDC-8を国際線に投入し、以後ジェット燃料の需要が航空ガソリンに代わって急伸
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [45]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
三愛石油は1959年12月、空港の外で初めての本格的な直営サービスステーションとして相模原給油所を開設した。最初のサービスステーションは1953年3月31日、横浜米油から旧米軍ターミナル地域のガソリンスタンドを譲り受けて始めたものだった。重油など一般の石油製品の卸売でも、少しずつ取引先を広げた。1957年12月には神奈川県から川崎大師河原の臨海埋立地約2万m²の払下げを受け、事業の展開に備えた。1960年8月には空港内のサービスステーションを子会社の羽田モーターサービスへ委譲。翌9月、川崎の払下げ地に川崎油槽所を開設し、LPガスの充填業務を開始した。航空燃料で固めた石油営業の基盤を、地上の燃料販売へ振り向ける段階に入ったと考えられる。
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [46]石油営業面の基盤が固まり、1959年12月に本格的直営SS・相模原給油所を開設(空港外の直営SS第1号)
- [47]1953年3月31日、横浜米油から旧米軍ターミナル地域のガソリンスタンドの譲渡を受け営業開始(SS第1号)。重油など一般石油製品の卸売で取引先を獲得
- [48]1953年3月31日、横浜米油から旧米軍ターミナル地域のガソリンスタンドの譲渡を受け営業開始(SS第1号)。重油など一般石油製品の卸売で取引先を獲得
- [49]1957年12月、神奈川県から川崎大師河原臨海工業埋立地(約2万m2)の払下げを受けた
- [50]1960年8月、空港内のSSを子会社の羽田モーターサービスに委譲
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [51]1960年9月、神奈川県川崎市に川崎油槽所を開設し、LPガス充填業務を開始
参考文献[31]-[51]
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)
- [31]1955年6月9日(創立3周年)、羽田のハイドラント施設が竣工
- [32]料率交渉が長びき利用開始が遅れ、1955年12月15日に日本石油が利用第1号。100オクタン航空ガソリンを日本航空DC-4型機(大阪行)に給油
- [33]料率交渉が長びき利用開始が遅れ、1955年12月15日に日本石油が利用第1号。100オクタン航空ガソリンを日本航空DC-4型機(大阪行)に給油
- [35]国際線は1956年1月1日にパンナムB-377が最初。同日スタンダード石油、1月5日シェル石油がハイドラント施設の利用を開始
- [36]国際線は1956年1月1日にパンナムB-377が最初。同日スタンダード石油、1月5日シェル石油がハイドラント施設の利用を開始
- [37]1956年3月までのハイドラント通過量は約250万ガロン。既設タンクで扱いきれなくなり4月に500klタンク4基を着工、12月完成
- [38]1956年3月までのハイドラント通過量は約250万ガロン。既設タンクで扱いきれなくなり4月に500klタンク4基を着工、12月完成
- [39]ジェット機用駐機場のハイドラント施設の工事認可がおり、社内にジェット対策委員会を設置
- [40]1959年4月、1,000klタンク4基・大型ポンプ・電気計測コントロール室の新設工事を開始。最新の計測自動制御を採用
- [41]1959年4月、1,000klタンク4基・大型ポンプ・電気計測コントロール室の新設工事を開始。最新の計測自動制御を採用
- [42]建設途中の1,000klタンクが1959年9月26日の伊勢湾台風で崩壊(写真説明)
- [43]1959年9月、パンアメリカン航空のボーイング707が最初の定期便として羽田に到着し、当社が国産の自走給油車で給油
- [44]日本航空が1960年8月にDC-8を国際線に投入し、以後ジェット燃料の需要が航空ガソリンに代わって急伸
- [46]石油営業面の基盤が固まり、1959年12月に本格的直営SS・相模原給油所を開設(空港外の直営SS第1号)
- [47]1953年3月31日、横浜米油から旧米軍ターミナル地域のガソリンスタンドの譲渡を受け営業開始(SS第1号)。重油など一般石油製品の卸売で取引先を獲得
- [48]1953年3月31日、横浜米油から旧米軍ターミナル地域のガソリンスタンドの譲渡を受け営業開始(SS第1号)。重油など一般石油製品の卸売で取引先を獲得
- [49]1957年12月、神奈川県から川崎大師河原臨海工業埋立地(約2万m2)の払下げを受けた
- [50]1960年8月、空港内のSSを子会社の羽田モーターサービスに委譲
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- [34]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
- [45]1955年12月、当社開発のハイドラント式給油施設による航空機給油業務を開始
- [51]1960年9月、神奈川県川崎市に川崎油槽所を開設し、LPガス充填業務を開始
出典・参考
2件
- 三愛オブリ 有価証券報告書【沿革】
- 刊行社史『三愛石油25年の歩み』(1977)