ニチメン:日綿實業への改称と丸永の吸収合併
1930年〜昭和恐慌が迫った海外支店の整理と、ニューヨークの残留
1926年、29歳の野田岩次郎氏が日本綿花に入った。三井物産で国際結婚を認められずに退いたあと、東京海上の平生釟三郎氏が喜多又蔵社長へ直接話をして入社の労をとった経緯である。横浜支店で生糸を学んだ野田氏はまもなくニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学で生糸の生産と鑑定法を半年学んだうえで、全米48州のほとんどを回って売り込みにあたった。それまで生糸の販売は現地のアメリカ人セールスマンに委ねられており、日本人が直接商談に出るのは新しい試みだった。会社を代表する日本人と契約したほうが安心だという空気が客先に生まれるまで、その土地で最も上等なホテルのロビーを商談の場に選び続けた。
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- [1]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
- [2]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
- [3]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
- [4]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
- [5]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた
1930年、会社は浮沈にかかわる大欠損を出した。日本綿花が立てた再建策は、横浜正金銀行の意向をそのまま受けて海外各支店を閉鎖・縮小するというものだった。これに対して南郷三郎氏だけは、ニューヨーク支店を縮小しても開けておく方針を通し、帰朝中だった野田氏を支店長に登用する案を立てる。二人は伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ね、ニューヨーク支店の存続を願い出た。頭取は閉鎖するのが当たり前かもしれないがやってみたまえと応じ、1931年、34歳の野田氏がニューヨーク支店長に就任した。最大市場の窓口だけは残った。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [6]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- [7]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
- [8]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
- [9]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
- [10]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった
1932年3月に喜多又蔵社長が世を去り、南郷三郎氏が社長を承継した。ここから経営はようやく軌道に乗る。もっとも、この立て直しは商いの中身を変えたわけではなく、恐慌前に広げた綿花と生糸の商権を、支店網を薄くしながら残したものだった。1930年の欠損が突きつけたのは、綿花輸入の代行に収益を頼る構造では市況の急変を吸収できないという事実である。原料の値が振れれば口銭も振れ、産地と紡績のあいだに立つ会社には逃げ場がない。取扱商品を綿花の外へ広げる作業は、皮肉にも平時ではなく、戦時統制という別の圧力のもとで進んだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [11]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
- [13]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [12]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
参考文献[1]-[13]
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- [1]1926年に29歳で日本綿花へ入社した
- [2]平生釟三郎が喜多又蔵社長に直接話をして日綿への入社を取り持った
- [3]横浜支店で生糸を学んだのちニューヨーク支店へ移り、コロンビア大学の夜学に約半年通って生糸の生産・用途・鑑定法を学んだ
- [4]生糸の売り込みで全米48州のほとんどを回り、従来アメリカ人セールスマンに任せていた販売を日本人が直接行った
- [5]その土地の最高のホテルに泊まりロビーで商談する方法を採り、日本人と契約するほうが安心だという空気が生まれた
- [7]再建策は正金銀行の言うままに海外各支店を閉鎖・縮小するものだった
- [8]南郷三郎はニューヨーク支店は縮小しても開けておくべきだと主張し、帰朝中の野田岩次郎を支店長とする再建策を立てた
- [9]伊豆伊東の旅館に児玉謙次頭取を深夜に訪ねて支店存続を陳情し、頭取は「やってみたまえ」と承知した
- [10]1931年に34歳でニューヨーク支店長となった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- [6]1930年に会社の浮沈にかかわる大欠損を出した
- [12]1930年の欠損は会社の浮沈にかかわる規模だった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [11]1932年3月に喜多又蔵社長が逝去し南郷三郎が社長に就任して経営が軌道に乗った
- [13]太平洋戦争期に取扱商品は当初の綿花売買のみにとどまらず広範にわたるに至った
1939年〜統制のなかで広がった商品と、在外資産の全喪失
日華事変の勃発後、繊維品の統制は段階を追って強まった。1939年9月に第二次欧州戦争が起こると、日本の欧州・アフリカおよび近東向け貿易は遮断され、国内でも諸統制令が施行された。それでも日本綿花は海外市場の拡充を続け、1941年6月には潮崎喜八郎氏が社長に就任した。同年末の開戦後も経営は進み、取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範な品目に及んだ。1943年4月、この実態に合わせて社名を日綿實業へ改める。綿花の一語を外した改称は、統制経済のもとで商品構成が綿花から離れていたことの追認であり、資本金も1945年4月に3000万円となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [14]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
- [15]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
- [16]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
- [17]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
- [18]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
- [19]資本金は1945年4月に3000万円となった
上海と漢口の工場、満州の事業会社、欧州と南米の店が敗戦と同時にまとめて消え、在外資産は一つ残らず失われた。以後の営業は国内の需給物資を扱うことでつないだが、敗戦から2年のあいだ日本に認められた貿易は、国民の命をつなぐ食糧の輸入と、その代金となる外貨を得るための輸出に限られていた。それも政府機関の貿易公団がGHQの監視下で行い、商社は実務の代行を許されたにすぎない。1947年8月に民間貿易が再開されると、日綿實業はただちに旧来の海外取引関係を復活させ、国内取引の整備にも取りかかった。ニューヨーク支店を残した昭和恐慌時の判断が、ここで効いた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [20]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
- [21]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
- [25]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [22]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
- [23]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
- [24]1947年8月に民間貿易が再開された
敗戦は業界の順位も入れ替えた。1947年7月、三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体され、旧社員は100人以上が同じ会社に就職してはならないという徹底した条件が付いた。戦前に日本の貿易の3割近くを占めた二社が消えた空白へ、関西五綿と呼ばれた綿業商社が進み出る。1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業が4.3%で続き、丸紅と東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%と関西系が上位を占めた。第一物産は2%台にとどまった。日綿實業がこの時期に業界二番手へ出たのは自力の伸長というより、最大手二社の消滅がつくった順位だった。
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [26]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
- [27]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
- [28]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
- [29]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の3割近くを占めていた
- 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
- [30]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
- [31]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった
参考文献[14]-[31]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [14]日華事変勃発後は漸次繊維品の統制が強化された
- [15]1939年9月の第二次欧州戦争勃発で欧州・アフリカ・近東向け貿易が阻止され国内でも諸統制令が施行された
- [16]1941年6月に潮崎喜八郎が社長に就任した
- [17]太平洋戦争期も経営は順調に進展し取扱商品は当初の綿花売買にとどまらず広範にわたった
- [18]1943年4月に社名を日綿實業へ改めた
- [19]資本金は1945年4月に3000万円となった
- [20]終戦とともに在外資産のすべてを喪失し一時は国内需給物資の取扱で営業を維持した
- [21]在外資産喪失後は一時国内需給物資の取扱によって営業を維持した
- [25]民間貿易再開に伴いただちに旧来の海外取引関係を復活させ国内取引面も整備した
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [22]敗戦後2年間に許された貿易は生命をつなぐ食糧の輸入とその外貨を稼ぐ輸出だけだった
- [23]敗戦後2年間の貿易は貿易公団がGHQの監視下で行い商社は実務の代行のみ許された
- [24]1947年8月に民間貿易が再開された
- [26]三井物産・三菱商事の解体は業界の旧秩序を壊滅させ関西五綿の進出を招いた
- [27]1947年7月に三井物産と三菱商事がGHQの直接指令で解体された
- [28]解体の覚書には旧社員は100人以上、支店長級以上は2人以上が同じ会社に就職してはいけないという条件が付いた
- [29]戦前の最盛期には三井物産と三菱商事の二社で日本の貿易の3割近くを占めていた
- 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
- [30]1951年度の輸出入取扱高シェアは伊藤忠4.7%、日綿実業4.3%、丸紅・東洋棉花各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で関西系商社が上位を独占した
- [31]同時期の第一物産のシェアは2%台にとどまった
1950年〜商社統合のテスト・ケースとしての丸永合併
1950年6月の朝鮮動乱を機に業績は飛躍的に伸びた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌年12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ膨らみ、商社の取引量も軒並み急増する。だが1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した。日銀ユーザンス制度を使い備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負い、中小商社の倒産が相次いだ。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされた。動乱は綿製品の買い付けを日本へ集中させたぶん、その反転も大きかった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [32]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
- [37]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [33]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
- [34]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
- [35]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
- [36]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
- [38]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した
この危機のあと、政府は1952年から商社強化策を重要施策に据え、輸出所得控除などの税制措置と海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止を進めた。業界の側でも再編が二つの流れで動き出す。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは旧財閥商社の再統合だった。日綿實業は資本金を1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へと積み増し、1953年には輸出入の5%を取り扱って貿易商社の首位に立った。1951年11月には岡島美行氏が社長となり、1953年8月に中之島の新社屋へ移った。
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [39]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
- [40]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
- [41]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [42]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
- [44]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
- 双日歴史館「日綿實業・ニチメン」
- [43]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった
1954年11月、日綿實業は丸永を吸収合併した。"会社銀行八十年史"(東洋経済新報社、1955年)はこの合併を『商社統合のテスト・ケース』と記している。合併で資本金は4億3000万円となり、1955年8月には10億7500万円まで増えた。1954年の実績は輸出6030万ドル(全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めていた。合併の翌年からは機械・金属の輸出取扱高も急増し、ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を開設した。同種の合併はその後、1955年の丸紅と高島屋飯田、1955年8月の東洋棉花と鐘淵商事へと続き、テスト・ケースという当時の呼び方は結果として正しかった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [45]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
- [46]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
- [47]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
- [48]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
- [49]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
- [50]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
- [51]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた
参考文献[32]-[51]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- [32]1950年6月の朝鮮動乱勃発を契機に業績が飛躍的に増大し休戦後の反動期に苦境に立った
- [37]休戦後の反動期に際会し経営は苦境に立った
- [42]資本金は1949年5月に1億円、1951年7月に2億円、1953年4月に4億円へ増額された
- [44]1951年11月に岡島美行が社長に就任し1953年8月に中之島の新社屋へ移転した
- [45]1954年11月に丸永を吸収合併し資本金は4億3000万円となった
- [46]会社銀行八十年史は丸永合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している
- [47]資本金は1955年8月に10億7500万円へ増額された
- [48]1954年の輸出は6030万ドル(全国比4.0%)、輸入は1億3500万ドル(同6.9%)だった
- [49]食糧および綿花の輸入で業界の一、二位を占め、機械・金属の輸出取扱高も激増していた
- [50]ニューヨーク・ダラス・カラチ・ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を設置した
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- [33]日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えた
- [34]1951年7月の休戦会談の開始で商品市況は暴落した
- [35]ゴム・原皮・油脂原料の新三品で商社の値下がり損は176億円に達した
- [36]1951年夏から秋にかけ中小商社の倒産が続出し商社は戦後最大の危機に見舞われた
- [38]動乱とともに日本へ集中した綿製品の買い付けは、その後減少し輸出価格も下落した
- [39]1952年に政府が商社強化策を重要施策として取り上げ、輸出所得控除や海外支店設置の助成、輸出入取引法改正による過当競争防止を進めた
- [40]業界内部でも体質強化を目指す再編成の動きが出始めた
- [41]業界内部の再編は関西五綿を主軸とする集中と旧財閥商社の再統合という二つの流れで進んだ
- [43]1953年に輸出入の5%を取扱い貿易商社中トップとなった
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
- [51]1955年に丸紅と高島屋飯田、1955年8月に東洋棉花と鐘淵商事の合併が続いた
1928年〜1954年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 1,111 | n/a | 8 | 0 | ▲0.1% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 742 | ▲33.2% | 4 | ▲3 | ▲0.4% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 1,077 | +45.1% | 10 | 2 | 0.2% | n/a |
出所:上場会社総覧 昭和31年版 半期合算
出典・参考
7件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
- 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」/私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
- 日本経済新聞 私の履歴書 1986年 経済人20 野田岩次郎
- 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
- 双日歴史館「日綿實業・ニチメン」