バルカー:日本ブレーキライニング製作所の創立と日本バルカー工業の設立
1927年〜八尾の50坪で始めたブレーキライニングと、岡福商店の出資で立った日本バルカー工業
1927年1月21日、川口累一氏と広瀬米四郎氏は日本ブレーキライニング製作所を創立した。所在地は大阪府中河内郡龍華町大字植松(現八尾市)で、約50坪の敷地に15坪の建屋を構えた。目的は自動車と各種高速機械に使うブレーキライニングの製造・販売。両氏はカナエパッキング製造の出身で、在職中から独立して経営する約束を交わしていた。敷地の選定と従業員の募集は、地元で工務所を営む西山胸之助氏が支援した。設備は手機織機2台と回転ロール1台で、川口累一氏が渉外、広瀬米四郎氏が製造を受け持った。1929年5月4日には出資者を加えて合資会社とし、安中に598坪の新工場を建てて日本ライニング製作所へ改称した。前の勤務先で身につけた石綿織物の技術が、独立の際の差別化要因になったとみられる。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [1]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [2]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [4]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [5]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- [6]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- [7]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [3]1927年1月、自動車及び各種高速機械用ブレーキライニングの製造・販売を目的に龍華町(現八尾市)で日本ブレーキライニング製作所を創立
日本ライニング製作所は製品の大半をカナエパッキング製造に納めており、増産に見合う販路を必要としていた。そこで選んだのが、米ガーロック社の東洋総代理店である岡福商店との取引。岡福商店社長の古田吉恵氏は1928年にガーロック社の招きで渡米し、米国のパッキン工場を見てパッキンの国産化に確信を得ていた。川口累一氏が研究中の石綿ジョイントシートの国産化に援助を求めると、古田吉恵氏は出資に応じた。1932年1月から岡福商店の田中栄氏が無限責任社員、前原亀吉氏が有限責任社員として経営に加わった。当時の政府は産業合理化政策の中で国産奨励を打ち出し、輸入品だけを扱う代理店は国策への対応を迫られていた。3か月後の1932年4月、提携は日本バルカー工業株式会社の設立へ進んだ。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [8]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [9]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [10]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [11]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [12]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [13]産業合理化政策で国産奨励が打ち出され、岡福商店は輸入品だけに依存できなくなったことが提携の理由
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [14]1932年4月、日本バルカー工業株式会社を設立し工業用パッキンの生産を開始
1932年4月、日本ライニング製作所は資本金10万円の株式会社に改め、社名を日本バルカー工業とした。発起人は7人、引受株数は川口累一氏と広瀬米四郎氏が各400株、古田吉恵氏が250株。初代の取締役社長には岡福商店の古田吉恵氏が就任し、川口累一氏が取締役工場長、広瀬米四郎氏が取締役に就任した。社名のバルカーはVALUE(価値)とQUALITY(品質)を合わせた造語である。岡福商店はこの名を、ガーロック製品以外の国産品の登録商標に使っていた。新会社は社員29名で工業用パッキンの生産を始め、製品の販売は全面的に岡福商店に任せた。直前には独自の積層式で石綿ジョイントシートの製造に成功しており、これが主力製品となった。製造と販売の分業を、持ち株と役職の配分で固めた設立と推察される。
- 株式会社年鑑 1963年版「日本バルカー工業株式会社」沿革
- [15]昭和7年4月、資本金10万円をもって日本バルカー工業(株)を設立
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [16]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [17]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [18]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [19]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [20]新会社はパッキン製造に専念し、製品販売は全面的に岡福商店に依存
- [21]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
参考文献[1]-[21]
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [1]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [2]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [4]1927年1月21日、川口累一・広瀬米四郎が中河内郡龍華町大字植松の約50坪の敷地に日本ブレーキライニング製作所を設立。両名はカナエパッキング製造出身
- [5]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- [6]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- [7]建屋15坪・手機織機2台・回転ロール1台・従業員5人で発足。西山胸之助が敷地選定と募集を支援。1929年5月4日合資会社化、安中に598坪の新工場、日本ライニング製作所に改称
- [8]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [9]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [10]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [11]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [12]製品は主にカナエパッキング製造へ納入、販路拡大のためガーロック社東洋総代理店の岡福商店と取引成立。古田吉恵は1928年渡米し国産化に確信。川口累一の援助要請に応じ出資、1932年1月から田中栄(無限責任)・前原亀吉(有限責任)が経営参加
- [13]産業合理化政策で国産奨励が打ち出され、岡福商店は輸入品だけに依存できなくなったことが提携の理由
- [16]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [17]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [18]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [19]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- [20]新会社はパッキン製造に専念し、製品販売は全面的に岡福商店に依存
- [21]積層式石綿ジョイントシートの製造に成功し1932年生産開始。発起人7人(川口400株・広瀬400株・古田250株ほか)。1932年4月8日設立、初代役員は社長古田吉恵・取締役工場長川口累一・取締役広瀬米四郎、社員29名。VALQUAはVALUEとQUALITYの造語で岡福商店の国産品登録商標
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [3]1927年1月、自動車及び各種高速機械用ブレーキライニングの製造・販売を目的に龍華町(現八尾市)で日本ブレーキライニング製作所を創立
- [14]1932年4月、日本バルカー工業株式会社を設立し工業用パッキンの生産を開始
- 株式会社年鑑 1963年版「日本バルカー工業株式会社」沿革
- [15]昭和7年4月、資本金10万円をもって日本バルカー工業(株)を設立
1933年〜航空機用の合成ゴムパッキンと、南方の製油所を調べて得た燃料用パッキン
設立後の日本バルカー工業は販売を岡福商店に任せ、納入先は民間企業に限られていた。転機は海軍の技術担当官からの打診で、新鋭駆逐艦の弁棒用に輸入していたコイルパッキンの国産を求められた。1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱され、1934年9月に海軍購買名簿へ登録された。航空機向けでは1935年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に脚緩衝装置用の天然ゴム製Vパッキンを納めた。航空機の生産は1940年までの累計約2万機に対し、1941年は1年間だけで約6,700機。油圧の作動油が植物油から鉱物油へ替わり、耐油性に優れた合成ゴムの材料が求められた。日本バルカー工業は1941年6月、航空機用合成ゴムパッキンとジョイントシートの製造を始めた。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [22]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [23]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [24]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [25]1935年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に天然ゴム製の脚緩衝装置用Vパッキンを納入。作動油が鉱物油に替わり耐油性の合成ゴム材料が必要となった
- [26]航空機生産は昭和初年から1940年までで約2万機、1941年は1年で約6,700機、1944年は2万8,000機超。油圧シリンダーごとに3〜5個のパッキンを装着
- [27]1935年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に天然ゴム製の脚緩衝装置用Vパッキンを納入。作動油が鉱物油に替わり耐油性の合成ゴム材料が必要となった
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [28]1941年6月、航空機用合成ゴムパッキン、ジョイントシートの製造を開始
日本の石油は大半を米国からの輸入に依存しており、1941年8月の対日石油輸出停止で供給が絶たれた。陸軍は1942年2月にスマトラのパレンバンを占領し、英米系の2つの製油所を陸軍燃料廠の傘下に置いた。製油所の運転資材は米英製で、陸軍燃料廠は国産品で補給するために資材ごとに国内メーカーを選んだ。パッキンでの指名は、燃料工業用の研究開発と陸海軍への納入実績を持つ日本バルカー工業。東京事務所長の小林朔郎氏は陸軍省嘱託となり、1942年10月23日に福岡から南方へ発った。小林朔郎氏はパレンバンの両製油所を回り、パッキンの形状・寸法・使用量・製造元を調べて1943年1月2日に帰京した。国産品のない品種は日本バルカー工業が中心となって補給対策を立て、のちに燃料工業用金属ガスケットの製造に結びついた。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [29]戦前の日本の石油は大部分を米国から輸入、1941年8月の対日石油輸出停止が大きな打撃となった
- [30]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [31]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [32]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [33]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [34]小林朔郎は両製油所の材料倉庫で形状・寸法・使用量・製品メーカーを調査、1943年元旦に台北を発ち1月2日に東京着。帰還後陸軍燃料廠に報告し、同社が主体となって補給対策を立案
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [35]1943年10月、日本金属衛帯工業を吸収合併し燃料工業用金属ガスケットの製造を開始
参考文献[22]-[35]
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [22]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [23]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [24]販売は岡福商店に全面依存し需要先は民間企業のみ。海軍技術担当官が駆逐艦弁棒用コイルパッキンの国産化を打診、1933年2月に特殊高温・高圧用金属パッキンの試験研究を委嘱、1934年9月海軍購買名簿に登録
- [25]1935年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に天然ゴム製の脚緩衝装置用Vパッキンを納入。作動油が鉱物油に替わり耐油性の合成ゴム材料が必要となった
- [26]航空機生産は昭和初年から1940年までで約2万機、1941年は1年で約6,700機、1944年は2万8,000機超。油圧シリンダーごとに3〜5個のパッキンを装着
- [27]1935年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に天然ゴム製の脚緩衝装置用Vパッキンを納入。作動油が鉱物油に替わり耐油性の合成ゴム材料が必要となった
- [29]戦前の日本の石油は大部分を米国から輸入、1941年8月の対日石油輸出停止が大きな打撃となった
- [30]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [31]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [32]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [33]1942年2月パレンバン占領、英米系2製油所を陸軍燃料廠の傘下に。運転資材は米英製で資材ごとに国内メーカーを選定、パッキンは燃料工業用パッキンの研究開発と陸海軍納入実績のある同社を指名。東京事務所長小林朔郎が陸軍省嘱託として1942年10月23日に出発
- [34]小林朔郎は両製油所の材料倉庫で形状・寸法・使用量・製品メーカーを調査、1943年元旦に台北を発ち1月2日に東京着。帰還後陸軍燃料廠に報告し、同社が主体となって補給対策を立案
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [28]1941年6月、航空機用合成ゴムパッキン、ジョイントシートの製造を開始
- [35]1943年10月、日本金属衛帯工業を吸収合併し燃料工業用金属ガスケットの製造を開始
1943年〜日本金属衛帯工業の合併で得た寝屋川工場と、帝国パッキン工業から戻した社名
燃料工業用の金属ガスケットは、まず岡福商店の下請で板金加工を営む重工舎に試作を頼んだ。経営者の杉浦義雄氏は軍需生産への進出に意欲を示し、重工舎を日本金属衛帯工業株式会社に改組した。ただし製油装置用には直径2mに及ぶガスケットもあり、下請の規模では軍の要求量を満たせなかった。日本バルカー工業は1943年10月に日本金属衛帯工業の吸収合併を決め、燃料工業用金属ガスケットの製造に入った。新工場には寝屋川町にあった木村屋製パンの遊休工場(敷地2,789坪)を取得し、戦時金融金庫の融資を充てた。寝屋川工場は1943年11月に一部で操業を始め、工場長の杉浦義雄氏以下100名で生産した。合併の登記は1943年12月2日に終わり、寝屋川工場は海軍燃料廠の指定工場として四日市海軍燃料廠に製品を納めた。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [36]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [37]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [38]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [40]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [41]1943年11月に一部操業開始、工場長杉浦義雄以下100名。合併登記1943年12月2日、増資登記1944年1月13日。海軍燃料廠の指定工場で主に四日市海軍燃料廠へ納入、パレンバン向けは3割程度しか到着せず
- [42]1943年11月に一部操業開始、工場長杉浦義雄以下100名。合併登記1943年12月2日、増資登記1944年1月13日。海軍燃料廠の指定工場で主に四日市海軍燃料廠へ納入、パレンバン向けは3割程度しか到着せず
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [39]1943年10月、日本金属衛帯工業を吸収合併し燃料工業用金属ガスケットの製造を開始
1943年12月ごろ、軍部はバルカーの名を敵性語とみなし、社名の変更を求めた。VALUEとQUALITYから作った国産の商標だと説明しても了解は得られなかった。首脳部は新社名を帝国パッキン工業とし、パッキンの語も海軍燃料廠の規格で定めた用語だと説いて1943年12月21日に登記した。本社は1944年3月23日に東京・丸ノ内の三菱東7号館へ移り、同年12月には軍需会社法の指定を受けた。1945年2月時点の軍需会社の生産責任者は、社長の川口累一氏。空襲で丸ノ内への通勤が難しくなり、1945年3月に本社業務を厚木の相模工場へ移した。同年は1月の相模工場の火災、3月13日の大阪空襲による大阪事務所の焼失が続いた。7月28日から29日の空襲では一宮工場が全焼して女子工員2人が犠牲となり、同工場は閉鎖された。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [43]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [44]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [45]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [47]1944年3月23日本社を丸ノ内三菱東7号館に移転。1944年12月25日全事業所が軍需会社の指定。1945年2月時点の生産責任者は社長川口累一
- [48]1945年3月本社業務を相模工場に移転。1945年1月22日相模工場の石綿ジョイントシート工場が失火で全焼、3月13日の大阪空襲で岡福商店本社内の大阪事務所が焼失
- [49]1945年3月本社業務を相模工場に移転。1945年1月22日相模工場の石綿ジョイントシート工場が失火で全焼、3月13日の大阪空襲で岡福商店本社内の大阪事務所が焼失
- [50]1945年7月28〜29日の一宮空襲で一宮工場が全焼、女子工員2人が犠牲、同工場は閉鎖
- 企業の歴史 明治百年(1968年)日本バルカー工業
- [46]昭和18年12月帝国パッキン工業と改称、19年12月軍需会社法の指定
敗戦で帝国パッキン工業は工場を閉じ、岡福商店から来ていた役員と社員を岡福商店へ戻した。在庫の原材料を使い、1945年10月1日に大阪工場から生産を再び始めた。再出発の人員は社長の川口累一氏以下48人で、最初の製品は肥料工業向けのパッキンとガスケットであった。社名の日本バルカー工業への復帰は1945年11月。製品売上高は第19期の537万1,957円から第21期の295万5,891円へ減少し、2期続けて損失を計上した。川口累一氏はカナエパッキン工業出身の後輩で新興石綿を経営する瀧澤利之氏に支援を求めた。瀧澤利之氏は1945年11月に岡福商店所有の株式を引き受け、非常勤取締役として経営に加わった。岡福商店を通す間接販売では利益率が低く、作るほど赤字が増える状態であった。瀧澤利之氏は後年『当時の日本バルカーは,聞きしにまさるぼろ会社だった』と語った。
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [51]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [52]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [53]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [55]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [56]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [57]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [58]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [59]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- 株式会社年鑑 1963年版「日本バルカー工業株式会社」沿革
- [54]昭和20年11月、社名を日本バルカー工業(株)に復元
参考文献[36]-[59]
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- [36]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [37]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [38]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [40]岡福商店の下請板金工場・重工舎の杉浦義雄に試作を依頼、杉浦は軍需生産に熱意を示し日本金属衛帯工業に改組。精油装置用は径2mの大口径もあり下請では不足、寝屋川町の遊休工場(敷地2,789坪)を購入し戦時金融金庫の融資で新工場建設
- [41]1943年11月に一部操業開始、工場長杉浦義雄以下100名。合併登記1943年12月2日、増資登記1944年1月13日。海軍燃料廠の指定工場で主に四日市海軍燃料廠へ納入、パレンバン向けは3割程度しか到着せず
- [42]1943年11月に一部操業開始、工場長杉浦義雄以下100名。合併登記1943年12月2日、増資登記1944年1月13日。海軍燃料廠の指定工場で主に四日市海軍燃料廠へ納入、パレンバン向けは3割程度しか到着せず
- [43]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [44]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [45]1943年12月ごろ軍部がバルカーを敵性語として社名変更を要求。造語と説明したが了解されず、帝国パッキン工業に決定。パッキンの語は海軍燃料廠の燃料工業規格で採用された用語と説明し、1943年12月21日に新社名を登記
- [47]1944年3月23日本社を丸ノ内三菱東7号館に移転。1944年12月25日全事業所が軍需会社の指定。1945年2月時点の生産責任者は社長川口累一
- [48]1945年3月本社業務を相模工場に移転。1945年1月22日相模工場の石綿ジョイントシート工場が失火で全焼、3月13日の大阪空襲で岡福商店本社内の大阪事務所が焼失
- [49]1945年3月本社業務を相模工場に移転。1945年1月22日相模工場の石綿ジョイントシート工場が失火で全焼、3月13日の大阪空襲で岡福商店本社内の大阪事務所が焼失
- [50]1945年7月28〜29日の一宮空襲で一宮工場が全焼、女子工員2人が犠牲、同工場は閉鎖
- [51]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [52]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [53]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [55]終戦で工場閉鎖、岡福商店と分離し派遣役員・社員は岡福商店に復帰。大阪・相模両工場は被害が少なく1945年10月1日大阪工場から再開、人員は川口累一以下48人、肥料工業向けパッキン・ガスケットから再建。売上高は第19期537万1,957円、第21期295万5,891円、第20・21期は損失
- [56]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [57]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [58]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- [59]川口累一がカナエパッキン工業出身の瀧澤利之(新興石綿経営)に援助を要請、1945年11月瀧澤が岡福商店所有の株式を引き受け非常勤取締役に就任。岡福商店経由の間接販売では利益率が低かった。瀧澤は後年、当時の会社を「聞きしにまさるぼろ会社」と語った
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- [39]1943年10月、日本金属衛帯工業を吸収合併し燃料工業用金属ガスケットの製造を開始
- 企業の歴史 明治百年(1968年)日本バルカー工業
- [46]昭和18年12月帝国パッキン工業と改称、19年12月軍需会社法の指定
- 株式会社年鑑 1963年版「日本バルカー工業株式会社」沿革
- [54]昭和20年11月、社名を日本バルカー工業(株)に復元
出典・参考
4件
- バルカー 有価証券報告書 2025年6月24日提出【沿革】
- 日本バルカー工業50年史(1977年)
- 株式会社年鑑 1963年版「日本バルカー工業株式会社」沿革
- 企業の歴史 明治百年(1968年)日本バルカー工業