第1章 年〜年

リンテック:塩飽啓祐の不二商会創業と蕨工場でのガムテープ量産

1927年〜巣鴨の不二商会が始めた国産ガムテープと、不二紙工株式会社

塩飽啓祐氏は1927年(昭和2年)、東京・巣鴨で個人企業の不二商会を創立し、ガムテープの製造と販売を始めた。ガムテープは水で湿らせると粘着力が出る紙テープで、国内では大正末期ごろまで米国などからの輸入品が使われていた。創立当初の不二商会は、段ボール製の小箱をはじめとする紙器も手がけた。1971年に社長を務めていた塩飽望氏は、対談で事業は創業時からガムテープが中心だったと振り返った。塩飽望氏によれば、塩飽啓祐氏は本籍を大阪の十三に置き、大阪方面から東京へ出て事業を起こした。輸入品に占められていた封函材を国内で作れば、輸入を待たずに需要へ応じられる余地があったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [1]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
    • [2]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
    • [3]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [4]1971年社長の塩飽望が、事業は最初からガムテープで始まったと発言。先代は大阪方面の出身で本籍は大阪の十三、のち東京で1927年に創業
    • [5]1971年社長の塩飽望が、事業は最初からガムテープで始まったと発言。先代は大阪方面の出身で本籍は大阪の十三、のち東京で1927年に創業

不二商会は1931年(昭和6年)に不二合名会社へ組織を改め、1934年(昭和9年)には改組して不二紙工株式会社を設立した。株式会社は東京・板橋に本店を置き、包装用のガムテープを製造し販売する事業を中心に据えた。株式会社への改組の時期は、塩飽望氏の1971年の対談によれば1934年10月。1935年(昭和10年)ごろには段ボール箱の製造にも着手したものの、大きな欠損を出して間もなく撤退した。同じころ、ガムテープを手作業で貼るためのディスペンサーという器具の製造も始めた。個人商店から法人へ改め、板橋に製造の拠点を固めたのは、ガムテープの量産に移るための体制づくりだったのだろう。

  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [6]1931年(昭和6年)不二合名会社に組織変更、1934年(昭和9年)不二紙工株式会社
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [7]1934年10月 不二合名会社を改組し不二紙工株式会社を東京・板橋に設立、包装用ガムテープの製造販売
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [8]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造
    • [9]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造
    • [10]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造

不二紙工は1937年(昭和12年)3月、合板向けガムテープの製造と販売を開始。合板の製造では、薄く切った単板を乾燥機にかける際、熱による割れを防ぐために両端へガムテープを貼った。くず板をテープで継ぎ合わせ、1枚の板に仕立てる用途もあった。塩飽望氏の1971年の回想では、戦前のガムテープの売り先は段ボール、製紙会社の製品包装、合板工場の3つだった。段ボール向けでは明治や森永の製菓会社が使い、製紙会社の需要も多く、合板向けとおおむね半々だったという。合板向けのテープは1971年時点でも売上の約25%を占める収益源だった。段ボール箱がまだ普及していない時期に、封函以外の大口の需要として合板を見いだしたと思われる。

  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [11]1937年3月 合板用ガムテープの製造販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [12]ガムテープはベニヤ板生産で、乾燥時の熱によるヒビ割れ防止に両端へ貼る用途と、くず板を1枚ものにする用途に大量使用
    • [13]ガムテープはベニヤ板生産で、乾燥時の熱によるヒビ割れ防止に両端へ貼る用途と、くず板を1枚ものにする用途に大量使用
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [14]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
    • [15]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
    • [16]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
参考文献[1]-[16]
  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [1]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
    • [2]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
    • [3]1927年(昭和2年)初代社長塩飽啓祐が東京・巣鴨で個人企業不二商会を創立、創業時からガムテープを製造販売。当初は小型段ボール箱など紙器も扱う。ガムテープは大正末期まで米国などから輸入
    • [6]1931年(昭和6年)不二合名会社に組織変更、1934年(昭和9年)不二紙工株式会社
    • [12]ガムテープはベニヤ板生産で、乾燥時の熱によるヒビ割れ防止に両端へ貼る用途と、くず板を1枚ものにする用途に大量使用
    • [13]ガムテープはベニヤ板生産で、乾燥時の熱によるヒビ割れ防止に両端へ貼る用途と、くず板を1枚ものにする用途に大量使用
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [4]1971年社長の塩飽望が、事業は最初からガムテープで始まったと発言。先代は大阪方面の出身で本籍は大阪の十三、のち東京で1927年に創業
    • [5]1971年社長の塩飽望が、事業は最初からガムテープで始まったと発言。先代は大阪方面の出身で本籍は大阪の十三、のち東京で1927年に創業
    • [8]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造
    • [9]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造
    • [10]株式会社化は昭和9年10月。昭和10年ごろ段ボール製造を試みたが相当な欠損ですぐ中止。手動ディスペンサーは昭和10年ごろから製造
    • [14]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
    • [15]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
    • [16]戦前のガムテープ用途は段ボール・製紙の包装・合板の3つ。明治・森永などの製菓、製紙会社が使い、合板とほぼ半々。1971年時点で合板関係は売上の約25%
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [7]1934年10月 不二合名会社を改組し不二紙工株式会社を東京・板橋に設立、包装用ガムテープの製造販売
    • [11]1937年3月 合板用ガムテープの製造販売を開始

1945年〜大阪支店から拡大した全国の販路と、蕨工場のガムテープ量産

戦時中の不二紙工は軍の需要に応じ、陸軍向けの紙箱などを製造した。終戦後は軍向けの仕事をすべて打ち切り、ガムテープ1本の事業に戻った。1950年(昭和25年)に塩飽望氏が入社し、物資の統制が残る中で苦労があったと後年振り返った。同じ1950年には大阪支店を開設し、その後は名古屋・福岡・広島・札幌へと拠点を拡大。取締役経理部長の木村敬吾氏は1986年の講演で、各地から得意先の求めに即応する出荷・納品の体制を売上拡大の要因に挙げた。1971年には名古屋を境に東西の出荷量がほぼ同じ規模に達した。大阪支店の開設は、東京の工場1か所から西日本の需要を取り込む起点になったと考えられる。

  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [17]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [18]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [19]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [22]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [20]昭和25年大阪支店開設、名古屋・福岡・広島・札幌など全国網。得意先の要求に即応する出荷・納品体制が売上伸長の要因(1986年12月講演)
    • [21]昭和25年大阪支店開設、名古屋・福岡・広島・札幌など全国網。得意先の要求に即応する出荷・納品体制が売上伸長の要因(1986年12月講演)

塩飽望氏は1953年(昭和28年)に訪米し、米国では粘着テープがすでに主流の製品だと知った。米国のメーカーからは技術提携の申し入れが相次いだ。不二紙工は提携を選ばず、ガムテープの製造で蓄積した技術を生かして自社で開発する方針をとった。開発の場は板橋の本社内に置いた研究室で、1968年10月に蕨工場内へ移すまで本社が研究の拠点だった。粘着テープの製造は1960年(昭和35年)ごろに始まり、開発の過程では多くの失敗を重ねた。1986年時点で、不二紙工の後身のFSKは粘着テープで国内首位のシェアを保っていた。輸入技術に依存しない方針が、研究の機能を社内に持つ必要を生んだと推察される。

  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [23]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [24]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [25]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [27]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [28]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [26]1968年10月 本社内の研究室(現研究所)を蕨工場内に移転

政府は1955年(昭和30年)ごろから、森林資源の保護を目的に、梱包材を木箱から段ボール箱へ改めるよう指導した。塩飽望氏によれば、段ボールは1953年ごろから急速に広がり、1955年ごろまでガムテープの用途の約80%を包装が占めた。それまでの不二紙工の生産拠点は、板橋の本社工場1か所である。不二紙工は1959年12月に埼玉県蕨市へ蕨工場を新設し、板橋の本社工場と2か所でガムテープを量産するようにした。蕨工場には1962年3月、段ボール箱を自動で包装する機械の製作部門も置いた。ガムテープと包装機を組み合わせて売る次の段階は、首都圏の外縁に置いたこの蕨工場から始まったと読める。

  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [29]昭和30年ごろから政府が森林資源保護のため木箱から段ボール箱への切替を指導、ガムテープは段ボール箱の普及とともに伸長
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [30]戦後は昭和28年ごろから段ボールが急伸、30年ごろまで包装用途が約80%。当時の工場は板橋のみ
    • [31]戦後は昭和28年ごろから段ボールが急伸、30年ごろまで包装用途が約80%。当時の工場は板橋のみ
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [32]1959年12月 埼玉県蕨市に蕨工場を新設し本社工場と合わせ量産体制を確立。1962年3月 蕨工場内に自動包装機の製作部門を設置
    • [33]1959年12月 埼玉県蕨市に蕨工場を新設し本社工場と合わせ量産体制を確立。1962年3月 蕨工場内に自動包装機の製作部門を設置
参考文献[17]-[33]
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159
    • [17]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [18]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [19]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [22]戦争中は陸軍向けの紙箱などを製造、戦後はそれらをやめガムテープ1本に戻る。塩飽望は昭和25年入社、統制時代の苦労。1971年時点で名古屋を境に東西出荷量がほぼ同じ
    • [30]戦後は昭和28年ごろから段ボールが急伸、30年ごろまで包装用途が約80%。当時の工場は板橋のみ
    • [31]戦後は昭和28年ごろから段ボールが急伸、30年ごろまで包装用途が約80%。当時の工場は板橋のみ
  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
    • [20]昭和25年大阪支店開設、名古屋・福岡・広島・札幌など全国網。得意先の要求に即応する出荷・納品体制が売上伸長の要因(1986年12月講演)
    • [21]昭和25年大阪支店開設、名古屋・福岡・広島・札幌など全国網。得意先の要求に即応する出荷・納品体制が売上伸長の要因(1986年12月講演)
    • [23]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [24]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [25]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [27]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [28]塩飽望が昭和28年訪米し米国で粘着テープが主流と知る。米メーカーからの技術提携話を断り、ガムテープの技術を生かして独自開発。粘着テープは昭和35年ごろから製造、失敗も相当多かった。1986年時点で国内トップシェア
    • [29]昭和30年ごろから政府が森林資源保護のため木箱から段ボール箱への切替を指導、ガムテープは段ボール箱の普及とともに伸長
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
    • [26]1968年10月 本社内の研究室(現研究所)を蕨工場内に移転
    • [32]1959年12月 埼玉県蕨市に蕨工場を新設し本社工場と合わせ量産体制を確立。1962年3月 蕨工場内に自動包装機の製作部門を設置
    • [33]1959年12月 埼玉県蕨市に蕨工場を新設し本社工場と合わせ量産体制を確立。1962年3月 蕨工場内に自動包装機の製作部門を設置

出典・参考

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出典・参考
  • リンテック 有価証券報告書 第115期(2009年3月期)【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 25(1) 1987年1月 木村敬吾
  • 包装技術 9(1)(93) 1971年「おじゃまします《第14回》不二紙工(株)をたずねて」塩飽望・楠田洋 p154〜159

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