象印マホービン:大阪での魔法瓶中瓶づくりの創業から戦時下の事業まで
1918年〜大阪・九条に開いた市川兄弟商会と、電明社へ納めた魔法瓶の中瓶
1918年5月、市川銀三郎氏と弟の市川金三郎氏は大阪市西区九条に住居兼作業所を借り、「市川兄弟商会」の看板を掲げた。電球加工の職人だった市川金三郎氏は、ガラス吹きと真空と銀メッキを組み合わせれば中瓶を自作できると考え、試作に取り組んだ。星印魔法壜の電明社がその中瓶の買い取りを約束したため、市川金三郎氏は独立を決めた。愛知県の郷里に作業所を設けた最初の試みは、ガラス生地と製品を大阪と往復させる手間と破損で行き詰まった。船場の繊維問屋で2年間奉公した市川銀三郎氏が一家での大阪移住を説き、弟が製造し兄が販売する分担で創業した。創業時の年齢は市川銀三郎氏20歳、市川金三郎氏17歳で、象印マホービンはこの開業を発祥と位置づけている。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [1]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [2]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [3]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [4]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [5]市川銀三郎は船場の繊維問屋に2年奉公した経験から一家の上阪を説き、金三郎が製造・銀三郎が販売を担った。創業時20歳と17歳
- [6]市川銀三郎は船場の繊維問屋に2年奉公した経験から一家の上阪を説き、金三郎が製造・銀三郎が販売を担った。創業時20歳と17歳
市川兄弟商会は完成品を手がけず、問屋の電明社に中瓶を納める専属工場として出発した。当時の魔法瓶業界は、中瓶屋とケース屋と組立業者の三者分業が基本である。問屋と呼ばれた組立業者は中瓶と金属の外装を仕入れて組み上げ、自社の商標を付けて金物問屋へ卸した。製造は職人を率いる市川金三郎氏、電明社から受けた注文の品の自転車での配達は市川銀三郎氏の受け持ち。製品の9割が輸出向けで夏場の受注は減少したものの、専属工場であったため開業直後の閑散期を越えられた。1919年には浪速区塩草町の広い工場へ移り、短期間で製法を習得した市川金三郎氏の下に職人を増やした。中瓶の納入だけでは、問屋の注文量と条件に左右される立場から抜け出せなかったとみられる。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [7]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- [10]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- [12]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [8]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
- [9]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
- [11]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
参考文献[1]-[12]
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [1]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [2]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [3]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [4]1918年5月、市川銀三郎・金三郎の兄弟が西区九条の住居兼作業所に市川兄弟商会の看板を掲げた。電明社が中瓶の買取りを約束していた
- [7]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- [10]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- [12]創業期は電明社の専属工場として中瓶を納め、銀三郎が自転車で配達した。1919年に浪速区塩草町へ移転し職人を増やした
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [5]市川銀三郎は船場の繊維問屋に2年奉公した経験から一家の上阪を説き、金三郎が製造・銀三郎が販売を担った。創業時20歳と17歳
- [6]市川銀三郎は船場の繊維問屋に2年奉公した経験から一家の上阪を説き、金三郎が製造・銀三郎が販売を担った。創業時20歳と17歳
- [8]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
- [9]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
- [11]業界は組立業(問屋)・中瓶メーカー・ケース屋の三者分業。製品の9割が輸出で、7〜8月は中瓶の仕事が減った
1923年〜稲荷町の組立工場と、象の商標で川口の華商へ渡した輸出の魔法瓶
1923年、市川銀三郎氏は塩草町の隣にあたる西区稲荷町三丁目に組立工場を設けて製品部と称し、中瓶工場との二本建てに移った。それ以前の市川兄弟商会は、繁閑の差が大きく、取引条件を問屋に決められる専属工場の立場で利益を増やせずにいた。市川銀三郎氏はまず電明社の専属を離れ、複数の問屋への中瓶販売に切り替えた。閑散期にも生産して在庫を積み、品薄になる繁忙期に有利な値で引き取らせることで蓄えを得た。創業から5年で、その蓄えを元手に塩草町の中瓶と外部から仕入れたケースで魔法瓶を組み立て、金物問屋へ卸す組立業者となった。組立へ進んだのは、商標と価格を自ら決められる問屋の利幅を求めたためと推察される。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [13]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- [14]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- [15]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [16]閑期に作り置いた中瓶を繁忙期に有利な値で売って蓄えを得、稲荷町で自社中瓶と仕入れケースを組み立て金物問屋へ卸す組立業者となった
- [17]閑期に作り置いた中瓶を繁忙期に有利な値で売って蓄えを得、稲荷町で自社中瓶と仕入れケースを組み立て金物問屋へ卸す組立業者となった
組立業者となった市川兄弟商会は、国内需要が1割にとどまるなかで、中国を最大の仕向地とする輸出に着手した。市川銀三郎氏は大手の輸出商社との取引を時期尚早と判断し、大阪市西区川口町と神戸の華商への売り込みから入った。川口の華商経由で天津・奉天・大連へ、神戸の華商経由で上海以南と東南アジアへの出荷をめざした。中瓶と違って完成品には商標が要るため、市川銀三郎氏は業界でまだ使われていない象を選んだ。象は寿命が長く力も強く、魔法瓶の印象に合うと考えたためである。輸出用には象に王冠を載せた「ELEPHANT&CROWN」を商標登録し、華商との取引拡大とともに象の印が海外へ渡った。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [18]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- [19]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- [20]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [21]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
- [22]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
- [23]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
大正末、川口の得意先だった華商の1社が破綻し、市川兄弟商会は約3000円の貸倒金を抱えた。売上1万円を目標にしていた兄弟にとって、創業後初めての大きな損失にあたる。市川銀三郎氏は川口の商館の事情に通じた野村銀行川口支店と取引を始め、受け取る手形の振出人の信用を確かめるようにした。さらに2年に1度ほど神戸発の上海航路に乗り、商品を積み込んで現地の商店へ直接売り込んだ。昭和に入ると、マニラやバンコク、シンガポールへも販路を拡大。のちには番頭格の使用人を毎年出張させ、2カ月ほどの巡回で半年分以上の注文を得た。仲介の華商に依存する危うさが、直接販売へ切り替える契機になったと思われる。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [24]大正末、川口の得意先の華商が破綻し約3000円の貸倒金が発生。兄弟は売上1万円を目標にしていた
- [25]大正末、川口の得意先の華商が破綻し約3000円の貸倒金が発生。兄弟は売上1万円を目標にしていた
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [26]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [27]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [28]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [29]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
参考文献[13]-[29]
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [13]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- [14]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- [15]専属工場は繁閑差が大きく条件を問屋に決められたため、銀三郎は電明社の専属を離れ複数の問屋へ中瓶を売った。1923年に稲荷町三丁目に組立工場(製品部)を設けた
- [18]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- [19]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- [20]国内需要は1割で、銀三郎は商社でなく川口・神戸の華商と取引し、北方(天津・奉天・大連)と南方への輸出をめざした
- [24]大正末、川口の得意先の華商が破綻し約3000円の貸倒金が発生。兄弟は売上1万円を目標にしていた
- [25]大正末、川口の得意先の華商が破綻し約3000円の貸倒金が発生。兄弟は売上1万円を目標にしていた
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [16]閑期に作り置いた中瓶を繁忙期に有利な値で売って蓄えを得、稲荷町で自社中瓶と仕入れケースを組み立て金物問屋へ卸す組立業者となった
- [17]閑期に作り置いた中瓶を繁忙期に有利な値で売って蓄えを得、稲荷町で自社中瓶と仕入れケースを組み立て金物問屋へ卸す組立業者となった
- [21]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
- [22]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
- [23]問屋として商標が必要になり、業界未使用の象を選定。輸出用に象に王冠を載せたELEPHANT&CROWNを商標登録した
- [26]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [27]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [28]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
- [29]以後、野村銀行川口支店で取引先の信用を確認し、2年に1度上海航路で渡航して直販。昭和期は東南アジアへ拡大し、番頭格を毎年出張させた
1925年〜工業組合法で動いた魔法瓶の同業組合と、企業整備令で閉じた市川兄弟商会
第1次世界大戦後に英国やドイツの生産が回復すると、日本の魔法瓶輸出は1924年の129万円を頂点に後退した。市川銀三郎氏は、需要急増に乗じた群小メーカーの過剰生産が粗悪品を生んだとみて、組合による検査を同業者に説いた。当時の魔法瓶は農商務省令の輸出検査品目に入っておらず、独立心の強い同業者の足並みもそろわなかった。海外での不評を問題視した政府は、1925年に工業組合法を公布した。1927年9月には業界初の団体として日本魔法瓶工業組合が組合員46名で発足し、輸出品の検査と生産調節と価格協定を担った。中瓶は全量を組合へ搬入させて温度検査を課し、合格品だけに証紙を貼って販売を認める仕組みをとる。この組合は1943年12月の統制組合法公布にともない解散した。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [30]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- [31]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- [32]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [33]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [34]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [35]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [36]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
日本の魔法瓶輸出は、南方向けの広口瓶と中国向けの細口瓶が伸びて1937年に41万ダースの頂点に達した。この間、1927年10月に市川金三郎氏が真空管事業のため東京へ移り、市川銀三郎氏は1932年に塩草町の中瓶工場をやめて組立専業となった。同年の日中戦争を境に、1938年の輸出量は26万ダースへ減少。1938年に日本硝子工業組合連合会が統制団体となり、魔法瓶は不要不急品として資材配給で冷遇された。1940年には銅や鉄の使用制限でケースの製造が止まり、アルミの代用ケースが現れた。1941年の太平洋戦争開戦で輸出は皆無となり、満州向けと国内向けをわずかに作った末、1942年に生産は休止の状態となる。輸出への依存が大きい業界ほど、統制の打撃を直接受けたのだろう。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 2「厳しくなる状況」
- [37]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [38]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [39]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [40]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [41]1940年に銅・鉄の使用制限でケースが作れずアルミ代用に。1941年の太平洋戦争で輸出皆無、1942年に生産休止状態
- [42]1940年に銅・鉄の使用制限でケースが作れずアルミ代用に。1941年の太平洋戦争で輸出皆無、1942年に生産休止状態
1942年5月の企業整備令公布を受け、市川銀三郎氏は翌6月に市川兄弟商会の閉鎖を決めた。市川銀三郎氏は再び魔法瓶を作る日に備えて業界との縁を保とうと、南区日本橋一丁目の交差点近くに修理専門店を開設した。行楽の需要は消えたものの、防空壕への持ち込みや湯の保存といった戦時の用途で修理の客が訪れた。休業中の暮らしを支えたのは、1939年に住吉区田辺町で取得した貸家30軒と蓄えである。業界8社が1943年5月に設立した日本魔法瓶統制株式会社は、1945年3月の大阪大空襲で本社と工場を焼失した。市川家も疎開先に預けた家財と機材を空襲で失い、田辺町の家だけが残った。
- 象印マホービン70年史(1989)1章 2「厳しくなる状況」
- [43]1942年5月の企業整備令を受け同年6月に市川兄弟商会の閉鎖を決定。業界は1943年5月に8社で日本魔法瓶統制株式会社を設立し、同社は1945年3月の大阪大空襲で本社・工場を焼失。市川家は疎開先の家財・機材を失った
- [47]1942年5月の企業整備令を受け同年6月に市川兄弟商会の閉鎖を決定。業界は1943年5月に8社で日本魔法瓶統制株式会社を設立し、同社は1945年3月の大阪大空襲で本社・工場を焼失。市川家は疎開先の家財・機材を失った
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [44]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [45]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [46]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [48]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
参考文献[30]-[48]
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- [30]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- [31]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- [32]大戦後に欧州品が回復し輸出は1924年(129万円)を頂点に後退。銀三郎は粗悪品の原因を過当競争とみて組合と検査を説いたが、まとまらなかった
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- [33]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [34]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [35]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [36]政府が1925年に工業組合法を公布。1927年9月に日本魔法瓶工業組合(組合員46名)が発足し、輸出品検査・生産調節・価格協定、中瓶の温度検査と証紙を実施。工業組合は1943年12月の統制組合法公布で解散
- [41]1940年に銅・鉄の使用制限でケースが作れずアルミ代用に。1941年の太平洋戦争で輸出皆無、1942年に生産休止状態
- [42]1940年に銅・鉄の使用制限でケースが作れずアルミ代用に。1941年の太平洋戦争で輸出皆無、1942年に生産休止状態
- [44]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [45]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [46]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- [48]銀三郎は魔法瓶との縁を保つため南区日本橋一丁目付近に修理専門店を開店。1939年取得の田辺町の貸家30軒と蓄えがあった。疎開先の家財・機材は空襲で焼け、田辺町の家だけが残った
- 象印マホービン70年史(1989)1章 2「厳しくなる状況」
- [37]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [38]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [39]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [40]魔法瓶輸出は広口瓶の南方向けと細口瓶の中国向けで1937年に41万ダースの頂点、1938年は26万ダース。1938年に日本硝子工業組合連合会がガラス製品を統制。1927年10月に金三郎が東京で真空管事業へ転じ、1932年に塩草町の中瓶工場をやめ稲荷町の組立工場だけにした
- [43]1942年5月の企業整備令を受け同年6月に市川兄弟商会の閉鎖を決定。業界は1943年5月に8社で日本魔法瓶統制株式会社を設立し、同社は1945年3月の大阪大空襲で本社・工場を焼失。市川家は疎開先の家財・機材を失った
- [47]1942年5月の企業整備令を受け同年6月に市川兄弟商会の閉鎖を決定。業界は1943年5月に8社で日本魔法瓶統制株式会社を設立し、同社は1945年3月の大阪大空襲で本社・工場を焼失。市川家は疎開先の家財・機材を失った
出典・参考
3件
- 象印マホービン70年史 1918~1988(1989)1章「象印マホービンのあけぼの」
- 象印マホービン70年史(1989)1章 1「魔法瓶事業への船出」
- 象印マホービン70年史(1989)1章 2「厳しくなる状況」