キヤノン:PPC参入と電卓事業撤退による1975年の無配転落
1967年〜事務機と光学特機の売上比率42%への急伸とキヤノンへの改称
創立30周年を迎えた1967年の年頭挨拶で、社長の御手洗毅氏は『今年において会社繁栄の基礎を築くためには、右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません』と述べた。以後この言葉は社業の進路を表すものとして社内外で繰り返し使われた。前年の1966年に事務機と光学特機の売上は全体の16.5%にとどまっていたが、電卓や複写機といった新製品が加わった1968年には22%、1969年には42%に達している。売上高そのものも1966年12月期の162億円から1969年12月期の333億円へ伸びた。1969年3月1日、カメラ専業という印象を払い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため、商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ改めている。3年で事業構成の4割を新しい分野が占めるに至った変化は、号令が数字を作ったというより、事務機の需要が会社の想定を超えて立ち上がったことを示している。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [1]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
- [2]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
- [3]事務機・光学特機部門の売上比率は1966年16.5%、1968年22%、1969年42%
- 会社年鑑
- [4]1966年12月期 売上高162億円、1969年12月期 売上高333億円
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [5]1969年3月1日 商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ変更。カメラ専業のイメージを拭い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため
多角化を本格的に広げること、需要の伸びに合わせて生産能力を増やすこと、自社製品を自社ブランドのまま自社の販路で世界へ売る輸出体制をつくること、という三つの狙いを据えたのが第2次長期経営計画で、多角化は第1次計画でまいた種を育てるものだった。期間は1968年から1972年までの5年間とされ、第1次長期経営計画が終わってから1年を空けて策定されて、5年後に社員6,000人・売上高400億円を達成することを目指した。売上高の目標は新製品の寄与と景気の持ち直しに支えられて計画3年目の1970年度に448億円となって早々と上回り、1970年12月期の決算でも経常利益53億5,000万円・当期純利益23億6,000万円と、どちらも前年を超えている。計画の枠組みは、売上の規模よりも、誰のブランドで誰の手を通じて売るかを主眼にしていた。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [6]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [7]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [8]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [9]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- 会社年鑑
- [10]1970年12月期 経常利益53.5億円、当期純利益23.6億円
電卓の最初の機種は、演算素子にトランジスターとダイオードを使ったため、机に載る型といいながら大柄だった。それが1964年5月に発表したキヤノーラ130で、テンキー式の卓上電子計算機としては世界で初めてのものだった。集積回路の技術を身につけさせるため、1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ送った。その成果が表れたのが1968年5月のキヤノーラ163と161Sで、集積回路が全面的に使われた。同年12月に売り出したキヤノーラ1200は、12桁表示で重さは4キログラムだった。定価12万6,000円というこの機械は、同じくらいの性能の品に数十万円の値が付いていた市場を揺さぶった。この機種のために取手工場へ一貫大量生産体制を設け、設計と性能の簡略化とあわせて1桁1万円という価格帯を成立させた。1970年10月には大規模集積回路を用いた世界初の携帯機ポケトロニクを国内で発売した。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [11]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
- [12]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
- [13]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
- [14]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
- [15]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
- [16]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
- [17]1970年10月 LSIを用いた世界初の携帯型計算機キヤノン・ポケトロニクを国内で発売
参考文献[1]-[17]
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [1]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
- [2]1967年の年頭挨拶で御手洗毅社長が「右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなければなりません」と述べ、以後社業の進路を表すスローガンとして社内外で用いられた
- [3]事務機・光学特機部門の売上比率は1966年16.5%、1968年22%、1969年42%
- [6]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [7]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [8]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [9]1968年から1972年までを対象とする第2次長期経営計画を策定。狙いは多角化の本格展開・生産能力の拡大・自社ブランドと自社チャネルによる全世界への輸出体制の確立の三つで、5年後の目標は「6,000人社員による400億円売上げ達成」。1970年度に448億円で計画3年目に達成
- [11]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
- [12]1964年5月 世界初のテンキー式卓上電子計算機キヤノーラ130を発表。演算素子はトランジスターとダイオードで卓上型としては大きかった
- [13]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
- [14]1967年に技術者をテキサス・インスツルメンツ社へ派遣しIC技術を習得。1968年5月のキヤノーラ163・161SでICを全面採用
- [15]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
- [16]1968年12月 12桁表示・4kgのキヤノーラ1200を定価12万6,000円で発売。同程度の性能機が数十万円だった市場に衝撃を与え、取手工場に一貫大量生産体制を設けて「1桁1万円時代」を開いた
- [17]1970年10月 LSIを用いた世界初の携帯型計算機キヤノン・ポケトロニクを国内で発売
- 会社年鑑
- [4]1966年12月期 売上高162億円、1969年12月期 売上高333億円
- [10]1970年12月期 経常利益53.5億円、当期純利益23.6億円
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [5]1969年3月1日 商号をキヤノンカメラ株式会社からキヤノン株式会社へ変更。カメラ専業のイメージを拭い、カメラと事務機の総合精密機械メーカーとして飛躍するため
1964年〜ゼロックスの特許網を迂回したNP方式と複写機部門の累積赤字
経営陣が電子複写機を製品にすると決め、開発と生産を担うEプロジェクトを組んだのは1964年9月である。本体だけでなく現像剤や複写用紙などの消耗品が売れる点に、この製品への期待がかかっていた。複写の方式の中で、仕上がりの質が最も高いのは電子写真方式だった。ただしその一種で、感光板にできた像を普通紙に移す間接式のゼロックス方式は、ゼロックス社が600件を超える特許で押さえており、似た製品を作ることはほぼ望めないと見られていた。最初に製品化したのは、特許導入のめどがついていた酸化亜鉛感光紙のエレクトロファックス方式で、1966年5月に70万円前後のキヤノファックス1000を売り出した。複写の速さは毎分6枚だった。ところが3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙機BS-1を29万8,000円で出し、市場は高画質よりも低価格の簡易型へ傾いている。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [18]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
- [19]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
- [20]複写機の方式のうちコピーの質は電子写真方式が最も優れていた
- [21]ゼロックス方式は普通紙へ転写する間接式で、ゼロックス社が600件以上の特許を持ち同種製品の開発はまず不可能とされた
- [22]1966年5月 エレクトロファックス方式の全自動乾式複写機キヤノファックス1000を70万円前後で発売。毎分6枚のB4判
- [23]発売の3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙複写機BS-1を29万8,000円で発売し、市場は高画質より低価格の簡易型湿式EFへ向かった
普通紙複写機の自社開発は、1962年に設けられた製品研究課で田中宏氏が担った。田中宏氏はオリエンタル写真工業で複写機の開発に加わり、会社が開発事業をやめたために一度は職を離れた経歴を持つ技術者である。ゼロックスの特許を徹底的に調べた結果、小手先の迂回では製品化できないと判じ、カメラの受光素子として研究が進んでいた硫化カドミウムに目を付けた。硫化カドミウムは抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化すれば、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けられる。この構成をNP(New Process)方式と呼び、まず特許の確立に努めた。実用化までの道のりは長く、複写機部門は累積で10億円の赤字を出し、社内には撤退を求める強硬な意見も出た。それでも部門は一時、全員が中央研究所へ移り、本社の費用で開発を続けている。
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
- [24]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [25]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [26]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [27]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [28]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
- [29]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
- [30]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
- [31]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
NP方式の第1号機であるNP-1100が市販されたのは1970年、開発に取り組み始めて8年目であった。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、黒い部分の周囲だけが写るエッジ効果がない点が評価されている。複写機部門が事業の土台を固めたのは、1972年11月に世界で最初に実用化した普通紙複写機NP-L7からである。液体の現像剤を使う液乾式で、画質が高いのに原価は安く、これが新しい市場を開いた。売り方は完全保証方式で、1枚7.5円の料金の中に消耗品、交換部品、保守サービスの一切を含めた。販売先はサービス拠点を中心に半径30キロメートル以内、もしくは2時間で駆けつけられる地域に絞っている。社内で複写機を売り込む営業部隊が十分に育っていなかったので、海外で参入を望む企業には進んで特許を与え、技術料も並行して収益源にした。
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
- [32]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
- [33]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
- [37]自社に複写機の営業力が育っていなかったため、PPCへの参入意欲が強い海外企業へ積極的に特許を与えて特許収入を得る方針を採った
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [34]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
- [35]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
- [36]複写機の販売にはTG(Total Guaranty)方式を採用。NP-1100・1200では1枚7.5円に消耗品・交換部品・保守サービスを含み、販売先はサービス拠点から半径30kmまたは2時間以内に到着できる範囲に限定
参考文献[18]-[37]
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [18]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
- [19]1964年9月 経営陣が電子複写機の製品化を決定しEプロジェクトを編成。本体のほかに現像剤や複写用紙などの消耗品も販売できる点が待望の理由
- [20]複写機の方式のうちコピーの質は電子写真方式が最も優れていた
- [21]ゼロックス方式は普通紙へ転写する間接式で、ゼロックス社が600件以上の特許を持ち同種製品の開発はまず不可能とされた
- [22]1966年5月 エレクトロファックス方式の全自動乾式複写機キヤノファックス1000を70万円前後で発売。毎分6枚のB4判
- [23]発売の3か月後にリコーが毎分2枚の湿式手動給紙複写機BS-1を29万8,000円で発売し、市場は高画質より低価格の簡易型湿式EFへ向かった
- [34]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
- [35]1972年11月 世界に先がけて実用化した液乾式PPCの最初の製品NP-L7が誕生。複写機部門はこれによって初めて事業としての基盤を確立し、高画質で原価の安い複写機が新たな市場を形成した
- [36]複写機の販売にはTG(Total Guaranty)方式を採用。NP-1100・1200では1枚7.5円に消耗品・交換部品・保守サービスを含み、販売先はサービス拠点から半径30kmまたは2時間以内に到着できる範囲に限定
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)
- [24]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [25]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [26]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [27]1962年 製品研究課で田中宏氏が電子写真の開発に着手。田中氏はオリエンタル写真工業で複写機開発に加わったが同社が開発を中止したため退社した経歴を持つ。ゼロックス特許を徹底調査し迂回は不可能と判断、カメラ用受光素子のCdSに着目
- [28]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
- [29]CdSは抵抗が低く電荷を保持しにくいため電子写真用には見捨てられていたが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して帯電と電荷保持の機能を分離。この方式をNP(New Process)と呼び特許の確立に努めた
- [30]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
- [31]エレクトロファックス機は後発で利益が上がらず、NPの開発費も嵩んで複写機部門は累積10億円の赤字。社内に撤退論が出たが、部門は一時全員が中央研究所へ移り本社の費用で開発を続行した
- [32]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
- [33]1970年 NP方式の第1号機NP-1100を市販。開発着手から8年目。ゼロックスの同種製品より小型で感度がよく、エッジ効果がない点が評価された
- [37]自社に複写機の営業力が育っていなかったため、PPCへの参入意欲が強い海外企業へ積極的に特許を与えて特許収入を得る方針を採った
1973年〜電卓の値下げ競争が招いた在庫と上場以来初の無配
ベル・アンド・ハウエル社は1962年から10年余り北米の総代理店を務めたが、自社製品を売ることを優先し、キヤノン製品には力を割かなかった。欧州での伸びと比べると、市場として最も大きいアメリカの成績は見込みに届いていなかった。提携を解くことは1973年3月、業界の関係者を招いた場で公表された。同年7月、アメリカとカナダ向けのカメラ販売はキヤノンU.S.A.による直販に切り替わり、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、トロントには約50名の販売員が置かれた。電卓でも、同じ年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー社とのOEM契約を打ち切り、自社ブランドと代理店のブランドがぶつかり合う状態をなくした。第2次長期経営計画が掲げた自前の販売網は、まず北米で形になった。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [38]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [39]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [40]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [41]電卓も1973年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー・インターナショナル・ディビジョンとのOEM契約を解消し直販体制へ。キヤノンブランドとの競合関係が解消された
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- [42]1979年時点で米国はキヤノンU.S.A.による直販体制、欧州は一国一代理店にまかせていた
電卓の価格は1970年代を通じて下がり続け、10年でおよそ100分の1になった。年率およそ30%の値下げは各生産現場の合理化で吸収できる幅を超えており、開発のモデルチェンジで原価を落とすほかなかった。年間の開発モデルが増えたのはそのためで、日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦の様相を呈している。1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社を含む数社にすぎない。1973年の石油危機による物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇も重なり、経常利益の鈍化は1974年上期に表れて、同期の利益は前年下期と同じ21億円で横ばいに終わった。1974年8月には御手洗毅氏が会長へ退き、1934年に前身の研究所へ入った副社長の前田武男氏が社長に就任している。創業以来はじめての社長交代であった。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [43]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [44]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [45]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [46]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [47]1973年の石油ショックによる物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇で経常利益の鈍化が1974年上期に顕在化し、同期の利益は1973年下期と同じ21億円で横ばい
- 会社年鑑
- [48]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
- [49]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
1974年春に売り出したパンサーシリーズの電卓に不良問題が起き、電卓を中心とする在庫が急激に増えて経営を圧迫した。パーソナル計算機の需要が膨らむなかで参入の時機を逃し、製品自体も価格と技術の両方に問題を抱えていた。1975年上期の営業報告書は、これを業績悪化の最大の原因に挙げている。この期、売上高は前期より6%少ない337億8,453万円にとどまり、1億7,177万円の損失金を出して、株式上場後で初めての赤字に陥った。繰越利益を取り崩せば配当はできたものの、同年6月にロンドンで出した無担保転換社債に配当を制限する条項があり、これに触れるため配当を見送った。下期には売上高が412億円と過去最高に達し、年1割の配当に戻った。通期の着地は売上高749億円、当期純利益8億2,000万円である。1976年1月に提起された優良企業構想は、内外でどのような事態が起きても揺るがない企業を目指すもので、この無配が経営のあり方に投げかけた問いがきっかけになった。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [50]1974年春に売り出したパンサーシリーズ電卓の不良問題が発生し、電卓を中心とする在庫の急激な増加が経営を圧迫した
- [51]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
- [52]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
- [53]配当は繰越利益の取崩しで可能だったが、1975年6月にロンドンで発行した無担保転換社債の配当制限条項に抵触するため無配とした
- [55]1975年上期の無配を受け、内外のいかなる事態にも耐えうる企業の構築を目指す優良企業構想が1976年1月に提起された
- 会社年鑑
- [54]1975年下期は売上高412億円と過去最高を記録し年1割に復配。1975年12月期は通期で売上高749億円・当期純利益8.2億円
参考文献[38]-[55]
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [38]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [39]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [40]1973年7月 キヤノンU.S.A.がアメリカ・カナダでカメラの自主販売を開始。1962年以来10年続いたベル・アンド・ハウエル社との販売提携を解消し、同年3月に業界関係者を招いて発表。約50名のセールスマンをニューヨーク・シカゴ・ロサンゼルス・トロントへ配置
- [41]電卓も1973年までにリットン・ビジネス・システムズのモンロー・インターナショナル・ディビジョンとのOEM契約を解消し直販体制へ。キヤノンブランドとの競合関係が解消された
- [43]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [44]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [45]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [46]1970年代に電卓は「100分の1まで価格を下げた」といわれ、年率約30%の値下げは各生産現場の能力を超え開発のモデルチェンジで実現するほかなかった。日本で数十社、欧米で数十社が参入した競争は消耗戦となり、1970年代の終わりまで国内で生き残ったのは同社のほか数社
- [47]1973年の石油ショックによる物価高騰と材料費・外注費・人件費の上昇で経常利益の鈍化が1974年上期に顕在化し、同期の利益は1973年下期と同じ21億円で横ばい
- [50]1974年春に売り出したパンサーシリーズ電卓の不良問題が発生し、電卓を中心とする在庫の急激な増加が経営を圧迫した
- [51]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
- [52]1975年上期決算は売上高337億8,453万円(前期比6%減)・損失金1億7,177万円で上場以来初の赤字。営業報告書はパーソナル計算機への時機を得た進出ができず製品にも価格面技術面の問題があったと記載
- [53]配当は繰越利益の取崩しで可能だったが、1975年6月にロンドンで発行した無担保転換社債の配当制限条項に抵触するため無配とした
- [55]1975年上期の無配を受け、内外のいかなる事態にも耐えうる企業の構築を目指す優良企業構想が1976年1月に提起された
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- [42]1979年時点で米国はキヤノンU.S.A.による直販体制、欧州は一国一代理店にまかせていた
- 会社年鑑
- [48]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
- [49]1974年8月 御手洗毅氏が代表取締役会長へ退き、1934年5月に前身の精機光学研究所へ入り1966年2月に副社長となった前田武男氏が社長へ就任。創業以来はじめての社長交代
- [54]1975年下期は売上高412億円と過去最高を記録し年1割に復配。1975年12月期は通期で売上高749億円・当期純利益8.2億円
筆者考察
1967年から1975年までの9年で、売上高は181億円から749億円へ4倍になった。ところが当期純利益は1970年12月期の23億6,000万円を頂点に、1975年12月期には8億2,000万円まで減少している。事務機は売上を作ったが、利益を作ったとは言い難い。電卓は年率およそ30%の値下げに追われ、部品の合理化では吸収できず、開発のモデルチェンジでしか原価を下げられない商売になっていた。複写機は独自方式を立てるまでに8年を要し、その間に部門は累積10億円の赤字を出している。号令として掲げた二本柱は、載せた二つの商品の性格がまるで違った。
それでも複写機だけが残ったのは、方式を自前で持ったからである。ゼロックスの600件を超える特許を迂回できないと判じた田中宏氏は、カメラの受光素子として研究されていた硫化カドミウムに絶縁層を重ね、帯電する働きと電荷を保つ働きを分けた。電卓は他社と同じ部品を同じように組む商売で、値下げの速さが競争の焦点になる。複写機は方式そのものが他社と違い、参入したい企業へ特許を与える側に回れた。1975年上期の1億7,177万円の損失と、転換社債の条項が確定させた無配は、右手と左手に載せた商品の違いが決算に表れた結果だった。
- 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
- 同じ期間に売上高は181億円から749億円へ伸びている。
1967年〜1976年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1967年12月期 | 単体 | 181 | n/a | n/a | 6 | 3.6% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 214 | +18.2% | n/a | 9 | 4.5% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 333 | +55.6% | n/a | 17 | 5.3% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 447 | +34.2% | 53 | 23 | 5.3% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 471 | +5.4% | 29 | 12 | 2.6% | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 502 | +6.6% | 23 | 11 | 2.4% | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 590 | +17.5% | 34 | 17 | 3.0% | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 714 | +21.0% | 36 | 13 | 1.8% | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 749 | +4.9% | n/a | 8 | 1.1% | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 1,019 | +36.0% | 74 | 36 | 3.5% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
5件
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- 会社年鑑
- 日経ビジネス 1979年5月7日号
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(日本経済新聞社, 1986)