キヤノン:精機光学研究所によるカメラ国産化と北米輸出の本格化
1933年〜産婦人科医の出資で生まれた国産高級カメラ
1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田三郎氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ、はじめ千手観音にちなむ"Kwanon"と名付けたものの、まもなく"Canon"へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組した。1939年にはレンズの内製を始め、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [1]創立者は吉田五郎氏(技術)と内田三郎氏(営業)。内田氏は山一証券から外務員へ転じ証券の大口取引を扱っていた
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [2]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
- [6]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
- [4]1935年 製品化に成功
- [5]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
- [7]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
- [8]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出
戦時統制は、創業の商品である高級カメラを市場から締め出した。横須賀海軍病院の横倉誠次郎軍医大佐は、海軍で結核の集団検診を実現しようとしており、その要望を聞いて1940年6月にX線間接撮影カメラの設計へ入り、大佐の示した仕様をもとに同年12月に仕上げた。同じ1940年の7月には奢侈品等製造販売制限規則が出され、1台500円を超える写真機は売ることができなくなった。同じ年の12月に決まった公定価格は、キヤノン最新型で卸384円、小売480円である。1941年には月産70台から74台という最高の生産能力に届いたものの、ほとんどは軍部向けで、民間へはもう回らなかった。写真機に代わって主力の座に据えられたのが、このX線間接撮影カメラだった。1942年上半期には、国民厚生上必須の製品として軍部をはじめ各方面からの需要が多く、X線間接撮影カメラは主要製品の地位を占めるまでに育っていた。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [9]横須賀海軍病院理学的治療科長の横倉誠次郎軍医大佐の仕様により1940年6月設計着手、同年12月完成。年末に海軍型X線間接撮影装置を納入
- [10]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
- [11]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
- [12]1941年の生産能力は月産70〜74台で最高。大部分が軍部へ納入され民間には渡らなかった
- [13]1942年上半期の営業報告書にX線間接撮影カメラは国民厚生上必須の製品として需要が多いと記載され、同社の主要製品の地位を占めた
取締役社長に御手洗毅氏が就任したのは1942年9月で、これに先立つ同年2月、最高責任者だった内田三郎氏が公用でシンガポールへ発つにあたり、全従業員を集めた場で取締役の御手洗毅氏に後事を託していた。敗戦翌月の1945年10月には早くも生産を立て直し、翌1946年に世に出たキヤノンS型は進駐軍の将兵や日本を訪れた買い付け人から評判を得て、海外でキヤノンの名が知られるきっかけになった。産婦人科医を辞めて経営に打ち込むようになったのもこのころで、御手洗毅氏は外国製品と張り合える国産カメラを完成させることを事業の目的に掲げた。商号をキヤノンカメラ株式会社に改めたのが1947年9月、東京証券取引所に株式を上場したのが1949年5月で、これで資本市場から資金を調達できるようになった。1950年の欧米視察で御手洗毅氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。
- 会社年鑑
- [14]1942年9月 御手洗毅氏が取締役社長に就任
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [15]1942年2月 内田三郎氏が全従業員を集めて取締役の御手洗毅氏へ後事を託し、公用でシンガポールへ赴いた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]1945年10月 生産を再開
- [17]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [18]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
- [19]1949年5月 東京証券取引所に上場
- 新日本経済(1950年10月20日)
- [20]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた
参考文献[1]-[20]
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [1]創立者は吉田五郎氏(技術)と内田三郎氏(営業)。内田氏は山一証券から外務員へ転じ証券の大口取引を扱っていた
- [9]横須賀海軍病院理学的治療科長の横倉誠次郎軍医大佐の仕様により1940年6月設計着手、同年12月完成。年末に海軍型X線間接撮影装置を納入
- [10]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
- [11]1940年7月 奢侈品等製造販売制限規則の公布で1台500円超の写真機が販売禁止。同年12月の公定価格でキヤノン最新型は卸384円・小売480円
- [12]1941年の生産能力は月産70〜74台で最高。大部分が軍部へ納入され民間には渡らなかった
- [13]1942年上半期の営業報告書にX線間接撮影カメラは国民厚生上必須の製品として需要が多いと記載され、同社の主要製品の地位を占めた
- [15]1942年2月 内田三郎氏が全従業員を集めて取締役の御手洗毅氏へ後事を託し、公用でシンガポールへ赴いた
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [2]1933年11月 東京麻布六本木に精機光学研究所を発足
- [6]1937年8月 東京目黒に精機光学工業株式会社として資本金100万円で創立
- [18]1947年9月 商号をキヤノンカメラ株式会社へ変更
- [19]1949年5月 東京証券取引所に上場
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [3]設立目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作
- [4]1935年 製品化に成功
- [5]ブランド名は「Kwanon」から「Canon」へ改称。Canonは聖典・規範・標準の意
- [7]1939年 レンズの生産開始、日本最初のX線間接撮影装置X線キヤノンを完成し医療機器へ進出
- [8]X線キヤノンを第一歩として医療機器分野へ進出
- [16]1945年10月 生産を再開
- [17]1946年 キヤノンS型が進駐軍将兵・来日バイヤーに好評、キヤノンの名が海外に認められる
- 会社年鑑
- [14]1942年9月 御手洗毅氏が取締役社長に就任
- 新日本経済(1950年10月20日)
- [20]1950年の欧米視察で御手洗毅が日本商品への評価の低さを述べた
1951年〜下丸子工場への10倍投資が支えた輸出経営
1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出に着手した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し、国内の顧客対応にも拠点を開設した。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍したと当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
- [23]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [22]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
- ダイヤモンド(1956年10月23日)
- [24]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された
高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を構築し、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [25]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
- [26]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
- [27]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設
カメラで積んだレンズ設計の蓄積は、カメラ以外の光学機器へも向けられた。1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表している。1959年には焦点距離45ミリから200ミリの自社初のスタジオズームIS-I型を出し、外国製を含む他社製品に比べて性能が高かったため、国内の市場占有率は95%を超えた。1960年にはズームとフォーカスを1本の棒で動かす一軸二操作方式のIS-III型を発表し、以後の日本のズームレンズの大半がこの方式を採ることになった。同じ年に始まったカラー放送に対しても分解光学系の研究を早くから進め、各放送局の要望に応えている。1961年5月には、ズームレンズの開発が映画とテレビに果たした功績に対して日本映画技術協会賞が贈られた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [28]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [29]1959年 f=45-200mmF2.8の自社初のスタジオズームIS-I型を発売。他メーカー製品より高性能で国内市場占有率95%超
- [30]1960年 一軸二操作方式のIS-III型(f=50-200mmF4)を発表。以降の日本のズームレンズの大半がこの方式を採用
- [31]1960年開始のカラー放送に対し早くから分解光学系の研究を進め各放送局の要望に応えた
- [32]1961年5月 ズームレンズの開発と一連のキヤノンズームレンズ群が映画やテレビに果たした功績に対し日本映画技術協会賞を受賞
参考文献[21]-[32]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [21]英国系貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を締結し本格的な輸出へ
- [23]1951年 東京銀座にサービスセンターを開設
- [28]1956年より8ミリシネカメラ キヤノン8T・キヤノンズーム8・8ミリ用プロジェクター・テレビカメラ用レンズを発表
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [22]1951年11月 東京都大田区下丸子に本社・工場を集結
- [25]1952年12月 (株)目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立、1954年5月 (株)秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立
- [26]1955年10月 ニューヨーク支店を開設
- [27]1957年9月 スイスに欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を開設
- ダイヤモンド(1956年10月23日)
- [24]下丸子工場は「木造の町工場的存在から、近代工場に飛躍した」と評された
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [29]1959年 f=45-200mmF2.8の自社初のスタジオズームIS-I型を発売。他メーカー製品より高性能で国内市場占有率95%超
- [30]1960年 一軸二操作方式のIS-III型(f=50-200mmF4)を発表。以降の日本のズームレンズの大半がこの方式を採用
- [31]1960年開始のカラー放送に対し早くから分解光学系の研究を進め各放送局の要望に応えた
- [32]1961年5月 ズームレンズの開発と一連のキヤノンズームレンズ群が映画やテレビに果たした功績に対し日本映画技術協会賞を受賞
1958年〜キヤノネットの中級機参入とシンクロリーダーの挫折
議論に決着をつけたのは、設計課員の構想による自動露出機構の試作が成功したことだった。そこへ至るまでに、会社としての方針が固まらないうちから、とにかく試作は進めてみようと技術部長が道筋を示し、開発部門が先に動いていた。発端は1958年秋で、高級機に特化してきた路線を崩すかどうかをめぐり、社内は二つに割れた。すでに高級機メーカーの地位を得ている以上、あえて中級機に参入する必要はないとする慎重派と、危うくとも中級機に打って出てカメラ全般を手がけるメーカーを目指すべきだとする推進派がぶつかり、対立は開発設計の担当者の間にも及んでいた。1960年8月、予告した新製品の発売価格を2万円未満とすると明らかにすると、業界から激しい反発が起きた。国内での発売は1961年春へ先送りし、それまでに作った分は残らず輸出に回して収めた。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [33]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [34]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [35]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [36]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
- [37]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
キヤノネットの生産は下丸子工場で立ち上げたが、注文が押し寄せたため、先に取得していた茨城県取手の用地に残る旧工場棟へ組立てラインを急いで設け、そこからの最初の出荷は1961年3月となった。国内での販売はそれより前の1961年1月に始まっており、本体価格1万9,800円の同機は、明るさに合わせて絞りが自動で決まるシャッター速度優先式の自動露出機構と、45ミリF1.9のレンズを組み合わせており、売れ行きは同年11月までに21万台を上回り、1963年7月には生産の累計が100万台に達した。カメラ業界がそろって非難の声を上げた件では、のちに公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査を始めたが、安値ダンピングを疑われて喚問された会社側は、原価の構成を示して嫌疑を晴らした。1960年12月期に42億7,000万円だった売上高は1963年12月期には141億円となり、3年で3倍を上回った。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [38]注文が殺到したため取得済みの茨城県取手用地内の旧工場棟に急遽組立てラインを設置。同工場からの初出荷は1961年3月
- [39]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
- [40]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
- [41]カメラ業界の一斉の非難行為に公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査。同社も安値ダンピングの疑いで喚問を受け、原価構成を示して疑いを解いた
- 会社年鑑
- [42]1960年12月期 売上高42.70億円、1963年12月期 売上高141億円
東京工業大学の星野豊教授が考え出した磁気録音装置を、シンクロリーダーの名で世に出したのは1959年5月で、紙の印刷物に目を通しながら音声を耳で確かめられる点が売り物だった。時期を同じくして参入したこの新分野では、結末が異なった。製品にすると決めてから発売までは約2年で、途中入社の人員も含めて多くの人手を新しい技術領域に振り向けたにもかかわらず、同年上期の販売は合計850台に終わり、前評判には届かなかった。13万5,000円の本体価格が割高と見られたうえ、その年の秋には他社から安い類似品も現れたうえ、東京芝浦電気と共同で開発し1960年1月に出したシートレコーダーも、販売台数が見込みに達せず、生産の打ち切りに至った。当期純利益は1963年12月期の10億5,000万円から1965年12月期の3億5,000万円へ減少した。異分野へ投じた人員と材料の技術は社内に残り、1964年10月の電子式卓上計算機の発売で事務機分野へ向け直されることになる。
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [43]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [44]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [45]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [46]1960年1月 東京芝浦電気との共同開発によるシートレコーダーを発表したが期待に届かず生産打切り
- 会社年鑑
- [47]1963年12月期 当期純利益10.5億円、1965年12月期 当期純利益3.5億円
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [48]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出
参考文献[33]-[48]
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- [33]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [34]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [35]1958年秋からキヤノネットの開発が始まり、中級機参入の可否をめぐって社内を二分する議論。技術部長の方向づけで試作が先行し、設計課員によるEE機構の試作成功が議論に決着をつけた
- [36]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
- [37]1960年8月の新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と公表し業界が反発。国内発売を1961年春まで延期し、それまでの生産分は全部輸出向けとした
- [38]注文が殺到したため取得済みの茨城県取手用地内の旧工場棟に急遽組立てラインを設置。同工場からの初出荷は1961年3月
- [39]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
- [40]1961年1月 キヤノネットの国内販売を開始。本体価格1万9,800円、シャッター速度優先式EE・45mmF1.9レンズ。同年11月までに21万台を突破し、1963年7月に生産累計100万台
- [41]カメラ業界の一斉の非難行為に公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで調査。同社も安値ダンピングの疑いで喚問を受け、原価構成を示して疑いを解いた
- [43]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [44]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [45]1959年5月 シンクロリーダーを発売。東京工業大学の星野豊教授の考案による磁気録音装置で、製品化決定から約2年で発売。同年上期の販売は850台にとどまり、本体13万5,000円の割高感と同年秋の他社の安価な類似品が不振の理由
- [46]1960年1月 東京芝浦電気との共同開発によるシートレコーダーを発表したが期待に届かず生産打切り
- 会社年鑑
- [42]1960年12月期 売上高42.70億円、1963年12月期 売上高141億円
- [47]1963年12月期 当期純利益10.5億円、1965年12月期 当期純利益3.5億円
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- [48]1964年10月 電子式卓上計算機を発売し本格的に事務機分野へ進出
筆者考察
下丸子へ投じた2億円は、注文が積み上がってから設備を足す順序ではなく、工場を先に建てて製品を後から入れる順序を選んだ投資だった。資本金2000万円の10倍という規模は、当時のカメラ工場の常識を外れている。その賭けが3年で回収できたのは、高級機に絞って売上高利益率10%超を保てたからであり、快心の作が出るまで量産を自重するという御手洗毅氏の方針と表裏をなしていた。品質で選ばれる市場にとどまる限り、数量と価格の競争に引き込まれずに済む。ジャーデンマセソンとの総代理店契約もニューヨーク支店も、その前提の上に置かれた輸出の装置である。
その前提を自ら崩したのがキヤノネットだった。1万9,800円という値付けはカメラ業界の一斉の反発を招き、公正取引委員会の調査にまで及んでいる。9か月で21万台、2年半で100万台という数量は、高級機の商売とは原価の作り方が違う。注文に追われて取手用地の旧工場棟へ急ぎ組立てラインを敷いたのは、量産体制が足りないことを認めた手続きだった。同じ時期に踏み出した磁気録音装置のシンクロリーダーは850台で終わったが、そこへ投じた人員と材料の技術は消えず、電卓と複写機へ充当された。カメラで確立した輸出の装置は、カメラ以外の商品も売り込めるかを次の10年に試されることになる。
- 棒はすべて単体。出所は会社年鑑。
- 同じ期間に売上高は2.05億円から162億円へ伸びている。
1933年〜1966年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年12月期 | 単体 | 2 | n/a | 0 | 2.7% | n/a |
| 1950年12月期 | 単体 | 3 | +84.4% | 0 | 0.8% | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | 6 | +67.7% | 0 | 11.3% | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 9 | +48.4% | 0 | 9.5% | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 13 | +45.3% | 1 | 10.4% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 17 | +26.9% | 1 | 10.5% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 18 | +8.6% | 3 | 16.3% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 21 | +13.5% | 3 | 15.4% | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 24 | +13.7% | 3 | 15.5% | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 24 | ▲0.2% | 3 | 13.8% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 28 | +17.9% | 2 | 7.4% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 42 | +49.3% | 4 | 9.9% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 71 | +66.9% | 7 | 10.3% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 102 | +43.2% | 9 | 9.6% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 141 | +38.2% | 10 | 7.4% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 158 | +12.1% | 6 | 3.9% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 150 | ▲5.1% | 3 | 2.3% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 162 | +8.0% | 3 | 2.1% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- キヤノン 有価証券報告書 第125期(2025年12月期)【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- キヤノン史 : 技術と製品の50年(キヤノン史編集委員会編, 1987)
- 会社年鑑
- ダイヤモンド(1956年10月23日)
- 新日本経済(1950年10月20日)