第1章 年〜年

日野自動車:東京瓦斯電気工業の系譜と日野重工業の独立

1938年〜補助金制度の矛盾が生んだ日野製造所の分離独立

日野自動車の源流は、1910年に創業した東京瓦斯電気工業にさかのぼる。同社は1918年にわが国最初の国産自動車となる2トン積みトラックを製造し、創成期の国産自動車工業の一翼を担った。しかし1936年に自動車製造事業法が制定されると、陸軍の軍用保護自動車法によって補助を受けていた東京瓦斯電気工業と自動車工業は、軍用自動車を製造し続ける限り新法の適用を受けられないという矛盾に直面した。許可会社にならなければ自動車メーカーとして十分な保護は得られない。日産自動車との合併交渉が不調に終わった末、1937年に東京瓦斯電気工業の自動車部が自動車工業株式会社および協同国産自動車株式会社と合併して東京自動車工業株式会社が発足し、大森工場と365名の社員が新会社へ移った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]日野自動車の前身は明治43年(1910年)創業の東京瓦斯電気工業に始まる
    • [2]東京瓦斯電気工業は大正7年(1918年)にわが国最初の国産自動車(2トン積みトラック)を製造した
    • [4]昭和12年(1937年)東京瓦斯電気工業の自動車部が自動車工業株・協同国産自動車株と合併し東京自動車工業を設立
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [3]軍用保護自動車法で補助を受けていた東京瓦斯電気工業と自動車工業は、軍用自動車を製造する限り自動車製造事業法の適用を受けられず、許可会社にならなければ十分な保護を得られないジレンマに陥っていた
    • [5]1937年8月20日限りで自動車部を分離し東京自動車工業へ引き継ぎ、365名の転出社員と大森工場・川崎の工場用地が移転した

1938年、東京自動車工業(後のいすゞ自動車)は陸軍向け特殊車両の専門工場として東京都日野市に日野製造所を新設した。この新設には初めから仕掛けがあった。商工省の補助政策を仰ぐには軍用車の製造という基準が壁になる一方、軍用車をやめれば陸軍の補助を失う。松方らは軍用自動車工場を一本化したうえでやがて分離独立させ、残る本体で商工省の補助を受けるという作戦を立てており、日野製造所は新設の時点から早晩本体から別離する運命を背負っていた。この構想どおり1941年4月に東京自動車工業はヂーゼル自動車工業へ商号を変更し、翌1942年5月、日野製造所は日野重工業株式会社として分離独立した。

  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]東京自動車工業=後のいすゞ自動車(系譜図と整合)
    • [8]1941年4月 東京自動車工業がヂーゼル自動車工業へ商号変更
    • [9]1942年5月 ヂーゼル自動車工業の日野製造所が独立し日野重工業となる
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [7]商工省の補助を受けるため軍用自動車工場を一本化しやがて分離独立させる作戦が立てられ、日野製造所は新設時から東京自動車工業から別離する運命を背負っていた

発足時の日野重工業は、ヂーゼル自動車工業が全株を所有する軍の秘密工場だった。戦局が厳しくなるとヂーゼル自動車工業がこの株式を別の戦車メーカーへ売却しようとする動きが表面化し、有数の戦車工場が混乱することを恐れた陸軍省の意向で、持株の80%が政府機関である戦時金融金庫へ肩替わりされた。終戦によって戦車工場としての存立基盤は失われ、1945年9月15日、全役員・従業員が工場の神社前広場に集められて正式解散と全員の解雇が通告された。総従業員は復員すべき軍人を含めて7000名を数えたが、2日後に米軍が工場を占拠したのち残務整理に当たったのは、およそ60名にすぎなかった。

  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [10]日野重工業は当時として最も近代的な設備を持つ軍の秘密工場として発足し、株式はヂーゼル自動車工業が全株所有した
    • [11]ヂーゼル自動車工業が日野重工業株を戦車メーカーへ売却しようとしたため、陸軍省の意向で持株を戦時金融金庫に80%肩替わりさせた
    • [12]1945年9月15日に日野重工業の正式解散と全員の解雇通告を行った。総従業員は帰還すべき軍人を含め7000名だった
    • [13]9月17日に米軍が工場を占拠し、残務整理に当たった社員はおよそ60名だった
参考文献[1]-[13]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]日野自動車の前身は明治43年(1910年)創業の東京瓦斯電気工業に始まる
    • [2]東京瓦斯電気工業は大正7年(1918年)にわが国最初の国産自動車(2トン積みトラック)を製造した
    • [4]昭和12年(1937年)東京瓦斯電気工業の自動車部が自動車工業株・協同国産自動車株と合併し東京自動車工業を設立
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [3]軍用保護自動車法で補助を受けていた東京瓦斯電気工業と自動車工業は、軍用自動車を製造する限り自動車製造事業法の適用を受けられず、許可会社にならなければ十分な保護を得られないジレンマに陥っていた
    • [5]1937年8月20日限りで自動車部を分離し東京自動車工業へ引き継ぎ、365名の転出社員と大森工場・川崎の工場用地が移転した
    • [7]商工省の補助を受けるため軍用自動車工場を一本化しやがて分離独立させる作戦が立てられ、日野製造所は新設時から東京自動車工業から別離する運命を背負っていた
    • [10]日野重工業は当時として最も近代的な設備を持つ軍の秘密工場として発足し、株式はヂーゼル自動車工業が全株所有した
    • [11]ヂーゼル自動車工業が日野重工業株を戦車メーカーへ売却しようとしたため、陸軍省の意向で持株を戦時金融金庫に80%肩替わりさせた
    • [12]1945年9月15日に日野重工業の正式解散と全員の解雇通告を行った。総従業員は帰還すべき軍人を含め7000名だった
    • [13]9月17日に米軍が工場を占拠し、残務整理に当たった社員はおよそ60名だった
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]東京自動車工業=後のいすゞ自動車(系譜図と整合)
    • [8]1941年4月 東京自動車工業がヂーゼル自動車工業へ商号変更
    • [9]1942年5月 ヂーゼル自動車工業の日野製造所が独立し日野重工業となる

1946年〜300名からの再建とルノー公団との技術提携

1946年1月に平和産業への転換が許可されると、工場はすぐに再開され、トレーラートラックとトレーラーバスが送り出された。これが戦後の大型自動車の先駆けとなった。再建の責任者である大久保正二は、人員を事務・技術100名と作業員200名の計300名に絞り、実施時期を1946年2月から3月、職員の年齢を40歳以下とする三つの原則を定めた。社名が日野産業に改まったのは3月27日である。1948年11月に資本金を400万円までいったん減らしたのち、12月1日に新資本金2500万円の日野ヂーゼル工業株式会社として再出発し、翌1949年5月には東京証券取引所に上場した。幹事証券の山一証券が示した売出価格は75円で、大久保が主張した150円から200円という水準は通らなかった。1954年5月には大阪・名古屋、1958年4月には新潟にも上場している。

  • 会社銀行八十年史 1955年「日野ヂーゼル工業」(東洋経済新報社, 1955)
    • [14]昭和21年1月に民需転換許可を受けて直ちに工場を再開し、トレーラートラック・トレーラーバスを発表して戦後の大型自動車に先鞭をつけた
    • [18]昭和23年12月に商号を日野ヂーゼル工業と改め、資本金は400万円に減資のうえ増資して2500万円となった
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [15]再建の原則として会社の人員を300名(事務・技術100名、作業員200名)、再建時期を昭和21年2〜3月、職員の年齢を40歳以下と定めた
    • [20]東証上場にあたり大久保社長は売出価格150〜200円を主張したが、幹事証券の山一証券が提案した75円案を了承した
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1946年3月 日野重工業が日野産業へ商号変更
    • [17]1948年12月 日野産業が日野ヂーゼル工業へ商号変更
    • [19]1949年5月 日野ヂーゼル工業が東京証券取引所へ株式上場
    • [21]1954年5月 大阪・名古屋証券取引所へ株式上場
    • [22]1958年4月 新潟証券取引所へ株式上場

商用車の量産体制を確立した日野ヂーゼル工業は、バス用エンジンの配置で他社と異なる方式を採った。乗用車部門への進出は、大久保社長ら当時の経営陣にとって悲願であった。トラックとバスは大型で、乗用車は小型で、という考え方は早くから芽生えており、1951年には社長自身が、日本にも必ず乗用車の時代が来る、日野はそれに乗り遅れてはならないと明言していた。その一方でバスでは、エンジンを床下に置けば床面を最大限に使え、国内の事情にも合うという確信から、アンダーフロアエンジンの開発に取り組み、1952年12月にわが国初の床下エンジンバスであるブルー・リボン号を公開、翌1953年1月に発売して量産に移った。

  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [23]乗用車部門への挑戦は大久保社長ら経営陣の悲願であり、昭和26年早々に社長が乗用車時代の到来に乗り遅れてはならないと明言していた
    • [24]他社と異なるアンダーフロアエンジンの開発に取り組んだのは、床下配置が床面を最も有効に使え日本の国情に最適と確信したためである
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [25]昭和28年(1953年)1月 わが国で最初の床下エンジンバス「ブルー・リボン号」を完成し量産体制に移した

1952年4月、ルノー公団の極東支配人が来日し、小型乗用車ルノー4CVの日本での組立工場設置を日野に提案した。資本金170億フランという巨大企業からの申し入れに対し、当時の日野の資本金は2億円にすぎなかった。通産省が条件として示したのは3点で、年間1250台の需要を国内だけで保証できるか、営業用の需要見通しはどうか、国産化を速やかに進められるか、であった。大型トラック・バスの専門メーカーから総合メーカーへ移るのは平坦な道ではないと覚悟したうえで、経営陣は重役会を何度も開いた。最大の争点だった国産化の時期は5年後とすることで折り合った。1953年1月16日に最終合意、2月26日に正式調印に至り、ルノー4CV型の製造によって乗用車部門へ乗り出した。

  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [26]昭和27年4月初旬、ルノー公団の極東支配人が来日し、ルノー4CVの日本における組立工場設置を提案した
    • [27]ルノー公団の資本金は170億フラン、対する日野自動車の資本金は2億円だった
    • [28]通産省は年産1250台の国内需要保証、営業用需要の見通し、速やかな国産化の3点を条件として求めた
    • [29]経営陣は通産省の行政、生産への自信、1日5台を売る販売態勢に苦慮し、大型トラック・バス専門メーカーから総合メーカーへの脱皮は平坦でないと考えていた
    • [30]昭和28年1月16日にルノー公団と最終合意し、5年後の国産化を認める内容で2月26日に正式調印した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [31]昭和28年(1953年)3月 仏ルノー公団と技術提携しルノー4CV型乗用車を製造開始、乗用車部門に進出
参考文献[14]-[31]
  • 会社銀行八十年史 1955年「日野ヂーゼル工業」(東洋経済新報社, 1955)
    • [14]昭和21年1月に民需転換許可を受けて直ちに工場を再開し、トレーラートラック・トレーラーバスを発表して戦後の大型自動車に先鞭をつけた
    • [18]昭和23年12月に商号を日野ヂーゼル工業と改め、資本金は400万円に減資のうえ増資して2500万円となった
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [15]再建の原則として会社の人員を300名(事務・技術100名、作業員200名)、再建時期を昭和21年2〜3月、職員の年齢を40歳以下と定めた
    • [20]東証上場にあたり大久保社長は売出価格150〜200円を主張したが、幹事証券の山一証券が提案した75円案を了承した
    • [23]乗用車部門への挑戦は大久保社長ら経営陣の悲願であり、昭和26年早々に社長が乗用車時代の到来に乗り遅れてはならないと明言していた
    • [24]他社と異なるアンダーフロアエンジンの開発に取り組んだのは、床下配置が床面を最も有効に使え日本の国情に最適と確信したためである
    • [26]昭和27年4月初旬、ルノー公団の極東支配人が来日し、ルノー4CVの日本における組立工場設置を提案した
    • [27]ルノー公団の資本金は170億フラン、対する日野自動車の資本金は2億円だった
    • [28]通産省は年産1250台の国内需要保証、営業用需要の見通し、速やかな国産化の3点を条件として求めた
    • [29]経営陣は通産省の行政、生産への自信、1日5台を売る販売態勢に苦慮し、大型トラック・バス専門メーカーから総合メーカーへの脱皮は平坦でないと考えていた
    • [30]昭和28年1月16日にルノー公団と最終合意し、5年後の国産化を認める内容で2月26日に正式調印した
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1946年3月 日野重工業が日野産業へ商号変更
    • [17]1948年12月 日野産業が日野ヂーゼル工業へ商号変更
    • [19]1949年5月 日野ヂーゼル工業が東京証券取引所へ株式上場
    • [21]1954年5月 大阪・名古屋証券取引所へ株式上場
    • [22]1958年4月 新潟証券取引所へ株式上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [25]昭和28年(1953年)1月 わが国で最初の床下エンジンバス「ブルー・リボン号」を完成し量産体制に移した
    • [31]昭和28年(1953年)3月 仏ルノー公団と技術提携しルノー4CV型乗用車を製造開始、乗用車部門に進出

1959年〜トヨタ業務提携と乗用車事業からの撤退

1959年4月に日野ヂーゼル販売が日野ルノー販売を合併して日野自動車販売へ商号変更し、同年6月には本体も日野自動車工業へ商号を変更した。ルノー車で蓄えた経験を土台に1961年には小型乗用車コンテッサを発表し、1964年8月にはコンテッサ1300を世に出した。当時の日野は大型ディーゼル車に特色を持ちながら小型車分野へ進出した中堅的存在と評され、羽村に小型車専門の新工場を建設中だった。1963年度の設備投資40億円のうち15億円が羽村に振り向けられ、同年8月には提携契約の期限切れでルノー4CVの生産が打ち切られている。

  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [32]1959年4月 日野ヂーゼル販売が日野ルノー販売を合併し日野自動車販売へ商号変更
    • [33]1959年6月 日野ヂーゼル工業が日野自動車工業へ商号変更
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [34]1961年 小型乗用車「コンテッサ」を発表
    • [38]昭和38年8月、ルノー公団との提携契約期限切れによりルノー4CV乗用車の生産が打ち切られた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [35]昭和39年(1964年)8月 乗用車「日野コンテッサ1300」を発表
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日野自動車工業」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [36]1964年時点の日野は大型ディーゼル車に特色を持ちルノーの技術で小型車分野に進出した中堅的存在で、羽村に小型車専門の新工場を建設中だった
    • [37]昭和38年度の設備投資総額40億円のうち日野工場25億円・羽村工場15億円

日野とトヨタの提携論は1963年にさかのぼる。日野はコンテッサで世界的な評価を受けた。それでも小型車部門は同業他社より弱く、資本自由化が迫るなかで先行きの経営の難しさを思い知っていた。通産省も、貿易自由化を控えて業界再編の機運が高まるなかで、日野とトヨタの合併を勧めていた。大型車の日野と小型車のトヨタでは車種の重なりが少なく、主力銀行も同じだというのが理由である。1965年8月の乗用車輸入自由化の発表は、再編の流れをいっそう速めた。両社の友好関係が提携に至るまでには約3年かかった。1966年10月、日野自動車工業と日野自動車販売は、トヨタ自動車工業・トヨタ自動車販売との間で業務提携の契約を結んだ。

  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [39]日野はコンテッサで世界的評価を受けながらも小型車部門が同業他社に比べ弱体で、資本自由化を控え今後の経営が容易でないと痛感していた
    • [40]昭和38年、貿易自由化を控えた業界再編成の機運のなかで通産省が「日野は大型車中心、トヨタは小型車中心で競合車種が少なく主力取引銀行も三井銀行」を理由に合併を勧告した
    • [41]昭和40年8月17日、三木通産大臣が乗用車輸入の自由化を10月1日から実施すると発表し、業界の合併・提携の動きに拍車がかかった
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]1966年10月 日野自動車工業・日野自動車販売がトヨタ自工・トヨタ自販と業務提携

全車種の生産台数に占める割合はトヨタが26%、日野が3%で、提携すれば実質29%に達すると見積もられた。1966年10月15日の共同声明は提携の大綱を示し、日野の小型車の生産・販売へのトヨタの協力、新製品企画での協調、輸出市場の拡大や技術向上での協力など6項目を柱とした。組合に対して会社側は経営協議会の場で、これは合併ではなく提携だと説明した。トヨタの手を借りるのは生産量の20%を占める小型車部門だけで、残りの80%は自力で十分に回せる、というのが会社の整理である。1967年、小型トラックのブリスカはトヨタ販売網の扱いとなった。日野はトヨタのパブリカバンの東日本向け生産を受け持ち、羽村工場では拡充工事が始まった。同年12月にはコンテッサ1300の後継車の開発をやめ、日野は乗用車から手を引いた。1968年、羽村工場はトヨタ向け乗用車をOEMで造る拠点に変わった。

  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [43]全車種の生産台数シェアはトヨタ26%、日野3%(昭和40年)で、提携により実質29%になると試算された
    • [45]経営協議会で会社側は組合に対し合併はまったくなく提携であるとし、生産量の20%に当たる小型車部門を助けてもらうが残る80%は充分にやっていけると説明した
    • [46]1967年5月からブリスカをトヨタ販売網で発売、同月からトヨタ・パブリカバンの東日本地域向け生産を日野が担当、小型車増産のため羽村工場の増設工事に着手
    • [47]1967年12月 乗用車から撤退(コンテッサ1300後継の開発中止)
    • [48]1968年 羽村工場を新設しトヨタ向け乗用車OEM拠点へ転用
  • 証券アナリスト・ジャーナル 1967年5巻1号(景山浩次, 1967)
    • [44]1966年10月15日の共同声明で発表された提携の要点は、小型車の生産・販売へのトヨタの協力、新製品企画の協調、輸出市場拡大のための協力、技術向上のための協力、部品資材購入の合理化、その他必要と認める事項の6項目
参考文献[32]-[48]
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
    • [32]1959年4月 日野ヂーゼル販売が日野ルノー販売を合併し日野自動車販売へ商号変更
    • [33]1959年6月 日野ヂーゼル工業が日野自動車工業へ商号変更
    • [42]1966年10月 日野自動車工業・日野自動車販売がトヨタ自工・トヨタ自販と業務提携
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
    • [34]1961年 小型乗用車「コンテッサ」を発表
    • [38]昭和38年8月、ルノー公団との提携契約期限切れによりルノー4CV乗用車の生産が打ち切られた
    • [39]日野はコンテッサで世界的評価を受けながらも小型車部門が同業他社に比べ弱体で、資本自由化を控え今後の経営が容易でないと痛感していた
    • [40]昭和38年、貿易自由化を控えた業界再編成の機運のなかで通産省が「日野は大型車中心、トヨタは小型車中心で競合車種が少なく主力取引銀行も三井銀行」を理由に合併を勧告した
    • [41]昭和40年8月17日、三木通産大臣が乗用車輸入の自由化を10月1日から実施すると発表し、業界の合併・提携の動きに拍車がかかった
    • [43]全車種の生産台数シェアはトヨタ26%、日野3%(昭和40年)で、提携により実質29%になると試算された
    • [45]経営協議会で会社側は組合に対し合併はまったくなく提携であるとし、生産量の20%に当たる小型車部門を助けてもらうが残る80%は充分にやっていけると説明した
    • [46]1967年5月からブリスカをトヨタ販売網で発売、同月からトヨタ・パブリカバンの東日本地域向け生産を日野が担当、小型車増産のため羽村工場の増設工事に着手
    • [47]1967年12月 乗用車から撤退(コンテッサ1300後継の開発中止)
    • [48]1968年 羽村工場を新設しトヨタ向け乗用車OEM拠点へ転用
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [35]昭和39年(1964年)8月 乗用車「日野コンテッサ1300」を発表
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日野自動車工業」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [36]1964年時点の日野は大型ディーゼル車に特色を持ちルノーの技術で小型車分野に進出した中堅的存在で、羽村に小型車専門の新工場を建設中だった
    • [37]昭和38年度の設備投資総額40億円のうち日野工場25億円・羽村工場15億円
  • 証券アナリスト・ジャーナル 1967年5巻1号(景山浩次, 1967)
    • [44]1966年10月15日の共同声明で発表された提携の要点は、小型車の生産・販売へのトヨタの協力、新製品企画の協調、輸出市場拡大のための協力、技術向上のための協力、部品資材購入の合理化、その他必要と認める事項の6項目

筆者考察

日野自動車は、自社の意思ではなく保護行政の条件に合わせて生まれた会社である。1936年の自動車製造事業法は、軍用自動車を作り続けるかぎり新法の保護を受けられないという矛盾を東京瓦斯電気工業に突きつけた。そこで立てられたのは、軍用車の工場を日野へ一本化し、やがて切り離して本体だけを商工省の保護下に置くという作戦だった。1938年に新設された日野製造所は、生まれた時点で別離を予定された部門である。補助金の条件によって事業の形が決まる時代に、経営者が選べたのはどちらの保護を取るかだけであり、同じ母体から出たいすゞと日野が戦後の商用車市場で向かい合う構図も、このとき決まった。

終戦で戦車工場としての存立基盤は消え、7000名の従業員はいったん全員が解雇された。再建の設計図は300名という人数から引かれている。事務・技術100名と作業員200名、年齢は40歳以下という三つの原則は、何を残すかではなく何を作り直すかを決める線だった。トレーラートラックとバスで戦後の大型車に先鞭をつけ、床下エンジンのブルーリボン号で他社と違う配置を選び、ルノー4CVで乗用車へ出る。だが資本金2億円の会社が170億フランのルノー公団と組んで始めた乗用車事業は、月産1万台を超えなければ成り立たない市場だった。1967年のコンテッサ1300後継の開発中止は、技術で劣位に立った結果ではなく、規模の判断である。

1938年〜1968年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a 共同出資でタイヒノ・インダストリーを設立(1964/07)
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 536 n/a 22 4.1% n/a
1968年03月期 単体 604 +12.7% 23 3.9% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

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出典・参考
  • 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
  • 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
  • 会社銀行八十年史 1955年「日野ヂーゼル工業」(東洋経済新報社, 1955)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日野自動車工業」(ダイヤモンド社, 1964)
  • 証券アナリスト・ジャーナル 1967年5巻1号(景山浩次, 1967)

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