日野自動車:商用車専業の選択とトラック業界首位
トヨタ生産方式の移植からD号作戦の完遂へ
1969年〜トヨタ生産方式の移植と小型車要員の振り替え
1966年12月1日、トヨタ自動車工業へ向かう実習生の第1陣が日野を発った。当面の狙いは、トヨタで生産するパブリカバンを4か月以内にそのまま日野へ移すことにあり、量と品質はもちろん工数に当たるコストまでトヨタの水準で再現することが方針とされた。派遣された社員は翌1967年4月までに、部長から作業員まで延べ1,200名に上る。受け入れたトヨタ側では、当時常務だった大野耐一が1週間付きっきりで指導し、現場を見てトヨタのやり方から日野のことを考えるよう実習生に求めた。管理部門担当の荒川政司専務は、提携の効果について『トヨタ自動車との提携は、日野自動車にとって一つの思想革命だった。それがなによりも大きな効果だった』と断言している。形となって現れた効果は、そのほんの一部にすぎないとした。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [1]提携後まもない昭和41年12月1日にトヨタ実習生の第1陣が出発した
- [2]トヨタ実習の当面の目的はパブリカバンを4ヵ月以内にトヨタで行なわれているままの状態で日野へ移植することだった
- [3]生産の量・品質および工数などのコストとともにトヨタの水準を日野へ再現するという方針だった
- [4]昭和42年4月まで延べ1,200名の日野社員がトヨタへ派遣され、部長から作業員に至る各層に及んだ
- [5]トヨタ自工常務だった大野耐一が1週間つきっきりで実習生を指導し、とにかく現場を見てトヨタのやり方をよく見て日野のことを考えてくれと求めた
- 日経ビジネス 1972年3月20日号
- [6]日野自動車工業の管理部門を担当する荒川政司専務は、トヨタ自動車との提携は日野自動車にとって一つの思想革命だったと断言した
- [7]荒川専務は、形となって現われている効果はほんの一部にすぎず、ほんとうの効果は思想革命そのものにあると述べた
提携に先立ち、日野は小型車の生産と販売設備へ100億円を投じ、自工1,800人とディーラー2,200人の計4,000人を小型車の要員として配していた。この設備と人員を限られた時間内に自力でディーゼル部門へ吸収することは至難であった。実際には、販売拠点59か所のうち26か所をトヨタ系ディーラーが時価で買い取った。販売要員2,200名のうち1,000名も、トヨタ系ディーラーへ移籍することで合意している。残る拠点と要員はディーゼル車の販売部門へ投入された。小型車の生産台数は、提携前の1万4000台から一時4000台まで減少した。トヨタからの受託生産へ切り換えた後は1971年9月期に5万8000台へ伸び、金額で124億円と全体の20%を占めている。乗用車からの撤退は、資産と人を捨てずに移し替える作業として処理された。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [8]日野はその時までに小型車の生産と販売設備に100億円の投資を行ない、自工1,800人・ディーラー2,200人の計4,000人が小型車要員として配備されていた
- [9]この設備ならびに人員を限られた時間内に自力でディーゼル部門へ吸収活用することはきわめて至難の業だった
- [10]当時の販売拠点59ヵ所のうち26ヵ所を時価換算でトヨタディーラーが買い取った
- [11]2,200名の販売要員のうち1,000名をトヨタディーラーへ移籍することで合意した
- [12]残余の販売拠点と要員はそのまま日野のディーゼル車販売部門へ投入された
- 日経ビジネス 1972年3月20日号
- [13]小型車部門は提携前の1万4000台から一時4000台まで落ち込んだ
- [14]トヨタ自動車の委託生産へ切り換えた後、小型車の販売は昭和46年9月期に5万8000台に達し、金額では124億円と全体の20%を占めた
3.5トン以上の普通トラックの国内シェアは、提携前の17%から1971年9月期には27%へ上がった。日野自動車販売は1971年3月にD号作戦を発令している。Dはディーゼル車の頭文字であり、市場の3分の1以上を制するという願いから、ドイツ語で3分の1を意味するドリッテルも掛けられていた。天野千代吉社長が掲げた目標は、1974年度までに大型トラック32%、中型トラック38%、大小あわせた普通トラックで35%の占有率を確保することだった。1972年8月には普通トラックで32.4%に達し、同年1月から6月の半期だけで普通ディーゼルトラックを2万3,676台生産して、西ドイツのベンツに次ぐ世界第2位へ出た。
- 日経ビジネス 1972年3月20日号
- [15]3.5トン以上の普通トラックの国内シェアは提携前の17%から昭和46年9月期には27%へ10ポイント高まった
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [16]日野自動車販売は昭和46年3月にV号作戦を終了し、続いてD号作戦を発令した
- [17]D号作戦のDはディーゼル車のDであり、市場の3分の1以上制覇にちなみドイツ語で3分の1を意味するドリッテルから採られた
- [18]日野自動車販売の天野千代吉社長は、D号作戦の目的を昭和49年度までに大型トラック32%・中型トラック38%・普通トラック35%の市場占有率を獲得することだと説明した
- [19]昭和47年8月に普通トラックの占有率は32.4%となり、同年1月から6月の半期だけで普通ディーゼルトラックを2万3,676台生産して西ドイツのベンツ3万2,305台に次ぐ世界第2位となった
参考文献[1]-[19]
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [1]提携後まもない昭和41年12月1日にトヨタ実習生の第1陣が出発した
- [2]トヨタ実習の当面の目的はパブリカバンを4ヵ月以内にトヨタで行なわれているままの状態で日野へ移植することだった
- [3]生産の量・品質および工数などのコストとともにトヨタの水準を日野へ再現するという方針だった
- [4]昭和42年4月まで延べ1,200名の日野社員がトヨタへ派遣され、部長から作業員に至る各層に及んだ
- [5]トヨタ自工常務だった大野耐一が1週間つきっきりで実習生を指導し、とにかく現場を見てトヨタのやり方をよく見て日野のことを考えてくれと求めた
- [8]日野はその時までに小型車の生産と販売設備に100億円の投資を行ない、自工1,800人・ディーラー2,200人の計4,000人が小型車要員として配備されていた
- [9]この設備ならびに人員を限られた時間内に自力でディーゼル部門へ吸収活用することはきわめて至難の業だった
- [10]当時の販売拠点59ヵ所のうち26ヵ所を時価換算でトヨタディーラーが買い取った
- [11]2,200名の販売要員のうち1,000名をトヨタディーラーへ移籍することで合意した
- [12]残余の販売拠点と要員はそのまま日野のディーゼル車販売部門へ投入された
- [16]日野自動車販売は昭和46年3月にV号作戦を終了し、続いてD号作戦を発令した
- [17]D号作戦のDはディーゼル車のDであり、市場の3分の1以上制覇にちなみドイツ語で3分の1を意味するドリッテルから採られた
- [18]日野自動車販売の天野千代吉社長は、D号作戦の目的を昭和49年度までに大型トラック32%・中型トラック38%・普通トラック35%の市場占有率を獲得することだと説明した
- [19]昭和47年8月に普通トラックの占有率は32.4%となり、同年1月から6月の半期だけで普通ディーゼルトラックを2万3,676台生産して西ドイツのベンツ3万2,305台に次ぐ世界第2位となった
- 日経ビジネス 1972年3月20日号
- [6]日野自動車工業の管理部門を担当する荒川政司専務は、トヨタ自動車との提携は日野自動車にとって一つの思想革命だったと断言した
- [7]荒川専務は、形となって現われている効果はほんの一部にすぎず、ほんとうの効果は思想革命そのものにあると述べた
- [13]小型車部門は提携前の1万4000台から一時4000台まで落ち込んだ
- [14]トヨタ自動車の委託生産へ切り換えた後、小型車の販売は昭和46年9月期に5万8000台に達し、金額では124億円と全体の20%を占めた
- [15]3.5トン以上の普通トラックの国内シェアは提携前の17%から昭和46年9月期には27%へ10ポイント高まった
1974年〜石油危機下の社長交代と輸出企業への転換
日野の1973年度下期の売上高は半期で1,028億円に達し、初めて1,000億円を超えた。しかし資材費などが高騰し、税引後利益は17億8,000万円と前期を下回った。同じ時期、1973年10月の第4次中東戦争を機にペルシャ湾岸6か国が石油の供給制限に踏み切り、日本への供給は従来から25%削られた。原油価格も同年12月22日には1バレル11ドル60セントと2倍になった。それでも他社が減益減配を迫られるなかで、年1割2分の配当は据え置かれている。1974年3月期の売上高は1,949億円で、5年前の1969年3月期の732億円から2.7倍に伸びていた。石油危機は、成長の途中で来た。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [20]昭和48年度下期の売上高は半期1,000億円の大台を突破して1,028億円となったが、資材費などの高騰により税引後利益は17億8,000万円と前期を下回った
- [21]昭和48年10月の第4次中東戦争と同時にペルシャ湾岸6ヵ国が石油供給制限を発動し、日本・西ドイツなどに対しては従来の供給量の25%をカットする措置をとった
- [22]昭和48年12月22日に原油価格は11ドル60セントと2倍に跳ね上がった
- [23]他社が減益減配を余儀なくされるなかで日野は所要利益を確保し、年1割2分の配当を据え置くことができた
- 会社年鑑 1976年版「日野自動車工業」
- [24]日野自動車工業の売上高は1974年3月期1,949億円、1969年3月期732億円
1936年に東京帝国大学経済学部を卒業して東京瓦斯電気工業に入り、若いころは生産計画や生産管理といった工務の畑を歩いた荒川政司専務が、1974年5月30日の定時株主総会で松方正信に代わって社長となった。就任に際し荒川は幹部に対し、工場は生産を落とさず4万台を目指して動いているものの、会社を取り巻く状況は非常に厳しいと伝えた。まず、主力の普通トラックの国内需要が、4月15日の登録実績で前年同期比30%を超える落ち込みを見せていた。加えて資材・部品の値上がり分を売価に転嫁できず、4万台の中で採算の悪い輸出車の比率も大きく高まっていた。荒川は年内辛抱、新年躍進という青写真を示した。
- 日経ビジネス 1974年6月24日号
- [25]荒川政司は昭和11年に東京大学経済学部を卒業すると同時に東京瓦斯電気工業へ入社し、若いころは生産計画や生産管理の工務畑を歩んだ
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [26]昭和49年5月30日の定時株主総会終了後、松方正信社長に代わり荒川政司専務が社長へ昇格した
- [27]荒川新社長は就任の第一声で、工場は外部の厳しい環境にもかかわらず減産することなく4万台生産に向かって走っているが、実は会社をめぐる事態は極めて厳しいと述べた
- [28]荒川社長は厳しさの第1の原因として、普通トラックの国内需要が4月15日の登録実績を前年同期と比べると30%を越える落ち込みを示していることを挙げた
- [29]荒川社長は厳しさの第2・第3の原因として、資材・部品の値上がりを売価へ転嫁することが容易でないこと、4万台生産のうち採算性の劣る輸出車の占める割合が大きく増加していることを挙げた
- [30]荒川社長は年内辛抱、新年躍進という青写真を描いていると述べた
D号作戦は1975年2月に普通トラックの占有率35.3%を記録し、目標の35%を上回って完遂された。1973年5月にはすでに中型トラックの登録台数でも首位に立ち、大型と合わせてトラック業界の首位へ出ていた。だが1976年3月期の売上高は2,364億円と、前期の2,322億円からほぼ横ばいにとどまる。荒川は1976年の年頭に『わが日野自動車はいまや、輸出企業になったのであります』と訴え、当面の目標を年間3万台と定めた。輸出はすでに総生産台数の約3分の1に達していたが、その比率は国内需要の不振が生んだものでもあった。同じ1976年、提携から10年を迎えた羽村工場のトヨタ車生産は累計100万台に達した。直接作業者1人当たりの生産性は1967年度を100として335へ上がり、日野工場のディーゼル車部門も236へ伸びて、仕掛品の量は33まで減っている。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [31]昭和50年2月に市場占有率は35.3%に達し、目標値の35%を上回る実績を残してD号作戦は完遂された
- [32]昭和48年5月に中型トラックの登録台数でトップの座を獲得し、大型トラックと合わせて名実ともにトラック業界首位となった。その占有率は33.1%だった
- [34]荒川社長は昭和51年の年頭に、日野自動車はいまや輸出企業になったと述べ、当面の目標を年間3万台と定めると訴えた
- [35]当時の輸出はすでに総生産台数の約3分の1に達しており、その比率が国内需要の不振によって生じたことは否定できなかった
- [36]昭和51年に羽村工場のトヨタ車生産は累計100万台を達成した
- [37]羽村工場の直接作業者1人当たりの生産性は昭和42年度を100とすれば昭和51年度には335へ向上し、日野工場のディーゼル車の直接作業者1人当たり生産台数も昭和42年を100とすれば昭和51年には236へ向上して、仕掛品の量は100から33へ減少した
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- [33]日野自動車工業の売上高は1976年3月期2,364億円、1975年3月期2,322億円
参考文献[20]-[37]
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [20]昭和48年度下期の売上高は半期1,000億円の大台を突破して1,028億円となったが、資材費などの高騰により税引後利益は17億8,000万円と前期を下回った
- [21]昭和48年10月の第4次中東戦争と同時にペルシャ湾岸6ヵ国が石油供給制限を発動し、日本・西ドイツなどに対しては従来の供給量の25%をカットする措置をとった
- [22]昭和48年12月22日に原油価格は11ドル60セントと2倍に跳ね上がった
- [23]他社が減益減配を余儀なくされるなかで日野は所要利益を確保し、年1割2分の配当を据え置くことができた
- [26]昭和49年5月30日の定時株主総会終了後、松方正信社長に代わり荒川政司専務が社長へ昇格した
- [27]荒川新社長は就任の第一声で、工場は外部の厳しい環境にもかかわらず減産することなく4万台生産に向かって走っているが、実は会社をめぐる事態は極めて厳しいと述べた
- [28]荒川社長は厳しさの第1の原因として、普通トラックの国内需要が4月15日の登録実績を前年同期と比べると30%を越える落ち込みを示していることを挙げた
- [29]荒川社長は厳しさの第2・第3の原因として、資材・部品の値上がりを売価へ転嫁することが容易でないこと、4万台生産のうち採算性の劣る輸出車の占める割合が大きく増加していることを挙げた
- [30]荒川社長は年内辛抱、新年躍進という青写真を描いていると述べた
- [31]昭和50年2月に市場占有率は35.3%に達し、目標値の35%を上回る実績を残してD号作戦は完遂された
- [32]昭和48年5月に中型トラックの登録台数でトップの座を獲得し、大型トラックと合わせて名実ともにトラック業界首位となった。その占有率は33.1%だった
- [34]荒川社長は昭和51年の年頭に、日野自動車はいまや輸出企業になったと述べ、当面の目標を年間3万台と定めると訴えた
- [35]当時の輸出はすでに総生産台数の約3分の1に達しており、その比率が国内需要の不振によって生じたことは否定できなかった
- [36]昭和51年に羽村工場のトヨタ車生産は累計100万台を達成した
- [37]羽村工場の直接作業者1人当たりの生産性は昭和42年度を100とすれば昭和51年度には335へ向上し、日野工場のディーゼル車の直接作業者1人当たり生産台数も昭和42年を100とすれば昭和51年には236へ向上して、仕掛品の量は100から33へ減少した
- 会社年鑑 1976年版「日野自動車工業」
- [24]日野自動車工業の売上高は1974年3月期1,949億円、1969年3月期732億円
- 日経ビジネス 1974年6月24日号
- [25]荒川政司は昭和11年に東京大学経済学部を卒業すると同時に東京瓦斯電気工業へ入社し、若いころは生産計画や生産管理の工務畑を歩んだ
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- [33]日野自動車工業の売上高は1976年3月期2,364億円、1975年3月期2,322億円
1979年〜輸出3万台とトヨタ車受託生産による外需の積み上げ
1978年末に道路法が改正され、過積載の取り締まりが厳しくなった。これを境に需要が伸び、その中心は5トン車以上の大型トラックだった。普通トラックの国内販売は1979年に入って急回復し、1月から4月までの累計は6万2,500台と前年同期比31%増になった。だが1980年度上期には一転して落ち込み、大型車が前年同期比29%減、中型車が10%減となった。下期についても大型24%減、中型13%減が見込まれていた。首位に立った日野にとって総需要の減退は厳しい圧力であり、打開策は輸出の伸長に求められた。1980年3月期の売上高は3,648億円で、前期の3,291億円から伸びている。国内の景気に振られる度合いは、商用車へ絞ったことでかえって大きくなっていた。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [38]昭和54年に入ると国内の普通トラックの売れ行きは急速に好転しつつあった
- [39]昭和53年末の道路法改正にともなう過積載規制強化以来、需要は5トン車以上の大型トラックを中心に急増し、昭和54年1月から4月の累計は6万2,500台と前年同期を31%上回った
- [40]昭和55年度上期は大型車が前年同期比29%減・中型車が10%減で合計20%減、下期見通しも大型車24%減・中型車13%減と予測された
- [41]トップメーカーとなった日野にとって総需要の減退は厳しいプレッシャーであり、打開策は輸出の伸長しかなかった
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- [42]日野自動車工業の売上高は1980年3月期3,648億円、1979年3月期3,291億円
1980年初めの輸出計画は2万5,000台だったが、実績は2万9,000台とこれを大きく超え、3万台の目標に迫った。11月の海外事業本部全体会議には、海外各地に駐在する8か国13名が出席した。荒川が輸出増加の要因に挙げたのは、海外需要の増加と日野車の商品力だけではなかった。各国向けの適合仕様車の開発、補給部品の供給を含むアフターサービス体制、技術指導の要員派遣といった市場培養の努力を並べている。そのうえで1981年度の目標を3万台プラスアルファ、次の目標を4万台と定めた。タイでは1964年に設立したタイヒノ・インダストリーがCKD部品を輸入して組み立て、タイ日野モーターセールスが販売する体制を敷いていた。1982年12月にはインドネシアに合弁でP.T.ヒノ・インドネシア・マニュファクチャリングを設立している。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [43]昭和55年初めの輸出計画は2万5,000台だったが、実績は早くも2万9,000台となり3万台目標に迫った
- [44]昭和55年11月18日・19日の海外事業本部全体会議には東南アジア・中近東・欧州・中南米ほか海外各地で活躍中の8ヵ国13名の駐在員が出席した
- [45]荒川社長は輸出増加の基本的要因を、海外需要が増加したことと日野車の商品力が内外のライバルを凌駕したことにあると述べた
- [46]荒川社長はこれに加えて、各国に対する適格仕様車の適時開発、補給部品の供給を含むアフターサービス体制の成熟、随時要員を派遣しうる技術指導体制の整備などの市場培養の努力を挙げた
- [47]荒川社長は昭和56年度輸出目標を3万台プラスアルファとし、次の目標として4万台計画を策定したいと述べた
- [48]タイでは主要販売車種の大・中型トラックを、一部の現地調達部品を除きタイ日野工業がCKDで輸入・組み立てたものをタイ日野モーターセールスが仕入れて販売する体制をとっていた
- 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
- [49]1964年7月 日野自動車工業がタイヒノ・インダストリーCo., LTD.を共同出資により設立、1982年12月 P.T.ヒノ・インドネシア・マニュファクチャリングを共同出資により設立
羽村工場は1980年7月31日にカリーナの生産を通算14万7,635台で打ち切り、トヨタ自動車の要請にもとづいて前輪駆動のターセル・コルサへ切り換えた。8月21日には耐蝕性を3倍に高めるカチオン電着塗装を備えた新塗装工場が完成し、10月31日にターセル・コルサの1号車がラインオフした。同じ1980年10月29日には、群馬県新田郡新田町に日野・羽村に次ぐ第3の工場となる新田工場が完成している。敷地面積39万3,932平方メートル、当初の従業員は103名で、機械課と鋳造課を置く部品工場であった。売上高は1985年3月期に4,443億円へ達した。日野は受託生産と輸出の二つによって、国内のトラック需要が振れても工場を止めずに済む体制を作った。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [50]昭和55年7月31日、通算14万7,635台を生産したカリーナはトヨタ自動車からの要請に基づいて最終車を見送り、FF車のターセル・コルサに切り換わった
- [51]羽村工場は昭和55年8月21日に小型車の新塗装工場を完成させ、最新鋭のフルディップカチオン塗装により耐蝕性を3倍に高めた
- [52]ターセル・コルサの1号車がラインオフしたのは昭和55年10月31日である
- [53]新田工場の完成式典は昭和55年10月29日に行なわれ、所在地は群馬県新田郡新田町だった。新田工場は日野・羽村両工場に次ぐ第3の工場と位置づけられた
- [54]新田工場の敷地面積は39万3,932平方メートル、当初従業員は103名で、組織は事務課・機械課・鋳造課の3課でスタートした
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- [55]日野自動車工業の売上高は1985年3月期4,443億円
参考文献[38]-[55]
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- [38]昭和54年に入ると国内の普通トラックの売れ行きは急速に好転しつつあった
- [39]昭和53年末の道路法改正にともなう過積載規制強化以来、需要は5トン車以上の大型トラックを中心に急増し、昭和54年1月から4月の累計は6万2,500台と前年同期を31%上回った
- [40]昭和55年度上期は大型車が前年同期比29%減・中型車が10%減で合計20%減、下期見通しも大型車24%減・中型車13%減と予測された
- [41]トップメーカーとなった日野にとって総需要の減退は厳しいプレッシャーであり、打開策は輸出の伸長しかなかった
- [43]昭和55年初めの輸出計画は2万5,000台だったが、実績は早くも2万9,000台となり3万台目標に迫った
- [44]昭和55年11月18日・19日の海外事業本部全体会議には東南アジア・中近東・欧州・中南米ほか海外各地で活躍中の8ヵ国13名の駐在員が出席した
- [45]荒川社長は輸出増加の基本的要因を、海外需要が増加したことと日野車の商品力が内外のライバルを凌駕したことにあると述べた
- [46]荒川社長はこれに加えて、各国に対する適格仕様車の適時開発、補給部品の供給を含むアフターサービス体制の成熟、随時要員を派遣しうる技術指導体制の整備などの市場培養の努力を挙げた
- [47]荒川社長は昭和56年度輸出目標を3万台プラスアルファとし、次の目標として4万台計画を策定したいと述べた
- [48]タイでは主要販売車種の大・中型トラックを、一部の現地調達部品を除きタイ日野工業がCKDで輸入・組み立てたものをタイ日野モーターセールスが仕入れて販売する体制をとっていた
- [50]昭和55年7月31日、通算14万7,635台を生産したカリーナはトヨタ自動車からの要請に基づいて最終車を見送り、FF車のターセル・コルサに切り換わった
- [51]羽村工場は昭和55年8月21日に小型車の新塗装工場を完成させ、最新鋭のフルディップカチオン塗装により耐蝕性を3倍に高めた
- [52]ターセル・コルサの1号車がラインオフしたのは昭和55年10月31日である
- [53]新田工場の完成式典は昭和55年10月29日に行なわれ、所在地は群馬県新田郡新田町だった。新田工場は日野・羽村両工場に次ぐ第3の工場と位置づけられた
- [54]新田工場の敷地面積は39万3,932平方メートル、当初従業員は103名で、組織は事務課・機械課・鋳造課の3課でスタートした
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- [42]日野自動車工業の売上高は1980年3月期3,648億円、1979年3月期3,291億円
- [55]日野自動車工業の売上高は1985年3月期4,443億円
- 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
- [49]1964年7月 日野自動車工業がタイヒノ・インダストリーCo., LTD.を共同出資により設立、1982年12月 P.T.ヒノ・インドネシア・マニュファクチャリングを共同出資により設立
筆者考察
トヨタとの提携が日野に与えたのは販路ではなく、ものの作り方だった。1966年12月から翌年4月までに延べ1,200名が実習へ出て、パブリカバンの生産をトヨタで行われているままの状態で持ち帰った。学んだ側は羽村工場にとどまらず、大型車を作る日野工場でも直接作業者1人当たりの生産台数を2倍以上に上げ、仕掛品を3分の1へ減らしている。乗用車から降りるという撤退が設備と人員の振り替えで済み、しかも残った商用車部門がかえって強くなったのは、この提携を事業の入れ替えではなく生産思想の入れ替えとして実行したからである。荒川政司が思想革命と呼んだのは、その順序のことだった。
商用車に絞った会社は、国内の設備投資と物流の増減をそのまま業績で受ける。1971年のD号作戦は占有率という一点に自工・自販・販売店を並べる装置であり、1975年2月に35.3%で完遂されたが、日野は首位を取った直後に石油危機後の需要減に見舞われた。荒川が1976年の年頭に輸出企業への脱皮を掲げ、年間3万台という数字を置いたのは、国内の振幅を外で埋める以外に道がなかったからである。1980年に輸出を2万9,000台まで積み上げたことと、羽村でターセル・コルサの受託生産を引き受けたことは、国内のトラック需要が減少しても工場を止めないという一つの狙いに向いていた。
1969年〜1985年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1969年03月期 | 単体 | 732 | n/a | n/a | n/a | 27 | 3.7% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 952 | +30.1% | n/a | n/a | 30 | 3.2% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,224 | +28.6% | n/a | 56 | 35 | 2.9% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,208 | ▲1.3% | n/a | 58 | 35 | 2.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,470 | +21.7% | n/a | 63 | 40 | 2.7% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,949 | +32.6% | n/a | 64 | 42 | 2.2% | 日野ヨーロッパを設立(1974) |
| 1975年03月期 | 単体 | 2,322 | +19.1% | n/a | 51 | 30 | 1.3% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 2,364 | +1.8% | n/a | 51 | 29 | 1.3% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 2,549 | +7.8% | n/a | 50 | 29 | 1.1% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 2,956 | +16.0% | n/a | 55 | 32 | 1.1% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 3,291 | +11.3% | n/a | 85 | 41 | 1.3% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 3,648 | +10.8% | n/a | 110 | 53 | 1.5% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 3,893 | +6.7% | 43 | 80 | 46 | 1.2% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 4,200 | +7.9% | n/a | 116 | 58 | 1.4% | 日野インドネシア製造を設立(1982) |
| 1983年03月期 | 単体 | 3,964 | ▲5.6% | n/a | 82 | 47 | 1.2% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 3,926 | ▲0.9% | n/a | 63 | 42 | 1.1% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 4,443 | +13.2% | n/a | 82 | 42 | 1.0% | 米国に日野ディーゼルトラックスを設立(1985)御前山テストコースが稼働(1985) |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- 日野自動車 有価証券報告書 第113期(2025年3月期)【沿革】
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)
- 会社年鑑 1976年版「日野自動車工業」
- 会社年鑑 1986年版「日野自動車工業」
- 日経ビジネス 1972年3月20日号
- 日経ビジネス 1974年6月24日号