第2章 年〜年

船井電機:家庭用製パン器とVTRによる国内市場参入

東莞・中山への生産集約が生んだレックスマーク向けOEM

1987年〜製パン器とVTRによる国内市場参入と流通での躓き

創業以来輸出一筋だった同社は、1987年2月に家庭用製パン器、同年3月にVTRを製品化して国内市場に乗り込んだ。その引き金は1986年の円高で、NIES(新興工業経済群)諸国、とりわけ韓国の製品が安値で国内に流入したが、価格でも品質でも海外市場ではもう韓国製品を上回っているのだから、円高下でも国内で十分に戦えると船井社長は読んだ。もっとも据え置き型VTRの国内市場では松下電器産業など大手5社がほぼ8割を押さえ、後発の食い込む余地は小さかった。それでも参入したのは、価格で競争できるという自信があってのことだった。自動製パン器のヒットと低価格の輸入家電製品のブームに乗り、国内の売上は一時急速に伸びた。市場を新しく開くのではなく、既にある市場の価格帯を下から破りに行く参入だった。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [1]1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化して国内市場に乗り出した
    • [2]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
    • [3]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
    • [4]据え置き型VTRは松下電器など大手5社で80%近いシェアを占め、後発メーカーの参入は容易ではなかった
    • [5]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [6]プラザ合意後の87年に輸出専業から転向して国内市場に参入し、自動製パン器のヒットや低価格の輸入家電製品ブームで一時は急速に売り上げを伸ばした

馬場永久氏は、大手オーディオメーカーで30年間、国内の営業を担ってきた人物である。船井電機がこの人を東京フナイの取締役営業本部長に迎えたことで、国内での売り先の方針はようやく固まった。それ以前、国内に入った直後の同社は、値引きの大きさを看板にする問屋や通信販売の業者へ、自分から製品を流していた。その結果、世間は船井を安売りのメーカーと見るようになった。家電量販店は取り扱いをやめ、百貨店や大手スーパーも取引を受け付けなかった。2カ月後には通信販売業者と現金問屋のルートへの出荷を全面的に止め、量販店の信頼回復に努めた。全国70カ所以上の量販店の9割以上が船井電機の製品を扱うようになり、取扱店はスーパーや百貨店を含めて5,000店を超えた。国内販売を担う会社の営業担当者は常務を含めて48人にすぎず、1人で150店舗ほどを回った。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [7]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [8]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [9]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [10]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [11]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [12]フナイ販売の営業マンは稗田常務を含めて48人で、1人で150店舗ほどをカバーした

1987年、船井電機は録画専用VTRを店頭価格2万5000円で発売した。当時の韓国製品はおよそ2万3000円だった。1988年ごろに店頭に並んだノーマル型の録画再生VTRも3万5000円前後だった。同機能を持つ国内メーカー品の最安値と比べても1万円以上安い水準だった。参入から2年後の1989年上半期には、国内の据え置き型VTR市場でのシェアが7%に達したとされる。他方、韓国製VTRは不良品の多さとアフターサービス体制の不備によって量販店の店頭から扱われなくなり、日本市場から消えていった。低価格の家庭用ビデオデッキと自動製パン器が、船井電機を代表する製品になった。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [13]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [14]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [15]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [16]参入2年後の89年上半期には国内市場で7%のシェアを取ったと言われた
    • [17]韓国製VTRは不良品の多さとアフタサービス体制がないため量販店で扱えず、日本市場から姿を消したと言ってよい状態になった
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [18]日本では低価格の家庭用ビデオデッキ(VTR)と自動製パン器のイメージが強い
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [1]1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化して国内市場に乗り出した
    • [2]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
    • [3]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
    • [4]据え置き型VTRは松下電器など大手5社で80%近いシェアを占め、後発メーカーの参入は容易ではなかった
    • [5]1986年からの円高で韓国など NIES 製品が低価格を武器に日本市場へ参入し、船井哲良社長は円高になっても海外では韓国製品に価格・品質で勝っているのだから国内でも十分太刀打ちできるとして、価格で勝負を掛けられる自信があったと述べた
    • [7]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [8]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [9]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [10]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [11]参入直後に極端な値引きを売り物にする問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸したことを馬場永久取締役は致命的なミスと述べた。量販店・百貨店・大手スーパーが取引を拒否したため2カ月後に通販業者・現金問屋ルートへの出荷を全面的に止め、全国70カ所以上の量販店の9割以上が取り扱うようになり取扱店は5,000店を超えた
    • [13]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [14]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [15]87年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で韓国製品は2万3000円ぐらいだった。88年ごろのノーマルタイプの録画再生VTRは3万5000円前後で、国内メーカーの同機能で最も安い製品との価格差は1万円以上あった
    • [16]参入2年後の89年上半期には国内市場で7%のシェアを取ったと言われた
    • [17]韓国製VTRは不良品の多さとアフタサービス体制がないため量販店で扱えず、日本市場から姿を消したと言ってよい状態になった
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [6]プラザ合意後の87年に輸出専業から転向して国内市場に参入し、自動製パン器のヒットや低価格の輸入家電製品ブームで一時は急速に売り上げを伸ばした
    • [18]日本では低価格の家庭用ビデオデッキ(VTR)と自動製パン器のイメージが強い
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [12]フナイ販売の営業マンは稗田常務を含めて48人で、1人で150店舗ほどをカバーした

1990年〜低価格路線の失速と英国工場閉鎖からの生産集約

1988年6月期に3.2%だった売上高経常利益率は、翌1989年6月期に1.0%まで低下した。1990年6月期の国内売上高は当初200億円を見込んでいたが、150億円から170億円のあいだへ下方修正した。1991年に国内売上高比率を30%へ高める中期経営計画も、10%前後にとどまる見通しで見直しを迫られた。国内市場ではノーマルタイプのVTRの比率が1988年の約45%から27〜28%まで下がっていた。国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すようになり、船井電機の価格競争力は低下した。国内販売を担うフナイ販売は1990年6月期に赤字となり、人員を100人前後減らして営業所を6カ所閉じた。得意な価格帯そのものが縮んだため、低価格の一本足では国内で伸びを続けられなくなった。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [19]88年6月期に3.2%だった売上高経常利益率は89年6月期に1.0%まで落ち込んだ
    • [20]90年6月期の国内売上高は当初200億円の見込みを150億〜170億円へ下方修正し、91年に国内売上高比率を30%まで高める中期経営計画も同比率が10%前後にとどまる見通しで事実上の見直しを迫られた
    • [21]90年6月期の国内売上高は当初200億円の見込みを150億〜170億円へ下方修正し、91年に国内売上高比率を30%まで高める中期経営計画も同比率が10%前後にとどまる見通しで事実上の見直しを迫られた
    • [22]88年の国内市場でノーマルタイプが約45%を占めていたが27〜28%まで低下し、国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すため船井電機の価格競争力が低下した
    • [23]88年の国内市場でノーマルタイプが約45%を占めていたが27〜28%まで低下し、国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すため船井電機の価格競争力が低下した
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [24]90年6月期にフナイ販売が赤字となり、人員を100人前後減らして営業所を6カ所閉じた

1992年、欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定され、英国工場の閉鎖に追い込まれた。そこへ北米の不況と価格競争の激化が重なり、1992年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%減少した。経常利益は3億円と、赤字の一歩手前まで下がった。船井電機はAV不況に見舞われた局面で、海外向けの在庫などを大手メーカーより早い段階でまとめて処分した。足元の水準は、1988年6月期に記録した過去最高の35億円の10分の1にも届かない。本体の数字は子会社の赤字にも大きく左右されるため、同社は子会社を数で増やす道を捨て、柱になる子会社に力を集める方針に転じた。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [25]1992年に欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定されて英国工場が閉鎖に追い込まれ、北米の不況と価格競争激化が重なって92年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%落ち込んだ
    • [26]1992年に欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定されて英国工場が閉鎖に追い込まれ、北米の不況と価格競争激化が重なって92年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%落ち込んだ
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [27]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
    • [28]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
    • [29]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [30]船井哲良社長は、子会社が赤字になると本体の業績に大きな影響を与えるとして、子会社を多数設立するのではなく主力となる子会社を強化する必要があると述べた
    • [31]船井哲良社長は、子会社が赤字になると本体の業績に大きな影響を与えるとして、子会社を多数設立するのではなく主力となる子会社を強化する必要があると述べた

船井電機は主力商品の生産拠点を絞り込み、VTRは中国の東莞工場へ、VTR一体型テレビはマレーシア工場へ集約して国内工場を縮小した。シンガポールと台湾の工場は閉鎖し、1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した。テレビとテレビデオの生産は1994年までにマレーシアとシンガポールの現地法人へほぼ移った。VTRも中国への生産委託が進み、1993年2月以降は中国で最終組み立てができるようになった。部品も香港の調達センターを通じ、テレビとVTRのいずれも金額で90%以上をドルで調達した。同じ時期の大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度にとどまっていた。本社機能の一部も新大阪駅前のビルから大阪府大東市の本社敷地内の仮設建屋へ移した。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [32]主力商品の生産拠点をVTRは中国・東莞工場に、VTR一体型テレビはマレーシア工場に集約して国内工場を縮小し、シンガポールと台湾の工場は閉鎖した。95年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
    • [33]主力商品の生産拠点をVTRは中国・東莞工場に、VTR一体型テレビはマレーシア工場に集約して国内工場を縮小し、シンガポールと台湾の工場は閉鎖した。95年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [34]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [35]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [36]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [37]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [38]フナイ販売の本社を JR 新大阪駅前の一等地のビルから大阪府大東市の船井電機本社敷地内の仮設プレハブへ移した
参考文献[19]-[38]
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [19]88年6月期に3.2%だった売上高経常利益率は89年6月期に1.0%まで落ち込んだ
    • [20]90年6月期の国内売上高は当初200億円の見込みを150億〜170億円へ下方修正し、91年に国内売上高比率を30%まで高める中期経営計画も同比率が10%前後にとどまる見通しで事実上の見直しを迫られた
    • [21]90年6月期の国内売上高は当初200億円の見込みを150億〜170億円へ下方修正し、91年に国内売上高比率を30%まで高める中期経営計画も同比率が10%前後にとどまる見通しで事実上の見直しを迫られた
    • [22]88年の国内市場でノーマルタイプが約45%を占めていたが27〜28%まで低下し、国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すため船井電機の価格競争力が低下した
    • [23]88年の国内市場でノーマルタイプが約45%を占めていたが27〜28%まで低下し、国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すため船井電機の価格競争力が低下した
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [24]90年6月期にフナイ販売が赤字となり、人員を100人前後減らして営業所を6カ所閉じた
    • [27]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
    • [28]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
    • [29]AV不況の際に大手メーカーに先駆けて海外向け在庫などを一気に処分し、92年6月期の経常利益は3億円と赤字直前まで落ち込んだ。過去最高は88年6月期の35億円
    • [34]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [35]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [36]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [37]テレビ・テレビデオの生産はマレーシア・シンガポールの現地法人にほぼ移管し、VTRは中国への生産委託が進んで93年2月以降は中国でも最終組み立てが可能になった。部品は香港の調達センターを通じテレビ・VTRとも金額で90%以上をドルで調達し、大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度だった
    • [38]フナイ販売の本社を JR 新大阪駅前の一等地のビルから大阪府大東市の船井電機本社敷地内の仮設プレハブへ移した
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [25]1992年に欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定されて英国工場が閉鎖に追い込まれ、北米の不況と価格競争激化が重なって92年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%落ち込んだ
    • [26]1992年に欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定されて英国工場が閉鎖に追い込まれ、北米の不況と価格競争激化が重なって92年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%落ち込んだ
    • [32]主力商品の生産拠点をVTRは中国・東莞工場に、VTR一体型テレビはマレーシア工場に集約して国内工場を縮小し、シンガポールと台湾の工場は閉鎖した。95年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
    • [33]主力商品の生産拠点をVTRは中国・東莞工場に、VTR一体型テレビはマレーシア工場に集約して国内工場を縮小し、シンガポールと台湾の工場は閉鎖した。95年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [30]船井哲良社長は、子会社が赤字になると本体の業績に大きな影響を与えるとして、子会社を多数設立するのではなく主力となる子会社を強化する必要があると述べた
    • [31]船井哲良社長は、子会社が赤字になると本体の業績に大きな影響を与えるとして、子会社を多数設立するのではなく主力となる子会社を強化する必要があると述べた

1994年〜価格から逆算する開発とレックスマーク向けプリンターOEM

1989年、船井電機は岡山県津山工場の開発技術陣を大阪本社に集め、設計と購買の力を低価格品の開発に振り向けた。商品企画の順序も、買い手が引かれる値段を先に置き、そこへ向けて原価を削る形をとった。テレビデオは1985年から米国で売られていたが、14インチカラーテレビと据え置き型VTRを別々に買うより高く、伸び悩んでいた。同社は1足す1を1.8にするという考え方で価格から設計をやり直し、1992年に画2マンシリーズとして投入すると、店頭価格は5万円を下回り、量販店での販売実績で松下電器産業を抜いて首位に立った。低価格の製品を量産するだけでは安物メーカーという評価が付き、適正な利潤を確保できなくなる。国内へ出たことで、OEM専門の時期には考える必要の無かった課題が生じた。

  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [39]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [40]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [41]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [42]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [43]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [44]低価格製品を量産化するだけでは国内では安物メーカーのレッテルを貼られ、メーカーとしての適正な利潤を確保できなくなる。OEM専門の時は考える必要がなかった課題である
    • [45]低価格製品を量産化するだけでは国内では安物メーカーのレッテルを貼られ、メーカーとしての適正な利潤を確保できなくなる。OEM専門の時は考える必要がなかった課題である

船井電機は1994年ごろからインクジェットプリンターの研究開発に着手した。組んだ相手は米国のプリンター専業メーカー、レックスマークインターナショナルである。レックスマークは1991年に米IBMから分離独立した会社で、インクジェットでは先発大手3社に大きく水をあけられていた。中国の中山工場で低価格プリンターの大量生産を開始し、完成品は全量をレックスマークへOEM供給した。1997年6月に発売された1号機は、同等の印刷性能で100ドルを切る価格で登場した。当時の大手3社で最も安い機種は200ドル前後だった。設計段階から原価を詰めたのは、事務機器より価格競争の厳しいAV機器の発想によるもので、部品点数は他社製品の半分になった。月間の生産台数は1999年初めに50万台へ達した。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [46]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [47]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [48]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [49]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [50]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [51]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [52]中山工場の清本隆総経理は、事務機器よりずっと価格競争が厳しいAV機器の発想で設計段階からコストダウンを徹底し、発売当時の他社製品に比べ部品点数は半分だと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [53]インクジェットプリンターの月間生産台数が50万台に達している

1996年6月期から4期連続で増収増益となり、1999年2月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した。1999年6月期の情報通信機器の売上高は、単体で前期の約164億円から約262億6000万円へ6割近く増えた。主力の映像機器は北米の価格下落で減ったが、連結営業利益率は8.68%と松下電器産業の2.5%やソニーの5.0%を上回った。株主資本利益率は40.7%に達し、株価は公開から8カ月で約10倍の4万7000円台へ上昇した。この水準に至るまでに、1994年6月期からの5年間で海外子会社の清算などに伴う特別損失を約151億円計上している。1970年代に1,600人を超えた国内工場の従業員は約400人まで減った。高い収益率は新しい市場を開いて得たものではなく、工場を閉じ続けた末に残った数字だった。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [54]96年6月期から4期連続で増収増益を達成した
    • [56]99年6月期の情報通信機器の売上高(単体)は前期の約164億円から約262億6000万円へ6割近く増加した
    • [57]99年6月期の映像機器の売上高(単体)は北米市場での価格下落により約1104億3000万円から約1059億2000万円へ減少したが、連結営業利益率は8.64%から8.68%へ上昇し、松下電器産業2.5%・ソニー5.0%を上回った
    • [58]99年6月期の連結株主資本利益率は40.7%で、株価は公開から8カ月で約10倍の4万7000円台へ上昇した
    • [59]94年6月期からの5年間に海外子会社の清算などに伴う特別損失を合計約151億円計上した
    • [60]70年代に1,600人を超えた国内工場の従業員は今や4分の1の約400人になった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1999年2月に大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
参考文献[39]-[60]
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [39]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [40]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [41]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [42]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
    • [43]消費者にアピールする価格をまず設定しそれに合わせてコストを削減する開発体制をとり、89年に津山工場の開発技術スタッフを大阪本社に集結して設計・マーケティング・購買部門と一体で低価格製品を開発した。85年から米国で発売していたテレビデオは14インチ型カラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを足した価格を大きく上回って売れ行きが振るわず、1+1が1.8になるコンセプトで開発した92年発売の画2マンシリーズは実売5万円を切り、テレビデオの売れ行きで松下電器産業を抑えてトップになった
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [44]低価格製品を量産化するだけでは国内では安物メーカーのレッテルを貼られ、メーカーとしての適正な利潤を確保できなくなる。OEM専門の時は考える必要がなかった課題である
    • [45]低価格製品を量産化するだけでは国内では安物メーカーのレッテルを貼られ、メーカーとしての適正な利潤を確保できなくなる。OEM専門の時は考える必要がなかった課題である
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [46]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [47]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [48]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [49]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [50]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [51]5年前からインクジェットプリンターの研究開発に着手し、91年に米IBMから分離独立したレックスマークインターナショナルと組んで中山工場で低価格プリンターの大量生産に乗り出した。完成品は全量をレックスマークにOEM供給し、97年6月発売の1号機1100は大手3社の最安機種が200ドル前後のところ同等の印刷性能で100ドルを切る価格だった
    • [52]中山工場の清本隆総経理は、事務機器よりずっと価格競争が厳しいAV機器の発想で設計段階からコストダウンを徹底し、発売当時の他社製品に比べ部品点数は半分だと述べた
    • [54]96年6月期から4期連続で増収増益を達成した
    • [56]99年6月期の情報通信機器の売上高(単体)は前期の約164億円から約262億6000万円へ6割近く増加した
    • [57]99年6月期の映像機器の売上高(単体)は北米市場での価格下落により約1104億3000万円から約1059億2000万円へ減少したが、連結営業利益率は8.64%から8.68%へ上昇し、松下電器産業2.5%・ソニー5.0%を上回った
    • [58]99年6月期の連結株主資本利益率は40.7%で、株価は公開から8カ月で約10倍の4万7000円台へ上昇した
    • [59]94年6月期からの5年間に海外子会社の清算などに伴う特別損失を合計約151億円計上した
    • [60]70年代に1,600人を超えた国内工場の従業員は今や4分の1の約400人になった
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [53]インクジェットプリンターの月間生産台数が50万台に達している
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1999年2月に大阪証券取引所市場第二部に株式を上場

筆者考察

1987年の国内市場参入で、船井電機は自社の強みが日本では通用しないことを確かめることになった。米国ではバイヤーが価格と品質と納期だけで発注を決めたが、日本では系列店と付き合いの深さが取引を左右した。参入直後に極端な値引きをする問屋へ製品を流したため、量販店と百貨店から締め出される。出荷を止めて信頼を回復し、取扱店を5,000店まで広げても、伸びは続かなかった。得意なノーマルタイプのVTRの構成比が45%から27%台へ落ち、大手が3万円前後で同じ機能を出してきたからである。安く作る力は、その価格帯が市場に残っているあいだしか効かない。

行き詰まりからの出口は、売り先を増やすことではなく作る場所を絞ることだった。1992年に英国工場をダンピング課税で失い、売上高が前年比25%、経常利益が85%低下した後、船井電機はVTRを中国の東莞へ、VTR一体型テレビをマレーシアへ寄せ、シンガポールと台湾を閉じた。5年間で約151億円の特別損失を出し、国内工場の従業員を1,600人から約400人へ減らしている。その原価で作った100ドルのインクジェットプリンターが、レックスマーク経由で米国市場に投入された。1999年6月期の株主資本利益率40.7%は、新しい市場を開いて得た数字ではなく、閉じ続けた末に残った数字である。

経常利益(単体)の推移 1988年6月期〜1998年6月期(億円)

35 88/6期 3 92/6期 23 93/6期 49.5 98/6期
  • 1988年6月期から1993年6月期は日経ビジネス1994年2月14日号、1998年6月期は証券アナリストジャーナル1999年3月号による。
  • いずれも単体の経常利益で、連結の数字は含まない。

出典・参考

5件
出典・参考
  • 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号

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