第1章 年〜年

船井電機:船井電機の設立と変動相場制下の海外工場展開

船井ミシン商会の創業からFPSによる低価格量産へ

1951年〜ミシン商会から生まれた輸出専業の家電メーカー

1951年4月、船井哲良氏が大阪でミシンの卸商・船井ミシン商会を興した。翌1952年12月には株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就任している。そこから電機の量産へ移り、1959年には輸出用トランジスタラジオを手掛けはじめた。1961年8月、このラジオ部門を分離し、大阪市生野区に資本金2,000万円で船井電機株式会社を設立した。設立の2年前から輸出用ラジオを手掛けていたため、量産と輸出の体制は創業の時点で既に動いていた。輸出産業として出発したことが、その後の為替対応の前提になった。国内ではほとんど売らず、米欧の大手メーカーと流通業者への相手先ブランドによる生産に徹する輸出専業メーカーとして出発した。

  • 有価証券報告書【役員の状況】
    • [1]昭和26年4月に船井哲良氏が船井ミシン商会を創業し、昭和27年12月に株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就いた
    • [2]昭和26年4月に船井哲良氏が船井ミシン商会を創業し、昭和27年12月に株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就いた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [3]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
    • [5]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
    • [6]船井哲良社長は当社のスタートは輸出産業であると述べ、以後の為替対応の前提に置いた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1961年8月に大阪市生野区に資本金20百万円で船井電機株式会社を設立
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [7]1961年の創業以来、海外へのOEM供給で成長してきた

輸出先の開拓は会社の設立より前から始まっていた。1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に進出した。1963年にはオープンリール式のテープレコーダーを製作し、そこから派生した8トラックカーステレオでは世界最大の生産台数を確保した。1964年3月には広島県深安郡(現福山市)に生産子会社の中国船井電機を設立した。取引先はGE、フィリップスといった米欧の大手電機メーカーや、シアーズ・ローバックなどの大手流通業者である。船井電機の競争優位の源泉は『低価格、安定した品質、納期の正確さ』の3点にあり、技術の先進性でも自社ブランドでもなかった。回転機構を扱うメカトロニクスの技術は、この時期の製品群を通じて社内に蓄積された。

  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [8]1960年に米軍信託委任統治下の沖縄へ最初に海外進出した
    • [9]1960年に米軍信託委任統治下の沖縄へ最初に海外進出した
    • [10]1963年にオープンリールのテープレコーダーを製作し、8トラックカーステレオで世界最大の生産台数となった
    • [14]メカトロニクスの回転機器の技術が30年前から社内に蓄積されていた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1964年3月に広島県深安郡(現福山市)に生産会社の中国船井電機を設立
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [12]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した
    • [13]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した

松下電器産業をはじめ国内の大手メーカーは自社の系列店を抱えていたが、輸出専門だった船井電機に系列店は無かった。1965年ごろにはカセットのダブルデッキの量産に移り、回転機構を持つ機器へ製品の幅を広げた。取引相手は米欧の大手電機メーカーや流通業者で、受注の可否は仕入れを担うバイヤー一人の判断に委ねられていた。長い付き合いや人とのつながりがものを言う国内のような商慣行は通用せず、米国ではメーカー間にも販売業者間にも仲間内の意識がないため、応えられなくなった取引先は取引歴の長さに関係なくすぐ切られた。常に価格・品質・納期の三つだけで測られる、この取引の条件こそが、同社の原価への向き合い方を決めた。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [15]松下電器産業をはじめ大手メーカーは自社の系列店を持つが、輸出専門だった船井電機に系列店は無かった
    • [18]国内市場では体制や制度面の障壁ではなく人間関係や付き合いの深さが商売に直結する
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [16]昭和40年ごろにカセットのダブルデッキを生産した
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [17]船井哲良社長は、米国ではメーカー同士や販売業者との仲間意識が無く、バイヤーの期待に応えられないメーカーは長年の取引があっても即座に切り捨てられると述べた
    • [19]船井哲良社長は、米国ではメーカー同士や販売業者との仲間意識が無く、バイヤーの期待に応えられないメーカーは長年の取引があっても即座に切り捨てられると述べた
参考文献[1]-[19]
  • 有価証券報告書【役員の状況】
    • [1]昭和26年4月に船井哲良氏が船井ミシン商会を創業し、昭和27年12月に株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就いた
    • [2]昭和26年4月に船井哲良氏が船井ミシン商会を創業し、昭和27年12月に株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就いた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [3]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
    • [5]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
    • [6]船井哲良社長は当社のスタートは輸出産業であると述べ、以後の為替対応の前提に置いた
    • [8]1960年に米軍信託委任統治下の沖縄へ最初に海外進出した
    • [9]1960年に米軍信託委任統治下の沖縄へ最初に海外進出した
    • [10]1963年にオープンリールのテープレコーダーを製作し、8トラックカーステレオで世界最大の生産台数となった
    • [14]メカトロニクスの回転機器の技術が30年前から社内に蓄積されていた
    • [16]昭和40年ごろにカセットのダブルデッキを生産した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1961年8月に大阪市生野区に資本金20百万円で船井電機株式会社を設立
    • [11]1964年3月に広島県深安郡(現福山市)に生産会社の中国船井電機を設立
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [7]1961年の創業以来、海外へのOEM供給で成長してきた
    • [12]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した
    • [13]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した
    • [15]松下電器産業をはじめ大手メーカーは自社の系列店を持つが、輸出専門だった船井電機に系列店は無かった
    • [18]国内市場では体制や制度面の障壁ではなく人間関係や付き合いの深さが商売に直結する
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [17]船井哲良社長は、米国ではメーカー同士や販売業者との仲間意識が無く、バイヤーの期待に応えられないメーカーは長年の取引があっても即座に切り捨てられると述べた
    • [19]船井哲良社長は、米国ではメーカー同士や販売業者との仲間意識が無く、バイヤーの期待に応えられないメーカーは長年の取引があっても即座に切り捨てられると述べた

1971年〜ニクソンショックと変動相場制が促した工場の国外分散

1971年のニクソンショックによる円高は輸出専業の船井電機に大きな打撃を与え、その後も断続的な円高が続いた。円が1973年に変動相場制へ移ると、為替の動きは一過性のものではなく、常に付きまとう条件になった。同社は海外への工場展開を加速させ、円高を越えて国際競争力を保つことをその後の経営の軸に置き続けた。競争力を失えば会社そのものが立ち行かなくなるとの認識から、1ドル60円でも利益が出る体制さえ一時は検討したとされる。相場の行方は読めない以上、どんな水準でも生き残れる原価まで下げるしか手はなかった。こうした20年余りの危機意識が、やがて社風として定着した。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [20]1971年のニクソンショックによる円高で大打撃を受け、その後も断続的な円高に悩まされ続けた
    • [23]20年以上にわたり強い危機感にさらされ続けた結果、危機感を持つことが社風として定着した
    • [24]輸出メーカーは国際競争力を失えばたちまち潰れるとして、一時は1ドル60円の体制まで検討した
    • [25]20年以上にわたり強い危機感にさらされ続けた結果、危機感を持つことが社風として定着した
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [21]昭和48年(1973年)に為替が変動相場制へ移行してから、為替対策として海外への工場進出を積極的に進めた
    • [22]昭和48年(1973年)に為替が変動相場制へ移行してから、為替対策として海外への工場進出を積極的に進めた

最初の海外拠点は1960年に進出した米軍統治下の沖縄で、その後は台湾、シンガポール、ドイツ、イギリスへと工場を広げた。1967年に進出した台湾の工場は、ピーク時に3,500人の従業員を抱えるまでになった。国内では1964年に設立した中国船井電機が量産を担い、1970年代の国内工場の従業員は1,600人を超えた。ドイツのハンブルクには販売拠点としてFUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを置いた。進出先は売り先の市場ではなく、為替と生産の条件で選ばれた。海外のどこに工場を作っても業績に結びつくわけではなく、試行錯誤を繰り返した末に最も適した地域へ集約した。

  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [26]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
    • [30]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
    • [31]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [27]1967年に進出した台湾ではピーク時に3,500人の従業員がいた
    • [28]1970年代に国内工場の従業員は1,600人を超えていた
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [29]ドイツ・ハンブルクに販売拠点としてFUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立

船井電機がVHS方式のビデオデッキに加わったのは後発としてであった。それより前の1976年から77年ごろ、同社は後の8ミリビデオの原型となるコンパクトビデオを、4分の1インチ判で作り上げていたが、世界の主要企業がこぞって支持する統一規格が成立し、この製品からは退いた。テープレコーダーに始まり、8トラックカーステレオ、カセットのダブルデッキへと重ねてきた回転機構の技術は、それでも社内に残った。この技術の蓄積は、のちに主力となったビデオに生き、さらにインクジェットプリンターの開発にも結びついた。1990年代末にはVHSビデオデッキの生産高で世界第2位に立った。

  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [32]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [33]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [34]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [35]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [36]メカトロニクスの技術の蓄積が主力のビデオに生かされ、インクジェットプリンターの開発にも結びついた。VHSビデオデッキの生産高は世界第2位である
    • [37]メカトロニクスの技術の蓄積が主力のビデオに生かされ、インクジェットプリンターの開発にも結びついた。VHSビデオデッキの生産高は世界第2位である
参考文献[20]-[37]
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [20]1971年のニクソンショックによる円高で大打撃を受け、その後も断続的な円高に悩まされ続けた
    • [23]20年以上にわたり強い危機感にさらされ続けた結果、危機感を持つことが社風として定着した
    • [24]輸出メーカーは国際競争力を失えばたちまち潰れるとして、一時は1ドル60円の体制まで検討した
    • [25]20年以上にわたり強い危機感にさらされ続けた結果、危機感を持つことが社風として定着した
    • [27]1967年に進出した台湾ではピーク時に3,500人の従業員がいた
    • [28]1970年代に国内工場の従業員は1,600人を超えていた
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [21]昭和48年(1973年)に為替が変動相場制へ移行してから、為替対策として海外への工場進出を積極的に進めた
    • [22]昭和48年(1973年)に為替が変動相場制へ移行してから、為替対策として海外への工場進出を積極的に進めた
    • [26]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
    • [30]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
    • [31]沖縄への進出の後、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスにも工場を展開し、為替対策として試行錯誤を繰り返しながら最も適した地域へ生産拠点を集約した
    • [32]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [33]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [34]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [35]昭和51、2年ごろに8ミリビデオの元祖になる4分の1インチのコンパクトビデオを開発したが、世界の主要企業の賛同を集めた統一規格ができたため撤退した。VHSのビデオデッキメーカーとしては後発だった
    • [36]メカトロニクスの技術の蓄積が主力のビデオに生かされ、インクジェットプリンターの開発にも結びついた。VHSビデオデッキの生産高は世界第2位である
    • [37]メカトロニクスの技術の蓄積が主力のビデオに生かされ、インクジェットプリンターの開発にも結びついた。VHSビデオデッキの生産高は世界第2位である
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [29]ドイツ・ハンブルクに販売拠点としてFUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立

1975年〜トヨタのかんばん方式を原型としたFPSによる生産性の積み上げ

FPS(フナイ・プロダクション・システム)と呼ばれる生産方式は、1970年代半ば、ニクソンショック後の苦境のなかで生まれた。FPSの源流は、船井社長が幹部をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修に出したことにあり、トヨタのかんばん方式を下敷きに独自の改良を重ねて形になった。目指したのは、日々の仕事にひそむ無駄を残らず見える形にし、手直しを重ねて品質を高めることと原価を下げることを同時に達成することだった。そのため工程ごとに不良を拾う検査点をなるべく多く置き、ラインは常に最高速度で回して問題を表に出させた。現場の意見を取り込みながらFPSとそれを土台にした開発を進め、同社は他社をしのぐ生産性を獲得した。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [38]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [39]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [40]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [41]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [42]FPSは工程ごとの不良品の検査箇所をできるだけ多く設定した上で、ラインを常に最大スピードで動かしてラインの問題点を探り出しながら生産効率を向上させる考え方である
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [43]船井哲良社長は、FPSとそれに基づく開発を現場の声を吸収しながら進めたことで他社に負けない生産性の高さを実現したと述べた

この手法を他のどこよりも突き詰め、高い水準にまで仕上げた現場は、津山と広島県福山市にあったVTR工場である。そこでは速度を一定に保てるようになった段階で満足せず、さらに速めることが求められた。原因の見当がつかないうちは、稼働の最中でもラインは止めたまま置かれ、不良品や作業上の不具合が一つ出ただけでも扱いは同じだった。滞りなく流れるラインはむしろ改善の工夫が足りない証拠とされ、1日の割り当てに届かない分は残業で取り戻させた。生産が始まった後も部品の数を減らし、ラインの組み方を変える作業は止まらず、1年経てば以前の面影がないほどに姿が変わった。岡山県津山市の工場を例にとると、従業員は1985年以降ほぼ150人のまま据え置かれたが、1人当たり1日に作るVTRは16.7台から伸び、1989年には73.7台に達した。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [44]FPSを最も徹底して高度化した工場が岡山県津山市と広島県福山市のVTR工場である
    • [45]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [46]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [47]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [48]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [50]津山工場では85年から従業員150人でほとんど変化がないまま、1人当たり1日のVTR生産台数が16.7台から89年には73.7台まで増加した
    • [51]津山工場では85年から従業員150人でほとんど変化がないまま、1人当たり1日のVTR生産台数が16.7台から89年には73.7台まで増加した
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [49]一度生産が始まった後も部品点数の絞り込みや小型化、生産ラインの変更などを繰り返し、1年も過ぎればラインの様子が全く異なる

人の技術に設備を合わせるほうが効率がよく、機械化で原価を下げるよりFPSのほうが効くとの考えから、船井電機はVTRの量産にロボットを使わなかった。VTRは技術の移り変わりが速いため、ロボットを導入してもすぐに設備が時代遅れになる。OEM生産では300機種近くを同じラインに流しており、機械より人のほうが柔軟に応じられた。こうして、機械に頼らず安い価格と揃った品質を両立して供給する体制がこの時期に整った。船井社長自身は、狙いを定めた海外への工場進出と、精密なメカトロニクス製品の大量生産の二点を、自社の最大の強みに挙げている。設備ではなく手順に投資したため、工場を国外へ移すときにも同じ作り方をそのまま持ち運べた。

  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [52]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [53]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [54]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [55]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [56]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [57]船井哲良社長は、自社の最大の強みは的を絞った工場の海外展開を実現したことと、精度の高いメカトロニクス製品を大量生産できることであると述べた
参考文献[38]-[57]
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [38]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [39]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [40]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
    • [41]FPSは70年代半ば、ニクソンショック後の苦境の中で船井哲良社長が幹部社員をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修派遣したのを機に生まれた。トヨタのかんばん方式を原型に独自の改良を積み重ね、日常業務のあらゆる無駄を見える形にして改善を繰り返し、品質向上とコスト削減の両立を狙った
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
    • [42]FPSは工程ごとの不良品の検査箇所をできるだけ多く設定した上で、ラインを常に最大スピードで動かしてラインの問題点を探り出しながら生産効率を向上させる考え方である
    • [44]FPSを最も徹底して高度化した工場が岡山県津山市と広島県福山市のVTR工場である
    • [45]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [46]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [47]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [48]一定スピードでラインを動かせたら次はさらにスピードを上げ、不良品の発生や作業の支障が生じた場合は作業中でもラインを止めて原因を明らかにするまで動かさない。1日の生産ノルマが達成できない場合は残業をしてでも完了する。ラインが順調に動いていることは生産性向上への工夫が足りないことを意味する
    • [50]津山工場では85年から従業員150人でほとんど変化がないまま、1人当たり1日のVTR生産台数が16.7台から89年には73.7台まで増加した
    • [51]津山工場では85年から従業員150人でほとんど変化がないまま、1人当たり1日のVTR生産台数が16.7台から89年には73.7台まで増加した
    • [52]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [53]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [54]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [55]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
    • [56]OEM生産では300機種近い製品を同じラインに流すためロボットより人間のほうが適応力があり、技術の進歩が速いVTRではロボットを入れても機械がすぐ陳腐化するため人を技術に対応させるほうが効率が良い。FPSは機械化によるコスト減より効果が上がり、低価格で安定した品質の製品供給を可能にした
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
    • [43]船井哲良社長は、FPSとそれに基づく開発を現場の声を吸収しながら進めたことで他社に負けない生産性の高さを実現したと述べた
    • [57]船井哲良社長は、自社の最大の強みは的を絞った工場の海外展開を実現したことと、精度の高いメカトロニクス製品を大量生産できることであると述べた
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [49]一度生産が始まった後も部品点数の絞り込みや小型化、生産ラインの変更などを繰り返し、1年も過ぎればラインの様子が全く異なる

筆者考察

船井電機の最初の30年は、売り場を持たない会社がどうやって生き残るかを試す時間だった。1961年の設立時から国内にはほとんど売らず、GEやフィリップス、シアーズ・ローバックといった米欧の取引先へ相手先ブランドで納める。系列店も自社ブランドの信用も無いため、注文はバイヤーの評価だけで決まり、価格と品質と納期の三つが競争の焦点になった。技術で先に立たなかったのではなく、先に立てる位置にいなかった。1976年ごろに開発した4分の1インチのコンパクトビデオを統一規格の成立で捨てたのも、規格を決める側に回れなかったからである。残ったのは、決められた仕様を誰よりも安く作る能力だった。

その能力を守るために、船井電機は工場の場所と工程の手順を動かし続けた。1971年のニクソンショックと1973年の変動相場制移行で円高が恒常的な条件になると、沖縄から台湾、シンガポール、ドイツ、イギリスへと工場を広げた。同時に、幹部社員をトヨタ自動車へ三カ月送り込んで持ち帰ったかんばん方式を改造し、FPSと呼ぶ手順に作り替えた。岡山県津山市の工場では従業員150人を変えないまま、1人1日のVTR生産台数を16.7台から73.7台へ引き上げている。設備ではなく手順に投資したことが、後の移転で効いた。手順は人が持ち運べるが、設備は置いていくしかないからである。

出典・参考

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出典・参考
  • 有価証券報告書【役員の状況】
  • 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
  • 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号

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