THK:寺町博の東邦精工設立とLMガイドによる直動案内市場の創造
1971年〜日本トムソンを去った寺町博氏の東邦精工と、LMガイドを生産する甲府工場
日本トムソンを創業し、独自のニードルベアリングで上場企業に育てた寺町博氏は、1971年4月に東京都目黒区で東邦精工を設立した。寺町博氏は1970年7月、個人会社の名義で張った小豆相場の暴落による約6億円の損失。日本トムソンが営業目的で貸し付けた資金を投機に流用したと非難され、寺町博氏は社長を辞任した。技術から営業までを一人で率いてきた寺町博氏は、いずれ日本トムソンの経営陣から復帰を求められると見込んだ。その要請は来ず、寺町博氏は新会社で直線運動の軸受という新製品の着想を形にした。社長の座を失った怒りと意地が、辞任から1年足らずでの再起を後押ししたとみられる。
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- [1]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [3]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [4]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [5]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [6]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [2]1971年4月、寺町博が東京都目黒区に東邦精工を設立した
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [7]寺町博は1950年に日本トムソンを設立して社長となり、1970年に退社、1971年に東邦精工を設立して直動軸受の製造販売を始めた
東邦精工は1972年4月に、のちの主力製品となるLMガイドとボールスプラインの販売を始めた。機械の回転運動には1世紀前からベアリングが普及した一方、直線運動はころがり化が手つかずのまま残った。当時主流のすべり案内は摩擦が大きく、鋼球を使うボールブッシュは点で接するため重い工作機械を支える強度に欠ける。寺町博氏は軌道面に鋼球の収まる丸い溝を設け、接触を線に変えて高い荷重に耐える構造を他社に先がけて開発した。LMガイドの性能はボールブッシュ方式に比べ、荷重で13倍、寿命で2,210倍にあたる。寺町博氏は1990年に、この直動システムを自身が世界で初めて開発した製品と位置づけた。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [8]1972年4月、主力製品LMガイドとボールスプラインの販売を開始した
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [9]寺町博は回転用ベアリングは1世紀前に開発され9割普及、直動システムは自身が18年前に世界で初めて開発したと説明した
- [15]寺町博は回転用ベアリングは1世紀前に開発され9割普及、直動システムは自身が18年前に世界で初めて開発したと説明した
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- [10]直線運動部分のころがり化は盲点で、寺町博は軌道面に丸い切り込みを入れ線接触とし高荷重に耐える直線運動用軸受を他社に先がけ開発した
- [12]直線運動部分のころがり化は盲点で、寺町博は軌道面に丸い切り込みを入れ線接触とし高荷重に耐える直線運動用軸受を他社に先がけ開発した
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- [11]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
- [13]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
- [14]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
寺町博氏は1973年3月、宮入バルブ製作所との共同出資でテーエチケーを設立し、自ら社長に就任した。東邦精工は1977年4月にテーエチケーの製造部門を買収し、甲府工場として自社の生産拠点に組み込んだ。甲府工場長は、1975年10月に大隈鐵工所から転じて入社した寺町彰博氏である。東邦精工は甲府工場を足場にボールねじの生産へ広げ、1979年9月にボールねじの製造販売を始めた。1976年から1977年の不況期には、全社員が150人ほどの段階での、機械系の大卒30〜40人の採用。製造の現場と技術者を早くから自社の内に抱えたことが、その後の量産と製品開発を支えたと推察される。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [16]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- [18]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- [21]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [17]寺町博は1973年にTHK(テーエチケー)を設立して社長に就任。昭和51〜52年の不況時、全社員150人程度の時に機械系大卒を30〜40人採用した
- [23]寺町博は1973年にTHK(テーエチケー)を設立して社長に就任。昭和51〜52年の不況時、全社員150人程度の時に機械系大卒を30〜40人採用した
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [19]1977年に取得した甲府工場からボールねじの製造販売を始めた
- [22]1977年に取得した甲府工場からボールねじの製造販売を始めた
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- [20]寺町彰博は1975年10月に大隈鐵工所を退社してTHKに入社し、1977年4月に甲府工場長に就任した
参考文献[1]-[23]
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- [1]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [3]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [4]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [5]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [6]寺町博は1970年7月に小豆相場の損失(約6億円)と貸付金流用の非難で日本トムソン社長を辞任し、1971年4月に東邦精工を設立した。日本トムソンを独自のニードルベアリングで上場企業に育てた
- [10]直線運動部分のころがり化は盲点で、寺町博は軌道面に丸い切り込みを入れ線接触とし高荷重に耐える直線運動用軸受を他社に先がけ開発した
- [12]直線運動部分のころがり化は盲点で、寺町博は軌道面に丸い切り込みを入れ線接触とし高荷重に耐える直線運動用軸受を他社に先がけ開発した
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [2]1971年4月、寺町博が東京都目黒区に東邦精工を設立した
- [19]1977年に取得した甲府工場からボールねじの製造販売を始めた
- [22]1977年に取得した甲府工場からボールねじの製造販売を始めた
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [7]寺町博は1950年に日本トムソンを設立して社長となり、1970年に退社、1971年に東邦精工を設立して直動軸受の製造販売を始めた
- [9]寺町博は回転用ベアリングは1世紀前に開発され9割普及、直動システムは自身が18年前に世界で初めて開発したと説明した
- [15]寺町博は回転用ベアリングは1世紀前に開発され9割普及、直動システムは自身が18年前に世界で初めて開発したと説明した
- [17]寺町博は1973年にTHK(テーエチケー)を設立して社長に就任。昭和51〜52年の不況時、全社員150人程度の時に機械系大卒を30〜40人採用した
- [23]寺町博は1973年にTHK(テーエチケー)を設立して社長に就任。昭和51〜52年の不況時、全社員150人程度の時に機械系大卒を30〜40人採用した
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [8]1972年4月、主力製品LMガイドとボールスプラインの販売を開始した
- [16]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- [18]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- [21]1973年3月に宮入バルブ製作所と共同出資でテーエチケーを設立、1977年4月に同社の製造部門を買収して甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売を開始した
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- [11]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
- [13]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
- [14]すべり案内は摩擦が大きく、ボールブッシュは点接触で強度に問題があった。溝で強度を解決したLMガイドは荷重13倍・寿命2,210倍
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- [20]寺町彰博は1975年10月に大隈鐵工所を退社してTHKに入社し、1977年4月に甲府工場長に就任した
1978年〜米国のマシニングセンターが採ったLMガイドと、THK Americaと新商号THK
LMガイドは1978年に米国の大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され、その後の受注に勢いがついた。NC装置の案内では正確な位置決めが求められ、追従性に劣るすべり案内はその要求に応えにくい。東邦精工は1981年に、上下左右の4方向に等しい荷重を受けるHSRシリーズを発売した。東邦精工の1981年3月期の売上高は113億円、経常利益は21億円である。寺町博氏は年間売上高500億円の達成を見込み、日本トムソンから伴った部下には設立時に将来の上場を約束した。1978年の米国での採用実績が、国内の機械技術者に向けた信用の裏付けにもなったと思われる。
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- [24]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- [25]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- [26]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- [27]東邦精工は売上高113億円・経常利益21億円(1981年3月期)。寺町博は年間売上高500億円を見込み、日本トムソンから来た部下に設立時に上場を約束した
- [28]東邦精工は売上高113億円・経常利益21億円(1981年3月期)。寺町博は年間売上高500億円を見込み、日本トムソンから来た部下に設立時に上場を約束した
東邦精工は1981年3月に米国シカゴでTHK America, Inc.を設立した。1982年10月には西ドイツのデュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立し、米国に続いて欧州にも販売の拠点を置いた。同じ1982年10月、株式の額面を500円から50円へ変える目的で、東邦精工はテーエチケーに吸収合併される手続きをとった。そのうえで1984年1月に商号をTHKへ改めた。寺町博氏によれば、THKの社名は創業者の頭文字ではなく、英語のタフネス、ハイクオリティ、ノウハウを表す。寺町博氏は1990年時点で、海外での直動システムの普及率を潜在需要の2〜3%とみていた。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [29]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [30]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [32]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [33]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [31]1981年米国、1982年西独に海外販売体制を確立し、1984年に商号をTHKに変更した
- [34]1981年米国、1982年西独に海外販売体制を確立し、1984年に商号をTHKに変更した
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [35]THKの社名はタフネス・ハイクオリティ・ノウハウに由来。寺町博は海外の直動システム普及率を2〜3%とみていた
- [36]THKの社名はタフネス・ハイクオリティ・ノウハウに由来。寺町博は海外の直動システム普及率を2〜3%とみていた
THKは1984年2月に大幸製作所を買収して岐阜工場とし、1985年4月には東洋精工を吸収合併して三重工場とした。同じ1985年4月には、LMガイドを製造する山口工場も新設。1985年12月に大東製機へ資本参加し、1988年1月には新潟県安田町に共同出資でTHK安田を設立した。1984年からの2年で岐阜・三重・山口の3工場を加えたTHKは、直動システムで国内の主導的な立場に立った。寺町博氏は1990年2月に、国内の直動システムの需要が潜在需要の10%を超えたのは1〜2年前で、これから普及が速まるとの見方を示した。1990年3月期の売上高は600数十億円の見込みだった。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [37]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [38]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [40]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [41]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [39]1984年以降、山口工場新設・工場買収・資本参加・販売拠点設立で国内の生産販売体制を確立し直動システムの主導的地位を築いた
- [42]1984年以降、山口工場新設・工場買収・資本参加・販売拠点設立で国内の生産販売体制を確立し直動システムの主導的地位を築いた
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [43]寺町博は国内需要が潜在需要の10%を超えたのは1〜2年前で今後急ピッチで伸びるとし、1990年3月期売上高を600数十億円と見込んだ
- [44]寺町博は国内需要が潜在需要の10%を超えたのは1〜2年前で今後急ピッチで伸びるとし、1990年3月期売上高を600数十億円と見込んだ
参考文献[24]-[44]
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- [24]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- [25]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- [26]1978年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用され受注に弾み。すべり案内は追従性が悪くNC向けの位置決め精度に問題。1981年に四方向等荷重のHSRシリーズを発売
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- [27]東邦精工は売上高113億円・経常利益21億円(1981年3月期)。寺町博は年間売上高500億円を見込み、日本トムソンから来た部下に設立時に上場を約束した
- [28]東邦精工は売上高113億円・経常利益21億円(1981年3月期)。寺町博は年間売上高500億円を見込み、日本トムソンから来た部下に設立時に上場を約束した
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [29]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [30]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [32]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [33]1981年3月シカゴにTHK America設立、1982年10月額面変更のためテーエチケーに吸収合併、同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbH設立、1984年1月商号をTHKに変更
- [37]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [38]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [40]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- [41]1984年2月大幸製作所を買収し岐阜工場、1985年4月東洋精工を吸収合併し三重工場・山口工場(LMガイド製造)新設、1985年12月大東製機に資本参加、1988年1月THK安田を共同出資で設立
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [31]1981年米国、1982年西独に海外販売体制を確立し、1984年に商号をTHKに変更した
- [34]1981年米国、1982年西独に海外販売体制を確立し、1984年に商号をTHKに変更した
- [39]1984年以降、山口工場新設・工場買収・資本参加・販売拠点設立で国内の生産販売体制を確立し直動システムの主導的地位を築いた
- [42]1984年以降、山口工場新設・工場買収・資本参加・販売拠点設立で国内の生産販売体制を確立し直動システムの主導的地位を築いた
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [35]THKの社名はタフネス・ハイクオリティ・ノウハウに由来。寺町博は海外の直動システム普及率を2〜3%とみていた
- [36]THKの社名はタフネス・ハイクオリティ・ノウハウに由来。寺町博は海外の直動システム普及率を2〜3%とみていた
- [43]寺町博は国内需要が潜在需要の10%を超えたのは1〜2年前で今後急ピッチで伸びるとし、1990年3月期売上高を600数十億円と見込んだ
- [44]寺町博は国内需要が潜在需要の10%を超えたのは1〜2年前で今後急ピッチで伸びるとし、1990年3月期売上高を600数十億円と見込んだ
1989年〜店頭公開で額面株価日本一となったTHKと、アイルランドのPGM買収
THKは1989年11月20日に株式を店頭公開し、初値の1万9千円は額面50円の株で任天堂を上回る日本一の株価となった。寺町博氏は公開の理由を『何十倍もの需要がある世界でシェアを確保していくには、相当の企業規模の拡大が必要です。』と説明した。寺町博氏の考えは、設備投資と海外の販売網の拡大には個人資金では足りず、新規開発投資の損失を吸収できる資金調達の体制が要るというものである。公開を機にTHKは「グローバル10 21」を掲げ、21世紀に世界的企業となるための国際的な生産・販売体制の構築に着手した。店頭公開は、海外の生産拠点へ投じる資金を市場から得る起点になったのだろう。
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [45]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- [47]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- [48]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [46]1989年11月に株式店頭公開、これを機に「グローバル10 21」を掲げ国際的生産・販売体制の構築に着手した
- [49]1989年11月に株式店頭公開、これを機に「グローバル10 21」を掲げ国際的生産・販売体制の構築に着手した
THKは1992年8月に、アイルランドのダブリンでボールねじを製造するPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収した。PGMは英国の会社と合わせてTHKグループの一員となり、目指すのは精密ボールねじと転造ボールねじの専門メーカーである。店頭公開の後、THKは1991年6月に山形工場を新設し、同年10月には韓国の三益工業に資本参加して技術提携した。欧州ではTHK GmbHが1982年からLMガイドの普及を進め、本格的な普及は1993年ごろに始まった。THKは1993年5月にオランダのアムステルダムでTHK Europe B.V.を設立した。欧州の需要が立ち上がる時期に合わせ、販売に加えて域内にボールねじの生産拠点を確保した判断と考えられる。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [50]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- [52]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- [54]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [51]PGMは1992年にTHKグループ入りし精密・転造ボールねじで世界レベルの専門メーカーを目指す。英国のボールねじ生産会社を買収。THK GmbHは1982年設立、欧州での本格普及は1993年頃から
- [53]PGMは1992年にTHKグループ入りし精密・転造ボールねじで世界レベルの専門メーカーを目指す。英国のボールねじ生産会社を買収。THK GmbHは1982年設立、欧州での本格普及は1993年頃から
THKは1996年3月に瓦房店軸承集団との合弁で大連THK瓦軸工業を設立し、国際標準品質の精密ボールねじを中国で生産した。寺町彰博氏は甲府工場長を経て1987年6月に常務取締役管理本部長、1994年6月に取締役副社長となった。寺町彰博氏は1997年1月にTHKの代表取締役社長に就任した。創業者である寺町博氏の1999年時点の役職は、THKの最高顧問である。1997年8月には、米国オハイオ州にLMガイドの本格的な生産会社THK Manufacturing of Americaを設立した。工場長から経営を学んだ後継者の代で、海外の販売網は生産拠点の網へと広がり始めた。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [55]1996年3月大連市に瓦房店軸承集団との合弁で大連THK瓦軸工業を設立、1997年8月オハイオ州にTHK Manufacturing of Americaを設立
- [60]1996年3月大連市に瓦房店軸承集団との合弁で大連THK瓦軸工業を設立、1997年8月オハイオ州にTHK Manufacturing of Americaを設立
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [56]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- [59]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- [61]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- [57]寺町彰博は1987年6月常務取締役管理本部長、1994年6月取締役副社長、1997年1月代表取締役社長に就任
- [58]寺町彰博は1987年6月常務取締役管理本部長、1994年6月取締役副社長、1997年1月代表取締役社長に就任
参考文献[45]-[61]
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- [45]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- [47]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- [48]1989年11月20日に店頭公開、初値1万9千円で額面50円株として任天堂を抜き日本一、その後3万円超。寺町博は世界でシェアを確保するには規模拡大が必要で個人資金では難しく有利な資金調達が欠かせないと説明
- THK ANNUAL REPORT 1999
- [46]1989年11月に株式店頭公開、これを機に「グローバル10 21」を掲げ国際的生産・販売体制の構築に着手した
- [49]1989年11月に株式店頭公開、これを機に「グローバル10 21」を掲げ国際的生産・販売体制の構築に着手した
- [51]PGMは1992年にTHKグループ入りし精密・転造ボールねじで世界レベルの専門メーカーを目指す。英国のボールねじ生産会社を買収。THK GmbHは1982年設立、欧州での本格普及は1993年頃から
- [53]PGMは1992年にTHKグループ入りし精密・転造ボールねじで世界レベルの専門メーカーを目指す。英国のボールねじ生産会社を買収。THK GmbHは1982年設立、欧州での本格普及は1993年頃から
- [56]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- [59]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- [61]大連THKは国際標準品質の精密ボールねじを生産。1997年米国にLMガイドの本格生産会社を設立。1999年時点で寺町博は最高顧問、寺町彰博が代表取締役社長
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [50]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- [52]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- [54]1991年6月山形工場新設、1991年10月韓国三益工業に資本参加、1992年8月ダブリンのPGM Ballscrews Ireland Ltd.を買収、1993年5月アムステルダムにTHK Europe B.V.設立
- [55]1996年3月大連市に瓦房店軸承集団との合弁で大連THK瓦軸工業を設立、1997年8月オハイオ州にTHK Manufacturing of Americaを設立
- [60]1996年3月大連市に瓦房店軸承集団との合弁で大連THK瓦軸工業を設立、1997年8月オハイオ州にTHK Manufacturing of Americaを設立
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- [57]寺町彰博は1987年6月常務取締役管理本部長、1994年6月取締役副社長、1997年1月代表取締役社長に就任
- [58]寺町彰博は1987年6月常務取締役管理本部長、1994年6月取締役副社長、1997年1月代表取締役社長に就任
出典・参考
6件
- THK 有価証券報告書【沿革】
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(寺町博氏の人物紹介)
- 日経ビジネス 1990年2月12日号(寺町博社長インタビュー)
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- THK ANNUAL REPORT 1999