寺町博
創業ストーリー
創業ストーリー
寺町博氏は1924年4月に岐阜県で生まれ、1942年に岐阜県第一工業の機械科を出て半田重工業に入社した。1948年に一工商会を起こし、1956年に日本トムソンベアリングと提携、1960年には同社の社長も兼ね、1964年の合併で日本トムソンと改めた。独自のニードルベアリングを競争優位の源泉として、日本トムソンを上場企業へ押し上げた。ところが1970年7月、個人会社の大一工業の名義で張った小豆相場で約6億円を失い、日本トムソンからの営業資金を投機に回したと批判されて社長を降りた。
- 日経ビジネス 1982年1月25日号
- [1]てらまちひろし氏。大正13年4月、岐阜県生まれ。昭和17年岐阜県第一工業機械科卒業、半田重工業に入社。23年一工商会を設立。31年日本トムソンベアリングと提携、35年に同社社長を兼任、39年に合併して日本トムソンに改称。45年7月、商品投機の失敗で退社。46年東邦精工を設立
- [2]てらまちひろし氏。大正13年4月、岐阜県生まれ。昭和17年岐阜県第一工業機械科卒業、半田重工業に入社。23年一工商会を設立。31年日本トムソンベアリングと提携、35年に同社社長を兼任、39年に合併して日本トムソンに改称。45年7月、商品投機の失敗で退社。46年東邦精工を設立
- [3]かつて、独自のニードルベアリングで、日本トムソンを上場企業に育てあげた実績は、ダテではないようだ。一部上場企業の日本トムソンを一代で築きながら、商品相場の失敗から社長の座を追われた人物である
- [4]日本トムソン社長を辞任したのは昭和45年7月。自分の個人会社、大一工業の名義で商品相場を張り、小豆相場の大衆浴(OCRのまま。暴落の意)にあって約6億円の損失を出した。日本トムソンが大一工業に営業目的で貸し付けた資金を投機資金に流用していたことが明るみに出て非難が集中し、社長辞任に追い込まれた
辞任後、寺町博氏は会社のほうから復帰を求めてくると考えていたが、その声はかからなかった。代わりに温めていたのが、機械の直線運動を転がり摩擦に置き換える軸受の着想である。回転運動の軸受は1世紀前に生まれて普及が進んでいたのに、直線運動の部分は手つかずのまま残っていた。1971年4月、東京都目黒区に東邦精工を設立し、工作機械部品やLMローラー、LMボールの販売から事業を始めた。日本トムソンから行動をともにした部下には、設立の時点で将来の上場を約束している。
- 日経ビジネス 1982年1月25日号
- [5]「いずれ会社の方から迎えにくるだろうと思っていました。でもそういうわけには行きませんでした」。ある新製品の着想がふくらんでいた。直線運動用軸受「LMガイド」である。機械の直線運動部分の摩擦をころがり摩擦に変えるアイデアで、鋼球が触れる軌道面に丸い切り込みを入れ、鋼球と軌道面とを線接触にかえ、高荷重に耐える実用的なころがり方式の直線運動用軸受を他社に先がけて開発した
- [6]「いずれ会社の方から迎えにくるだろうと思っていました。でもそういうわけには行きませんでした」。ある新製品の着想がふくらんでいた。直線運動用軸受「LMガイド」である。機械の直線運動部分の摩擦をころがり摩擦に変えるアイデアで、鋼球が触れる軌道面に丸い切り込みを入れ、鋼球と軌道面とを線接触にかえ、高荷重に耐える実用的なころがり方式の直線運動用軸受を他社に先がけて開発した
- [9]日本トムソンから一緒に来た部下には設立時に「将来、上場する」と約束している
- 日経ビジネス 1990年2月12日号
- [7]一般に言うところのベアリングは回転運動の軸受けで、1世紀前に開発され、現在では9割ほど普及している。直動システムは直線運動のベアリングで、私が18年前に世界で初めて開発した(寺町博氏の発言)
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [8]1971年4月 東京都目黒区において創業者寺町博が東邦精工株式会社を設立。工作機械部品、リンクボール、LMローラー、LMボールの販売を開始。1972年4月 LMガイド、ボールスプラインの販売を開始。1973年3月 株式会社テーエチケーを宮入バルブ製作所との共同出資により設立。1977年4月 テーエチケーより製造部門を買収、甲府工場とする。1979年9月 ボールねじ製造販売開始。1981年3月 シカゴにTHK America, Inc.を設立。1982年10月 額面500円から50円への変更のためテーエチケー(形式上の存続会社)に吸収合併。同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立。1984年1月 商号をTHK株式会社に変更
最初の収益源は1972年4月に売り出したLMガイドとボールスプラインである。鋼球の通る軌道面に丸い溝を刻んで点の接触を線の接触に変え、重い荷重に耐える直線運動の軸受を他社より先に実用化した。従来のボールブッシュ方式と比べ、荷重は13倍、寿命は2,210倍に伸びた。1978年には米国の大手工作機械メーカーがマシニングセンターに採り入れ、この実績を足がかりに受注が増加した。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [10]1971年4月 東京都目黒区において創業者寺町博が東邦精工株式会社を設立。工作機械部品、リンクボール、LMローラー、LMボールの販売を開始。1972年4月 LMガイド、ボールスプラインの販売を開始。1973年3月 株式会社テーエチケーを宮入バルブ製作所との共同出資により設立。1977年4月 テーエチケーより製造部門を買収、甲府工場とする。1979年9月 ボールねじ製造販売開始。1981年3月 シカゴにTHK America, Inc.を設立。1982年10月 額面500円から50円への変更のためテーエチケー(形式上の存続会社)に吸収合併。同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立。1984年1月 商号をTHK株式会社に変更
- 日経ビジネス 1982年1月25日号
- [11]「いずれ会社の方から迎えにくるだろうと思っていました。でもそういうわけには行きませんでした」。ある新製品の着想がふくらんでいた。直線運動用軸受「LMガイド」である。機械の直線運動部分の摩擦をころがり摩擦に変えるアイデアで、鋼球が触れる軌道面に丸い切り込みを入れ、鋼球と軌道面とを線接触にかえ、高荷重に耐える実用的なころがり方式の直線運動用軸受を他社に先がけて開発した
- 証券調査 349号 1999年10月号「(会社研究)THK」
- [12]ボールが溝にぴったりはまるレールで強度の問題を解決し「LMガイド」を発売した。ボールブッシュ方式に比べ荷重は13倍、寿命は2,210倍となった。'78年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用されたことによりお墨付きを得、受注に弾みがついた
- [13]ボールが溝にぴったりはまるレールで強度の問題を解決し「LMガイド」を発売した。ボールブッシュ方式に比べ荷重は13倍、寿命は2,210倍となった。'78年に米国大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用されたことによりお墨付きを得、受注に弾みがついた
生産の工程と技術者は早い段階で内製化した。1973年3月に宮入バルブ製作所と共同でテーエチケーを設け、1977年4月にその製造部門を買い取って甲府工場とし、1979年9月にボールねじの製造販売に進んだ。1976年から1977年の不況期には、社員が150人ほどの規模で機械系の大卒を30〜40人採用した。販売の拠点は1981年3月に米国シカゴ、1982年10月に西ドイツのデュッセルドルフへ広げた。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [14]1971年4月 東京都目黒区において創業者寺町博が東邦精工株式会社を設立。工作機械部品、リンクボール、LMローラー、LMボールの販売を開始。1972年4月 LMガイド、ボールスプラインの販売を開始。1973年3月 株式会社テーエチケーを宮入バルブ製作所との共同出資により設立。1977年4月 テーエチケーより製造部門を買収、甲府工場とする。1979年9月 ボールねじ製造販売開始。1981年3月 シカゴにTHK America, Inc.を設立。1982年10月 額面500円から50円への変更のためテーエチケー(形式上の存続会社)に吸収合併。同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立。1984年1月 商号をTHK株式会社に変更
- [16]1971年4月 東京都目黒区において創業者寺町博が東邦精工株式会社を設立。工作機械部品、リンクボール、LMローラー、LMボールの販売を開始。1972年4月 LMガイド、ボールスプラインの販売を開始。1973年3月 株式会社テーエチケーを宮入バルブ製作所との共同出資により設立。1977年4月 テーエチケーより製造部門を買収、甲府工場とする。1979年9月 ボールねじ製造販売開始。1981年3月 シカゴにTHK America, Inc.を設立。1982年10月 額面500円から50円への変更のためテーエチケー(形式上の存続会社)に吸収合併。同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立。1984年1月 商号をTHK株式会社に変更
- 日経ビジネス 1990年2月12日号
- [15]昨年11月20日に株式を店頭公開し初値は1万9千円で、額面50円の株としては任天堂を抜き日本一の株価。シェアを確保していくには設備投資から海外の販売網を広げるなど相当の企業規模の拡大が必要で、個人資金だけでは難しい(寺町博氏)。51〜52年の不況時に全社員が150人程度の時、機械系の大卒を中心に30〜40人採用した。THKの社名は寺町博株式会社の頭文字ではなく、英語のタフネス、ハイクオリティ、ノウハウだそうだ
会社の形を決めたのは、額面変更のための合併と株式の公開である。1982年10月に額面を500円から50円へ変えるため形式上テーエチケーに吸収合併され、1984年1月に商号をTHKとした。社名は創業者の頭文字ではなく、タフネス、ハイクオリティ、ノウハウを表すという。1989年11月20日の店頭公開では初値が1万9千円となり、額面50円の株で日本一の株価をつけた。公開に踏み切ったのは、世界でシェアを取る設備投資と海外の販売網の拡大に個人の資金では足りないと判断したためである。1997年1月には寺町彰博氏が代表取締役社長に就任し、寺町博氏は創業から26年でトップの座を譲った。
- THK 有価証券報告書【沿革】
- [17]1971年4月 東京都目黒区において創業者寺町博が東邦精工株式会社を設立。工作機械部品、リンクボール、LMローラー、LMボールの販売を開始。1972年4月 LMガイド、ボールスプラインの販売を開始。1973年3月 株式会社テーエチケーを宮入バルブ製作所との共同出資により設立。1977年4月 テーエチケーより製造部門を買収、甲府工場とする。1979年9月 ボールねじ製造販売開始。1981年3月 シカゴにTHK America, Inc.を設立。1982年10月 額面500円から50円への変更のためテーエチケー(形式上の存続会社)に吸収合併。同月デュッセルドルフにTHK Europe GmbHを設立。1984年1月 商号をTHK株式会社に変更
- 日経ビジネス 1990年2月12日号
- [18]昨年11月20日に株式を店頭公開し初値は1万9千円で、額面50円の株としては任天堂を抜き日本一の株価。シェアを確保していくには設備投資から海外の販売網を広げるなど相当の企業規模の拡大が必要で、個人資金だけでは難しい(寺町博氏)。51〜52年の不況時に全社員が150人程度の時、機械系の大卒を中心に30〜40人採用した。THKの社名は寺町博株式会社の頭文字ではなく、英語のタフネス、ハイクオリティ、ノウハウだそうだ
- [19]昨年11月20日に株式を店頭公開し初値は1万9千円で、額面50円の株としては任天堂を抜き日本一の株価。シェアを確保していくには設備投資から海外の販売網を広げるなど相当の企業規模の拡大が必要で、個人資金だけでは難しい(寺町博氏)。51〜52年の不況時に全社員が150人程度の時、機械系の大卒を中心に30〜40人採用した。THKの社名は寺町博株式会社の頭文字ではなく、英語のタフネス、ハイクオリティ、ノウハウだそうだ
- [20]昨年11月20日に株式を店頭公開し初値は1万9千円で、額面50円の株としては任天堂を抜き日本一の株価。シェアを確保していくには設備投資から海外の販売網を広げるなど相当の企業規模の拡大が必要で、個人資金だけでは難しい(寺町博氏)。51〜52年の不況時に全社員が150人程度の時、機械系の大卒を中心に30〜40人採用した。THKの社名は寺町博株式会社の頭文字ではなく、英語のタフネス、ハイクオリティ、ノウハウだそうだ
- THK 有価証券報告書【役員の状況】(寺町彰博氏の略歴)
- [21]寺町彰博氏は1997年1月にTHKの代表取締役社長に就任した
参考文献3件
参考文献
- 日経ビジネス 1982年1月25日号「寺町博・東邦精工社長 “第二の創業”に執念燃やす」
- 日経ビジネス 1990年2月12日号「編集長インタビュー 寺町博氏(THK社長) 株価日本一は当然。もっと伸びます」
- THK 有価証券報告書【沿革】
事実根拠:出所(THK)