ミネベアミツミ:ミニチュアベアリングの専業化と東南アジアへの生産移管
1951年〜板橋のミニチュアベアリング専業と、米国に設立したNMBの販売会社
日本ミネチュアベアリングは1951年7月、国内最初のミニチュアベアリング専門メーカーとして東京都板橋区に設立された。1973年の高橋高見氏の回想によれば、事業を起こしたのは日本航空で技術の中心にいた富永五郎氏だった。1956年10月にはミネチュアベアリング研究所を買い取り、新永和商事を総代理店に据えて、本店を川口へ移した。1959年6月には川口に新工場を建て、1960年には米国最大の同業MPB社と販売の提携を結んだ。同じ1959年、慶応を出て鐘紡に勤めていた高橋高見氏が、父の会社に取締役として加わった。1961年8月の時点では父の高橋精一郎氏が社長を務め、役員の持株は発行済株式の38.70%を占めた。
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [1]1951年7月、東京都板橋区で国内最初のミニチュアベアリング専門メーカーとして設立
- 工業技術 14(11) 1973年11月「驚異的企業発展の秘密」(高橋高見)
- [2]高橋高見は自らを3代目の社長とし、会社を始めたのは日本航空の技術面のトップだった富永五郎(前東亜航空社長)と述べた
- 証券業報 143号 1961年9月「日本ミネチュアベアリング」
- [3]1956年10月にミネチュアベアリング研究所を買収し、新永和商事を総代理店として組織を再編、本店を川口市へ移転
- [4]1959年6月に川口市に新工場を建設、1960年に米国ミネチュアベアリング最大のメーカーMPB社と販売提携契約を締結
- [6]1961年8月時点の代表取締役社長は高橋精一郎、役員持株は697,500株(総株式数の38.70%)
- 月刊経済 293号 1976年1月(北沢武)
- [5]高橋高見は1950年に慶大経済学部を出て鐘紡に入り、1959年に父の経営する会社へ取締役で入社
株式は1961年8月に東京証券取引所の店頭で売買が始まり、同年10月、新設の市場第二部に上場した。増資は1959年7月から毎年重ね、資本金は2250万円から1961年8月の9000万円まで2年で4倍になった。川口では工員の採用が年々難しくなり、空調の冷水が田に流れ込んで近隣から苦情も受けていた。そこで1963年3月に軽井沢工場を動かし、1965年7月には川口工場を閉じて生産をそこへ集めた。高橋高見専務は1963年、新工場に総額2億円、輸入機械に毎年1億6、7千万円が要ると見込んだ。1964年9月期には1億7千万円の償却で無配となり、増資に反対した幹事証券2社が幹事を降りた。
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [7]1961年8月に東証の店頭売買銘柄として公開、同年10月の市場第二部発足と同時に上場
- インベストメント 145号 1971年6月「新規上場会社紹介――日本ミネチュアベアリング㈱」
- [8]資本金は1959年7月2,250万円、1960年7月4,500万円、1961年8月9,000万円と毎年増資
- [10]1963年3月軽井沢工場稼動、1965年7月川口工場を閉鎖し生産機能を軽井沢へ移設
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- [9]川口では求人難が厳しくなり、空調の冷水が田に流れ込むとの苦情も出て、軽井沢への移転を決めた
- 証券投資リポート 36号 1963年3月「高収益をバックに着々発展態勢を整える「日本ミネチュアベアリング」」(高橋高見)
- [11]軽井沢工場は空調等を含め総額2億円、備品込み2億1千万円。機械設備に毎年1億6、7千万円が要る
- オール大衆 23(18) 1970年9月「≪シリーズ・現代の成功者≫若いバイタリティ ミネ・ベア」(高橋高見)
- [12]1964年9月期に普通・特別償却計1億7千万円を行い無配に転落。増資強行に大和・日興の幹事証券が幹事を返上
輸出の計画は1962年に始まり、高橋高見氏は商社や代理店を通さず、米国の使い手を一社ずつ訪ねて回った。本人は1970年、名もない小さな会社には一流の代理店が付かず、自ら歩くほかなかったと振り返った。米国では試作が通れば少なくとも5000個の注文が来たが、国内は百個単位から積み上げるしかなかった。1973年には、売り口の数を増やせば多品種の品でも中量の生産に持ち込め、品質とコストが整うと語った。1968年9月に米国へ現地法人を置き、1970年10月には東証市場第一部へ移った。1970年時点で製品の60%を輸出し、主な納入先はベンディックスやリットンなど米国の軍需・航空機の会社だった。
- オール大衆 23(18) 1970年9月「≪シリーズ・現代の成功者≫若いバイタリティ ミネ・ベア」(高橋高見)
- [13]1962年に対米輸出を計画し、ディーラー・代理店を置かず直販する方針を米国でも通した
- 証券アナリストジャーナル 8(4) 1970年4月(高橋高見)
- [14]米国で商売を始めた当初、小さな会社には最低クラスの代理店しか相手にされず、自ら米国中を歩いて売るしかなかった
- [18]全製品の60%を輸出し、主要納入先は米国のベンディックス、ケアホット、リットンなど軍需・航空機関係
- 証券投資リポート 36号 1963年3月「高収益をバックに着々発展態勢を整える「日本ミネチュアベアリング」」(高橋高見)
- [15]米国向けはサンプルが合格すれば少なくとも5千個の注文が来るが、国内は百個・二百個から開拓していく
- 工業技術 14(11) 1973年11月「驚異的企業発展の秘密」(高橋高見)
- [16]市場を広げて客数を増やすことで、多種類少量の販売でも生産の場では中量生産を可能にし、品質の安定とコスト引き下げにつなげた
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [17]1968年9月米国に現地法人NIPPON MINIATURE BEARING CORPORATIONを設立。1970年10月東証第一部に指定替
参考文献[1]-[18]
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [1]1951年7月、東京都板橋区で国内最初のミニチュアベアリング専門メーカーとして設立
- [7]1961年8月に東証の店頭売買銘柄として公開、同年10月の市場第二部発足と同時に上場
- [17]1968年9月米国に現地法人NIPPON MINIATURE BEARING CORPORATIONを設立。1970年10月東証第一部に指定替
- 工業技術 14(11) 1973年11月「驚異的企業発展の秘密」(高橋高見)
- [2]高橋高見は自らを3代目の社長とし、会社を始めたのは日本航空の技術面のトップだった富永五郎(前東亜航空社長)と述べた
- [16]市場を広げて客数を増やすことで、多種類少量の販売でも生産の場では中量生産を可能にし、品質の安定とコスト引き下げにつなげた
- 証券業報 143号 1961年9月「日本ミネチュアベアリング」
- [3]1956年10月にミネチュアベアリング研究所を買収し、新永和商事を総代理店として組織を再編、本店を川口市へ移転
- [4]1959年6月に川口市に新工場を建設、1960年に米国ミネチュアベアリング最大のメーカーMPB社と販売提携契約を締結
- [6]1961年8月時点の代表取締役社長は高橋精一郎、役員持株は697,500株(総株式数の38.70%)
- 月刊経済 293号 1976年1月(北沢武)
- [5]高橋高見は1950年に慶大経済学部を出て鐘紡に入り、1959年に父の経営する会社へ取締役で入社
- インベストメント 145号 1971年6月「新規上場会社紹介――日本ミネチュアベアリング㈱」
- [8]資本金は1959年7月2,250万円、1960年7月4,500万円、1961年8月9,000万円と毎年増資
- [10]1963年3月軽井沢工場稼動、1965年7月川口工場を閉鎖し生産機能を軽井沢へ移設
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- [9]川口では求人難が厳しくなり、空調の冷水が田に流れ込むとの苦情も出て、軽井沢への移転を決めた
- 証券投資リポート 36号 1963年3月「高収益をバックに着々発展態勢を整える「日本ミネチュアベアリング」」(高橋高見)
- [11]軽井沢工場は空調等を含め総額2億円、備品込み2億1千万円。機械設備に毎年1億6、7千万円が要る
- [15]米国向けはサンプルが合格すれば少なくとも5千個の注文が来るが、国内は百個・二百個から開拓していく
- オール大衆 23(18) 1970年9月「≪シリーズ・現代の成功者≫若いバイタリティ ミネ・ベア」(高橋高見)
- [12]1964年9月期に普通・特別償却計1億7千万円を行い無配に転落。増資強行に大和・日興の幹事証券が幹事を返上
- [13]1962年に対米輸出を計画し、ディーラー・代理店を置かず直販する方針を米国でも通した
- 証券アナリストジャーナル 8(4) 1970年4月(高橋高見)
- [14]米国で商売を始めた当初、小さな会社には最低クラスの代理店しか相手にされず、自ら米国中を歩いて売るしかなかった
- [18]全製品の60%を輸出し、主要納入先は米国のベンディックス、ケアホット、リットンなど軍需・航空機関係
1971年〜ニクソン・ショックで建設したシンガポール工場と、株式取得で獲得した系列会社
対米輸出は1969年からダンピングの訴えなど輸入制限の動きにさらされた。1971年5月には米国防総省が、米国とカナダ以外のミニチュアベアリングを国防用に使わない旨の通達を出した。米国での売上の40%は国防向けで、軍用で外されれば民間でも外れるため、高橋高見社長は事業の60~70%を失いかねないと判断した。工場用地を探し買収先も当たるなか、SKFから不採算だったロサンゼルスの工場を売却する話が届いた。1971年9月、従業員と在庫ごとREED工場を取得し、米国での生産を始めた。契約がニクソン・ショックをまたいだため、ドルで借りて払い、円で返したことで約1割安く買えた。
- 実業往来 330号 1979年7月(石塚巌)
- [19]1969年にOEPに提訴され、続いてダンピングの訴えを受けた
- [24]1971年7月交渉・8月本契約でニクソン・ショックをまたぎ、米国でドルを借りて9月に買い取り、12月の時価発行の資金で決済、為替で1割ほど安く買えた
- 証券アナリストジャーナル 10(4) 1972年4月(高橋高見)
- [20]1971年5月、米国防総省が米国・カナダ以外のミニチュアベアリングを国防関係に使わないとするサーキュラーを出した
- [21]米国売上の40%が国防向け。軍用で使われなくなると民間でも使われなくなり、ビジネスの60~70%を失いかねないと判断し、米国に工場を設けると決めた
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- [22]工場用地の購入計画と既存企業の買収工作を並行して進める中、SKFから不採算のミニチュアベアリング工場の売却話が持ち込まれた
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [23]1971年9月、SKF社のREED工場(米国)を買収し米国で生産を開始
高橋高見社長は1972年3月、関税と運賃に18%超の円切上げが加わり、日本製は米国製より最低40%不利になったと説明した。米国の顧客自身が香港・台湾・シンガポールでの生産を計画しているとの話が相次いでいた。先に東南アジアへ出られれば競争力の源を失うと見て、1972年2月にNMB SINGAPOREを設立した。シンガポールを選んだのは、賃金が日本の6分の1で政治が安定し、税の恩典もあったからだった。高橋高見社長は同年4月、『来年中には軽井沢の設備の60%はシンガポールへ移してしまうから、軽井沢はモヌケのカラになる』との見通しを示した。現地社員約260人を軽井沢で研修させ、工場は1973年3月から生産に入った。
- 証券アナリストジャーナル 10(4) 1972年4月(高橋高見)
- [25]関税・運賃・実質18%を超える円切上げを合計すると、日本製品は米国での生産に対し最低40%のハンディを背負う
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- [26]米国でエンドユーザーを回るセールスマンが、顧客から「競争力が弱くなったので香港・台湾・シンガポールでの生産を計画している」と聞かされた
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [27]顧客や競争相手が東南アジアに出れば競争力の原点を失うと考え、経営の比重を海外生産に移した
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- [28]シンガポールを選んだ理由は、賃金が日本の6分の1、政治の安定、税制上の恩典の3点
- 週刊東洋経済 1972年4月22日号
- [29]高橋社長は、翌年中に軽井沢の設備の60%をシンガポールへ移すと語った
- 実業往来 330号 1979年7月(石塚巌)
- [30]1972年にシンガポールに現地生産会社を設立し1973年3月から生産開始。工場建設中に約260人を軽井沢に呼び半年ほど教育した
石塚巌専務は1979年、ダンピング提訴を通じて、単一商品でシェアを取れば必ず摩擦が起きると学んだと振り返った。REED工場を人も設備も動いたまま買い、すぐ生産に入れた経験から、自社開発より会社を買収する方が多角化の早道だと結論した。高橋高見氏は1972年11月に会長となり、同時に定款へ有価証券の売買を加えた。1974年10月には新興通信工業の第三者割当増資60万株を引き受け、経営に加わった。続いて1975年7月に東京螺子製作所と新中央工業、1977年2月に大阪車輪製造の株式を取得して経営に参加した。いずれも業績の悪い会社で、人員の削減や技術役員の派遣で立て直し、配当を出せるところまで戻した。
- 実業往来 330号 1979年7月(石塚巌)
- [31]米国でダンピングの訴えを受け、単一商品でマーケットシェアを取ると国際的に摩擦が起こると学び、多角化が必要との結論を得た
- [32]SKFの工場を従業員ごと機能が付いたまま買って即座に現地生産を始められたことから、会社そのものを買う方が多角化の道が早いと考えた
- 月刊経済 293号 1976年1月(北沢武)
- [33]高橋高見が会長に就いた1972年11月に定款を変更し「有価証券の売買を行う」を加えた
- 実業の世界 1981年7月号
- [34]1974年10月、新興通信工業の第三者割当増資60万株を受けて経営に参加
- [35]1975年7月東京螺子製作所・新中央工業に株式取得で経営参加、1977年2月大阪車輪製造に経営参加
- [36]業績は悪化しているが将来性のある企業の株を安値で取得し、人員の適正化や技術系役員の派遣で再建、各社を5円配当などに戻した
参考文献[19]-[36]
- 実業往来 330号 1979年7月(石塚巌)
- [19]1969年にOEPに提訴され、続いてダンピングの訴えを受けた
- [24]1971年7月交渉・8月本契約でニクソン・ショックをまたぎ、米国でドルを借りて9月に買い取り、12月の時価発行の資金で決済、為替で1割ほど安く買えた
- [30]1972年にシンガポールに現地生産会社を設立し1973年3月から生産開始。工場建設中に約260人を軽井沢に呼び半年ほど教育した
- [31]米国でダンピングの訴えを受け、単一商品でマーケットシェアを取ると国際的に摩擦が起こると学び、多角化が必要との結論を得た
- [32]SKFの工場を従業員ごと機能が付いたまま買って即座に現地生産を始められたことから、会社そのものを買う方が多角化の道が早いと考えた
- 証券アナリストジャーナル 10(4) 1972年4月(高橋高見)
- [20]1971年5月、米国防総省が米国・カナダ以外のミニチュアベアリングを国防関係に使わないとするサーキュラーを出した
- [21]米国売上の40%が国防向け。軍用で使われなくなると民間でも使われなくなり、ビジネスの60~70%を失いかねないと判断し、米国に工場を設けると決めた
- [25]関税・運賃・実質18%を超える円切上げを合計すると、日本製品は米国での生産に対し最低40%のハンディを背負う
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- [22]工場用地の購入計画と既存企業の買収工作を並行して進める中、SKFから不採算のミニチュアベアリング工場の売却話が持ち込まれた
- [28]シンガポールを選んだ理由は、賃金が日本の6分の1、政治の安定、税制上の恩典の3点
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [23]1971年9月、SKF社のREED工場(米国)を買収し米国で生産を開始
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- [26]米国でエンドユーザーを回るセールスマンが、顧客から「競争力が弱くなったので香港・台湾・シンガポールでの生産を計画している」と聞かされた
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [27]顧客や競争相手が東南アジアに出れば競争力の原点を失うと考え、経営の比重を海外生産に移した
- 週刊東洋経済 1972年4月22日号
- [29]高橋社長は、翌年中に軽井沢の設備の60%をシンガポールへ移すと語った
- 月刊経済 293号 1976年1月(北沢武)
- [33]高橋高見が会長に就いた1972年11月に定款を変更し「有価証券の売買を行う」を加えた
- 実業の世界 1981年7月号
- [34]1974年10月、新興通信工業の第三者割当増資60万株を受けて経営に参加
- [35]1975年7月東京螺子製作所・新中央工業に株式取得で経営参加、1977年2月大阪車輪製造に経営参加
- [36]業績は悪化しているが将来性のある企業の株を安値で取得し、人員の適正化や技術系役員の派遣で再建、各社を5円配当などに戻した
1980年〜系列4社を合わせたミネベアの社名と、三協精機に拒まれた合併
シンガポールには日本企業の進出が続き、1970年代の終わりには工員が集まりにくくなっていた。政府間の交渉でタイの女性約400人を呼び寄せたが、シンガポール政府は外国人労働者を締め出す方針に転じた。そこで1980年9月にNMB THAIを設立し、女性たちを帰すのと同じ年にタイでの生産へ踏み出した。国内では1981年10月、ねじの東京螺子製作所や特殊モーターの新中央工業など系列の上場4社を吸収合併し、社名をミネベアに改めた。会社は、技術・資金・人材を直接一元的に動かす体制が要ると合併の趣旨を説明した。一方で4社の株式の取得簿価は約57億円に上り、寝ていた投資資金を生かす狙いもあると経済誌は指摘した。
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- [37]シンガポールへ日本企業が相次いで進出し、人が集めにくくなった
- [38]タイから約400人の女性労働者を政府間交渉でシンガポールへ連れてきたが、シンガポール政府が外国人労働者を締め出す政策を打ち出した
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [39]1980年9月タイに現地生産会社NMB THAI LIMITEDを設立(昭和55年にタイの女性労働者を帰国させると同時にタイへ進出)
- [40]1981年10月、東京螺子製作所・新興通信工業・新中央工業・大阪車輪製造の系列メーカー4社を吸収合併し社名をミネベア株式会社に変更
- 実業の世界 1981年7月号
- [41]合併の趣旨として、技術力・資金力・人材の直接的・一元的運営体制を整えることが重要と会社が説明
- [42]4社の株式取得簿価は約57億円、他の系列を含め158億8千万円弱で流動性が低く、合併で資金効率の改善を図る狙いがあるとの見方
ミネベアは1985年6月、三協精機製作所の株式約1400万株、全株式の18.2%を取得したうえで合併を申し入れた。高橋高見社長は、三協精機はいずれ輸出競争力を失うが、ミネベアの海外拠点を使えば安く良い品が作れると合併の利を説いた。三協精機は同年7月29日、経営の流儀が違うとして申し出を断った。その後は八十二銀行など取引先に株を買い増してもらい、安定株主の比率を61%超へ高めた。その間にミネベア自身も米トラファルガー社と英グレン社に株を23%買われ、1986年4月の放出まで防戦に追われた。石塚巌副社長は1986年10月、TOBは一度もなく、長野の2社が一つになれば経営基盤が強まるとして筆頭株主のまま合併を求める考えを述べた。
- 月刊経済 416号 1986年10月
- [43]1985年6月、ミネベアが三協精機製作所株約1400万株(全株式の18.2%)を取得し合併を申し入れた
- [44]高橋社長は、三協精機は現在の技術力ではいずれ輸出競争力を失う、ミネベアの海外生産拠点を活用すれば低コストで高品質の製品ができると主張した
- [45]三協精機は経営の流儀が違うことを理由に7月29日にミネベアの申し出を断った
- [46]三協精機は主要取引銀行の八十二銀行などに株式を追加取得してもらい、株式安定化を61%超とした
- [47]米トラファルガー社と英グレン社がミネベア株を23%取得し1985年11月にTOBを宣言、ミネベアは私募債やかねもり合併で防衛し、1986年4月21日に2社が1700万株を放出
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- [48]三協精機についてはTOBなどは一度もなく、長野県の2社が一緒になれば経営基盤がより強くなるとして合併を提案、筆頭株主になり合併したいのが真意と石塚副社長が説明
1989年に高橋高見氏が世を去り、石塚巌氏が会長に就任して集団指導の体制へ移り始めた。メーンバンクを持たない会社の資金調達は、資本市場と高橋高見氏個人の資産・信用に支えられていた。同年5月には米ハッチンソン・テクノロジー社の買収交渉を、価格が折り合わないとして打ち切った。三協精機株の売却では40億円の損を出しており、会社は赤字の会社を避けて相手を慎重に選ぶと説明した。転換社債やワラント債で集めた資金は2000億円を下らず、その償還残高が次の調達の重荷になるとみられた。石塚巌会長は同年12月、『これからは何台かのモーターで全体を動かす電車に変わらねばならない』と語り、各部署が自ら判断して動く組織へ移す考えを示した。
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [49]高橋高見の死去により、会長に就任した石塚巌を中心に集団指導体制へ移行しつつある
- [50]メーンバンクらしきものを持たない同社の成長を支えたのは資本市場からの資金調達と故高橋氏の個人的な資産と信用力
- [51]1989年5月、米国のハードディスク駆動装置メーカーHTI社の買収交渉を途中で打ち切った
- [53]転換社債やワラント債の発行で得た資金は2000億円を下らないとされ、償還残高の膨張が今後の資金調達の足かせになるとの見方
- 実業往来 1989年7月号
- [52]三協精機の買収失敗で売却損40億円を被り、「無理に買収はしない。赤字企業はさけて、慎重に選ぶ」という考えに変わったと総務部が説明
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [54]石塚会長は、急速に広げた仕事をまとめ、各部署が自分の判断で行動する組織的な運営に切り替える時期と述べた
参考文献[37]-[54]
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- [37]シンガポールへ日本企業が相次いで進出し、人が集めにくくなった
- [38]タイから約400人の女性労働者を政府間交渉でシンガポールへ連れてきたが、シンガポール政府が外国人労働者を締め出す政策を打ち出した
- [48]三協精機についてはTOBなどは一度もなく、長野県の2社が一緒になれば経営基盤がより強くなるとして合併を提案、筆頭株主になり合併したいのが真意と石塚副社長が説明
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- [39]1980年9月タイに現地生産会社NMB THAI LIMITEDを設立(昭和55年にタイの女性労働者を帰国させると同時にタイへ進出)
- [40]1981年10月、東京螺子製作所・新興通信工業・新中央工業・大阪車輪製造の系列メーカー4社を吸収合併し社名をミネベア株式会社に変更
- 実業の世界 1981年7月号
- [41]合併の趣旨として、技術力・資金力・人材の直接的・一元的運営体制を整えることが重要と会社が説明
- [42]4社の株式取得簿価は約57億円、他の系列を含め158億8千万円弱で流動性が低く、合併で資金効率の改善を図る狙いがあるとの見方
- 月刊経済 416号 1986年10月
- [43]1985年6月、ミネベアが三協精機製作所株約1400万株(全株式の18.2%)を取得し合併を申し入れた
- [44]高橋社長は、三協精機は現在の技術力ではいずれ輸出競争力を失う、ミネベアの海外生産拠点を活用すれば低コストで高品質の製品ができると主張した
- [45]三協精機は経営の流儀が違うことを理由に7月29日にミネベアの申し出を断った
- [46]三協精機は主要取引銀行の八十二銀行などに株式を追加取得してもらい、株式安定化を61%超とした
- [47]米トラファルガー社と英グレン社がミネベア株を23%取得し1985年11月にTOBを宣言、ミネベアは私募債やかねもり合併で防衛し、1986年4月21日に2社が1700万株を放出
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- [49]高橋高見の死去により、会長に就任した石塚巌を中心に集団指導体制へ移行しつつある
- [50]メーンバンクらしきものを持たない同社の成長を支えたのは資本市場からの資金調達と故高橋氏の個人的な資産と信用力
- [51]1989年5月、米国のハードディスク駆動装置メーカーHTI社の買収交渉を途中で打ち切った
- [53]転換社債やワラント債の発行で得た資金は2000億円を下らないとされ、償還残高の膨張が今後の資金調達の足かせになるとの見方
- 実業往来 1989年7月号
- [52]三協精機の買収失敗で売却損40億円を被り、「無理に買収はしない。赤字企業はさけて、慎重に選ぶ」という考えに変わったと総務部が説明
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- [54]石塚会長は、急速に広げた仕事をまとめ、各部署が自分の判断で行動する組織的な運営に切り替える時期と述べた
1951年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年09月期 | 単体 | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年09月期 | 単体 | 2 | +4.0% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年09月期 | 単体 | 3 | +19.2% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年09月期 | 単体 | 4 | +32.3% | 0 | 0 | 4.4% | n/a |
| 1966年09月期 | 単体 | 8 | +102.4% | 1 | 0 | 9.5% | n/a |
| 1967年09月期 | 単体 | 13 | +65.1% | 3 | 0 | 4.4% | n/a |
| 1968年09月期 | 単体 | 18 | +32.8% | 4 | 0 | 4.5% | n/a |
| 1969年09月期 | 単体 | 22 | +23.6% | 5 | 4 | 18.4% | n/a |
| 1970年09月期 | 単体 | 33 | +49.8% | 7 | 6 | 18.6% | n/a |
| 1971年09月期 | 単体 | 42 | +24.9% | 9 | 7 | 18.8% | n/a |
| 1972年09月期 | 単体 | 52 | +25.2% | 11 | 9 | 18.6% | n/a |
| 1973年09月期 | 単体 | 74 | +41.7% | 14 | 14 | 18.9% | n/a |
| 1974年09月期 | 単体 | 117 | +56.6% | 13 | 12 | 10.3% | n/a |
| 1975年09月期 | 単体 | 124 | +6.6% | 17 | 14 | 11.7% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 147 | +18.3% | 1 | 3 | 2.4% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 181 | +23.0% | ▲5 | 1 | 0.7% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 201 | +11.1% | 8 | 2 | 1.5% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 269 | +33.7% | 18 | 8 | 3.2% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 451 | +67.4% | 25 | 12 | 2.9% | n/a |
| 1981年09月期 | 単体 | 735 | +63.0% | 34 | 17 | 2.4% | n/a |
| 1982年09月期 | 単体 | 911 | +23.9% | 68 | 34 | 3.8% | n/a |
| 1983年09月期 | 単体 | 941 | +3.3% | 50 | 24 | 2.7% | n/a |
| 1984年09月期 | 単体 | 1,307 | +38.8% | 91 | 46 | 3.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
18件
- ミネベアミツミ株式会社 有価証券報告書 2024年3月期【沿革】
- 証券業報 143号 1961年9月「日本ミネチュアベアリング」
- 証券投資リポート 36号 1963年3月「高収益をバックに着々発展態勢を整える「日本ミネチュアベアリング」」(高橋高見)
- 証券アナリストジャーナル 8(4) 1970年4月(高橋高見)
- インベストメント 145号 1971年6月「新規上場会社紹介――日本ミネチュアベアリング㈱」
- 証券アナリストジャーナル 10(4) 1972年4月(高橋高見)
- 週刊東洋経済 1972年4月22日号
- 改革者 176号 1974年11月「企業の多国籍戦略を解剖する――日本ミネチュアベアリングの場合」(竹島泰浩)
- 月刊経済 293号 1976年1月(北沢武)
- 実業往来 330号 1979年7月(石塚巌)
- 実業の世界 1981年7月号
- 証券アナリストジャーナル 24(11) 1986年11月(石塚巌)
- 月刊経済 416号 1986年10月
- 日経ビジネス 1989年12月4日号
- 日経ビジネス 1989年6月19日号
- 実業往来 1989年7月号
- オール大衆 23(18) 1970年9月「≪シリーズ・現代の成功者≫若いバイタリティ ミネ・ベア」(高橋高見)
- 工業技術 14(11) 1973年11月「驚異的企業発展の秘密」(高橋高見)