酉島製作所:ポンプ専門工場の酉島製作所の創設と高槻市への移転
1919年〜藤田鉱業の一部門として酉島町に開いたポンプ工場と、金融恐慌で独立した資本金100万円の会社
酉島製作所の起点は、藤田鉱業が1919年8月に大阪市此花区酉島町へ設けたポンプ専門の製作工場である。藤田鉱業は藤田組の傘下にあり、工場はその一部門として発足した。当時は遠心ポンプへの引き合いが増え始めた時期で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計と製作に携わった経験を備えていた。創業から日を置かずに、トリシマポンプの銘は国内に加えて海外でも知られるようになった。工場は1919年以降に製作したポンプについて、設計書・試験結果・納入後の経過を製作番号ごとに保管し、1951年時点でその記録は数万台分に及んだ。技術陣が前職で得た設計の経験を持ち込んだことが、専門工場として短期間で銘柄を確立できた理由と推察される。
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [1]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- [3]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- [4]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [2]1919年8月、藤田組傘下の藤田鉱業の一部門としてポンプ専門製作工場が大阪市此花区酉島町に創設された
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- [5]1919年以降の数万台のポンプの設計書・試験結果・納入後の記録を製作番号順に倉庫で保管し、新規設計の基礎にしていた(1951年の工場見学)
酉島製作所は1928年4月20日に株式会社として設立され、藤田鉱業の一部門から独立した会社になった。きっかけは1927年の金融恐慌で、その打撃を受けた藤田組は傘下に抱える諸事業の縮小と再編成に着手した。ポンプ工場も再編の対象となり、藤田鉱業から分離されたうえで資本金100万円の株式会社に改められた。設立時の本社の所在地は、工場と同じ大阪市此花区酉島町。独立後も工場は創業の1919年から続く製作記録を保管し続け、設計書と試験結果を製作番号ごとに積み上げて次の設計に生かした。親会社の事業再編で切り離された独立が、鉱山会社の一部門だった工場をポンプの専業メーカーとして歩ませる出発点になったとみられる。
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [6]設立は1928年4月20日。1928年4月に独立して資本金100万円の株式会社となった
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [7]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- [8]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- [9]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- [10]1919年以降のポンプの設計書・試験結果・納入後の記録を製作番号順に保管し、新規設計の基礎にしていた(1951年の工場見学)
参考文献[1]-[10]
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [1]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- [3]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- [4]1919年8月創設の藤田鉱業の酉島製作所が前身。創業当時は遠心ポンプの需要が旺盛で、技術陣は京都の奥村電機商会で電動遠心ポンプの設計製作の経験を持ち、短期間でトリシマポンプの名が国内外に広まった
- [6]設立は1928年4月20日。1928年4月に独立して資本金100万円の株式会社となった
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [2]1919年8月、藤田組傘下の藤田鉱業の一部門としてポンプ専門製作工場が大阪市此花区酉島町に創設された
- [7]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- [8]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- [9]1927年の金融恐慌を受けて藤田組が傘下諸事業を縮小・再編成し、酉島製作所は藤田鉱業から分離・独立して1928年4月に大阪市此花区酉島町で資本金100万円の株式会社として設立された
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- [5]1919年以降の数万台のポンプの設計書・試験結果・納入後の記録を製作番号順に倉庫で保管し、新規設計の基礎にしていた(1951年の工場見学)
- [10]1919年以降のポンプの設計書・試験結果・納入後の記録を製作番号順に保管し、新規設計の基礎にしていた(1951年の工場見学)
1929年〜150万円の増資で高槻市へ移した本社・工場と、戦後インフレの下での800万円増資
1941年12月、酉島製作所は工場と本社を一括して大阪市此花区酉島町から大阪府高槻市へ移した。移転に先立つ同年8月には資本金を150万円に増資しており、新しい設備で増える需要に応じることが移転の目的だった。移転の時点の社長は、1936年1月に就任した竹尾秋助氏である。竹尾秋助氏は京都大学の機械系を出た技術者で、1951年時点では社長と製作部長を兼ね、自ら試験に立ち会っていた。戦時下の酉島製作所は、海軍から軍需工場の指定を受けた。高槻市の工場の敷地は1981年時点で約1万9,000坪に達し、設計から鋳造・機械加工・性能試験までを1か所で手がける拠点になった。市街地の工場では設備を広げる余地が限られ、郊外に広い敷地を確保する狙いがあったと思われる。
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [11]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- [15]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- [16]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [12]1941年8月に150万円へ増資し、同年12月に大阪市此花区酉島町から工場と本社を現在地へ移して新設備で増加する需要に応えた。竹尾秋助氏は1936年1月に社長に就任
- [13]1941年8月に150万円へ増資し、同年12月に大阪市此花区酉島町から工場と本社を現在地へ移して新設備で増加する需要に応えた。竹尾秋助氏は1936年1月に社長に就任
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- [14]社長の竹尾秋助氏は京大機械部の出身で、社長と製作部長を兼ねて自ら試験に携わっていた(1951年)
戦後の酉島製作所では、炭鉱向けと農事向けのポンプが受注の中心となり、一時は業況が好転した。産業の復興に伴い、ポンプの用途は電力・紡績・化学繊維・鉱業・製鉄・化学工業・水道・土木建築へ広がった。1948年5月には資本金を800万円へ増資。一方で悪性インフレが材料の価格を押し上げ、人件費も上昇したため、経営は次第に混迷した。1949年9月、経営再建の担い手として原田龍平氏が役員に迎えられた。需要の回復を増資につなげながらも、インフレによる費用の上昇が収益を圧迫したのだろう。
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [17]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- [20]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- [21]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [18]戦後は産業復興で電力・紡績・化繊・鉱業・製鉄・化学工業・水道・土建などのポンプ需要が旺盛となり、1948年5月に800万円へ増資した
- [19]戦後は産業復興で電力・紡績・化繊・鉱業・製鉄・化学工業・水道・土建などのポンプ需要が旺盛となり、1948年5月に800万円へ増資した
参考文献[11]-[21]
- 証券 34(1)(394) 1982年
- [11]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- [15]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- [16]1941年12月に大阪府高槻市へ本社・工場のすべてを移転し、戦時下は海軍の軍需工場の指定を受けた。1981年時点の高槻工場は敷地約1万9,000坪で設計から鋳造・機械加工・性能試験までの一貫生産
- [17]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- [20]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- [21]戦後は一時期炭鉱用・農事用ポンプを中心に活況だったが、悪性インフレによる材料高騰と人件費上昇で経営が混迷し、1949年9月に原田龍平氏が経営再建のため役員として迎えられた
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- [12]1941年8月に150万円へ増資し、同年12月に大阪市此花区酉島町から工場と本社を現在地へ移して新設備で増加する需要に応えた。竹尾秋助氏は1936年1月に社長に就任
- [13]1941年8月に150万円へ増資し、同年12月に大阪市此花区酉島町から工場と本社を現在地へ移して新設備で増加する需要に応えた。竹尾秋助氏は1936年1月に社長に就任
- [18]戦後は産業復興で電力・紡績・化繊・鉱業・製鉄・化学工業・水道・土建などのポンプ需要が旺盛となり、1948年5月に800万円へ増資した
- [19]戦後は産業復興で電力・紡績・化繊・鉱業・製鉄・化学工業・水道・土建などのポンプ需要が旺盛となり、1948年5月に800万円へ増資した
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- [14]社長の竹尾秋助氏は京大機械部の出身で、社長と製作部長を兼ねて自ら試験に携わっていた(1951年)
出典・参考
3件
- 会社銀行八十年史 1955年「酉島製作所」
- 商工経済 4(5) 1951年5月「工場見學――酉島製作所」
- 証券 34(1)(394) 1982年