第1章 年〜年

DOWA:藤田組の小坂鉱山買収と黒鉱自溶製錬の確立

1884年〜閉山指令を撤回させた黒鉱の自熔製錬

官営払下げ第一号を受けて鉱山へ入る

1884年9月18日、明治政府は官営小坂鉱山を藤田組へ払い下げた。工場払下概則によって主要鉱山が民間へ移された最初の一件で、以後1896年までに院内、阿仁、三池、佐渡などが古河、三井、三菱の手へ順に渡った。長州萩の酒造家に生まれた藤田伝三郎は、輸入に依存していた軍靴の製造を手がけて陸軍の御用商人となり、被服その他の需用品や西南戦争の人夫の口入れで利益を蓄え、1881年に実兄の藤田鹿太郎、久原庄三郎と資本金6万円の組合を組織した。鉱山へ入ったのは1880年に愛媛の市ノ川鉱山へ投資したのが最初である。払い下げを受けると資本金を20万円へ増やし、鉱山部門を順に広げた。小坂は官営時代から国内で最も技術水準の高い鉱山とされ、銀の年産は官営末期の5,100キログラムから1888年には7,554キログラムへ5割以上伸び、同年まで産出額は全国一位を保った。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1884年9月18日 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けた(同社の創立記念日)
    • [2]工場払下概則で最初に払い下げられた主要鉱山が小坂で、1896年までに院内・阿仁・大葛・三池・幌内・広島・佐渡・生野が古河・三井・三菱などへ払い下げられた
    • [3]藤田伝三郎は当時人の好まなかった製靴業に従事して陸軍御用商人の資格を得、軍靴から被服その他の需用品、西南戦争の人夫の口入れにおよんで大きな利益を収め、1881年に伝三郎・実兄藤田鹿太郎・久原庄三郎の三人の組合として資本金6万円の藤田組を称した
    • [4]1880年に市ノ川鉱山(愛媛県のアンチモニー鉱山)へ投資したのが藤田組の鉱山進出のきっかけ
    • [6]小坂の銀年産は官営末期の5,100キログラムから1888年に7,554キログラムへ増え、同年まで産出額は全国一位だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [5]小坂鉱山の払い下げを受けると資本金を6万円から20万円に増加し、鉱山部門を拡大した
資本金の二倍の赤字と毛利家が突きつけた閉山条件

銀に寄りかかった経営は十年あまりで行き詰まった。小坂の鉱床のうち銀に富む土鉱は上部にしかなく、1896年3月の調査で残量は約7.9万トン、20カ月分しかなかった。金本位制の採用方針が伝わると銀価は1匁18.3銭から翌年には13.2銭へ3割近く下がった。日清戦争後の反動不況では保有有価証券が大幅に値下がりし、1897年中の損失約60万円を含めて約100万円、当時の資本金60万円の二倍に近い赤字が見込まれた。藤田伝三郎は井上馨の仲立ちで毛利家から総計60万円を借り入れ、資金繰りの急場をしのいだが、課された条件は厳しく、小坂・大森両鉱山を売る方針を立てること、出資社員は責任を負って経営を離れること、児島湾干拓は毛利家の監督下で行うことの三つであった。毛利家の資金はあくまで干拓事業に向けたもので、経営の定まらない鉱業からは手を引けというのがその求めだった。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [7]1896年3月の調査で小坂の土鉱残量は約7.9万トン、約20カ月分しかなかった
    • [8]金本位制の採用方針が伝えられ、銀価は1896年の平均1匁18.3銭から1897年に平均13.2銭へ3割近く下落した
    • [9]日清戦争後の反動不況による有価証券の値下がりで1897年中の損失は約60万円、以前の分を加え約100万円の赤字が見込まれた。当時の藤田組の資本金は60万円
    • [10]藤田伝三郎は井上馨に依頼し、毛利家から藤田組へ総計60万円の融資が行なわれた
    • [11]毛利家の融資条件は、(一)小坂・大森両鉱山を売却する方針を立てる (二)出資社員は責任を負って経営から退き毛利家の参加する整理委員会が経営に当たる (三)児島湾干拓事業は毛利家監督のもとに施工する、の三つ
    • [12]毛利家は児島湾干拓事業に対して融資するのであって、経営が不安定な鉱業は切り捨てよという立場だった
井上馨への直訴と羽口炭が開いた自熔製錬

小坂閉止の方針が内定した1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子の久原房之助を28歳で所長へ昇格させた。久原は閉止の指令を受けながら再建を期していた。尽きたのは土鉱であって、黒鉱は地下に大量に眠っていたからである。黒鉱は金銀銅鉛亜鉛が混ざる日本特有の鉱種で、処理法は欧米に実績も文献もなく、独力で研究するほかなかった。毛利家の整理委員は小坂を畳めば14万から15万円が残ると算じたが、久原は4万円を足して19万円で製銅場を建てる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って小坂を整理の枠から外させた。技術の側は偶然に開いた。羽口から薪でつつき少量の石炭を入れると炉内の融着がとけると青山隆太郎が気づき、炉のつまりを防げるようになった。1899年4月以降に自熔製錬が成り、1900年に土鉱製錬を終えて、小坂は銀山から銅山へ転じた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [13]1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子である久原房之助を28歳で小坂鉱山所長に昇格させた
    • [14]久原房之助は小坂鉱山の閉止指令を受けたが、内心はあくまで鉱山の再建を図ろうと考えていた
    • [15]鉱量が二年足らずというのは土鉱のことであって、黒鉱は多量に地下に眠っていた
    • [16]黒鉱は日本の特産ともいうべき鉱種で、その処理法について欧米での実績・文献がなく、独力で研究を要した
    • [17]久原房之助は、毛利家整理委員の算定(小坂を畳めば14〜15万円残る)に4万円を追加して19万円で製銅場をつくる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って面会し、小坂鉱山だけを整理の枠から外させた
    • [18]青山隆太郎が羽口から薪でつつき少量の石炭を投入すると融着した鉱石がとけることに気づき、これが羽口炭の始まりで炉内のつまりを防げるようになった
    • [19]自熔製錬の成功は1899年4月以降で、1900年に土鉱製錬を終止し、小坂鉱山は銀山から銅山へ転換した
参考文献[1]-[19]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1884年9月18日 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けた(同社の創立記念日)
    • [2]工場払下概則で最初に払い下げられた主要鉱山が小坂で、1896年までに院内・阿仁・大葛・三池・幌内・広島・佐渡・生野が古河・三井・三菱などへ払い下げられた
    • [3]藤田伝三郎は当時人の好まなかった製靴業に従事して陸軍御用商人の資格を得、軍靴から被服その他の需用品、西南戦争の人夫の口入れにおよんで大きな利益を収め、1881年に伝三郎・実兄藤田鹿太郎・久原庄三郎の三人の組合として資本金6万円の藤田組を称した
    • [4]1880年に市ノ川鉱山(愛媛県のアンチモニー鉱山)へ投資したのが藤田組の鉱山進出のきっかけ
    • [6]小坂の銀年産は官営末期の5,100キログラムから1888年に7,554キログラムへ増え、同年まで産出額は全国一位だった
    • [7]1896年3月の調査で小坂の土鉱残量は約7.9万トン、約20カ月分しかなかった
    • [8]金本位制の採用方針が伝えられ、銀価は1896年の平均1匁18.3銭から1897年に平均13.2銭へ3割近く下落した
    • [9]日清戦争後の反動不況による有価証券の値下がりで1897年中の損失は約60万円、以前の分を加え約100万円の赤字が見込まれた。当時の藤田組の資本金は60万円
    • [10]藤田伝三郎は井上馨に依頼し、毛利家から藤田組へ総計60万円の融資が行なわれた
    • [11]毛利家の融資条件は、(一)小坂・大森両鉱山を売却する方針を立てる (二)出資社員は責任を負って経営から退き毛利家の参加する整理委員会が経営に当たる (三)児島湾干拓事業は毛利家監督のもとに施工する、の三つ
    • [12]毛利家は児島湾干拓事業に対して融資するのであって、経営が不安定な鉱業は切り捨てよという立場だった
    • [13]1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子である久原房之助を28歳で小坂鉱山所長に昇格させた
    • [14]久原房之助は小坂鉱山の閉止指令を受けたが、内心はあくまで鉱山の再建を図ろうと考えていた
    • [15]鉱量が二年足らずというのは土鉱のことであって、黒鉱は多量に地下に眠っていた
    • [16]黒鉱は日本の特産ともいうべき鉱種で、その処理法について欧米での実績・文献がなく、独力で研究を要した
    • [17]久原房之助は、毛利家整理委員の算定(小坂を畳めば14〜15万円残る)に4万円を追加して19万円で製銅場をつくる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って面会し、小坂鉱山だけを整理の枠から外させた
    • [18]青山隆太郎が羽口から薪でつつき少量の石炭を投入すると融着した鉱石がとけることに気づき、これが羽口炭の始まりで炉内のつまりを防げるようになった
    • [19]自熔製錬の成功は1899年4月以降で、1900年に土鉱製錬を終止し、小坂鉱山は銀山から銅山へ転換した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [5]小坂鉱山の払い下げを受けると資本金を6万円から20万円に増加し、鉱山部門を拡大した

1906年〜鉱業の外へ展開した財閥構想と第一次大戦後の転落

土砂四トンを掘って鉱石一トンを採る採掘法へ変える

小坂の採掘法を変えたのは、1908年2月に辻元謙之助が出した露天掘の提案だった。鉱床を余さず採れる代わり、鉱石一トンにつき四トンの土砂を掘り取らねばならず、コスト高を恐れる反対論が強かった。病中の藤田伝三郎が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎の賛成意見を得て採用に踏み切った。製錬では銀の散逸を懸念して反射炉を使っていたが、転炉でも銀の減りは全含有量の1〜2%にとどまると分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーを据えた。沈澱銅の採収が再び始まった。含有銅量は1909年に75トンだったものが、1911年には300トンとなり、その後は年ごとに500トンに届いた。それに先立つ1908年9月には、索道では追いつかなくなった搬出のために森林鉄道を買い取り、大館から小坂までの全線22キロを開通させていた。金・銀・銅はそろって全国の上位を占め、合算した金額では国内の鉱山で首位に立った。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [20]1908年2月、伝三郎社長の特命で採掘法を研究した辻元謙之助が露天掘の実施を提案した
    • [21]露天掘は鉱床を余すところなく採掘できる一方、鉱石一トン当たり四トンの土砂を掘り取る必要があり、コスト高を懸念する強硬な反対論が起こった
    • [22]病中の藤田伝三郎社長が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎博士の賛成意見によって露天掘が採用された
    • [23]転炉でも銀は全含有量の1〜2%しか減らないと分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーが設置された
    • [24]沈澱銅採収の復活により含有銅量は1909年の75トンから1911年に300トン、以後毎年500トンとなった
    • [25]索道では貨物が消化しきれず、森林鉄道を買収して1908年9月に大館〜小坂間の全線22キロを完成させた(小坂鉄道)
    • [26]小坂鉄道の開通後、金・銀・銅とも全国鉱山の上位を占め、合計金額では全国一の産額となった
鉱量六年という計算が促した買山

露天掘を進めれば小坂の鉱量は六カ年で掘り尽くすという見積もりが出ており、小坂のみに頼り続けるわけにはいかなかった。製錬に回す鉱石を確保しようと、藤田組は明治末年から1918年までに、自ら操業を始めた山と買い取った山を合わせて30を超える鉱山を手中にし、後に主力となったのはそのうち二つである。花岡は、小坂で黄鉱が不足していたときに売り手が日立鉱山と競り合わせた山で、藤田組は1915年4月、鉄道などの付属物件込みで128万円を払って取得した。柵原は素硫化鉄鉱しか出ない山で、20万円という山代金が高すぎるとして一度は買わないことになったが、買山を担当した山下成一が、社長が決めないなら自分で金を工面して買い、会社を辞めると進退をかけて迫り、判断が覆った『社長が買うことにきめて下さらないなら、私自身なんとか金策して買うから、おいとまを願います』。買収後に探鉱を進めると、確定鉱量はおよそ375万トンに上った。ところが1918年7月の豪雨で坑内が水に沈み、39名が亡くなったため、本格的な開発は1920年ごろにずれ込んだ。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [27]露天掘の実施で小坂の鉱量は六カ年で尽きると計算されていた
    • [28]明治末年から1918年にかけて操業を開始したり買収したりした鉱山はおよそ30以上にのぼった
    • [29]1915年4月11日、小坂で黄鉱が欠乏していた時期に、六鉱区の山代と花岡〜大館間の鉄道など付属物件を含む代金128万円で花岡鉱山の売買契約を締結した(売り手は日立鉱山とも交渉し両者を競合させていた)
    • [30]柵原は素硫化鉄鉱のみで山代金20万円が高く一度は見送られたが、買山責任者・帯江所長の山下成一が進退をかけて主張し、坂仲輔総務理事を経て平太郎社長の決裁を得て1916年に買収した
    • [31]柵原の買収後に探鉱した結果、1917年には確定鉱量約375万トン、推定も同規模あることが分かった
    • [32]1918年7月、数日来の豪雨で柵原の坑内が水没し民家をものんで39名の人命が失われ、本格的開発は1920年ごろまで延びた
銀行と鉱業を柱にした財閥構想が折れる

1917年、藤田組は諸事業を再編して財閥の形をとった。中核は二つで、資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立である。鉱業だけでは発展に限りがあるという判断だった。他の財閥は、景気の波に左右されにくい石炭業や、銅が安くなるほど得をする電線部門を抱えていたが、藤田にはそうした総合性がなかった。第一次大戦が終わると、電気銅の価格は1916年12月にトン当り1,257円だったのが、1921年3月には526円まで落ちた。藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を住友へ売却して帯江や大森を休廃山とし、鉱産額の順位も1912年の第四位から1919年には第十六位へ下がった。1927年の金融恐慌では藤田銀行が破綻し、全財産を担保に差し出して日銀から9,000万円の特別融資を受け、この額は市中銀行向け特融の総額6億8,000万円の13%を占めた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [33]1917年、藤田組は財閥形態をとって諸事業を再編成した
    • [34]構想の中心は資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立だった
    • [35]財閥形態をとったのは、鉱業だけでは発展に限界があると考えたため
    • [36]他の財閥は景気変動に縁の薄い石炭業や銅価低落を逆に有利にする電工部門を持つ有機的なコンツェルンだったのに対し、藤田組はそのような総合性に欠けていた
    • [37]電気銅価格は大戦中の1916年12月にトン当り1,257円の最高値をつけたのち、1919年3月に609円、1921年3月に526円へ下落した
    • [38]藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を閉鎖して住友へ売却し、1920年帯江、1921年大荒沢、1923年大森が休廃山となった
    • [39]大手鉱山会社の鉱産額順位で、1912年に第四位だった藤田は1919年に第十六位へ落ちた
    • [40]1927年の金融恐慌で藤田銀行が破綻し、藤田銀行・藤田組・藤田個人・藤田鉱業の全財産を担保に日銀から9,000万円の特別融資を受けた
    • [41]当時の市中銀行に対する日銀特融総額は6億8,000万円で、藤田銀行が受けた9,000万円はその13%に当たる
参考文献[20]-[41]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [20]1908年2月、伝三郎社長の特命で採掘法を研究した辻元謙之助が露天掘の実施を提案した
    • [21]露天掘は鉱床を余すところなく採掘できる一方、鉱石一トン当たり四トンの土砂を掘り取る必要があり、コスト高を懸念する強硬な反対論が起こった
    • [22]病中の藤田伝三郎社長が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎博士の賛成意見によって露天掘が採用された
    • [23]転炉でも銀は全含有量の1〜2%しか減らないと分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーが設置された
    • [24]沈澱銅採収の復活により含有銅量は1909年の75トンから1911年に300トン、以後毎年500トンとなった
    • [25]索道では貨物が消化しきれず、森林鉄道を買収して1908年9月に大館〜小坂間の全線22キロを完成させた(小坂鉄道)
    • [26]小坂鉄道の開通後、金・銀・銅とも全国鉱山の上位を占め、合計金額では全国一の産額となった
    • [27]露天掘の実施で小坂の鉱量は六カ年で尽きると計算されていた
    • [28]明治末年から1918年にかけて操業を開始したり買収したりした鉱山はおよそ30以上にのぼった
    • [29]1915年4月11日、小坂で黄鉱が欠乏していた時期に、六鉱区の山代と花岡〜大館間の鉄道など付属物件を含む代金128万円で花岡鉱山の売買契約を締結した(売り手は日立鉱山とも交渉し両者を競合させていた)
    • [30]柵原は素硫化鉄鉱のみで山代金20万円が高く一度は見送られたが、買山責任者・帯江所長の山下成一が進退をかけて主張し、坂仲輔総務理事を経て平太郎社長の決裁を得て1916年に買収した
    • [31]柵原の買収後に探鉱した結果、1917年には確定鉱量約375万トン、推定も同規模あることが分かった
    • [32]1918年7月、数日来の豪雨で柵原の坑内が水没し民家をものんで39名の人命が失われ、本格的開発は1920年ごろまで延びた
    • [33]1917年、藤田組は財閥形態をとって諸事業を再編成した
    • [34]構想の中心は資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立だった
    • [35]財閥形態をとったのは、鉱業だけでは発展に限界があると考えたため
    • [36]他の財閥は景気変動に縁の薄い石炭業や銅価低落を逆に有利にする電工部門を持つ有機的なコンツェルンだったのに対し、藤田組はそのような総合性に欠けていた
    • [37]電気銅価格は大戦中の1916年12月にトン当り1,257円の最高値をつけたのち、1919年3月に609円、1921年3月に526円へ下落した
    • [38]藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を閉鎖して住友へ売却し、1920年帯江、1921年大荒沢、1923年大森が休廃山となった
    • [39]大手鉱山会社の鉱産額順位で、1912年に第四位だった藤田は1919年に第十六位へ落ちた
    • [40]1927年の金融恐慌で藤田銀行が破綻し、藤田銀行・藤田組・藤田個人・藤田鉱業の全財産を担保に日銀から9,000万円の特別融資を受けた
    • [41]当時の市中銀行に対する日銀特融総額は6億8,000万円で、藤田銀行が受けた9,000万円はその13%に当たる

1928年〜柵原の硫化鉄鉱が支えた消極経営と国策会社への経営権移転

20年の供給契約で柵原を支柱に変える

日銀の監督下で運営は消極的にならざるをえなかったが、柵原だけは別格だった。大正末から硫安と人絹の工業が伸び、硫酸の原料となる硫化鉄鉱の需要が急増していたからである。1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料および朝鮮窒素肥料と柵原硫化鉄鉱長期需給契約を結んだ。日窒側は興南と水俣・延岡の工場で使う硫酸に柵原鉱だけを使い他の原料を買わない、藤田側は1929年1月から20年にわたり年15万トンを供給する取り決めで、日窒は運搬施設の起業へ約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した。1929年10月には巨大な第三鉱体が見つかり、1931年2月に片上鉄道が全線開通して索道輸送は全廃された。柵原の産出は1928年ごろの年20万トン台から1936年には50.2万トンへ伸び、銅価の下がった1929年下期以降は小坂と花岡をはるかに凌いで全事業の支柱となった。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [42]日銀特融以後、藤田の事業は日銀の厳重な監督下におかれて運営は消極的になったが、柵原鉱山の硫化鉱部門は増産起業を行なうほどで別格のホープだった
    • [43]大正末期から硫安・人絹工業の興隆がめざましく過燐酸石灰の需要も増え、硫酸を多く使うこれらの事業により硫化鉄鉱の需要が著しく増えた
    • [44]1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料・朝鮮窒素肥料との間に「柵原硫化鉄鉱長期需給契約」を結んだ
    • [45]契約内容は、日窒側が興南工場と内地の水俣・延岡の関係会社工場で使用する硫酸製造にはもっぱら柵原硫化鉄鉱を使い他の原料を買い入れない、藤田側は1929年1月以降20年にわたり年15万トン(最初二年は13.5万トン)を供給する、というもの。日窒は運搬施設の新起業に対し約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した
    • [46]1929年10月に柵原第三鉱体が発見され、柵原の鉱量は数倍になった
    • [47]1931年2月に片上鉄道が全線開通し、索道輸送は全廃された
    • [48]柵原の硫化鉄鉱生産量は1928〜29年の年20万トン台から1936年に50.2万トンへ増え、銅価の下落した1929年下期から柵原の利益は小坂・花岡をはるかにしのぎ藤田全事業の支柱となった
捨てていた亜鉛を泡で分離して採る

同じころ、黒鉱から金属を分けて採る研究が実を結んだ。それまでの生鉱吹きでは銅と金銀だけを採り、7%ほど含まれる亜鉛は錣に残したまま捨てていた。技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得て、ある薬液に銅をつかませ、別の薬液に亜鉛をつかませて泡で分ける方法を試した。1927年に本社の試験で目鼻がつき、高田は小坂へ赴任したが、試験工場の建設は難航し、花岡鉱業所に神山選鉱場が立って操業に入ったのは1931年1月だった。亜鉛価格が下落していて利益は出なかったものの、黒鉱から銅精鉱と亜鉛精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離も成った。これによって花岡の利益は二倍以上になった。一つの鉱石から採れる金属の種類を増やすこの技術は、後年に銅と亜鉛の精鉱を分けて亜鉛製錬を別に立てる道まで通じていた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [49]生鉱吹きでは銅・金銀分をとって亜鉛分は錣に含まれたまま捨てており、小坂の黒鉱錣の中には7%くらいの亜鉛分が入っていたといわれる
    • [50]技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得た。浮遊選鉱はある化学液が銅をつかみ別の化学液が亜鉛をつかむ性質を使い、泡に付着させて精鉱を採る選鉱法
    • [51]1927年に本社での試験研究に目鼻がつき高田技師は小坂へ赴任したが、障害があって花岡鉱業所に神山選鉱場を建設し、操業開始は1931年1月になった
    • [52]亜鉛価格が下落して利益は出なかったが、黒鉱から銅と亜鉛の精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離にも成功した
    • [53]銅・亜鉛・鉛の精鉱が浮遊選鉱で分離できるようになり、花岡の利益は二倍以上になった
資金が足りず減産し、所有ごと手放す

日銀特融の返済に追われていた会社は、他社並みに起業資金を集めることができなかった。時局の要請は増産だったのに、産銅量は1938年の9,616トンが頂点で、1941年には6,650トンと3割落ち込んだ。鉱量が尽きたわけではなく、探鉱を進めれば手つかずの部分があり、欠けていたのは開発資金であった。1940年2月に藤田平太郎社長が急死すると、債権者の日銀は監督の姿勢を硬くし、経営と資本を切り離すよう露骨に求めた。1941年9月の株主総会で社長の藤田光一は代表権のない会長へ退き、旧役員もほぼ全員が退陣した。1942年5月に帝国鉱業開発と東北興業が2,000万円を折半で引き受け、1943年12月、譲渡代金を未確定のまま藤田家所有の100万株が鉱発名義へ書き換えられた。増産を求める国家と返済を求める債権者の板挟みが、所有そのものを手放させたのだろう。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [54]日銀特融の返済に追われて増産起業資金の調達が他の鉱山会社のように容易でなく、特融を受けざるをえなくなった経営の失敗が長く尾を引いていた
    • [55]藤田組の産銅量は1938年の9,616トンをピークに1941年には6,650トンへ3割減少した
    • [56]藤田組の生産不振は埋蔵鉱量が無くなったためではなく、探鉱すれば未開発部分が残っており、足りないのは開発に要する資金だった
    • [57]1940年2月に藤田平太郎社長が肺炎のため急逝すると日銀の監督方針が硬化し、日銀は藤田組経営者の刷新と経営・資本の分離を露骨に要求した
    • [58]1941年9月の株主総会で藤田光一社長は代表権のない会長へ退き、副社長の光彦は相談役へ後退、旧役員は新山敏介を除き全員が退陣した
    • [59]1942年5月、帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が株式会社藤田組に資本参加し、公称資本金5,000万円を7,000万円として2,000万円分を両者が折半で引き受けた
    • [60]1943年12月、譲渡株式代金を未確定のまま藤田家の所有株式100万株を帝国鉱業開発名義へ書き換えるという措置がとられた
参考文献[42]-[60]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [42]日銀特融以後、藤田の事業は日銀の厳重な監督下におかれて運営は消極的になったが、柵原鉱山の硫化鉱部門は増産起業を行なうほどで別格のホープだった
    • [43]大正末期から硫安・人絹工業の興隆がめざましく過燐酸石灰の需要も増え、硫酸を多く使うこれらの事業により硫化鉄鉱の需要が著しく増えた
    • [44]1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料・朝鮮窒素肥料との間に「柵原硫化鉄鉱長期需給契約」を結んだ
    • [45]契約内容は、日窒側が興南工場と内地の水俣・延岡の関係会社工場で使用する硫酸製造にはもっぱら柵原硫化鉄鉱を使い他の原料を買い入れない、藤田側は1929年1月以降20年にわたり年15万トン(最初二年は13.5万トン)を供給する、というもの。日窒は運搬施設の新起業に対し約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した
    • [46]1929年10月に柵原第三鉱体が発見され、柵原の鉱量は数倍になった
    • [47]1931年2月に片上鉄道が全線開通し、索道輸送は全廃された
    • [48]柵原の硫化鉄鉱生産量は1928〜29年の年20万トン台から1936年に50.2万トンへ増え、銅価の下落した1929年下期から柵原の利益は小坂・花岡をはるかにしのぎ藤田全事業の支柱となった
    • [49]生鉱吹きでは銅・金銀分をとって亜鉛分は錣に含まれたまま捨てており、小坂の黒鉱錣の中には7%くらいの亜鉛分が入っていたといわれる
    • [50]技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得た。浮遊選鉱はある化学液が銅をつかみ別の化学液が亜鉛をつかむ性質を使い、泡に付着させて精鉱を採る選鉱法
    • [51]1927年に本社での試験研究に目鼻がつき高田技師は小坂へ赴任したが、障害があって花岡鉱業所に神山選鉱場を建設し、操業開始は1931年1月になった
    • [52]亜鉛価格が下落して利益は出なかったが、黒鉱から銅と亜鉛の精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離にも成功した
    • [53]銅・亜鉛・鉛の精鉱が浮遊選鉱で分離できるようになり、花岡の利益は二倍以上になった
    • [54]日銀特融の返済に追われて増産起業資金の調達が他の鉱山会社のように容易でなく、特融を受けざるをえなくなった経営の失敗が長く尾を引いていた
    • [55]藤田組の産銅量は1938年の9,616トンをピークに1941年には6,650トンへ3割減少した
    • [56]藤田組の生産不振は埋蔵鉱量が無くなったためではなく、探鉱すれば未開発部分が残っており、足りないのは開発に要する資金だった
    • [57]1940年2月に藤田平太郎社長が肺炎のため急逝すると日銀の監督方針が硬化し、日銀は藤田組経営者の刷新と経営・資本の分離を露骨に要求した
    • [58]1941年9月の株主総会で藤田光一社長は代表権のない会長へ退き、副社長の光彦は相談役へ後退、旧役員は新山敏介を除き全員が退陣した
    • [59]1942年5月、帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が株式会社藤田組に資本参加し、公称資本金5,000万円を7,000万円として2,000万円分を両者が折半で引き受けた
    • [60]1943年12月、譲渡株式代金を未確定のまま藤田家の所有株式100万株を帝国鉱業開発名義へ書き換えるという措置がとられた

筆者考察

藤田組が小坂で学んだのは、鉱山の価値が鉱石の量ではなく、それを採取可能にする技術で決まるということだった。1896年の時点で銀に富む土鉱の残りは20カ月分しかなく、融資元の毛利家は条件に小坂の売却を挙げた。だが地下には黒鉱が大量に眠っていて、これは処理法が無いから価値が無いだけの鉱石である。久原房之助が入院中の井上馨へ日参して整理の枠を外させ、羽口炭という偶然の発見で自熔製錬が成ったとき、同じ山が閉山の対象から産銅界二位の資産へ変わった。技術が鉱石を資産に変える。この経験が藤田組の出発点にある。

ところが同じ判断力は、鉱業の外では働かなかった。1917年に藤田銀行と藤田鉱業を中核に置いた財閥構想は、他の財閥が石炭業や電線部門で銅価の変動を打ち消していたのに対し、打ち消す相手を持たなかった。第一次大戦後に電気銅がトン当り1,257円から526円へ下落すると、鉱産額の順位は第四位から第十六位へ滑り、1927年の藤田銀行破綻で9,000万円の日銀特融を負う。以後の20年、増産を求められながら資金が無くて減産した藤田組にとって、持っている山は稼ぐ資産ではなく、返済のための担保だった。

出典・参考

2件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)

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