藤田伝三郎
経歴1869〜1912年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1869年主要役職の状況(推定含む目安)1912年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 藤田組(現・DOWAホールディングス) | 1869 | 設立 | ||
| 1877 | 藤田伝三郎商社 社主頭取 | ||||
| 1881 | 組合組織の藤田組(資本金6万円) 社主頭取 | ||||
| 1884 | 官営小坂鉱山の払下げを受ける | ||||
| 1912 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1841年、長州萩の城下で代々酒造業を営む藤田家の4男として生まれた。幼少から郷塾で漢学を修め、16歳で経営に行き詰まった兄の醤油醸造業を引き継ぎ、3年で十分な利益を出した。幕末には高杉晋作氏に師事して奇兵隊に加わり、井上馨氏ら長州の志士と交わったことが、のちの藤田組の事業の後ろ盾となった。社長を務めたのは前身の合名会社藤田組で、初代社長として1912年の死去までその座にあった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
藤田伝三郎氏は1869年に大阪へ出た。当初は長州藩で不用になった銃砲を売った資金で渡欧を図ったが、便船が得られずに断念し、大阪で商人として身を立てると決めた。同郷の兵部大丞の山田顕義氏を訪ねた際、軍靴はすべて輸入に依存するため高価で、兵部省の需要を満たせないと聞いた。大阪の職人に試作させると、輸入品の3分の2以下の価格でほぼ同等の品ができたため、製造を始めた。藤田組の事業はここから始まった。
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「藤田組と藤田伝三郎」
- [5]明治二年(一八六九)、藤田伝三郎は上阪した。長州藩の陸軍局廃止で不用になった銃砲・弾丸の払下げを受けて大阪に運搬し、これを処分した金で渡欧を図ったが、大阪ではなかなか便船が得られなかった。ついに渡欧のことは思いとどまり、大阪によって商人として身を立てることを心に決めた
- [6]明治二年(一八六九)、藤田伝三郎は上阪した。長州藩の陸軍局廃止で不用になった銃砲・弾丸の払下げを受けて大阪に運搬し、これを処分した金で渡欧を図ったが、大阪ではなかなか便船が得られなかった。ついに渡欧のことは思いとどまり、大阪によって商人として身を立てることを心に決めた
- [7]同郷の大賀幾助とともに長州出身の兵部大丞山田顕義を訪ねたところ、席上軍靴の話がでた。当時軍靴はすべて輸入に仰いでいたため高価で、兵部省の需要を満たすことができない状態にあった。大阪で靴類を取り扱っていた大鼓屋又兵衛らに試作させてみたところ、舶来品にほぼ等しいものが三分の二以下の価格でできることがわかり、製造を開始した。時に明治二年であり、藤田組創業の端緒であった
- [8]同郷の大賀幾助とともに長州出身の兵部大丞山田顕義を訪ねたところ、席上軍靴の話がでた。当時軍靴はすべて輸入に仰いでいたため高価で、兵部省の需要を満たすことができない状態にあった。大阪で靴類を取り扱っていた大鼓屋又兵衛らに試作させてみたところ、舶来品にほぼ等しいものが三分の二以下の価格でできることがわかり、製造を開始した。時に明治二年であり、藤田組創業の端緒であった
- [9]同郷の大賀幾助とともに長州出身の兵部大丞山田顕義を訪ねたところ、席上軍靴の話がでた。当時軍靴はすべて輸入に仰いでいたため高価で、兵部省の需要を満たすことができない状態にあった。大阪で靴類を取り扱っていた大鼓屋又兵衛らに試作させてみたところ、舶来品にほぼ等しいものが三分の二以下の価格でできることがわかり、製造を開始した。時に明治二年であり、藤田組創業の端緒であった
軍靴に続いて陸軍の用達と土木の請負を広げ、1877年の西南戦争では靴や被服のほか、人夫と物資の調達を請け負って大きな利益を得た。同年9月には藤田組の規則を定めて店務の組織を整え、自ら社主頭取に就任した。1879年9月に贋札製造の嫌疑で拘引されたが、同年12月に事実無根として放免された。1881年1月には実兄の藤田鹿太郎氏と久原庄三郎氏を加えた資本金6万円の組合に改め、藤田組の名で再出発した。出資は藤田伝三郎氏が半分の3万円を持った。
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「藤田組と藤田伝三郎」
- [10]陸軍用達業を営み、土建業を兼営して大阪府の土木工事を請け負うようになった。明治十年の西南戦争で藤田組が請け負ったのは靴のほか紺脚絆など。大倉組とともに藤田組は人夫および物資の調達で大きな利益を得た
- [11]西南戦争の終わった十年九月、藤田組の規則を制定して藤田伝三郎商社と称し、伝三郎が社主頭取となり、鹿太郎・庄三郎・中野梧一を社中とした
- [12]伝三郎は十二年九月、東京から出向いてきた警視局によって堺市の寺に拘引された。贋札製造の嫌疑だったが、何の証拠も発見されず、同年十二月二十日すぎ、一同は無罪放免となり、事件は事実無根として落着した
- [13]明治十四年一月、藤田伝三郎商社の組織を変更し、鹿太郎・庄三郎を加盟させて三名の組合とした。名称は藤田組、資本金は六万円、社主頭取に伝三郎。出資は藤田伝三郎三万円、久原庄三郎一万五〇〇〇円、藤田鹿太郎一万五〇〇〇円
- [14]明治十四年一月、藤田伝三郎商社の組織を変更し、鹿太郎・庄三郎を加盟させて三名の組合とした。名称は藤田組、資本金は六万円、社主頭取に伝三郎。出資は藤田伝三郎三万円、久原庄三郎一万五〇〇〇円、藤田鹿太郎一万五〇〇〇円
鉱業への入口は、1880年に愛媛県の市ノ川鉱山へ資金を貸し、鉱石の販売を引き受けたことだった。官営鉱山を民間へ移す方針が出ると、五代友厚氏から小坂は有望と聞いて調査書類を譲り受け、久原庄三郎氏の名義で出願した。1884年9月18日に官営小坂鉱山の払下げを受け、DOWAはこの日を創業の日としている。並行して渋沢栄一氏らと大阪紡績会社を設立し、渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏と日本土木会社を企てるなど、関西の新しい産業にも資本を投じた。
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「藤田組と藤田伝三郎」
- [15]明治十三年、藤田組は愛媛県新居郡大生院村の市ノ川鉱山(アンチモニー)へ投資し、鉱業資本金を貸与し鉱石売捌方を引き受けた。これが鉱業経営進出の端緒であった
- [18]藤田伝三郎は渋沢栄一・松本重太郎らと資本金二五万円の大阪紡績会社を設立した。明治二十年、渋沢栄一・大倉喜八郎らと力を合わせてわが国最初の法人建設企業である日本土木会社の設立を企図した
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「小坂鉱山の払下げ」
- [16]太政官布告を知った藤田組(社主藤田伝三郎)は、取締久原庄三郎の名義(藤田伝三郎保証人として連署)で、明治十七年八月二日に工部省へ小坂・十輪田両鉱山の払下げを請願した。藤田伝三郎は五代友厚から小坂は有望と聞き、調査書類を譲り受け、小坂下付の出願を決意したといわれる
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「小坂鉱山の払下げ」・発刊にあたって
- [17]官営小坂鉱山は明治十七年(一八八四)九月十八日、藤田組に払い下げられた。当社はこの払下げの日をもって創業の日としている
日清戦争の後に経営は行き詰まった。株式投資の失敗と銀価の下落が重なり、1897年には赤字が資本金60万円の倍近い約100万円に達する見通しとなった。藤田伝三郎氏は井上馨氏を介して毛利家に追加融資を求めたが、毛利家は同年6月末に小坂鉱山の閉山方針を指示した。藤田組は閉止を内定したうえで甥の久原房之助氏を所長心得に昇任させ、藤田伝三郎氏も同氏の再建の意志を見抜いて小坂の再起を託した。黒鉱の自熔製錬が実り、1902年6月に新製錬所が完成した。藤田組は1903年1月に毛利家の監督下を脱し、藤田伝三郎氏も元の地位に戻った。
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第二章「危機の到来と救済融資」
- [19]戦後反動のため投資した諸株式が大幅に値下がりし、銀価の下落が追い討ちをかけた。三十年中の損失額は約六〇万円、それ以前の分を加えると一〇〇万円の赤字が見込まれた。藤田組の資本金は六〇万円であった
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第二章「第三次救済融資と小坂の閉山方針決定」
- [20]伝三郎は毛利家からの追加融資を求めるため、再び井上馨に仲介を懇請した。三十年六月末、毛利家は藤田組に対して小坂鉱山閉山の方針を指示した
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第二章「小坂の起死回生を図る」
- [21]小坂鉱山閉止の方針を内定した藤田組は、久原房之助(庄三郎の四男)を所長心得に昇任した。房之助は鉱山をあくまで守り再建を図ろうと考えており、伝三郎も房之助のその胸底を見抜いていて、小坂の起死回生の夢をこれに託していた
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第二章「自熔製錬の成功」
- [22]自熔製錬法を実施するため明治三十三年四月に新製錬所の建設に着工し、三十五年六月に完成した
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第二章「藤田組の躍進」
- [23]毛利家に対する債務も返済の目算がついたので、明治三十六年一月にはその監督下から脱却し、藤田伝三郎・久原庄三郎らはそれぞれかつての地位に復した
1905年3月に久原庄三郎氏が隠居し、兄弟で残るのが藤田伝三郎氏だけになると、同氏は自らの家を総家とする家憲で事業を一つにまとめようとした。久原房之助氏はこれに反対し、同年12月に藤田小太郎氏とともに持分を譲渡して藤田組を去り、日立鉱山で独立した。1908年には病中の藤田伝三郎氏が自ら会議を主宰し、反対論の強かった小坂の露天掘を採用した。藤田伝三郎氏は1912年3月に死去し、同年8月に藤田平太郎氏が合名会社藤田組の社長に就任した。
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部「兄弟経営から親子経営へ」
- [24]庄三郎も三十八年三月に隠居し、兄弟中残るは伝三郎一人となった。伝三郎は伝三郎家を総家とする家憲づくりを思い立ったが、房之助が大反対を唱えた。三十八年十二月十六日、藤田小太郎・久原房之助が持分全部を藤田伝三郎に譲渡して退社。房之助は日立鉱山と改称して独立の鉱山事業を興し、これが久原鉱業株式会社の発端となった
- [25]庄三郎も三十八年三月に隠居し、兄弟中残るは伝三郎一人となった。伝三郎は伝三郎家を総家とする家憲づくりを思い立ったが、房之助が大反対を唱えた。三十八年十二月十六日、藤田小太郎・久原房之助が持分全部を藤田伝三郎に譲渡して退社。房之助は日立鉱山と改称して独立の鉱山事業を興し、これが久原鉱業株式会社の発端となった
- 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
- [26]露天掘は鉱石一トン当たり四トンの土砂を掘り取る必要があり、強硬な反対論が起こった。病中の藤田伝三郎社長が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎博士の賛成意見によって露天掘が採用された(提案は1908年2月)
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部「藤田組の盛況と伝三郎社長の逝去」
- [27]明治四十五年(一九一二)三月、藤田伝三郎はその一生を閉じた。平太郎は男爵を襲爵し、八月一日に社長に就任、副社長には藤田徳次郎が就任した
参考文献3件
参考文献
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「藤田組と藤田伝三郎」
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)第一部第一章「小坂鉱山の払下げ」
- 同和鉱業創業百年史 本編(同和鉱業, 1985)口絵「歴代会長・社長」
事実根拠:出所(DOWA)