第2章 年〜年

DOWA:柵原の硫化鉄鉱と秋田製錬による臨海型亜鉛製錬への転換

1945年〜藤田の名を外して出直した同和鉱業と、柵原一山の利益

藤田家の誰も残らない役員陣が商号を変える

1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた。同族会社的な商号を近代組織的な商号へ改めるという趣旨だったが、実態としては藤田家の関係者がすでに役員陣に一人も残っていなかった。同月の株主総会で帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長となり、社長は欠員のまま再出発した。久留島秀三郎は満鉄に長く在籍し、鞍山鉄山の露天掘を手がけた技術畑の経営者だった。この久留島を1946年10月に社長へ推したのは菅である。菅は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を置いて再建策の調査を託していたが、石炭庁長官への就任を求められ、会長職を九カ月で退いた。対策委員会が同年10月に出した答申は、花岡では低品位鉱の採掘をやめて高品位鉱を小坂の熔鉱炉へ回すこと、利の厚い硫化鉄鉱を積極的に増やすこと、余った人員を整理することを求めていた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた
    • [2]商号変更は同族会社的商号から近代組織的商号へという趣旨で、すでに藤田家の関係者は重役陣に残っていなかった
    • [3]1945年12月の株主総会で古市六三が会長を辞任し、帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長に就任した。社長は欠員のままだった
    • [4]久留島秀三郎は長く満鉄に勤務し、鞍山鉄山の露天掘を実施した技術出身の経営者
    • [5]菅前会長の推薦により1946年10月、久留島秀三郎が同和鉱業社長に就任した
    • [6]菅会長は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を設けて再建調査を依頼したが、石炭庁長官への就任を要請され九カ月で会長を辞任した
    • [7]小坂・花岡操業方針対策委員会は1946年10月1日、(一)小坂へ高品位鉱を送れるよう切羽を整理し低品位鉱の採掘をやめる (二)花岡の採掘計画は重点的にしあとは保坑する (三)採算のよい硫化鉄鉱の増産を積極化する (四)花岡の過剰人員を整理する、と報告した
未払利息と分割指定という二つの負債を外す

新発足の同和鉱業には、処理せねばならない二つの負債があった。一つは日銀特融で、元本はほぼ返していたが未払利息が約4,000万円残り、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀が認めていなかった。担保に入っていたのは藤田家の財産であり、藤田側も取り戻しに協力せねばならない。1948年6月、日銀、鉱発、藤田鉱業、同和の四社で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額の約500万円を支払うという方針が決まった。もう一つは過度経済力集中排除法で、同和は1948年2月に第一次指定を受け、小坂・花岡の北部二山と柵原の西部一山へ分割される見込みとなった。柵原を切り離せば、戦時の乱掘で荒れた北の二山は立ち直れないと見られていた。米国の対日政策が転換して同年11月に指定は取り消され、1949年7月には鉱発所有の旧株100万株と新株20万株が公開された。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [8]戦時中に日銀特融の元本はほぼ返済していたが未払利息が約4,000万円あり、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀は認めていなかった
    • [9]日銀への差入れ担保が藤田家の財産だったため、藤田鉱業(のちの藤田興業)も担保取り戻しに協力する必要があった
    • [10]1948年6月、日銀・帝国鉱業開発・藤田鉱業・同和鉱業の四社間で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額約500万円を支払う方針が決まった
    • [11]同和鉱業は1948年2月に過度経済力集中排除法の第一次指定を受け、北部二山(小坂・花岡)と西部一山(柵原)の二会社に分割されるかにみえた
    • [12]柵原を切り離した場合、戦時中の強行生産・乱掘・機械の酷使がたたった小坂・花岡は立ち直れないという見通しだった
    • [13]米国の対日政策転換を受けて1948年11月に集中排除法の指定が取り消され、同和は二分割を免れた
    • [14]1949年7月、帝国鉱業開発が所有する同和鉱業株式の旧株100万株・新株20万株が証券処理調整協議会を通じて公開された
安く買い上げられる側に立って五年抗議する

食糧増産が至上の課題となるなか、肥料の原料である硫化鉄鉱を増やすことが国策に据えられ、戦後の復興は柵原の山にかかることになった。計算の上では、柵原鉱を一トン増やせば米が三〇石多くとれるとされ、1947年度は全国100万トンのうち30万トンが柵原の責任額となった。しかし価格は反対の方向に働いた。生産者価格はコストに基づき、消費者価格は硫黄品位に応じて決める二重価格制が敷かれ、コストの低い柵原鉱の買上げ価格は硫黄分1%当たり11円余にとどまる一方、ほかの鉱山の鉱石には19円弱が支払われた。品位の高い鉱石が安く買われ、その差益が競合する大手の鉱山への補助に回る仕組みである。久留島秀三郎は『鉱山は慈善事業じゃない』と国会にもGHQにも訴え続け『鉱山は慈善事業じゃない』、統制が解かれる1951年3月までに柵原が他鉱山へ供出した額は5億1,200万円を超えた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [15]戦後は食糧不足の解決のため肥料の増産が要請され、肥料原料の硫化鉄鉱の増産が急がれた。終戦後の同和復興の中心は柵原鉱山だった
    • [16]柵原鉱一トンの増産は米三〇石の増収に相当すると計算され、1947年度は全国100万トンのうち柵原の責任額30万トンとされた
    • [17]生産者価格はコスト主義、消費者価格は硫黄品位に応じたメリット主義という二重価格制で、柵原鉱石は硫黄分1%当たり11円余、松尾鉱石は15円弱、その他は19円弱と決められた
    • [18]第三種鉱山には日立・別子・細倉など同和以上の財閥系大会社が経営する鉱山が含まれ、柵原鉱の犠牲で全国の硫化鉱山へ補助金が支払われる形になっていた
    • [19]硫化鉄鉱の統制は1951年3月に解除され、その間に柵原鉱山は総計5億1,200万円以上を第二種・第三種鉱山へ補助金として出したのと同じ結果になった
参考文献[1]-[19]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた
    • [2]商号変更は同族会社的商号から近代組織的商号へという趣旨で、すでに藤田家の関係者は重役陣に残っていなかった
    • [3]1945年12月の株主総会で古市六三が会長を辞任し、帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長に就任した。社長は欠員のままだった
    • [4]久留島秀三郎は長く満鉄に勤務し、鞍山鉄山の露天掘を実施した技術出身の経営者
    • [5]菅前会長の推薦により1946年10月、久留島秀三郎が同和鉱業社長に就任した
    • [6]菅会長は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を設けて再建調査を依頼したが、石炭庁長官への就任を要請され九カ月で会長を辞任した
    • [7]小坂・花岡操業方針対策委員会は1946年10月1日、(一)小坂へ高品位鉱を送れるよう切羽を整理し低品位鉱の採掘をやめる (二)花岡の採掘計画は重点的にしあとは保坑する (三)採算のよい硫化鉄鉱の増産を積極化する (四)花岡の過剰人員を整理する、と報告した
    • [8]戦時中に日銀特融の元本はほぼ返済していたが未払利息が約4,000万円あり、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀は認めていなかった
    • [9]日銀への差入れ担保が藤田家の財産だったため、藤田鉱業(のちの藤田興業)も担保取り戻しに協力する必要があった
    • [10]1948年6月、日銀・帝国鉱業開発・藤田鉱業・同和鉱業の四社間で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額約500万円を支払う方針が決まった
    • [11]同和鉱業は1948年2月に過度経済力集中排除法の第一次指定を受け、北部二山(小坂・花岡)と西部一山(柵原)の二会社に分割されるかにみえた
    • [12]柵原を切り離した場合、戦時中の強行生産・乱掘・機械の酷使がたたった小坂・花岡は立ち直れないという見通しだった
    • [13]米国の対日政策転換を受けて1948年11月に集中排除法の指定が取り消され、同和は二分割を免れた
    • [14]1949年7月、帝国鉱業開発が所有する同和鉱業株式の旧株100万株・新株20万株が証券処理調整協議会を通じて公開された
    • [15]戦後は食糧不足の解決のため肥料の増産が要請され、肥料原料の硫化鉄鉱の増産が急がれた。終戦後の同和復興の中心は柵原鉱山だった
    • [16]柵原鉱一トンの増産は米三〇石の増収に相当すると計算され、1947年度は全国100万トンのうち柵原の責任額30万トンとされた
    • [17]生産者価格はコスト主義、消費者価格は硫黄品位に応じたメリット主義という二重価格制で、柵原鉱石は硫黄分1%当たり11円余、松尾鉱石は15円弱、その他は19円弱と決められた
    • [18]第三種鉱山には日立・別子・細倉など同和以上の財閥系大会社が経営する鉱山が含まれ、柵原鉱の犠牲で全国の硫化鉱山へ補助金が支払われる形になっていた
    • [19]硫化鉄鉱の統制は1951年3月に解除され、その間に柵原鉱山は総計5億1,200万円以上を第二種・第三種鉱山へ補助金として出したのと同じ結果になった

1952年〜関西が収益を上げ東北を探る二ブロックと、内の岱・松峰の発見

関西の利益で東北の探鉱を回す

同和の事業は関西と東北の二つのブロックに分かれ、関西には柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北には小坂と花岡の両鉱山、小坂製錬所、岩手の赤金鉱山が属していた。1949年の売上は硫化鉄鉱が54.0%、電気銅が37.5%を占めた。当時世界最大の硫化鉄鉱山だった柵原は、関西の硫酸製造に回る硫化鉄鉱のうち50%、全国でも約30%をまかなっていた。同和はこの柵原で上げた利益を北へ回し、小坂・花岡の立て直しと新しい鉱床の探鉱の元手にした。小坂は1953年、米国ドル社の特許による焙焼炉を用いた湿式製錬法を導入し、以前は錣として捨てていた亜鉛を回収できるようになった。1957年8月には、藤田家の手元に残った事業を受け継いでいた藤田興業を合併し、かつての藤田組の姿が同和鉱業の形でよみがえった。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [20]事業は関西と東北の二ブロックに分かれ、関西に柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北に秋田県の小坂鉱山・花岡鉱山・小坂製錬所と岩手県の赤金鉱山を持っていた
    • [22]柵原鉱山は関西地区で製造される硫酸の原料となる硫化鉄鉱の50%、日本全体の約30%を供給する、日本で最大かつ世界でも最大の硫化鉄鉱山だった
    • [23]新井友蔵社長は、柵原鉱山の利益によって北の小坂・花岡の回復と新しい鉱床の探鉱に努めることができたと述べている
    • [25]1957年8月に同系の藤田興業を合併し、ここではじめて往年の藤田組が同和鉱業として再現された
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)
    • [21]1949年4月から7月の売上構成は硫化鉄鉱54.0%、電気銅37.5%、金4.6%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [24]小坂では米国ドル社の特許によるフリュオ・ソリッド焙焼炉を使う世界最初の湿式製錬法を採用し、従来は錣中に廃棄されていた亜鉛の回収が可能になった
火山灰の下を撃って大鉱床を掘り当てる

十和田火山の噴出物のため、秋田の北鹿地域は地表から二〇〇メートルほどが火山灰に覆われ、外に顔を出していたのは小坂の旧鉱床などわずかだった。それでも鉱山を探し出すことこそ鉱山会社の本分であり、同和は1950年から10年ほど小坂地区の探鉱に力を注いだ末、1959年6月、旧鉱床の南約二キロで内の岱鉱床に行き当たった。銅2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%の品位を持ち、鉱量はおよそ1,000万トンという優れた鉱床だった。1962年7月に始まった選鉱は月に3万5,000トンを処理し、銅量で約950トンと国内一位の産銅量に達した。この発見を機に花岡の周辺も精力的に探り、1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で鉱量約2,000万トンの松峰鉱床が見つかった。当時の探鉱費は月8,000万円に達していた。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [26]秋田地区は十和田火山の爆発により地表から二〇〇メートルほど火山灰をかぶっており、露出していたのは小坂の旧鉱床と日東金属の相内鉱床だけだった
    • [27]新井友蔵社長は「鉱山会社の仕事は鉱山を見つけるところにある」と述べている
    • [28]1950年以来約10年をかけて小坂地区を精力的に探鉱した結果、1959年6月に小坂の旧鉱床から南約二キロの地点で内の岱鉱床を発見した
    • [29]内の岱の鉱量は約1,000万トン、銅品位2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%のほか金銀を含む優良鉱床
    • [30]内の岱は1962年7月に開発・選鉱を開始し、月3万5,000トンを処理して銅量約950トン、日本一位の産銅量を上げた
    • [31]内の岱発見から四年目の1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で松峰鉱床を発見した。鉱量は約2,000万トン、品位は銅2%、亜鉛3%、鉛1.5%
    • [32]探鉱の費用は探鉱準備金とは別に月間8,000万円を使っていた
製錬と加工へ拡大せず鉱業の専業にとどまる

戦後に国内資源が荒れると、非鉄各社は諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する事業や、地金の加工、さらに石油への進出を選んだ。同和はそのいずれも採らず、鉱業の専業に終始した。1965年時点の自山鉱比率は、業界平均が30%であるのに対し、同和鉱業と三菱金属が最も高かった。原料を自ら握る構造は製錬費の外部流出を抑える一方、鉱床の発見に業績が縛られることをも意味した。電気銅の生産量は1955年の9,211トンから1961年に2万3,836トン、1965年には4万3,730トンへ、10年で4.7倍になった。売上のうち銅の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果である。銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰がり、ロンドン金属取引所の相場と生産者建値の二本建てになっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [33]戦後に国内資源が荒廃すると、諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する製錬業に力を入れる会社、地金の加工に力を入れる会社、非鉄のほか石油にも進出する会社があった
    • [34]同和鉱業は鉱業の専業ということに終始しており、これが当社の特長だと新井友蔵社長は述べている
    • [35]自山鉱比率は業界平均が30%で、同和鉱業と三菱金属がトップ、次に日本鉱業と住友金属、それから古河鉱業の順だと新井友蔵社長は答えている
    • [37]1962年以降に同和鉱業の売上のうち銅売上の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果
    • [38]銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰貴し、ロンドン金属取引所(LME)相場と生産者建値の二本建てになっていた
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [36]電気銅の生産量は1955年9,211トン、1961年2万3,836トン、1965年4万3,730トン
参考文献[20]-[38]
  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [20]事業は関西と東北の二ブロックに分かれ、関西に柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北に秋田県の小坂鉱山・花岡鉱山・小坂製錬所と岩手県の赤金鉱山を持っていた
    • [22]柵原鉱山は関西地区で製造される硫酸の原料となる硫化鉄鉱の50%、日本全体の約30%を供給する、日本で最大かつ世界でも最大の硫化鉄鉱山だった
    • [23]新井友蔵社長は、柵原鉱山の利益によって北の小坂・花岡の回復と新しい鉱床の探鉱に努めることができたと述べている
    • [25]1957年8月に同系の藤田興業を合併し、ここではじめて往年の藤田組が同和鉱業として再現された
    • [26]秋田地区は十和田火山の爆発により地表から二〇〇メートルほど火山灰をかぶっており、露出していたのは小坂の旧鉱床と日東金属の相内鉱床だけだった
    • [27]新井友蔵社長は「鉱山会社の仕事は鉱山を見つけるところにある」と述べている
    • [28]1950年以来約10年をかけて小坂地区を精力的に探鉱した結果、1959年6月に小坂の旧鉱床から南約二キロの地点で内の岱鉱床を発見した
    • [29]内の岱の鉱量は約1,000万トン、銅品位2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%のほか金銀を含む優良鉱床
    • [30]内の岱は1962年7月に開発・選鉱を開始し、月3万5,000トンを処理して銅量約950トン、日本一位の産銅量を上げた
    • [31]内の岱発見から四年目の1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で松峰鉱床を発見した。鉱量は約2,000万トン、品位は銅2%、亜鉛3%、鉛1.5%
    • [32]探鉱の費用は探鉱準備金とは別に月間8,000万円を使っていた
    • [33]戦後に国内資源が荒廃すると、諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する製錬業に力を入れる会社、地金の加工に力を入れる会社、非鉄のほか石油にも進出する会社があった
    • [34]同和鉱業は鉱業の専業ということに終始しており、これが当社の特長だと新井友蔵社長は述べている
    • [35]自山鉱比率は業界平均が30%で、同和鉱業と三菱金属がトップ、次に日本鉱業と住友金属、それから古河鉱業の順だと新井友蔵社長は答えている
    • [37]1962年以降に同和鉱業の売上のうち銅売上の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果
    • [38]銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰貴し、ロンドン金属取引所(LME)相場と生産者建値の二本建てになっていた
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)
    • [21]1949年4月から7月の売上構成は硫化鉄鉱54.0%、電気銅37.5%、金4.6%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [24]小坂では米国ドル社の特許によるフリュオ・ソリッド焙焼炉を使う世界最初の湿式製錬法を採用し、従来は錣中に廃棄されていた亜鉛の回収が可能になった
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [36]電気銅の生産量は1955年9,211トン、1961年2万3,836トン、1965年4万3,730トン

1966年〜硫黄と亜鉛の需給が変えた原料と、閉じる側に回った鉱山

自山鉱だけでは埋まらない製錬所を六社で建てる

選鉱技術が進んで銅精鉱と亜鉛精鉱に分けられるようになり、湿式で銅と亜鉛を同時に製錬する必要はなくなった。小坂は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、自山鉱すら全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所へ委託に出していた。国際競争力を持つには海外鉱を加えて大量に処理する臨海製錬所が要った。1965年4月に亜鉛製錬委員会を置き、1967年5月に秋田市飯島地区を建設地と決めた。当初は単独の設備とする計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が大型化と共同化を求め、共同製錬方式へ変わった。1970年11月に六社の社長会を開催し、1971年2月に同和の出資52%で秋田製錬を設立した。飯島製錬所は1972年7月に本格操業へ入り、第一期は国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [39]選鉱技術の進歩により銅・亜鉛両精鉱への分離が可能となり、それまでのような湿式銅・亜鉛同時製錬の必要がなくなった
    • [40]小坂鉱山は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、その能力では自山鉱すらも全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所に委託製錬に出していた
    • [41]国際競争力をもつためには海外鉱をも加えて大量に処理する大規模臨海製錬所の建設が不可欠だった
    • [42]1965年4月に亜鉛製錬委員会を設置して製錬方式・設置場所等を検討し、1967年5月に秋田市飯島地区を製錬所建設地と決定した
    • [43]当初は新製錬所を独自設備として建設する計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が製錬所の大型化と乱立回避のための共同化を求めたことから、共同製錬方式へ変わった
    • [44]1970年11月12日に同和鉱業・日本鉱業・住友金属鉱山・三井金属鉱業・三菱金属鉱業・東邦亜鉛の六社社長会を開き、1971年2月に秋田製錬を設立した。出資比率は同和52%、日本鉱業・住友金属鉱山各14%、三井金属鉱業10%、三菱金属鉱業・東邦亜鉛各五%
    • [45]飯島製錬所は1971年1月に月産6,500トンの第一期工事へ着工し1972年1月完成、7月より本格操業に入った。第一期操業では国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した
崩落を機に堂屋敷の終掘を決める

北の鉱山は逆の方向へ動いていた。花岡の堂屋敷で1915年の開発以来掘り出された量は、戦前の31年間が553万トン、戦後の30年間が580万トンである。優れた鉱体を掘り終えた後は衛星鉱体の採掘に移っていたが、維持すべき坑道が延びて支保の費用が膨らみ、運搬の能率も落ちていた。存廃を検討するため1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設けられたが、その矢先の1972年3月、堤沢南鉱体の坑内が大きく崩れ、地表にも大きな亀裂が走って、露天掘の排水が西部坑内に流れ込んだ。同年5月に本社が送った調査団の報告は、先行きの発展につながる材料が見当たらず、残った鉱石を掘るほど保安上の危険が増すとして、二百数十名を整理し、残りの人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという内容だった。希望退職の募集と再就職の斡旋は1972年10月に始まった。1973年3月20日には鉱山用具を埋める鍬納式が営まれ、堂屋敷の歴史は閉じた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [46]1915年の当社開発以来の堂屋敷およびその周辺鉱床の銅鉱採掘量は、戦前31年間553万トン(品位2.90%)、戦後30年間580万トン(品位1.55%)
    • [47]堂屋敷は優秀鉱体が逐次掘り尽くされ衛星鉱体の採掘へ移行した関係で維持坑道が長くなり、支保に多大の経費を要するほか運搬能率の低下、鉱況悪化が顕著となった
    • [48]1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設置されて存廃の検討が進むさなか、1972年3月中旬に堤沢南鉱体坑内で大崩落が発生し地表にも大亀裂が入り、堤沢露天掘の排水が西部坑内に落水した
    • [49]1972年5月に本社から派遣された堂屋敷調査団は、今後の発展を期すべき材料はなく残鉱の採掘も保安上の危険が日を追って深まるとして、二百数十名に及ぶ人員を整理し、残った人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという報告を行なった
    • [50]1972年10月に入り、希望退職者の募集、他企業への再就職斡旋、堂屋敷坑の撤収作業が開始された
    • [51]1973年3月20日、堂屋敷鉱山部事務所東側の旧土場跡地に鉱山用具を埋める鍬納式を執り行ない、堂屋敷は幕を閉じた
石油から出る硫黄が柵原の値打ちを崩す

柵原の地位を崩したのは競合鉱山ではなく、石油だった。重油脱硫による回収硫黄が市場へ出回り始め、非鉄製錬の工程から出る回収硫酸と合わせて、硫黄の需給構造そのものが変わったからである。1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とし、従業員を約500名減らす対象とされた。花岡は約300名、小坂は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社として分離する案で、組合は協議が整わぬうちの新会社設立は協約違反だとして四山全面二四時間ストで応じた。入社以来労務畑を歩いた韮谷定敏は、最盛期に1万人だった従業員が3,000人へ減る過程に立ち会い、1973年の合理化では花岡鉱業所へ人員整理を説得しに行く役目を負った。掘る会社から、掘れなくなった後で何を食べていくかを決める会社へ、経営の課題は入れ替わっていた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [52]重油脱硫による回収硫黄および非鉄金属製錬過程から出る回収硫酸により、硫黄の需給構造が変化した。出光興産千葉製油所の重油脱硫による回収硫黄日産180トンがすでに市場に出回っていた
    • [53]1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とさざるをえず、従業員を約500名減らす対象とされた
    • [54]同じ合理化案で花岡鉱業所は約300名、小坂鉱業所は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社(160名程度)として分離することとされた
    • [55]1972年8月、赤金の第二会社として江刺興業の設立手続きを行なうことに対し組合は協議が整わぬうちの設立は協約違反だとして取下げを要求、8月19日に四山全面二四時間スト、8月22〜25日に指名ストが行なわれた
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
    • [56]韮谷定敏は入社以来一貫して労務畑を歩き、最盛期1万人の従業員が3,000人に減っていく過程をつぶさに見た。1973年の合理化で花岡鉱業所の人員整理を説得しに行った役目を最もつらい思い出に挙げている
参考文献[39]-[56]
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [39]選鉱技術の進歩により銅・亜鉛両精鉱への分離が可能となり、それまでのような湿式銅・亜鉛同時製錬の必要がなくなった
    • [40]小坂鉱山は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、その能力では自山鉱すらも全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所に委託製錬に出していた
    • [41]国際競争力をもつためには海外鉱をも加えて大量に処理する大規模臨海製錬所の建設が不可欠だった
    • [42]1965年4月に亜鉛製錬委員会を設置して製錬方式・設置場所等を検討し、1967年5月に秋田市飯島地区を製錬所建設地と決定した
    • [43]当初は新製錬所を独自設備として建設する計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が製錬所の大型化と乱立回避のための共同化を求めたことから、共同製錬方式へ変わった
    • [44]1970年11月12日に同和鉱業・日本鉱業・住友金属鉱山・三井金属鉱業・三菱金属鉱業・東邦亜鉛の六社社長会を開き、1971年2月に秋田製錬を設立した。出資比率は同和52%、日本鉱業・住友金属鉱山各14%、三井金属鉱業10%、三菱金属鉱業・東邦亜鉛各五%
    • [45]飯島製錬所は1971年1月に月産6,500トンの第一期工事へ着工し1972年1月完成、7月より本格操業に入った。第一期操業では国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した
    • [46]1915年の当社開発以来の堂屋敷およびその周辺鉱床の銅鉱採掘量は、戦前31年間553万トン(品位2.90%)、戦後30年間580万トン(品位1.55%)
    • [47]堂屋敷は優秀鉱体が逐次掘り尽くされ衛星鉱体の採掘へ移行した関係で維持坑道が長くなり、支保に多大の経費を要するほか運搬能率の低下、鉱況悪化が顕著となった
    • [48]1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設置されて存廃の検討が進むさなか、1972年3月中旬に堤沢南鉱体坑内で大崩落が発生し地表にも大亀裂が入り、堤沢露天掘の排水が西部坑内に落水した
    • [49]1972年5月に本社から派遣された堂屋敷調査団は、今後の発展を期すべき材料はなく残鉱の採掘も保安上の危険が日を追って深まるとして、二百数十名に及ぶ人員を整理し、残った人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという報告を行なった
    • [50]1972年10月に入り、希望退職者の募集、他企業への再就職斡旋、堂屋敷坑の撤収作業が開始された
    • [51]1973年3月20日、堂屋敷鉱山部事務所東側の旧土場跡地に鉱山用具を埋める鍬納式を執り行ない、堂屋敷は幕を閉じた
    • [52]重油脱硫による回収硫黄および非鉄金属製錬過程から出る回収硫酸により、硫黄の需給構造が変化した。出光興産千葉製油所の重油脱硫による回収硫黄日産180トンがすでに市場に出回っていた
    • [53]1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とさざるをえず、従業員を約500名減らす対象とされた
    • [54]同じ合理化案で花岡鉱業所は約300名、小坂鉱業所は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社(160名程度)として分離することとされた
    • [55]1972年8月、赤金の第二会社として江刺興業の設立手続きを行なうことに対し組合は協議が整わぬうちの設立は協約違反だとして取下げを要求、8月19日に四山全面二四時間スト、8月22〜25日に指名ストが行なわれた
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
    • [56]韮谷定敏は入社以来一貫して労務畑を歩き、最盛期1万人の従業員が3,000人に減っていく過程をつぶさに見た。1973年の合理化で花岡鉱業所の人員整理を説得しに行った役目を最もつらい思い出に挙げている

筆者考察

戦後の同和鉱業を支えたのは、北の銅ではなく西の硫化鉄鉱だった。柵原は関西で使う硫酸原料の50%を供給する世界最大の硫化鉄鉱山で、一トンの増産が米三〇石の増収に相当すると計算された。ところが品位が高くコストが安いという理由で安く買い上げられる側に置かれ、統制が解けるまでに5億1,200万円を他社の鉱山へ供出している。それでも会社が保ったのは、この一山の利益が北の探鉱をまかない続けたからである。1959年の内の岱と1963年の松峰は、十年分の探鉱費が火山灰二〇〇メートルの下で当たった結果だった。

自山鉱を握る会社であることは、1960年代の同和にとって競争優位だった。だが自山鉱は増やせる資源ではない。小坂の亜鉛製錬が月産1,600トンでは自山鉱すら処理しきれないと分かったとき、会社は海外鉱を混ぜて大量に処理する臨海製錬所を六社で建てる側へ回る。同じ時期、重油脱硫の回収硫黄が柵原の値打ちを崩し、堂屋敷は終掘し、四山で1,000名を超える人員が削られた。掘って売る会社から、他人の鉱石を処理して稼ぐ会社へ。原料をどこから取るかが移ったことが、この30年の帰結だった。

柵原鉱山の硫化鉄鉱生産量 1947年〜1951年(万トン)

27 1947 31.5 1948 36.5 1949 40.5 1950 43.5 1951
  • 価格統制下の増産で、同じ四年間に松尾鉱山は2.3倍、日立鉱山は3.5倍に伸びたのに対し、柵原は1.6倍にとどまった。
  • 出所は産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)。

1945年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 61 n/a 13 n/a 11 18.0% n/a
1954年03月期 単体 63 +3.3% 11 n/a 4 7.6% 岡山製錬所を設置(1953/08)
1955年03月期 単体 68 +7.9% 12 n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 80 +17.6% 15 n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 108 +35.0% 16 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 104 ▲3.7% 14 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 96 ▲7.7% 13 n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 128 +33.3% 14 n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 142 +10.9% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 153 +7.7% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 155 +1.3% n/a n/a 7 4.6% n/a
1964年03月期 単体 175 +12.9% n/a n/a 6 3.5% n/a
1965年03月期 単体 234 +33.7% n/a n/a 7 3.4% n/a
1966年03月期 単体 280 +19.7% n/a n/a 11 3.9% n/a
1967年03月期 単体 374 +33.6% n/a n/a 15 4.0% n/a
1968年03月期 単体 436 +16.6% n/a n/a 16 3.7% n/a
1969年03月期 単体 492 +12.8% n/a n/a 18 3.7% n/a
1970年03月期 単体 732 +48.8% n/a n/a 27 3.7% n/a
1971年03月期 単体 765 +4.5% n/a 34 25 3.3% n/a
1972年03月期 単体 721 ▲5.8% n/a 9 14 1.9% n/a
1973年03月期 単体 750 +4.0% n/a 34 7 0.9% 秋田工場を設置(1972/11)
1974年03月期 単体 1,126 +50.1% n/a 96 33 2.9% n/a
1975年03月期 単体 1,118 ▲0.7% n/a 23 19 1.7% n/a
1976年03月期 単体 935 ▲16.4% n/a ▲28 6 0.6% n/a

出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版)、(昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和36年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

6件
出典・参考
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)

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