ARCHION:三菱造船の「ふそう」バスと日野重工業の設立
1932年〜2社共同出資の東京自動車工業と、陸軍の秘密工場として分かれた日野重工業
東京瓦斯電気工業は1933年1月16日に和議の認可を受け、債務の整理を終えて再出発した。和議案は債務3,000万円の8割を切り捨て、資本金600万円を10分の1に減資したうえで540万円を増資する内容だった。回復のきっかけは1931年9月の満州事変で、東京瓦斯電気工業は装甲自動車「愛国第2号」を陸軍に提供した。1932・1933年度の軍事予算の増額で受注が戻り、1934年下期の利益金は24万9,000円と前期の15倍に増加。同じ期に13年ぶりの4分配当を実施し、従業員を600名から2,900名に増員した。陸軍は1918年から軍用保護自動車の制度を設け、軍用に適した国産車の製造を補助していた。不況期にも軍用車の研究を続けた蓄積が、軍需の拡大を受注に結びつけたとみられる。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 救世主となった満州事変」
- [1]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [2]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [3]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [4]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [5]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「6章 第2次大戦前夜の自動車工業」
- [6]軍用保護自動車の制度は1918年(大正7年)以来続き、軍用自動車の製造を補助した
1936年の自動車製造事業法は、許可会社に単独で年産3,000台以上の製造設備を求める内容である。東京瓦斯電気工業の松方五郎氏らは資本金を1,200万円に倍額増資し、川崎の大師河原に用地を取得して単独での許可を目指した。一方の自動車工業は、社長の加納友之助氏の急死で新井源水氏が昇格したばかりで、拡張に消極的だった。自動車工業は日産自動車との合併も交渉したものの成立せず、東京瓦斯電気工業との合併案が持ち上がった。1937年4月9日、両社は共同出資で東京自動車工業を設立し、社長に松方五郎氏、副社長に新井源水氏が就任した。8月20日には航空機部や兵機部と並ぶ10部の1つだった自動車部を分離し、365名を東京自動車工業へ移籍させた。許可会社の保護を得るには、2社の設備を合わせる方が単独の拡張より早いと判断したのだろう。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「6章 第2次大戦前夜の自動車工業」
- [7]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [8]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [9]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [10]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [11]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [12]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 救世主となった満州事変」
- [13]1934年下期の東京瓦斯電気工業は自動車部・航空機部・兵機部など10部の組織だった
1938年8月25日、営業部長の大久保正二氏は陸軍省の兵器局長を訪ね、中戦車を月産50台ほど造る工場の建設を提案した。大久保正二氏は軍の意向を記した念書を得て重役会を通し、日本興業銀行から3,000万円の融資を受けた。1938年9月20日に東京自動車工業の日野製造所の新設が決まり、約20万坪の用地で建設に着手。陸軍特殊車両の専門工場を一本化して切り離せば、本体が商工省の補助を受ける条件を整えられるという狙いがあった。東京自動車工業は1941年4月にヂーゼル自動車工業へ改称した。ヂーゼル自動車工業は現在のいすゞ自動車の前身にあたる。1942年5月1日、日野製造所はヂーゼル自動車工業が全株を持つ日野重工業として独立し、社長に松井命氏、取締役に星子勇氏と大久保正二氏が就任した。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「6章 第2次大戦前夜の自動車工業」
- [14]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [15]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [16]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [17]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [18]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 再建整備計画と新たな門出」
- [19]ヂーゼル自動車工業は現在のいすゞ自動車
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「1章 日野重工業の設立」
- [20]1942年5月1日日野重工業設立。ヂーゼル自動車工業が全株所有。社長松井命、取締役に星子勇・大久保正二ら
参考文献[1]-[20]
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 救世主となった満州事変」
- [1]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [2]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [3]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [4]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [5]1931年9月の満州事変で愛国第2号を提供。1933年1月16日和議認可(債務3,000万円の8割切捨て・600万円を1/10に減資し540万円増資)。1934年下期利益24万9,000円(前期比15倍)、13年ぶり4分配当、従業員600名→2,900名
- [13]1934年下期の東京瓦斯電気工業は自動車部・航空機部・兵機部など10部の組織だった
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「6章 第2次大戦前夜の自動車工業」
- [6]軍用保護自動車の制度は1918年(大正7年)以来続き、軍用自動車の製造を補助した
- [7]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [8]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [9]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [10]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [11]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [12]自動車製造事業法の許可会社は単独年産3,000台以上が基準。瓦斯電は1,200万円に倍額増資し川崎に用地取得。自動車工業は日産との合併交渉不成立。1937年4月9日両社共同出資で東京自動車工業設立(社長松方五郎・副社長新井源水)。8月20日自動車部を分離し365名転出
- [14]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [15]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [16]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [17]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- [18]1938年8月25日大久保正二が陸軍省兵器局長に中戦車月産50台の工場を提案、興銀から3,000万円融資。9月20日日野製造所新設決定(約20万坪)。軍用車工場を一本化・分離して商工省の補助を受ける狙い。1941年4月東京自動車工業がヂーゼル自動車工業に改称
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 再建整備計画と新たな門出」
- [19]ヂーゼル自動車工業は現在のいすゞ自動車
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「1章 日野重工業の設立」
- [20]1942年5月1日日野重工業設立。ヂーゼル自動車工業が全株所有。社長松井命、取締役に星子勇・大久保正二ら
1945年〜進駐軍を見て造った日野産業の大型トレーラトラックと、資本金2,500万円の日野ヂーゼル工業
1945年8月15日の終戦で、日野重工業は帰還する軍人を含め約7,000名の従業員を抱えたまま軍需を失った。1946年1月10日に平和産業への転換許可を得て、3月27日に社名を日野産業に改めた。当時はGHQがトラックの月産1,500台を許可していたものの、各社とも設備の老朽化と部品不足で生産が進まなかった。専務の大久保正二氏は、工場を接収した米第5空軍の大型トレーラを見て、鉄道貨車1台分の荷物を運べる車が要ると考えた。1945年暮れに設計を託された家本潔氏らは、積載量が標準10トン・最大15トン、全長10.5メートルの設計図を1946年3月末にまとめた。T10・20型トレーラトラックの完成は1946年8月21日。兵器工場の設備と技術者を生かせる製品として、戦後の貨物輸送に合う大型車を選んだと推察される。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「2章 戦争終結時の対策」
- [21]1945年8月15日終戦。日野重工業は帰還軍人を含め従業員約7,000名
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「3章 ついに動き出した平和産業への挑戦」
- [22]1946年1月10日平和産業への転換許可、3月27日日野産業に改称、T10・20型トレーラトラックは8月21日完成
- [23]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [24]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [25]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [26]1946年1月10日平和産業への転換許可、3月27日日野産業に改称、T10・20型トレーラトラックは8月21日完成
日野産業は1948年11月1日に資本金を400万円へ減資し、12月1日に資本金2,500万円の日野ヂーゼル工業として再出発した。1946年の日野産業は資本金5,000万円(うち払込2,500万円)で出発しており、再建整備後の資本金は当面の資金需要にも会社の地位にも見合わない額である。株式はヂーゼル自動車工業から戦時金融金庫、閉鎖機関整理委員会へと移ったのち、重役や従業員の手元に戻った。社長の大久保正二氏は1948年12月ころから東京証券市場への公開に動き、幹事に山一証券を選んだ。1949年2月21日の株式公開で、大久保正二氏は売出価格150円〜200円を求めたものの、山一証券が提案した75円を受け入れた。自動車製造業への投資家の理解が浅く、初めて市場に出る銘柄として価格を譲ったと思われる。
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 再建整備計画と新たな門出」
- [27]1948年11月1日資本金400万円に減資、12月1日新資本金2,500万円で日野ヂーゼル工業に改称
- [29]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [30]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [31]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [32]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「3章 ついに動き出した平和産業への挑戦」
- [28]日野産業の資本金は5,000万円(内払込金2,500万円)
参考文献[21]-[32]
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「2章 戦争終結時の対策」
- [21]1945年8月15日終戦。日野重工業は帰還軍人を含め従業員約7,000名
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「3章 ついに動き出した平和産業への挑戦」
- [22]1946年1月10日平和産業への転換許可、3月27日日野産業に改称、T10・20型トレーラトラックは8月21日完成
- [23]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [24]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [25]GHQは月産1,500台を許可も生産停滞。米第5空軍のトレーラを見て大久保専務が鉄道貨車1台分を運ぶ車を構想、1945年暮れに家本潔へ設計を託す。1946年3月末設計図完成(積載標準10t・最大15t・全長10.5m)
- [26]1946年1月10日平和産業への転換許可、3月27日日野産業に改称、T10・20型トレーラトラックは8月21日完成
- [28]日野産業の資本金は5,000万円(内払込金2,500万円)
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 再建整備計画と新たな門出」
- [27]1948年11月1日資本金400万円に減資、12月1日新資本金2,500万円で日野ヂーゼル工業に改称
- [29]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [30]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [31]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
- [32]再建整備で資本金2,500万円では資金需要・会社の地位に不足し1948年12月ころ東証公開工作開始。株はヂーゼル自動車工業→戦時金融金庫→閉鎖機関整理委員会→関係者へ。幹事山一証券、1949年2月21日公開、売出価格は大久保社長の150〜200円案でなく75円
出典・参考
6件
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 救世主となった満州事変」
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「6章 第2次大戦前夜の自動車工業」
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「5章 再建整備計画と新たな門出」
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「1章 日野重工業の設立」
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「2章 戦争終結時の対策」
- 日野自動車工業40年史(日野自動車工業, 1982)「3章 ついに動き出した平和産業への挑戦」