第2章 年〜年

東京製鐵:九州工場の大形H形鋼と千住・高知工場の閉鎖

1980年〜高炉が独占した大形品種への攻勢

鉄鋼業は基礎産業として常に時の権力の保護を受けてきた産業で、戦前は軍部と財閥、戦後はGHQ、そして通商産業省がその役を担った。保護は規制と表裏で、生産設備と生産量の調整に加え、不況時には販売価格のカルテルが公然と組まれた。カルテルはシェアを固定して高炉メーカーによる寡占を強め、下位のメーカーから原価低減の動機を奪った。東京製鐵はこの枠組みに乗らず、不況カルテルに反発してあえて設備投資を断行し、生産量を増やす手を繰り返した。1981年11月期には売上高1,574億円に対して経常損益が20億円の赤字へ落ち込んだが、翌1982年11月期には経常利益67億円へ戻した。市況の谷で投資を止めない会社にとって、業界の協調は競争条件を平準化する足かせだった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [1]鉄鋼業は基礎産業として時の権力から保護を受けてきた(戦前は軍部と財閥、戦後はGHQ、次いで通商産業省)
    • [2]生産設備・生産量の調整に加え、不況時には販売価格のカルテルが公然と組まれた
    • [3]価格カルテルはシェアの固定と高炉メーカーによる寡占化につながり、下位メーカーの原価低減の努力を怠らせた
    • [4]不況カルテルに反発して設備投資を断行し生産量を増やす手を繰り返した
  • 会社年鑑
    • [5]1981年11月期 売上高1,574億円・経常損益は20億円の赤字
    • [6]1982年11月期 経常利益67億円

1984年7月、九州工場の大形工場が竣工し、大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産を始めた。H形鋼はL字形の形鋼より精度の面で高度な生産技術を要したため、それまで高炉メーカーが独占的に生産していた品種だった。鉄骨コンクリート構造の高層ビルが増え、需要が急増していたことが参入の動機になった。東京製鐵は1970年以降、この品種で高炉メーカーへ何度も価格競争を挑み、H形鋼戦争と呼ばれた。厚板の領域でも大手の独占へ切り込み、業界を揺さぶる手を重ねた。1984年11月期は売上高1,611億円に対して経常損益が23億円の赤字で、大形工場の稼働は業績の谷と重なった。それでも設備の判断を市況の良否に合わせることはなかった。

  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1984年7月 九州工場大形工場が竣工し、大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産を開始
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [8]H形鋼はL字形の形鋼より精度面で高度な生産技術を要し、高炉メーカーが独占的に生産していた
    • [9]鉄骨コンクリート構造の高層ビルの増加に伴いH形鋼の需要が急増していた
    • [10]1970年以降、H形鋼で高炉メーカーに価格競争を挑み、H形鋼戦争と呼ばれた
    • [11]大手が独占していた厚板分野へ参入して競争を挑んだ
  • 会社年鑑
    • [12]1984年11月期 売上高1,611億円
    • [13]1984年11月期 経常損益は23億円の赤字

高炉メーカーとの価格競争を続けた結果、東京製鐵はH形鋼でトップシェアを握るに至った。一つの商品への売上依存度が高くならないよう意識して品種を増やしてきたと、池谷正成社長はのちに語っている。その意識が働き始めたのは1970年代の末で、電炉メーカーのなかでは圧倒的に品揃えの多い会社になった。高炉が独占してきた分野へ切り込む形で多品種化が進み、市場の大小を問わず、自社の設備が使えて需要のある製品には入っていった。1982年11月期は経常利益67億円、1983年11月期は22億円、1984年11月期は23億円の赤字と、業績は年ごとに大きく振れた。個々の品種で押し返されても収益の柱が一度に倒れない形が、ここで組み上がった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [14]H形鋼で高炉メーカーとの価格競争を続けた結果、トップシェアを握るに至った
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [15]一つの商品への売上依存度が高くならないよう意識して品種を増やしてきた
    • [16]品揃えを広げる方針は1970年代末から意識され、電炉メーカーのなかでは圧倒的に品揃えが多い
    • [17]高炉の分野へ進出する形で多品種化を進め、市場の大きさを問わず自社の設備が使える製品へ進出した
  • 会社年鑑
    • [18]経常損益は1982年11月期67億円、1983年11月期22億円、1984年11月期は23億円の赤字
参考文献[1]-[18]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [1]鉄鋼業は基礎産業として時の権力から保護を受けてきた(戦前は軍部と財閥、戦後はGHQ、次いで通商産業省)
    • [2]生産設備・生産量の調整に加え、不況時には販売価格のカルテルが公然と組まれた
    • [3]価格カルテルはシェアの固定と高炉メーカーによる寡占化につながり、下位メーカーの原価低減の努力を怠らせた
    • [4]不況カルテルに反発して設備投資を断行し生産量を増やす手を繰り返した
    • [8]H形鋼はL字形の形鋼より精度面で高度な生産技術を要し、高炉メーカーが独占的に生産していた
    • [9]鉄骨コンクリート構造の高層ビルの増加に伴いH形鋼の需要が急増していた
    • [10]1970年以降、H形鋼で高炉メーカーに価格競争を挑み、H形鋼戦争と呼ばれた
    • [11]大手が独占していた厚板分野へ参入して競争を挑んだ
    • [14]H形鋼で高炉メーカーとの価格競争を続けた結果、トップシェアを握るに至った
  • 会社年鑑
    • [5]1981年11月期 売上高1,574億円・経常損益は20億円の赤字
    • [6]1982年11月期 経常利益67億円
    • [12]1984年11月期 売上高1,611億円
    • [13]1984年11月期 経常損益は23億円の赤字
    • [18]経常損益は1982年11月期67億円、1983年11月期22億円、1984年11月期は23億円の赤字
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1984年7月 九州工場大形工場が竣工し、大形H形鋼とユニバーサルプレートの生産を開始
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [15]一つの商品への売上依存度が高くならないよう意識して品種を増やしてきた
    • [16]品揃えを広げる方針は1970年代末から意識され、電炉メーカーのなかでは圧倒的に品揃えが多い
    • [17]高炉の分野へ進出する形で多品種化を進め、市場の大きさを問わず自社の設備が使える製品へ進出した

1985年〜6工場から3工場への生産拠点の集約

1986年1月、創業の地である東京都足立区の千住工場を閉鎖した。千住工場は戦後に戦勝国への賠償指定施設とされ、建物も生産設備もGHQの管理下に置かれた最も古い拠点だった。1979年9月に大形・中形形鋼工場の改造工事を終えたばかりで、手を入れてから7年に満たない閉鎖だった。翌1987年3月には高知工場を閉じ、2年のうちに2つの拠点が生産から外れた。首都圏の工場は1978年1月の江戸川工場閉鎖に続いて姿を消し、生産は岡山と九州へ寄った。岡山工場は1978年に140トンの電気炉を据え、九州工場は1971年に連続鋳造設備を備えており、規模と工程の両方で差がついていた。大都市の内部にある工場は用地も搬入路も広げられず、電気炉の大型化が進むほど西日本の拠点との能力差が開いた。

  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1986年1月 千住工場(東京都足立区)を閉鎖
    • [21]1979年9月 千住工場大・中形形鋼工場改造工事完成
    • [22]1987年3月 高知工場を閉鎖
    • [23]1978年1月 江戸川工場を閉鎖
    • [24]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始
    • [25]1971年11月 九州工場に50トン電気炉2基・連続鋳造設備2基完成
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [20]戦後、千住工場は戦勝国への賠償指定施設となり建物・生産設備がGHQの管理下に置かれた

高知工場は最盛期に年20万トンを生産していた。電気炉が2基しかなく下工程も持たないため今後とも黒字化の見込みはないと判断され、1987年3月20日に閉鎖された。現業社員50人は、岡山工場内の協力会社への出向か退職かの選択を迫られた。会社側は岡山工場で雇用を吸収する方針を示す一方、45歳から50歳で退職する場合に退職金へ700万円を上乗せする制度を設けた。勤続20年・40歳の現業社員の収入は深夜勤務を含めて月36万円から37万円に達した。賞与は年間100万円を超え、地元では金融機関などを除けば最も高い水準にあった。地元で再就職すれば月10万円から15万円にしかならないと労働組合の委員長が説いたが、出向に応じたのは6人にとどまった。転勤を知らない現業の職場では、地域を離れる配置転換が退職と同義だった。

  • 日経ビジネス 1987年3月30日号
    • [26]高知工場は最盛期には年20万トンを生産していた
    • [27]電気炉が2基しかなく下工程もないため今後とも黒字化の見込みはないと判断され、1987年3月20日に閉鎖
    • [28]高知工場の現業社員50人が岡山工場内の協力会社への出向か退職かの選択を迫られた
    • [29]岡山工場で雇用を吸収する方針を示す一方、45〜50歳で退職する場合に退職金へ700万円を上乗せする制度を設けた
    • [30]勤続20年・40歳の現業社員の収入は深夜勤務を含め月36〜37万円
    • [31]賞与は年間100万円を超え、地元では金融機関など一部を除き最も高い水準だった
    • [32]地元で再就職すれば月10〜15万円にとどまると労働組合委員長が出向を勧めたが、応じたのは6人だった

池谷太郎氏は後年、最盛期に6か所あった工場を3か所まで減らしたと振り返っている。2,500人を超えていた社員も1,500人まで減らし、これが奏功して売上高は2倍近く伸びたと述べた。拠点を絞った先は、140トン電気炉を持つ岡山工場と、大形H形鋼の設備を備えた九州工場だった。東京製鐵の強みは少数精鋭の体質にあり、高炉メーカーを相手に競争できたのは生産性の高さによると、池谷正成社長はのちに説明している。本社の人員が少なく意思決定が速いという体質は先代から受け継いだものだった。人を不必要に増やさず、無駄な仕事を作らない経営を、池谷太郎氏が引き継がせていた。工場を減らすことは、残した工場へ需要を集めて稼働率を上げる手でもあった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [33]最盛期には6か所にあった工場を3か所まで減らした
    • [34]2,500人を超えた社員を1,500人まで削減し、これが奏功して売上高は2倍近く伸びた
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始
    • [36]1984年7月 九州工場大形工場が竣工し大形H形鋼の生産を開始
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [37]強みは少数精鋭のスリムな体質にあり、高炉メーカーを相手に競争できたのは生産性の高さによる
    • [38]本社人員が少なく意思決定が速いという体質は先代からの伝統である
    • [39]先代の池谷太郎は人を不必要に増やしたり無駄な仕事を作るのを嫌った
参考文献[19]-[39]
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1986年1月 千住工場(東京都足立区)を閉鎖
    • [21]1979年9月 千住工場大・中形形鋼工場改造工事完成
    • [22]1987年3月 高知工場を閉鎖
    • [23]1978年1月 江戸川工場を閉鎖
    • [24]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始
    • [25]1971年11月 九州工場に50トン電気炉2基・連続鋳造設備2基完成
    • [35]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始
    • [36]1984年7月 九州工場大形工場が竣工し大形H形鋼の生産を開始
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [20]戦後、千住工場は戦勝国への賠償指定施設となり建物・生産設備がGHQの管理下に置かれた
    • [33]最盛期には6か所にあった工場を3か所まで減らした
    • [34]2,500人を超えた社員を1,500人まで削減し、これが奏功して売上高は2倍近く伸びた
  • 日経ビジネス 1987年3月30日号
    • [26]高知工場は最盛期には年20万トンを生産していた
    • [27]電気炉が2基しかなく下工程もないため今後とも黒字化の見込みはないと判断され、1987年3月20日に閉鎖
    • [28]高知工場の現業社員50人が岡山工場内の協力会社への出向か退職かの選択を迫られた
    • [29]岡山工場で雇用を吸収する方針を示す一方、45〜50歳で退職する場合に退職金へ700万円を上乗せする制度を設けた
    • [30]勤続20年・40歳の現業社員の収入は深夜勤務を含め月36〜37万円
    • [31]賞与は年間100万円を超え、地元では金融機関など一部を除き最も高い水準だった
    • [32]地元で再就職すれば月10〜15万円にとどまると労働組合委員長が出向を勧めたが、応じたのは6人だった
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [37]強みは少数精鋭のスリムな体質にあり、高炉メーカーを相手に競争できたのは生産性の高さによる
    • [38]本社人員が少なく意思決定が速いという体質は先代からの伝統である
    • [39]先代の池谷太郎は人を不必要に増やしたり無駄な仕事を作るのを嫌った

1988年〜創業者の退場と直流電気炉の導入

1988年、池谷太郎氏は相談役へ退き、週に2回の出社だけを残した。1975年、58歳で代表権のない会長へ退き、実質的な経営者としての活動を終えていた。1979年の時点では隠居の身と紹介されており、そこから9年をかけて関与をさらに外した。手放してまで守ろうとしたのは、自由で活力のある企業体質だったと本人は語っている。高炉メーカーを相手に自由競争を主張し続け、一匹狼とも暴れん坊とも呼ばれた経営者だった。自分が残っていれば保守的な業界の考え方に迎合していたかもしれないとも述べている。創業者が経営から離れていたことは、創業の地の工場を畳む決定を先代への配慮なしに下せる条件だった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [40]1988年に相談役へ退き、週に2回の出社となった
    • [41]1975年、58歳で代表権のない会長に退き実質的な経営者生活を終えた
    • [43]経営権を手放してまで守ったのは自由で活力のある企業体質だった
    • [44]高炉メーカーを相手に自由競争を主張し続け、一匹狼・暴れん坊と呼ばれた
    • [45]自分が経営に口出ししていれば保守的な業界の考え方に迎合していたかもしれないと述べた
  • 日経ビジネス 1979年3月12日号
    • [42]1979年の時点で「隠居の身」と紹介されていた

1989年8月、九州工場に130トンの直流電気炉が完成し、操業を始めた。九州工場は1971年に50トンの電気炉2基から始まった拠点だった。1984年に大形工場、1989年に直流電気炉と、およそ5年おきに設備を積み増してきた。岡山工場でも1978年に140トンの電気炉を2基据えており、規模を取りにいく投資はこの2拠点へ集中した。設備投資は10年先を取るという考え方でやると、池谷太郎氏は1979年の時点で語っていた。他社が採用してから同じ設備を作るのでは遅く、市場性のある品目を先に押さえるという順序を崩さなかった。千住と高知を畳んで浮いた資源は、残した工場の炉へ向かった。

  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1989年8月 九州工場130トン直流電気炉が完成・操業開始
    • [47]1971年11月 九州工場に50トン電気炉2基・連続鋳造設備2基完成
    • [48]1984年7月 九州工場大形工場が竣工
    • [49]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始
  • 日経ビジネス 1979年3月12日号
    • [50]設備投資は「10年の先取り」という考え方で行うと語っていた
    • [51]他社が採用してから同じ設備を作るのでは遅く、少しでも市場性のある品目を先に手掛ける
参考文献[40]-[51]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)
    • [40]1988年に相談役へ退き、週に2回の出社となった
    • [41]1975年、58歳で代表権のない会長に退き実質的な経営者生活を終えた
    • [43]経営権を手放してまで守ったのは自由で活力のある企業体質だった
    • [44]高炉メーカーを相手に自由競争を主張し続け、一匹狼・暴れん坊と呼ばれた
    • [45]自分が経営に口出ししていれば保守的な業界の考え方に迎合していたかもしれないと述べた
  • 日経ビジネス 1979年3月12日号
    • [42]1979年の時点で「隠居の身」と紹介されていた
    • [50]設備投資は「10年の先取り」という考え方で行うと語っていた
    • [51]他社が採用してから同じ設備を作るのでは遅く、少しでも市場性のある品目を先に手掛ける
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1989年8月 九州工場130トン直流電気炉が完成・操業開始
    • [47]1971年11月 九州工場に50トン電気炉2基・連続鋳造設備2基完成
    • [48]1984年7月 九州工場大形工場が竣工
    • [49]1978年4月 岡山工場第1号・第2号140トン電気炉完成・操業開始

筆者考察

1980年代の東京製鐵は、品種を広げることと拠点を減らすことを同時に進めた。1984年7月に九州工場の大形工場を立ち上げて高炉メーカーが独占していた大形H形鋼とユニバーサルプレートへ入り、その2年後に創業の地の千住工場を、さらに翌年には高知工場を閉じている。攻める側の投資と畳む側の整理が同じ時期に並んだのは、電気炉の大型化が拠点ごとの採算を分けたからである。電気炉2基で下工程を持たない高知工場は、年20万トンを出した最盛期の設備のままでは黒字化の見込みが立たなかった。1981年11月期に経常損益が20億円の赤字へ落ちても設備投資を止めなかった会社が、稼げない拠点は年単位で畳んでいった。

畳む判断の速さは、創業者が経営から離れていたことに支えられている。池谷太郎氏は1975年に58歳で代表権のない会長へ退き、1988年には相談役となって週2回の出社だけを残した。賠償指定施設としてGHQの管理下に置かれた千住工場は創業者にとって最も古い持ち場だったが、その閉鎖は1986年に決まっている。最盛期に6か所あった工場が3か所となり、2,500人を超えた社員が1,500人まで減ったあとに売上高が2倍近く伸びたという本人の総括は、拠点を残すことと稼ぐことが別物だと認めた言葉でもある。

売上高 1980年11月期から1984年11月期まで(億円)

1,776 80/11期 1,574 81/11期 1,481 82/11期 1,504 83/11期 1,611 84/11期

1980年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1980年11月期 単体 1,776 n/a 81 4.6% 47 n/a
1981年11月期 単体 1,574 ▲11.4% ▲20 ▲1.3% ▲9 n/a
1982年11月期 単体 1,481 ▲5.9% 67 4.5% 42 n/a
1983年11月期 単体 1,504 +1.6% 22 1.5% 25 n/a
1984年11月期 単体 1,611 +7.1% ▲23 ▲1.4% ▲9 n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

6件
出典・参考
  • 東京製鐵 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1979年3月12日号
  • 日経ビジネス 1987年3月30日号
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊、1993年)

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