住友金属工業:住友伸銅場の開設と民間初の平炉による製鋼業
1897年〜日本製銅を引き継いだ安治川の住友伸銅場と、3トン半の平炉で始めた住友鋳鋼場
住友家当主の住友吉左衞門氏は1897年4月1日、大阪・安治川にあった日本製銅の工場設備を一括して引き継ぎ、個人事業の住友伸銅場として操業を始めた。日本製銅は1895年に設けられた銅板・管の製造会社で、1891年の官営大阪製煉所、1893年の大阪電気銅に続いて相次いだ銅加工会社の1社である。日清戦争の終結後は恐慌が広がり、新設の銅加工会社は苦境に置かれた。住友家は1691年から別子銅山を営み、明治以降は採鉱と精錬に連なる事業へ領域を広げており、伸銅場もその1つとして設けられた。後の住友金属工業も、この日本製銅の買収を金属加工業の出発点に数える。恐慌で行き場を失った設備を得たことで、住友家は自山の銅を加工品として売る出口を手にしたと考えられる。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [1]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- [2]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- [3]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [4]住友家は元禄4年以来別子銅山を経営し、明治以降は採鉱精錬に関連する事業へ発展。その一つとして1897年4月に大阪安治川に住友伸銅場を開設
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [5]1897年4月に住友家が日本製銅を買収し住友伸銅場として金属加工業の第一歩とした
住友家は1901年6月、大阪府伝法村にあった日本鋳鋼所を施設ごと買収し、住友鋳鋼場として鉄鋼業に参入した。同じ1901年は官営八幡製鉄所の第1号溶鉱炉の火入れの年で、国内の鉄鋼業は基礎を組む段階。住友鋳鋼場は3トン半の小型平炉で操業を始め、国内の民間で最初の平炉工場となった。住友金属工業の側も、民間企業として初めて平炉を動かしたこの時点を製鋼業の起点に置く。住友鋳鋼場は伸銅場と同様に住友家の個人経営として運営され、1915年に株式会社となるまでその形を保った。伸銅場の開設から4年で鋼の製造へ進んだことで、住友は銅と鉄の2系統の金属加工を並べて持つことになった。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [6]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- [7]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- [10]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [8]住友鋳鋼場(1901年6月、大阪伝法)は民間最初の平炉工場で、3トン半の小平炉で発足
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [9]1901年6月に日本鋳鋼所を買収し住友鋳鋼場として鉄鋼業に進出、民間企業で最初の平炉を操業
住友伸銅場の開設期は日清戦争後の恐慌と重なり、事業は苦しい局面から出発した。他方で政府の奨励策を背景に重工業が興り始め、伸銅製品への需要は徐々に高まった。伸銅場の主力は銅と真鍮の板・棒・管・線材で、住友鋳鋼場の製品は鋳鋼製の錨や金敷、トロッコ車輪である。伸銅場は1898年にアルミニウム板の製作に着手し、国内の民間企業で初めて軽金属の加工を手がけた。鋳鋼場の品種はその後、機械用の部品や船舶用品、鉄道用品へと増えた。1897年から1914年ごろにかけて、住友の事業は銅の加工を起点に製鋼へ進み、被覆電線や肥料の製造にも範囲を広げた。2つの工場はともに汎用の小物から始め、立ち上がりつつあった重工業の需要に合わせて品目を広げる手順を踏んだ。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [11]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- [12]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- [16]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [13]当時の主製品は銅・真鍮の板・棒・管・線材、鋳鋼製の錨・金敷・トロッコ車輪。のち機械用部品・船舶用品・鉄道用品へ品種が増加
- [15]当時の主製品は銅・真鍮の板・棒・管・線材、鋳鋼製の錨・金敷・トロッコ車輪。のち機械用部品・船舶用品・鉄道用品へ品種が増加
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [14]1898年からアルミニウム板を製作し、国内民間最初の軽金属加工となった
参考文献[1]-[16]
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [1]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- [2]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- [3]1897年3月に日本製銅(1895年設立)の工場設備一切を住友家が引き継ぎ、住友伸銅場として4月1日から住友吉左衞門の個人事業で操業。日清戦争後の恐慌下。先行して1891年官営大阪製煉所、1893年大阪電気銅が設立
- [6]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- [7]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- [10]1901年6月、住友が大阪府伝法村の日本鋳鋼所を買収し施設一切を引き継いで住友鋳鋼場として発足。同年に官営八幡製鉄所の第一号溶鉱炉が火入れ。鋳鋼所は住友家の個人経営から1915年に株式会社化
- [11]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- [12]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- [16]伸銅場創設期は日清戦争後の恐慌で苦難時代だったが、政府の奨励策もあり重工業が勃興し伸銅製品の需要が高まる機運にあった。1897〜1914年ごろが住友の近代事業の揺籃期で、伸銅から製鋼、被覆電線、肥料の製造へ事業が発展
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [4]住友家は元禄4年以来別子銅山を経営し、明治以降は採鉱精錬に関連する事業へ発展。その一つとして1897年4月に大阪安治川に住友伸銅場を開設
- [8]住友鋳鋼場(1901年6月、大阪伝法)は民間最初の平炉工場で、3トン半の小平炉で発足
- [14]1898年からアルミニウム板を製作し、国内民間最初の軽金属加工となった
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [5]1897年4月に住友家が日本製銅を買収し住友伸銅場として金属加工業の第一歩とした
- [9]1901年6月に日本鋳鋼所を買収し住友鋳鋼場として鉄鋼業に進出、民間企業で最初の平炉を操業
- [13]当時の主製品は銅・真鍮の板・棒・管・線材、鋳鋼製の錨・金敷・トロッコ車輪。のち機械用部品・船舶用品・鉄道用品へ品種が増加
- [15]当時の主製品は銅・真鍮の板・棒・管・線材、鋳鋼製の錨・金敷・トロッコ車輪。のち機械用部品・船舶用品・鉄道用品へ品種が増加
1904年〜八八艦隊に応えた伸銅所の継目無鋼管と、資本金600万円の住友鋳鋼所が拓いたKS鋼と鉄道車輪
1904年2月に日露戦争が始まると、住友伸銅場は軍需の注文が急増して繁忙を極めた。同年7月に伊庭貞剛氏が総理事を退任し、後任の鈴木馬左也氏は約20年にわたり住友の諸事業を率いて新規事業を相次いで起こした人物である。戦後は艦船の材料を自給する要請が強まり、伸銅場は1909年に銅と真鍮の引抜管、1912年に冷間引抜鋼管をいずれも国内で初めて製造した。1912年にはマンネスマン・ピアサーを据えて冷間仕上の継目無鋼管を140トン生産し、これが鋼管事業の出発点にあたる。1913年6月に住友伸銅所へ改称した後は、海軍の八八艦隊計画に合わせて艦船用の罐管や復水器管へ製品を広げた。復水器管の技術を見た海軍は、住友伸銅所に缶用鋼管の製作も求めた。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [17]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- [18]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- [21]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [19]日露戦争後の建艦材料自給の要請で1909年に銅・真鍮引抜管、1912年に冷間引抜鋼管を製造開始(いずれも国内初)
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [20]1912年にマンネスマン・ピアサーを設置し国内初の冷間仕上継目無鋼管を140トン生産、鋼管事業部門の第一歩
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [22]引抜真鍮管・銅管の製作成功に続き復水器管の製造が可能となり、その技術から海軍が缶用鋼管の製作を求めた
住友鋳鋼場は1905年に10トン貨車用の輪軸50台分を受注し、車両部品の製造に足場を得た。1907年9月の移転先は、伝法から大阪・島屋町に建てた新工場である。1915年12月に資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所へ改組し、工場施設を拡充した。株式会社への移行を機に、鋳鋼品に加えて鍛造品の生産も始めた。1918年には東北帝国大学の本多光太郎氏が発明したKS磁石鋼の工業化に成功し、1919年には鉄道用外輪の圧延に着手した。1920年9月に資本金を1200万円へ増資し、11月には住友製鋼所へ改称。この時期から軍需への依存を改め、鉄道・私鉄向けの用品を中心に民需へ重点を移し、大陸への輸出も進めた。
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [23]1905年に10トン貨車用輪軸50台分を受注し、車両部品メーカーとしての将来を約束づけた
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [24]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [25]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [27]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [29]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [26]1915年の株式会社化から鍛造品の生産を開始。1920年住友製鋼所と改称しKS鋼・鉄道車両用品の製造体制をとり、軍需依存から民需重点へ転換、大陸へ輸出
- [30]1915年の株式会社化から鍛造品の生産を開始。1920年住友製鋼所と改称しKS鋼・鉄道車両用品の製造体制をとり、軍需依存から民需重点へ転換、大陸へ輸出
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [28]本多光太郎は東北帝大の博士で、住友の委嘱で永久磁石鋼を開発した
住友伸銅所は1919年、尼崎にあった鉄商・岸本吉右衛門氏の製鉄所を取得し、平炉で鋼を造って管材に圧延する工程を自社に持った。それまで鋼管の材料はスウェーデンから購入しており、尼崎工場の取得は材料の自給を図るものである。第1次世界大戦の期間中、住友伸銅所の業況は活況が続き、買収に充てる余力があった。1920年には、大戦中に撃墜されたドイツのツェッペリン飛行船の骨格の破片を海軍から受け取って研究し、ジュラルミンの製造にも進んだ。1912年に冷間仕上の継目無鋼管を国内で初めて製造して以降、鋼管はすでに住友伸銅所の事業の1つである。鋼管の素材を輸入に依存したままでは、艦船向けの需要が膨らんでも量と納期を自ら決められなかったのだろう。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [31]住友伸銅所は1919年に尼崎の鉄商岸本吉右衛門所有の製鉄所を買収し、平炉による製鋼と管材の圧延を開始
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [32]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- [33]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- [34]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [35]1912年にマンネスマン・ピアサーで国内初の冷間仕上継目無鋼管を生産(鋼管事業部門の第一歩)
参考文献[17]-[35]
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [17]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- [18]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- [21]1904年2月の日露戦争で伸銅場は軍需注文激増で繁忙。同年7月に伊庭貞剛が退き鈴木馬左也が総理事に就任、約20年新規事業を起こす。1913年6月住友伸銅所。八八艦隊計画に呼応し艦船用罐管・復水器・継目無鋼管へ進出
- [26]1915年の株式会社化から鍛造品の生産を開始。1920年住友製鋼所と改称しKS鋼・鉄道車両用品の製造体制をとり、軍需依存から民需重点へ転換、大陸へ輸出
- [30]1915年の株式会社化から鍛造品の生産を開始。1920年住友製鋼所と改称しKS鋼・鉄道車両用品の製造体制をとり、軍需依存から民需重点へ転換、大陸へ輸出
- [31]住友伸銅所は1919年に尼崎の鉄商岸本吉右衛門所有の製鉄所を買収し、平炉による製鋼と管材の圧延を開始
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [19]日露戦争後の建艦材料自給の要請で1909年に銅・真鍮引抜管、1912年に冷間引抜鋼管を製造開始(いずれも国内初)
- [24]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [25]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [27]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [29]1907年9月に大阪島屋町の新工場へ移転。1915年12月資本金600万円の株式会社住友鋳鋼所、施設拡充し1920年9月1200万円に増資、11月住友製鋼所と改称。1918年本多博士発明のKS磁石鋼を工業化、1919年鉄道用外輪の圧延開始
- [32]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- [33]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- [34]欧州大戦中は活況、1919年に尼崎の岸本製鉄所を買収して尼崎工場とし、スウェーデンから購入していた鋼管材料の自給を図った。1920年にツェッペリン飛行船骨格の破片を海軍から交付され研究し、ジュラルミンを工業化
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [20]1912年にマンネスマン・ピアサーを設置し国内初の冷間仕上継目無鋼管を140トン生産、鋼管事業部門の第一歩
- [23]1905年に10トン貨車用輪軸50台分を受注し、車両部品メーカーとしての将来を約束づけた
- [35]1912年にマンネスマン・ピアサーで国内初の冷間仕上継目無鋼管を生産(鋼管事業部門の第一歩)
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [22]引抜真鍮管・銅管の製作成功に続き復水器管の製造が可能となり、その技術から海軍が缶用鋼管の製作を求めた
- [28]本多光太郎は東北帝大の博士で、住友の委嘱で永久磁石鋼を開発した
1921年〜スティーフェル製管機で製鋼から仕上げまで揃えた鋼管と、住友伸銅鋼管の株式化
住友伸銅所は1921年、尼崎工場にスティーフェル製管機を新設し、熱間仕上の継目無鋼管の製造を始めた。これにより平炉で溶かした鋼から仕上げた鋼管までを自社でこなす一貫操業の体制が整った。熱間仕上の鋼管で本格的に参入した先が、ボイラ用鋼管の市場である。同じ1921年2月には住友合資会社が設立され、住友伸銅所はその傘下の一部門となった。尼崎工場は1933年にも設備を増強し、航空機用鋼管や弾丸・爆弾の素材の製造を始め、スティーフェル式の熱間仕上鋼管の生産は好調を保った。冷間仕上から熱間仕上まで製法を揃えたことで、住友伸銅所は用途ごとに異なる鋼管の注文を1か所で受けられるようになった。
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [36]1921年に尼崎工場に新鋭のスティーフェル機を新設して熱間仕上継目無鋼管の製造を始め、ボイラ用鋼管の製造に本格進出
- [38]1921年に尼崎工場に新鋭のスティーフェル機を新設して熱間仕上継目無鋼管の製造を始め、ボイラ用鋼管の製造に本格進出
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [37]1921年にスティーフェル製管機を新設し、製鋼から仕上げ鋼管に至る一貫操業体制を確立
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [39]1921年2月に住友合資が設立され伸銅所はその傘下に入り、同年熱間仕上鋼管の製造も開始
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [40]尼崎工場は1933年に設備を増強し航空機用鋼管・弾丸・爆弾素材の製造を開始、スティーフェル式熱間仕上鋼管の製造は好調
住友伸銅所は1926年7月に住友合資会社の傘下を離れ、住友伸銅鋼管株式会社として独立した。新会社の資本金は1500万円で、1928年に安治川工場を移した先が、あわせて大阪・桜島に建てた新工場である。桜島への移転に合わせて研究施設と技術者を増やし、ジュラルミンや軽合金の板・管・棒の生産を本格化させ、マグネシウム合金の製造にも成功した。軽合金材の需要を伸ばしたのは航空機の製造の増加で、用途は機体や発動機の材料である。伸銅と鋼管に軽合金が加わり、住友伸銅鋼管は3つの製品系統を抱える企業となった。事業の幅が広がるなか、合資会社の一部門のままでは設備に充てる資金の枠を独自に組みにくかったと推察される。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [41]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- [43]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- [45]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [42]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
- [44]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
- [46]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
1929年の世界恐慌で、住友の2社は大正末からの不況に続いて苦境に立たされ、1931年の満洲事変を機に大陸への進出で持ち直した。住友伸銅鋼管は1932年11月に海軍の要請でプロペラの製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラの生産を始めた。1934年6月には資本金を2500万円に増やし、9月に満洲住友鋼管を鞍山に設けた。満洲住友鋼管は住友合資会社との折半出資で、満鉄と関東軍が求めた鋼管の現地調達に応える会社である。住友製鋼所も1932年後半から鉄道省と満鉄の注文が急増し、1934年2月に40トン平炉を据えて平炉を3基とした。平炉を持つ2社は、生産と販売の両面で重なり合う場面が増えた。
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [47]大正末期から昭和初期の不況、とくに1929年の世界恐慌で窮状に陥り、満洲事変を契機に大陸へ進出して脱却。住友伸銅鋼管と製鋼所は生産・販売の分野で重複・競合することが多くなった
- [52]大正末期から昭和初期の不況、とくに1929年の世界恐慌で窮状に陥り、満洲事変を契機に大陸へ進出して脱却。住友伸銅鋼管と製鋼所は生産・販売の分野で重複・競合することが多くなった
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [48]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
- [50]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
- [51]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [49]1934年6月に2500万円へ増資し、同年9月に鞍山に満洲住友鋼管を設立
参考文献[36]-[52]
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- [36]1921年に尼崎工場に新鋭のスティーフェル機を新設して熱間仕上継目無鋼管の製造を始め、ボイラ用鋼管の製造に本格進出
- [38]1921年に尼崎工場に新鋭のスティーフェル機を新設して熱間仕上継目無鋼管の製造を始め、ボイラ用鋼管の製造に本格進出
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- [37]1921年にスティーフェル製管機を新設し、製鋼から仕上げ鋼管に至る一貫操業体制を確立
- [41]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- [43]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- [45]1926年に住友伸銅所は住友合資の傘下から独立して住友伸銅鋼管株式会社となり、ジュラルミン・軽合金の板・管・棒を本格生産。桜島移転に伴い研究施設・技術者を充実させマグネシウム合金の製造に成功
- [47]大正末期から昭和初期の不況、とくに1929年の世界恐慌で窮状に陥り、満洲事変を契機に大陸へ進出して脱却。住友伸銅鋼管と製鋼所は生産・販売の分野で重複・競合することが多くなった
- [52]大正末期から昭和初期の不況、とくに1929年の世界恐慌で窮状に陥り、満洲事変を契機に大陸へ進出して脱却。住友伸銅鋼管と製鋼所は生産・販売の分野で重複・競合することが多くなった
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- [39]1921年2月に住友合資が設立され伸銅所はその傘下に入り、同年熱間仕上鋼管の製造も開始
- [42]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
- [44]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
- [46]1926年7月に株式組織とし資本金1500万円の住友伸銅鋼管と称し、大阪桜島に新工場を建設、1928年に安治川工場を移転。軽合金材は航空機製造の増加で機体・発動機用の需要が増加
- [49]1934年6月に2500万円へ増資し、同年9月に鞍山に満洲住友鋼管を設立
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」
- [40]尼崎工場は1933年に設備を増強し航空機用鋼管・弾丸・爆弾素材の製造を開始、スティーフェル式熱間仕上鋼管の製造は好調
- [48]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
- [50]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
- [51]1932年11月に海軍の要請でプロペラ製造に着手し、1933年4月から固定節プロペラを製造。1934年9月に合資会社と折半出資で満州住友鋼管を鞍山に設立(満鉄・関東軍が現地調達を希望)。住友製鋼所は1932年後半から鉄道省・満鉄の注文が激増し、1934年2月に40トン平炉を設置して平炉3基
出典・参考
4件
- 会社銀行八十年史 1955「住友金属工業」
- 企業の現代史16 1962「躍進する鉄鋼メーカー 住友金属工業」
- 企業の歴史(明治百年)1968「住友金属工業」
- 私の住友昭和史 1988「住友金属工業の誕生」