第1章 年〜年

川崎製鉄:川崎重工業からの分離と千葉製鉄所の銑鋼一貫建設

1950年〜資本金5億円で川崎重工業から分かれた平炉の製鉄部門と、163億円の一貫製鉄所計画

1950年8月、川崎重工業の製鉄所が分離し、資本金5億円の川崎製鉄として発足。分離は企業再建整備法にもとづく川崎重工業の整備計画の一部で、1949年10月の主務大臣の裁定で確定した。整備計画は川崎重工業の資本金6億円から5億4000万円を減資し、製鉄部門を第2会社に切り出す内容である。製鉄所担当の取締役だった西山弥太郎氏は、非分離の意見に対し、造船と製鉄では労働条件と収益が異なると主張した。ドッジ・ラインの不況下で新会社の株式募集は難航し、役員・社員・縁故者への再募集で払込みを終えた。1950年8月7日の発足時、社長には西山弥太郎氏が就任し、工場は葺合・兵庫・西宮・知多・久慈・伊保の6か所を数える。

  • 株式会社年鑑 1954年版「川崎製鉄」
    • [1]1950年8月 川崎重工業より製鉄所を分離し、川崎製鉄として資本金5億円で設立
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 1章「川崎製鉄株式会社の発足」
    • [2]1949年10月 主務大臣裁定の決定整備計画: 川崎重工業は資本金6億円から5億4000万円を減資し、製鉄部門を分離して第2会社・川崎製鉄(資本金5億円)を設立
    • [3]1949年10月 主務大臣裁定の決定整備計画: 川崎重工業は資本金6億円から5億4000万円を減資し、製鉄部門を分離して第2会社・川崎製鉄(資本金5億円)を設立
    • [4]製鉄所担当の西山取締役は、経営責任の明確化・労働条件の差・収益差を理由に製鉄部門の分離を主張し、非分離の意見を退けた
    • [5]ドッジ・ライン下の不況で増資新株・第2会社株式の募集が難航し、役員・社員・縁故者への再募集で引受け・払込みを完了
    • [6]1950年8月7日 川崎製鉄発足。社長西山弥太郎。工場は葺合・兵庫・西宮・知多・久慈・伊保の6工場

川崎製鉄は1950年11月7日、粗鋼年産50万トンの新製鉄所の建設計画について、見返り資金の貸与を求める願書を通商産業大臣に提出した。建設資金163億円のうち約半額の80億円を政府の見返り資金に求める計画で、資本金5億円の30倍を超える規模である。設備は500トン高炉2基と100トン平炉6基に、ホットとコールドのストリップミル各1基を加える構成。発足時の川崎製鉄は高炉を持たず、1951年の銑鉄生産はゼロ、粗鋼生産は49万6000トンだった。西山弥太郎氏ら幹部は、鉄くずの供給が減少していく一方で鉄鉱石は入手しやすくなるとみて、高炉を持つ必要があると判断した。銑鉄の供給元が八幡製鉄と富士製鉄に移れば、競争相手から原料を仕入れることになる点も計画を後押しする。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [7]1950年11月7日 粗鋼年産50万トンの新製鉄所建設計画の見返り資金貸与願書を通商産業大臣に提出。建設資金163億円の約半額80億円を見返り資金に求めた
    • [8]1950年11月7日 粗鋼年産50万トンの新製鉄所建設計画の見返り資金貸与願書を通商産業大臣に提出。建設資金163億円の約半額80億円を見返り資金に求めた
    • [9]計画内容は500トン高炉2基・100トン平炉6基・分塊圧延機・ホットおよびコールドのストリップミル各1基、銑鉄年産35万トン・粗鋼年産50万トン
    • [11]西山製鉄所長らは、鉄くずは供給減少が予想され、鉄鉱石による銑鉄供給のほうが安定するため高炉を持たねばならないと論議した
    • [12]銑鉄供給が八幡製鉄・富士製鉄の民間企業に移れば競争相手から買うことになり、独自の銑鉄供給体制の確立が必要とされた
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [10]分離翌年の1951年の生産は銑鉄ゼロ、粗鋼49万6000トン(全国の7%)
参考文献[1]-[12]
  • 株式会社年鑑 1954年版「川崎製鉄」
    • [1]1950年8月 川崎重工業より製鉄所を分離し、川崎製鉄として資本金5億円で設立
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 1章「川崎製鉄株式会社の発足」
    • [2]1949年10月 主務大臣裁定の決定整備計画: 川崎重工業は資本金6億円から5億4000万円を減資し、製鉄部門を分離して第2会社・川崎製鉄(資本金5億円)を設立
    • [3]1949年10月 主務大臣裁定の決定整備計画: 川崎重工業は資本金6億円から5億4000万円を減資し、製鉄部門を分離して第2会社・川崎製鉄(資本金5億円)を設立
    • [4]製鉄所担当の西山取締役は、経営責任の明確化・労働条件の差・収益差を理由に製鉄部門の分離を主張し、非分離の意見を退けた
    • [5]ドッジ・ライン下の不況で増資新株・第2会社株式の募集が難航し、役員・社員・縁故者への再募集で引受け・払込みを完了
    • [6]1950年8月7日 川崎製鉄発足。社長西山弥太郎。工場は葺合・兵庫・西宮・知多・久慈・伊保の6工場
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [7]1950年11月7日 粗鋼年産50万トンの新製鉄所建設計画の見返り資金貸与願書を通商産業大臣に提出。建設資金163億円の約半額80億円を見返り資金に求めた
    • [8]1950年11月7日 粗鋼年産50万トンの新製鉄所建設計画の見返り資金貸与願書を通商産業大臣に提出。建設資金163億円の約半額80億円を見返り資金に求めた
    • [9]計画内容は500トン高炉2基・100トン平炉6基・分塊圧延機・ホットおよびコールドのストリップミル各1基、銑鉄年産35万トン・粗鋼年産50万トン
    • [11]西山製鉄所長らは、鉄くずは供給減少が予想され、鉄鉱石による銑鉄供給のほうが安定するため高炉を持たねばならないと論議した
    • [12]銑鉄供給が八幡製鉄・富士製鉄の民間企業に移れば競争相手から買うことになり、独自の銑鉄供給体制の確立が必要とされた
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [10]分離翌年の1951年の生産は銑鉄ゼロ、粗鋼49万6000トン(全国の7%)

1951年〜防府を退けて選んだ千葉の埋立地と、見返り資金80億円を仰いだ資金計画

川崎製鉄は1951年2月1日、千葉市南方の海岸埋立地に千葉製鉄所を開設した。1950年9月からの用地調査では、山口県の防府市の海岸が敷地・港湾・地元の誘致の3点で優位に立ち、社内の大勢は防府に傾いた。並行して大市場の東京に近い候補地を探し、千葉市南方海岸・木更津・館山も調査の対象となる。千葉には日立航空機が戦時中に埋め立てた198万3000平方メートルの空閑地があり、しゅんせつで港も造れる見通しが立った。川崎製鉄は地方税の5年間免除を含む8項目の要望を示し、1950年11月に千葉市と千葉県が全会一致で誘致を可決した。用地を安く取得し、千葉県から税の減免を得たことは、後年の他社の新製鉄所と比べた設備費の低さにつながっている。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [13]会社側の要望8項目(敷地譲渡・港湾・地方税免除5年など)が了承され、1950年11月15日に千葉市、20日に千葉県が全会一致で誘致可決。1951年2月1日 千葉製鉄所開設
    • [14]1950年9月から光工廠跡・徳山・防府・宇部を調査し、敷地面積・港湾条件・誘致熱心さから大勢は防府に傾いた
    • [15]大市場に近い東京周辺も物色し、千葉市南方海岸埋立地・木更津・館山が調査対象に浮上。東京通産局も千葉などを推薦
    • [16]千葉市南方海岸に日立航空機が戦時中に埋め立てた198万3000平方メートル(約60万坪)の空閑地。遠浅だがしゅんせつで港湾建設が可能と判断
    • [17]会社側の要望8項目(敷地譲渡・港湾・地方税免除5年など)が了承され、1950年11月15日に千葉市、20日に千葉県が全会一致で誘致可決。1951年2月1日 千葉製鉄所開設
  • 企業の現代史「鉄のパイオニア(川崎製鉄)」(1961年)
    • [18]千葉の用地を極めて安く入手し、地元千葉県から税の減免など有利な誘致条件を得たことが設備費の低減に役立った

建設資金163億円は資本金5億円の企業には過大だという声が、1950年11月の計画発表の直後から各方面で上がった。調達の内訳は見返り資金80億円・自己資金17億円・増資25億円・社債31億円・借入れ10億円で、総額の49%が見返り資金である。業界では、国内の高炉37基のうち稼働は12基にとどまり、既存設備の活用を先にすべきだとする二重投資論が強かった。西山弥太郎氏は計画の発表と同時に大蔵大臣の池田勇人氏を訪ね、池田勇人氏は日本銀行総裁の一万田尚登氏に西山弥太郎氏を紹介した。一万田尚登氏は基本的な考え方に賛成しつつも、計画を慎重に進めるよう求める。八幡製鉄社長の三鬼隆氏の理解もあり、日銀総裁の反対を押し切って計画は存続した。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [19]163億円の建設資金は資本金5億円に比べ過大との声が各方面から上がった。調達は見返り資金80億円・自己資金17億円・増資25億円・社債31億円・市中銀行借入10億円で、総額の49%を見返り資金で賄う計画
    • [20]163億円の建設資金は資本金5億円に比べ過大との声が各方面から上がった。調達は見返り資金80億円・自己資金17億円・増資25億円・社債31億円・市中銀行借入10億円で、総額の49%を見返り資金で賄う計画
    • [21]当時の国内高炉37基のうち稼働中は12基で、既存設備の活用が先とする設備二重投資論が論議の的になった
    • [22]西山社長は計画発表と同時に大蔵大臣池田勇人を訪問して賛同を得、日本銀行総裁一万田尚登に紹介された。一万田総裁は基本的に賛成しつつ慎重に進める必要を示した
    • [23]西山社長は計画発表と同時に大蔵大臣池田勇人を訪問して賛同を得、日本銀行総裁一万田尚登に紹介された。一万田総裁は基本的に賛成しつつ慎重に進める必要を示した
  • 企業の現代史「鉄のパイオニア(川崎製鉄)」(1961年)
    • [24]一万田日銀総裁は二重投資排撃を掲げて川鉄の進出を抑えようとしたが、八幡製鉄社長三鬼隆の積極的理解もあって西山社長の計画は貫徹された

通商産業省は1952年2月19日、千葉製鉄所の建設計画のうち第1期工事分を正式に承認した。1950年11月に計画を持ち込んでから、承認まで1年3か月。その間の1951年5月、川崎製鉄は鉄くずの値上がりと特需の利益をもとに、高炉・平炉・分塊圧延機を自己資金で先に建てる方針を示した。1951年4月に日本開発銀行が発足すると、川崎製鉄は工期を4期に割り、1952年1月に最終計画を通産省へ出す。第1期は高炉1基・平炉3基・分塊圧延機で114億円とし、第3期と第4期にストリップミルを置いた結果、総額は273億円に増えた。承認の理由には、既存の高炉の老朽化と、すでに30億円を投じた計画を止めれば資金が無駄になる点が挙げられた。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [25]1952年2月19日 通産大臣高橋龍太郎が千葉製鉄所建設計画の第1期工事分の正式承認を発表。理由に既存高炉の老朽化と、既に30億円を投下済みで挫折させれば無駄になることを挙げた
    • [27]1951年5月、備蓄鉄くずの値上りと朝鮮動乱特需の高収益を受け、ストリップミルは遅らせても自己資金で高炉・平炉・分塊圧延機の建設を進める方針を表明
    • [28]1951年4月 日本開発銀行発足に伴い通産省が合理化計画の再提出を求め、同年5月に再提出。工期を4期に分け、1952年1月に最終計画案を提出
    • [29]最終計画は第1期(高炉1基・平炉3基・分塊圧延機、114億円)、第2期(高炉1基・平炉3基、46億円)、第3期ホット・ストリップ・ミル(73億円)、第4期コールド・ストリップ・ミル(40億円)で総額273億円
    • [30]1952年2月19日 通産大臣高橋龍太郎が千葉製鉄所建設計画の第1期工事分の正式承認を発表。理由に既存高炉の老朽化と、既に30億円を投下済みで挫折させれば無駄になることを挙げた
  • 企業の現代史「鉄のパイオニア(川崎製鉄)」(1961年)
    • [26]通産省に計画が持ち込まれた1950年11月から正式承認の1952年2月まで1年3カ月を要した
参考文献[13]-[30]
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [13]会社側の要望8項目(敷地譲渡・港湾・地方税免除5年など)が了承され、1950年11月15日に千葉市、20日に千葉県が全会一致で誘致可決。1951年2月1日 千葉製鉄所開設
    • [14]1950年9月から光工廠跡・徳山・防府・宇部を調査し、敷地面積・港湾条件・誘致熱心さから大勢は防府に傾いた
    • [15]大市場に近い東京周辺も物色し、千葉市南方海岸埋立地・木更津・館山が調査対象に浮上。東京通産局も千葉などを推薦
    • [16]千葉市南方海岸に日立航空機が戦時中に埋め立てた198万3000平方メートル(約60万坪)の空閑地。遠浅だがしゅんせつで港湾建設が可能と判断
    • [17]会社側の要望8項目(敷地譲渡・港湾・地方税免除5年など)が了承され、1950年11月15日に千葉市、20日に千葉県が全会一致で誘致可決。1951年2月1日 千葉製鉄所開設
    • [19]163億円の建設資金は資本金5億円に比べ過大との声が各方面から上がった。調達は見返り資金80億円・自己資金17億円・増資25億円・社債31億円・市中銀行借入10億円で、総額の49%を見返り資金で賄う計画
    • [20]163億円の建設資金は資本金5億円に比べ過大との声が各方面から上がった。調達は見返り資金80億円・自己資金17億円・増資25億円・社債31億円・市中銀行借入10億円で、総額の49%を見返り資金で賄う計画
    • [21]当時の国内高炉37基のうち稼働中は12基で、既存設備の活用が先とする設備二重投資論が論議の的になった
    • [22]西山社長は計画発表と同時に大蔵大臣池田勇人を訪問して賛同を得、日本銀行総裁一万田尚登に紹介された。一万田総裁は基本的に賛成しつつ慎重に進める必要を示した
    • [23]西山社長は計画発表と同時に大蔵大臣池田勇人を訪問して賛同を得、日本銀行総裁一万田尚登に紹介された。一万田総裁は基本的に賛成しつつ慎重に進める必要を示した
    • [25]1952年2月19日 通産大臣高橋龍太郎が千葉製鉄所建設計画の第1期工事分の正式承認を発表。理由に既存高炉の老朽化と、既に30億円を投下済みで挫折させれば無駄になることを挙げた
    • [27]1951年5月、備蓄鉄くずの値上りと朝鮮動乱特需の高収益を受け、ストリップミルは遅らせても自己資金で高炉・平炉・分塊圧延機の建設を進める方針を表明
    • [28]1951年4月 日本開発銀行発足に伴い通産省が合理化計画の再提出を求め、同年5月に再提出。工期を4期に分け、1952年1月に最終計画案を提出
    • [29]最終計画は第1期(高炉1基・平炉3基・分塊圧延機、114億円)、第2期(高炉1基・平炉3基、46億円)、第3期ホット・ストリップ・ミル(73億円)、第4期コールド・ストリップ・ミル(40億円)で総額273億円
    • [30]1952年2月19日 通産大臣高橋龍太郎が千葉製鉄所建設計画の第1期工事分の正式承認を発表。理由に既存高炉の老朽化と、既に30億円を投下済みで挫折させれば無駄になることを挙げた
  • 企業の現代史「鉄のパイオニア(川崎製鉄)」(1961年)
    • [18]千葉の用地を極めて安く入手し、地元千葉県から税の減免など有利な誘致条件を得たことが設備費の低減に役立った
    • [24]一万田日銀総裁は二重投資排撃を掲げて川鉄の進出を抑えようとしたが、八幡製鉄社長三鬼隆の積極的理解もあって西山社長の計画は貫徹された
    • [26]通産省に計画が持ち込まれた1950年11月から正式承認の1952年2月まで1年3カ月を要した

1953年〜千葉の第1高炉の火入れと、世界銀行から借りた2000万ドル

千葉製鉄所の第1高炉は1953年6月17日、計画発表から2年7か月後に火入れを迎え、通産省・日本銀行・金融機関の代表ら478名が立ち会った。高炉は公称日産能力600トン・内容積877立方メートルで、炉頂装置に米国、炉体構造にドイツの技術を採り入れた。1952年に朝鮮動乱の反動で不況に入っても工事を続け、1953年には第1コークス炉と火力発電所1号機が完成した。操業に備えて八幡製鉄と富士製鉄へ技術者を派遣し、高炉の運転法を学ばせる。1951年にゼロだった川崎製鉄の銑鉄生産は、1953年に16万トンとなった。第1高炉の火入れで、八幡製鉄・富士製鉄から銑鉄を仕入れる平炉メーカーの立場を抜け出したとみられる。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [31]1953年6月17日 千葉製鉄所第1高炉火入れ。政府・県市・日本銀行・日本開発銀行・金融機関などの代表478名が臨席。建設計画の発表から2年7か月
    • [32]第1高炉は公称日産能力600トン・内容積877立方メートル。炉頂装置に米国、炉体構造にドイツの技術を採用
    • [33]1952年の動乱ブーム反動の不況下でも工事を続け、1953年に第1コークス炉・火力発電所1号機などが完成。八幡製鉄・富士製鉄などへ派遣した技術者が帰任して火入れに備えた
    • [34]1952年の動乱ブーム反動の不況下でも工事を続け、1953年に第1コークス炉・火力発電所1号機などが完成。八幡製鉄・富士製鉄などへ派遣した技術者が帰任して火入れに備えた
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [35]1951年の銑鉄生産はゼロ、1953年の銑鉄生産は16万トン、鋼62万5000トン

1954年に千葉製鉄所の平炉3基が操業を始め、9月には年産能力120万トンの第1分塊工場が運転に入った。ただし第1期の設備は製銑から分塊までで、半製品は関西の工場まで運んで圧延する体制である。資金の制約から、千葉製鉄所は分塊までの設備のまま3年間据え置かれた。1950年の願書で川崎製鉄は、薄板を30数年来の手動式2段ロールで造っており、欧米の連続式帯鋼圧延機には能率で及ばないと訴えていた。第2次合理化計画は予算総額167億円のうち152億円をストリップミルに充て、世界銀行借款の見通しが立った1956年8月に建設に着手した。1958年4月にホット、6月にコールドのストリップミルが動き出し、千葉製鉄所は製銑から薄板の圧延までを構内で手がける製鉄所となる。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [36]1954年に千葉製鉄所の平炉3基が操業を開始し、9月に当時国内最大の年産能力120万トンの第1分塊工場が運転開始
    • [39]1950年の見返り資金貸与願書で、創業以来の手動式2段ロールを30数年使用し、欧米の連続式帯鋼圧延機に比肩できないと建設理由を述べた
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [37]第1期の設備は製銑から分塊までで、半成品を関西まで運んで加工する不便があり、資金の関係で千葉製鉄所は分塊工程までのまま3年間据え置かれた
    • [38]第1期の設備は製銑から分塊までで、半成品を関西まで運んで加工する不便があり、資金の関係で千葉製鉄所は分塊工程までのまま3年間据え置かれた
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 3章「千葉製鉄所の拡充と企業基盤の強化」
    • [40]第2次合理化計画は第2高炉・ホットおよびコールド・ストリップ・ミル新設など予算総額167億円、うちストリップ・ミル関係152億円。1956年8月にストリップ・ミル建設に着手
    • [41]1958年4月 UE社製56インチ半連続式ホット・ストリップ・ミル(年産60万トン)、6月 コールド・ストリップ・ミル(年産30万トン)が稼動し、千葉製鉄所は完全な銑鋼一貫体制を確立

ストリップミルの建設資金は、1956年12月20日に世界銀行と調印した2000万ドル(72億円)の借款で賄った。川崎製鉄は1953年に世界銀行の調査団員が千葉製鉄所を視察した機会に、借款の可能性を打診した。1954年6月の政府の借款申入れでは、鉄鋼5社の総額3908万ドルのうち川崎製鉄の分は2725万ドルで、約70%にあたる。第一銀行と相談して単独で交渉を始めたものの、第1期の建設で財務が悪化しており、調印まで申請から2年半を要した。1958年1月には第2高炉の建設資金として、800万ドルの第2次借款が続く。国内の長期資金が乏しい時期に、世界銀行の借款が千葉製鉄所の圧延設備を完成させる元手になったと推察される。

  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 3章「千葉製鉄所の拡充と企業基盤の強化」
    • [42]1956年12月20日 ワシントンで世界銀行・日本政府・日本開発銀行・川崎製鉄の間で2000万ドル(72億円)の借款調印。申請以来2年半の交渉
    • [46]1958年1月 千葉製鉄所第2高炉の建設資金として800万ドル(28億8000万円)の第2次借款が実現
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [43]1953年の世界銀行第2回調査でC.ケース氏が千葉製鉄所を視察し、川崎製鉄は初めて建設資金借款の可能性を打診
    • [44]1954年5月に第2〜4期計画(220億円)の通産省承認を得て借款申請書を政府に提出。同年6月の政府申入れで鉄鋼5社総額3908万ドルのうち川崎製鉄は2725万ドルで約70%
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [45]各社は世銀に内情を知られることを嫌い借りない空気だったが、川崎製鉄は第一銀行と相談して自力で交渉を開始。第1期建設の無理で財務状況が悪く手間どった
参考文献[31]-[46]
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
    • [31]1953年6月17日 千葉製鉄所第1高炉火入れ。政府・県市・日本銀行・日本開発銀行・金融機関などの代表478名が臨席。建設計画の発表から2年7か月
    • [32]第1高炉は公称日産能力600トン・内容積877立方メートル。炉頂装置に米国、炉体構造にドイツの技術を採用
    • [33]1952年の動乱ブーム反動の不況下でも工事を続け、1953年に第1コークス炉・火力発電所1号機などが完成。八幡製鉄・富士製鉄などへ派遣した技術者が帰任して火入れに備えた
    • [34]1952年の動乱ブーム反動の不況下でも工事を続け、1953年に第1コークス炉・火力発電所1号機などが完成。八幡製鉄・富士製鉄などへ派遣した技術者が帰任して火入れに備えた
    • [36]1954年に千葉製鉄所の平炉3基が操業を開始し、9月に当時国内最大の年産能力120万トンの第1分塊工場が運転開始
    • [39]1950年の見返り資金貸与願書で、創業以来の手動式2段ロールを30数年使用し、欧米の連続式帯鋼圧延機に比肩できないと建設理由を述べた
    • [43]1953年の世界銀行第2回調査でC.ケース氏が千葉製鉄所を視察し、川崎製鉄は初めて建設資金借款の可能性を打診
    • [44]1954年5月に第2〜4期計画(220億円)の通産省承認を得て借款申請書を政府に提出。同年6月の政府申入れで鉄鋼5社総額3908万ドルのうち川崎製鉄は2725万ドルで約70%
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)
    • [35]1951年の銑鉄生産はゼロ、1953年の銑鉄生産は16万トン、鋼62万5000トン
    • [37]第1期の設備は製銑から分塊までで、半成品を関西まで運んで加工する不便があり、資金の関係で千葉製鉄所は分塊工程までのまま3年間据え置かれた
    • [38]第1期の設備は製銑から分塊までで、半成品を関西まで運んで加工する不便があり、資金の関係で千葉製鉄所は分塊工程までのまま3年間据え置かれた
    • [45]各社は世銀に内情を知られることを嫌い借りない空気だったが、川崎製鉄は第一銀行と相談して自力で交渉を開始。第1期建設の無理で財務状況が悪く手間どった
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 3章「千葉製鉄所の拡充と企業基盤の強化」
    • [40]第2次合理化計画は第2高炉・ホットおよびコールド・ストリップ・ミル新設など予算総額167億円、うちストリップ・ミル関係152億円。1956年8月にストリップ・ミル建設に着手
    • [41]1958年4月 UE社製56インチ半連続式ホット・ストリップ・ミル(年産60万トン)、6月 コールド・ストリップ・ミル(年産30万トン)が稼動し、千葉製鉄所は完全な銑鋼一貫体制を確立
    • [42]1956年12月20日 ワシントンで世界銀行・日本政府・日本開発銀行・川崎製鉄の間で2000万ドル(72億円)の借款調印。申請以来2年半の交渉
    • [46]1958年1月 千葉製鉄所第2高炉の建設資金として800万ドル(28億8000万円)の第2次借款が実現

1950年〜1958年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年04月期 単体 275 n/a 15 5.6% n/a
1955年04月期 単体 250 ▲9.2% 4 1.7% n/a
1956年04月期 単体 340 +36.2% 16 4.8% n/a
1957年04月期 単体 504 +48.0% 43 8.7% n/a
1958年04月期 単体 497 ▲1.5% 26 5.4% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

6件
出典・参考
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 1章「川崎製鉄株式会社の発足」
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 2章「銑鋼一貫体制を目指して」
  • 川崎製鉄二十五年史(川崎製鉄、1976年) 3章「千葉製鉄所の拡充と企業基盤の強化」
  • 株式会社年鑑 1954年版「川崎製鉄」
  • 企業の現代史「鉄のパイオニア(川崎製鉄)」(1961年)
  • 歴史をつくる人々「鉄づくり・会社づくり(川崎製鉄 西山彌太郎)」(1964年)

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